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第二部
第七幕 都立第三高校 第一体育館
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冷ややかにも聞こえる声音の向こうで、青龍は穏やかな微笑を浮かべていた。そんな青龍の視線を真正面に受けながら、窮奇はその者の動きを探るように見据える。ほんの一瞬の隙を突かれ自分の妖気で出来た繭を切り裂いた白虎は、一枚目の壁と二枚目の壁の合間に閉じ込めていた人間の残りの元に向かう。そうする可能性は高いが、そこに残っているのは残念ながら白虎の弱点には成り得ないほうだった。無力な人間を見捨てることはないと思うが、最大限の効果とは言えない。もし、最悪の場合白虎が、人間を見捨てることがないとは残念ながら言い切れないと苦く思う。だが、それでも相性の悪いものが遠ざかったのは、よしとするべきだろう。
「ここまでの様子じゃ策を練るのが得意なんだよね、君は。」
静かな青龍の声音と同時に青水晶の瞳が音もなく輝き、不意に自分の周りから風が避けるように吸いだされるのを感じた。先ほど自分の仲間がされたことと同じ状況が窮奇の周囲で起き始めて、女性を模した顔は微かに戸惑うかのような表情をして見せ周囲を見渡す。
状況だけで言えば周囲の被害を考えずに戦える人外の方が、この場所での戦闘にははるかに分がいい。その筈の状況が揺らいでいるかのような感覚の中で、足元から張り巡らせた妖気の根が弱々しく軋むのを忌々しげに窮奇は感じていた。青龍の意思に伴って沸いた空気の層が、硬く強固な壁を作り自分の周囲に在るべき酸素を風と共に吸い出していく。
「…木気は風を生む…君も同じ木気だから分かって入るだろうけど。」
酷く冷静なその声音を耳にした瞬、窮奇は激しい嘲笑の声をその能面のような口から放った。弾かれたようなその笑声に、微かに青龍が怯むのが分かる。
≪だからどうした?同じ気であるから?この方法では私には傷一つ付かんぞ?≫
既に周囲には完全に酸素はなく、真空の無重力にも似た世界が小さな空間に生まれていた。だが、そこにいるのは人間ではない全く別な種。それを示すかのように、何の表情も浮かべない作り物めいた容貌をした美しい女性の形をした窮奇は、平然と辺りを見渡す。それをあえて分からせる為とでも言うかのように窮奇はその場を動くこともせず、蒼い異装の裾をはためかせる青年の姿を眺めた。
見つめ返すそこには、困惑に満ちた顔がある筈だ。しかし、眼を伏せた青龍が再び視線を返した時、そこに刻まれていたのは困惑ではなかった。青龍は先ほどと変わらぬ微笑を称えていて、そのものは微かに眉を寄せる。
「君は本当に知恵がまわるのだろうね……。だけど…僕に言わせれば、策を練るわりに随分と浅慮だと言わざるを得ない。」
全く動揺すらせずに、その青年は穏やかに口を開く。
「……君は二十年も人間の世界にいたんだろ?……少しは、学ぶべきだったんじゃないかな……。」
そう言った瞬間、ふっと彼の口元に浮かんでいた笑みはかき消して酷く冷静な怜悧な視線がそのものを射抜いた。不意に真空の中に灯火のように小さな炎が灯る。淡くまるで蝋燭のように揺らめく小さな置き火の様な炎。それを一瞬戸惑いにもにた表情のように照らしあげられながら窮奇はその火球を生み出した朱雀の姿を眺め、予想外にそこにまだ玄武の姿もあったことに眼を細めた。
≪何を。≫
真空の中の炎は今にも消滅しそうに揺らぎ、見る間に小さくなっていく。青龍の言葉も朱雀の行動も全く意図が理解できずに、窮奇はその自分に燃え付くわけでもない置き火が爪程に小さくなるのを見下ろす。
