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第二部
第七幕 都立第三高校 生徒指導室
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白墨で書いた結界で侵食が弱まったかと考えたが、弱まっただけては空気が腐るのを完全に引き留められるはずもない。本当に空気が腐るなんて有り得ないのは勿論頭では理解しているが、言い換えればこれは人体には有害な気体が増えて質が変わっていっているという事。人体ではただの腐臭に感じられるが、淀んだ空気に混じる人間ではないモノの放つ有害物質のようなものが生命の機能を弱めてしまうのだろう。
……簡単に言えば、硫化水素みたいなものか。
硫化水素は硫黄と水素の化合物。温泉地でよくある腐卵臭を持つ無色有毒な空気より重い気体で、大量に吸い込むと肺胞が傷つけられる。温泉地などだけでなく下水道でも発生するような、珍しくもない化合物質。水にも溶けやすく可燃性もある上に、僅かに水に熔けている場合は薬効すらあると来ている。そんなことを無意識に頭の中で考えながら呼吸で空気が肺に入る度に、少しずつ酸素の有効な交換量が下がっている気がした。それすらも錯覚なのかもしれないが、次第に呼吸が満足にできていない苦しさが脳幹に響き始めている。
酸素が上手く取り込めないから次第に呼吸の回数は増え、それでも酸素が足りずに体内に酸素を巡らせようと血流を循環させようと心拍が上がっていく。普段から智美は運動をしているわけではないから、孝のように鍛えている人間に比べたらその上がり方は早いだろう。深呼吸をしたいがすれば余計に、この有毒な空気を吸う羽目になる。
呼吸困難で死ぬのは流石に勘弁してほしいな、……出来ればその前に意識を失いたいね。
だが、この状況では恐らくジワジワと苦しみながら、呼吸だけが減弱させられる気がしていた。本当に人間をいたぶるために作られているみたいな状況に、思わず溜め息と共に苦笑が浮かぶ。この状況で何時までも漢字の暗唱もしてろだなんて、馬鹿臭いにもほどがある。ゲホンと咳き込むと呼吸が浅くなり、暗唱が揺らいで掠れてしまう。視界が霞む息苦しい強い腐臭の中で途切れかけた弱い呪文を暗唱する声は、ふと視界が揺らめくのを感じた。効能もハッキリしない結界の漢字の暗証に、香坂智美は深く杖に寄りかかるように立ち尽くしながら溜め息をつく。
ここまで……か?
溜め息なのか深呼吸なのか全く分かりもしない。もう暗唱を続ける気力も尽きてしまって、杖に体重をかけながら智美は目を伏せた。思わぬ自分のこの先行きを喜ぶ者は、どれくらいいるだろうかと冷静な頭がふと囁く。恐らく院の古参のクソジジイどもは最初から全く思う通りにならなかった智美が死ねば、大喜びで次の式読の能力を持つ香坂の末裔を探すはずだ。今度は自分達の言いなりになるような式読であるように、自分のように幼く物心つく前のまだ七歳前後の香坂なら喜んで引き上げてくる。自分の時だって何処から探し出すのかと思っていたが、政府も一枚噛むなら戸籍なんてモノが手の内で簡単に見つけるだろう。香坂の名前以外の者を候補に上げたがる者も出てきてもおかしくはないし、智美としてもカメラアイがあればいいのなら香坂に限らなくてもいいのかもしれないとも思うこともある。
何故、うちの家系だけなのかも、ろくな記録がない。ただ、定められた香坂だとしかないし、自分の家系であと何人が残っているかも正確なところ疑問だ。恐らく残っているのは二人か三人だったはず……。今何処で生活しているかは調べてもいないが、自分はまだあと数十年位生きると思ってたんだけど。
腐臭は既に濃度が濃すぎて、死臭としか思えない。放置され風に曝されて朽ちていく生き物の死の臭い、それが辺りを飲みこんでまるで自分の体内から漂い始めている気がする。
そんなことを考えていたら何故か脳裏に一ヶ月以上も前の光景が浮かぶ。下校しようとした同級生の少女の腕を、思わず掴んで声をかけた自分の姿。
麻希、今日一人だろ?乗せていくから。
不思議そうな視線で振り返り自分を見上げる、丸い純粋な光を宿した瞳。その時周囲では饕餮が、何人もの人間を闇に引き込んでいて行方不明が頻発していた。彼女はそんなことは知りもしないが、クラスメイトが一人行方が一時分からなくなっていて智美は五割程度、同級生も饕餮に喰われたのかとすら考えていたのだ。何故か彼女を一人で帰らせるのが、智美は嫌だった。だから家まで車で送ると告げる。
智美君、何か知ってるの?
何故彼女がそう反応するのか分からなくて、どういう意味?と問い返すと、彼女は真っ直ぐに見つめたまま自分に向かって口を開く。
何か知ってて隠してる、と思うから。
見抜かれていたのに自分は素直に驚きながら、彼女を見下ろす。ただ普通の少女なのに、時折彼女は根底まで見抜くような観察力を見せる。思わず自分はその観察力に苦笑いすら浮かべてしまう。
智美君は危なくない?
何も正直には答えなかった智美に