「……少しは科学ってものも、学んでおくべきだよ?折角だから。」
ふっと微笑んだ青龍の眼が細まり風を引いていた気が止まり一時に開放される。
それはほんの一瞬の出来事だった。
まるで、爆発でも起こしたかのように爪先程度でしかなかった焔は、目の前にいた窮奇の体を燃料にしたように燃え上がる。膨れ上がった炎は、一瞬にして窮奇の周辺を囲う壁の中の全てを紅蓮の焔で舐めるように飲み込んだ。
※※※
激しい爆発音と同時に噴き出す凄まじい風圧を音と同時に感じた。直後迷うことなく不意に智美の体を包んでいた白銀の毛皮がサラリと動き、自分の体の下に潜り込むようにして掬い上げたのを眩暈の中で智美は感じた。
激しい爆風で耳鳴りのする頭を押さえながら、思わずその毛並みに掴まると回る世界を感じながら眼を開く。そこに広がる廊下と教室の惨状は眼を見張るばかりだった。
自分が無傷なのが信じられない状態で、まだ残る壁が燻るような音を立てているのを横目に、白銀の巨躯は微かに呻りを上げて探る様に周囲を見極め外壁に向かって爪を振るうべき場所を探す。それは自分の背にいるものを気遣う行為に他ならない事に智美も気がつく。白虎がここを抜け出すだけなら、妖気の強弱は関係ないだろうが、背の智美には一撃で命を落とす可能性もある。それに安著と共に再び自分の命を守ろうとする白虎の姿にほろ苦い笑みを浮かべる。
母親とそっくりだな、そういうところ。
しかし、その思いをまるで断ち切るかのように不意に外壁に細かい亀裂が走り無造作に砕けた繭の殻は激しい風を伴って2人に襲い掛かり思わず白虎は舌打ちしながら智美の体をその巨躯で再び庇う。痛烈な風圧の変化に思わず耳を押さえる智美を気遣うようにしながら、微かな困惑を滲ませて白虎は静かに再び彼の体を掬い上げる。
『掴まれ。出るぞ?』
自分の体を背に乗せた白虎の声に思わず掴まると、まるで自分の体の重さなど感じていないかのようなしなやかさで、巨躯はフワリと床を蹴った。
「い・今のは?白虎。」
『………どっちの事を聞いてるか分からんが、詳しくは後にしてくれ。』
次の瞬間先程まで自分がいた場所の直ぐ近くで、怒りに満ちたおぞましい気配が立ち上るのは振り返らずとも肌で白銀の巨躯は感じ取った。窮奇は自分の意表をつく衝撃に、激しい憤りを感じて叫んでいる。それを知りながらもその足が校庭の土を踏んで止まり、智美もその動作を訝しげに前を見やる。
灯りのない静けさに包み込まれた闇の中。そこには、静かに虚無を纏った一人の青年が佇んでいた。闇の中に立つその青年は、虚無に包まれているのに明確な意思を持ってそこにいる。
暗闇に浮かぶその白々とした姿を微かに躊躇い混じりに眺めながら、白虎は探るように低く身構えた。青年は酷く冷ややかな目の前の巨躯の者と同じ金気をその体から滲ませ、値踏みするかのように変化したその姿を見つめた。ジリ…と漏出するような音を立てる僧衣の者の腕に気がついた白虎は、微かな憤りを滲ませた声音を放つ。
『無謀な攻撃は止めろ。そんな使い方では何時か怪我をするぞ、院の者。』
その言葉で白虎の背から滑り降りた智美は先ほどの外壁に走った亀裂とその直後に起きた衝撃を思い出した。あれは雲英が無謀に行ったものなのだと知らされ、微かな驚きに満ちた目で目の前の青年を見つめる。そこにいる姿は彼が今まで見ていた者とは、全く似て非なる存在だった。
冷ややかな金気を放ちながら雲母は、静かに目を細める。
「……お前が一番ましなのか?今の四神は。非力だな。」
辺りには闇の中に既に幾人かの院の者の気配がしていて、目の前の青年の行動に驚きながらも穏やかに諭すように口を開いた白虎の姿に息を飲んでいる。彼らの知る白虎は冷淡で人を人とも思わないと噂され、けして院の者が近寄るのを許さない。ところが今の白虎は式読を救い出してきたどころか、院の者に向かって諭すように口を開いてもいる。先日白虎が自分の手から連絡をとったトランシーバーを受け取ったと興奮ぎみに話していた男を嘘だと扱き下ろしたのにそれも怪しくなっていく。その言葉に憤るでもなく、白虎は静かな言葉で告げた。
『力を振りかざすだけが…我等に与えられた使命ではない、院の者。我等には我等の理がある、院の者に院の理があるようにだ……。』
「どいつも綺麗事を言うのは得意なんだな。」
『綺麗事ではない、我等とて守らねばならないものがあるだけだ。』
そう諭すように言葉を放った白虎は、翡翠輝石の瞳を煌めかせ低く彼らしい口調で話す。
『お前の力は認めよう、確かに金気のようだ。だが、お前のやり方は危険過ぎて、我等には認められない。お前のやり方は更に大きな闇を生む。』
静かに諭すように言うその姿に、目の前の青年はまるで嘲り更に見下ろすかのような視線を投げた。白虎の言葉を意にも返さないその青年の様子に、薄ら寒いものすら感じながら智美は息を呑む。同じ金気を放つ生を持つものが同時にこうして存在しているのを智美自身目の当たりにした戸惑いと同時に、二人の間に流れる不穏な空気はまるで痛みの様に鋭く肌に感じた。
『…今はこれ以上話す時間はない、院の者。院の長を連れて離れろ。ここは危険だ。』
断ち切るように話を遮った酷く冷ややかな白虎の声音は酷く余所余所しく、目の前の青年の存在を許してはいない事がありありと感じられる。しかも雲英の方もそれを判った上であえてその空気を変えようとはしていない事も感じられる。それは酷く智美の心を不安にする状況のような気がした。その気配に気がついたように、白虎が微かに気を緩めて自分の背中をそっとその柔らかい毛並みの頭で僧衣の金気の者へと向けて押しやる。
『行け、香坂。もうここにいるのは俺達だけでいい。』
自分にかける声音の穏やかさと先ほどまでの余所余所しい声音の差が、智美にも痛いほど肌に刺さるのを感じる。その声音は受け入れられない現実に向けているというより、深い困惑に向けて放たれた物なのかもしれない。そう気がついて智美は思わずその白銀に輝く毛並みを振り返る。
彼は表にしないだけで、本来とても優しいのだ。
そして、自分達の能力が何を引き換えにするのかを、母親と共によく知り尽くしている。だから、同時に雲英が記憶だけでなく全てを失っているのかもしれないと、何処かで思っているにちがいない。しかし、既にその時もうそこには白虎の姿は煙でもかき消したかのように存在せず、土埃だけが微かに舞う。先程までとは別人のように静かに穏やかな口調で自分の腕を取った僧衣の青年の姿に気がつきながら、智美は戸惑うように再び校舎を振り返る。
「白虎…。」
この状況は良いものではない。
ふとそんな不安が心を過ぎるのを感じながら、まだ微かに先ほどの爆風で土煙の立つ体育館を見上げる。智美は闇に沈む校舎を、言葉もなく見つめていた。
※※※
ゴウゴウと音をたてて渦を巻く焔は、一見すると透明な箱の中で燃え盛っているようにも見える。密閉され不完全燃焼を起こし一酸化炭素が増えた状態の空間に、空気を送り込むと熱された一酸化炭素と酸素が急激に結び付き爆発を起こす。簡単に言えばフラッシュオーバー、バックドラフトという現象はホテル火災等で多く取り上げられ最近は知っている人間も多い。火気の化身の朱雀の焔は、彼自身が温度も熱も操作できるのだからほんの爪先程度だからと侮ってはいけないのだ。人間と違って火災や化学変化による火災や何かに傷つく事がないモノ達は、大概これらの思考に疎く科学に関しても興味がない。それは自分の気だけどんなものかを理解してさえいれば、大概の人間には対処できるとたかを括っているからだ。
無酸素に近い空間でも自分が小さな焔や無酸素状態でも死ぬことがないからと、対処をする必要性を感じないからアッサリとこういう手にかかる。一度に弾けた様な火気を自分の力で押さえ込みながら朱雀は、微かに小さな口笛を思わず吹いた。実は二人だけで呑気に世間話をしながら、冗談混じりに木気の人外が出たらどうするかと話して対応策と青龍が言った通りの事なのだ。
やっぱ猫かぶりなんだよなぁ、青龍も。
木気の作った壁で大半は押さえこまれはしたものの、学校関係者には申し訳ないことだが見事に体育館の壁は崩れ上空に覗いた穴からは微かな星空すら見える。同じように急激に弾けた炎を水気で押さえ込み、他の校舎への被害を押さえ込んでいた玄武が微かな溜息をつく。
「容赦ないな…全く。一応母校だぞ?」
『ここだけで被害が収まるなら十分でしょ?玄武が実費で建てる訳じゃあるまいし。』
激しい木気を纏う青龍の姿は既に人間のものではなく、校舎の残骸から立ち上る一筋の蒼いの光のように揺らめき燐光を溢すかのようにシャラシャラとその蒼い鱗がさざめく。穏やかだがまるで決意にも満ちたその声音は迷いもなく二人の頭上から降り注ぎ、蒼玉の瞳は炎に巻かれる眼下の異界のものを見据える。風を巻くその炎の塊の中で、その人の形を模したものは闇の底のような黒い色の瞳を微かに細めた。
≪ふふふ………確かに貴様が言うように、…少々策を練るのに遊びが過ぎたやもしれん。≫
不意にその声音は炎の中心に起こり炎をまるで飲み込むかのようにその妖気を四方に向かって突き出した。突然の行為に足元にいた玄武の体をすくい上げて龍の体は急上昇し、緋色の炎も跳ねるように音を立てて宙へ舞い上がる。
その姿を油断ない目で眺めながら、炎の中で身を真っ黒く焦がした消し炭のようなモノはユラリと身を揺らす。そうしながら唐突にそれはニィと半円に口を裂いて、初めて見せるおぞましい笑みを黒い顔に浮かべていた。
「ここまでの様子じゃ策を練るのが得意なんだよね、君は。」
静かな青龍の声音と同時に青水晶の瞳が音もなく輝き、不意に自分の周りから風が避けるように吸いだされるのを感じた。先ほど自分の仲間がされたことと同じ状況が窮奇の周囲で起き始めて、女性を模した顔は微かに戸惑うかのような表情をして見せ周囲を見渡す。
状況だけで言えば周囲の被害を考えずに戦える人外の方が、この場所での戦闘にははるかに分がいい。その筈の状況が揺らいでいるかのような感覚の中で、足元から張り巡らせた妖気の根が弱々しく軋むのを忌々しげに窮奇は感じていた。青龍の意思に伴って沸いた空気の層が、硬く強固な壁を作り自分の周囲に在るべき酸素を風と共に吸い出していく。
「…木気は風を生む…君も同じ木気だから分かって入るだろうけど。」
酷く冷静なその声音を耳にした瞬、窮奇は激しい嘲笑の声をその能面のような口から放った。弾かれたようなその笑声に、微かに青龍が怯むのが分かる。
≪だからどうした?同じ気であるから?この方法では私には傷一つ付かんぞ?≫
既に周囲には完全に酸素はなく、真空の無重力にも似た世界が小さな空間に生まれていた。だが、そこにいるのは人間ではない全く別な種。それを示すかのように、何の表情も浮かべない作り物めいた容貌をした美しい女性の形をした窮奇は、平然と辺りを見渡す。それをあえて分からせる為とでも言うかのように窮奇はその場を動くこともせず、蒼い異装の裾をはためかせる青年の姿を眺めた。
見つめ返すそこには、困惑に満ちた顔がある筈だ。しかし、眼を伏せた青龍が再び視線を返した時、そこに刻まれていたのは困惑ではなかった。青龍は先ほどと変わらぬ微笑を称えていて、そのものは微かに眉を寄せる。
「君は本当に知恵がまわるのだろうね……。だけど…僕に言わせれば、策を練るわりに随分と浅慮だと言わざるを得ない。」
全く動揺すらせずに、その青年は穏やかに口を開く。
「……君は二十年も人間の世界にいたんだろ?……少しは、学ぶべきだったんじゃないかな……。」
そう言った瞬間、ふっと彼の口元に浮かんでいた笑みはかき消して酷く冷静な怜悧な視線がそのものを射抜いた。不意に真空の中に灯火のように小さな炎が灯る。淡くまるで蝋燭のように揺らめく小さな置き火の様な炎。それを一瞬戸惑いにもにた表情のように照らしあげられながら窮奇はその火球を生み出した朱雀の姿を眺め、予想外にそこにまだ玄武の姿もあったことに眼を細めた。
≪何を。≫
真空の中の炎は今にも消滅しそうに揺らぎ、見る間に小さくなっていく。青龍の言葉も朱雀の行動も全く意図が理解できずに、窮奇はその自分に燃え付くわけでもない置き火が爪程に小さくなるのを見下ろす。
「……少しは科学ってものも、学んでおくべきだよ?折角だから。」
ふっと微笑んだ青龍の眼が細まり風を引いていた気が止まり一時に開放される。
それはほんの一瞬の出来事だった。
まるで、爆発でも起こしたかのように爪先程度でしかなかった焔は、目の前にいた窮奇の体を燃料にしたように燃え上がる。膨れ上がった炎は、一瞬にして窮奇の周辺を囲う壁の中の全てを紅蓮の焔で舐めるように飲み込んだ。
※※※
激しい爆発音と同時に噴き出す凄まじい風圧を音と同時に感じた。直後迷うことなく不意に智美の体を包んでいた白銀の毛皮がサラリと動き、自分の体の下に潜り込むようにして掬い上げたのを眩暈の中で智美は感じた。
激しい爆風で耳鳴りのする頭を押さえながら、思わずその毛並みに掴まると回る世界を感じながら眼を開く。そこに広がる廊下と教室の惨状は眼を見張るばかりだった。
自分が無傷なのが信じられない状態で、まだ残る壁が燻るような音を立てているのを横目に、白銀の巨躯は微かに呻りを上げて探る様に周囲を見極め外壁に向かって爪を振るうべき場所を探す。それは自分の背にいるものを気遣う行為に他ならない事に智美も気がつく。白虎がここを抜け出すだけなら、妖気の強弱は関係ないだろうが、背の智美には一撃で命を落とす可能性もある。それに安著と共に再び自分の命を守ろうとする白虎の姿にほろ苦い笑みを浮かべる。
母親とそっくりだな、そういうところ。
しかし、その思いをまるで断ち切るかのように不意に外壁に細かい亀裂が走り無造作に砕けた繭の殻は激しい風を伴って2人に襲い掛かり思わず白虎は舌打ちしながら智美の体をその巨躯で再び庇う。痛烈な風圧の変化に思わず耳を押さえる智美を気遣うようにしながら、微かな困惑を滲ませて白虎は静かに再び彼の体を掬い上げる。
『掴まれ。出るぞ?』
自分の体を背に乗せた白虎の声に思わず掴まると、まるで自分の体の重さなど感じていないかのようなしなやかさで、巨躯はフワリと床を蹴った。
「い・今のは?白虎。」
『………どっちの事を聞いてるか分からんが、詳しくは後にしてくれ。』
次の瞬間先程まで自分がいた場所の直ぐ近くで、怒りに満ちたおぞましい気配が立ち上るのは振り返らずとも肌で白銀の巨躯は感じ取った。窮奇は自分の意表をつく衝撃に、激しい憤りを感じて叫んでいる。それを知りながらもその足が校庭の土を踏んで止まり、智美もその動作を訝しげに前を見やる。
灯りのない静けさに包み込まれた闇の中。そこには、静かに虚無を纏った一人の青年が佇んでいた。闇の中に立つその青年は、虚無に包まれているのに明確な意思を持ってそこにいる。
暗闇に浮かぶその白々とした姿を微かに躊躇い混じりに眺めながら、白虎は探るように低く身構えた。青年は酷く冷ややかな目の前の巨躯の者と同じ金気をその体から滲ませ、値踏みするかのように変化したその姿を見つめた。ジリ…と漏出するような音を立てる僧衣の者の腕に気がついた白虎は、微かな憤りを滲ませた声音を放つ。
『無謀な攻撃は止めろ。そんな使い方では何時か怪我をするぞ、院の者。』
その言葉で白虎の背から滑り降りた智美は先ほどの外壁に走った亀裂とその直後に起きた衝撃を思い出した。あれは雲英が無謀に行ったものなのだと知らされ、微かな驚きに満ちた目で目の前の青年を見つめる。そこにいる姿は彼が今まで見ていた者とは、全く似て非なる存在だった。
冷ややかな金気を放ちながら雲母は、静かに目を細める。
「……お前が一番ましなのか?今の四神は。非力だな。」
辺りには闇の中に既に幾人かの院の者の気配がしていて、目の前の青年の行動に驚きながらも穏やかに諭すように口を開いた白虎の姿に息を飲んでいる。彼らの知る白虎は冷淡で人を人とも思わないと噂され、けして院の者が近寄るのを許さない。ところが今の白虎は式読を救い出してきたどころか、院の者に向かって諭すように口を開いてもいる。先日白虎が自分の手から連絡をとったトランシーバーを受け取ったと興奮ぎみに話していた男を嘘だと扱き下ろしたのにそれも怪しくなっていく。その言葉に憤るでもなく、白虎は静かな言葉で告げた。
『力を振りかざすだけが…我等に与えられた使命ではない、院の者。我等には我等の理がある、院の者に院の理があるようにだ……。』
「どいつも綺麗事を言うのは得意なんだな。」
『綺麗事ではない、我等とて守らねばならないものがあるだけだ。』
そう諭すように言葉を放った白虎は、翡翠輝石の瞳を煌めかせ低く彼らしい口調で話す。
『お前の力は認めよう、確かに金気のようだ。だが、お前のやり方は危険過ぎて、我等には認められない。お前のやり方は更に大きな闇を生む。』
静かに諭すように言うその姿に、目の前の青年はまるで嘲り更に見下ろすかのような視線を投げた。白虎の言葉を意にも返さないその青年の様子に、薄ら寒いものすら感じながら智美は息を呑む。同じ金気を放つ生を持つものが同時にこうして存在しているのを智美自身目の当たりにした戸惑いと同時に、二人の間に流れる不穏な空気はまるで痛みの様に鋭く肌に感じた。
『…今はこれ以上話す時間はない、院の者。院の長を連れて離れろ。ここは危険だ。』
断ち切るように話を遮った酷く冷ややかな白虎の声音は酷く余所余所しく、目の前の青年の存在を許してはいない事がありありと感じられる。しかも雲英の方もそれを判った上であえてその空気を変えようとはしていない事も感じられる。それは酷く智美の心を不安にする状況のような気がした。その気配に気がついたように、白虎が微かに気を緩めて自分の背中をそっとその柔らかい毛並みの頭で僧衣の金気の者へと向けて押しやる。
『行け、香坂。もうここにいるのは俺達だけでいい。』
自分にかける声音の穏やかさと先ほどまでの余所余所しい声音の差が、智美にも痛いほど肌に刺さるのを感じる。その声音は受け入れられない現実に向けているというより、深い困惑に向けて放たれた物なのかもしれない。そう気がついて智美は思わずその白銀に輝く毛並みを振り返る。
彼は表にしないだけで、本来とても優しいのだ。
そして、自分達の能力が何を引き換えにするのかを、母親と共によく知り尽くしている。だから、同時に雲英が記憶だけでなく全てを失っているのかもしれないと、何処かで思っているにちがいない。しかし、既にその時もうそこには白虎の姿は煙でもかき消したかのように存在せず、土埃だけが微かに舞う。先程までとは別人のように静かに穏やかな口調で自分の腕を取った僧衣の青年の姿に気がつきながら、智美は戸惑うように再び校舎を振り返る。
「白虎…。」
この状況は良いものではない。
ふとそんな不安が心を過ぎるのを感じながら、まだ微かに先ほどの爆風で土煙の立つ体育館を見上げる。智美は闇に沈む校舎を、言葉もなく見つめていた。
※※※
ゴウゴウと音をたてて渦を巻く焔は、一見すると透明な箱の中で燃え盛っているようにも見える。密閉され不完全燃焼を起こし一酸化炭素が増えた状態の空間に、空気を送り込むと熱された一酸化炭素と酸素が急激に結び付き爆発を起こす。簡単に言えばフラッシュオーバー、バックドラフトという現象はホテル火災等で多く取り上げられ最近は知っている人間も多い。火気の化身の朱雀の焔は、彼自身が温度も熱も操作できるのだからほんの爪先程度だからと侮ってはいけないのだ。人間と違って火災や化学変化による火災や何かに傷つく事がないモノ達は、大概これらの思考に疎く科学に関しても興味がない。それは自分の気だけどんなものかを理解してさえいれば、大概の人間には対処できるとたかを括っているからだ。
無酸素に近い空間でも自分が小さな焔や無酸素状態でも死ぬことがないからと、対処をする必要性を感じないからアッサリとこういう手にかかる。一度に弾けた様な火気を自分の力で押さえ込みながら朱雀は、微かに小さな口笛を思わず吹いた。実は二人だけで呑気に世間話をしながら、冗談混じりに木気の人外が出たらどうするかと話して対応策と青龍が言った通りの事なのだ。
やっぱ猫かぶりなんだよなぁ、青龍も。
木気の作った壁で大半は押さえこまれはしたものの、学校関係者には申し訳ないことだが見事に体育館の壁は崩れ上空に覗いた穴からは微かな星空すら見える。同じように急激に弾けた炎を水気で押さえ込み、他の校舎への被害を押さえ込んでいた玄武が微かな溜息をつく。
「容赦ないな…全く。一応母校だぞ?」
『ここだけで被害が収まるなら十分でしょ?玄武が実費で建てる訳じゃあるまいし。』
激しい木気を纏う青龍の姿は既に人間のものではなく、校舎の残骸から立ち上る一筋の蒼いの光のように揺らめき燐光を溢すかのようにシャラシャラとその蒼い鱗がさざめく。穏やかだがまるで決意にも満ちたその声音は迷いもなく二人の頭上から降り注ぎ、蒼玉の瞳は炎に巻かれる眼下の異界のものを見据える。風を巻くその炎の塊の中で、その人の形を模したものは闇の底のような黒い色の瞳を微かに細めた。
≪ふふふ………確かに貴様が言うように、…少々策を練るのに遊びが過ぎたやもしれん。≫
不意にその声音は炎の中心に起こり炎をまるで飲み込むかのようにその妖気を四方に向かって突き出した。突然の行為に足元にいた玄武の体をすくい上げて龍の体は急上昇し、緋色の炎も跳ねるように音を立てて宙へ舞い上がる。
その姿を油断ない目で眺めながら、炎の中で身を真っ黒く焦がした消し炭のようなモノはユラリと身を揺らす。そうしながら唐突にそれはニィと半円に口を裂いて、初めて見せるおぞましい笑みを黒い顔に浮かべていた。
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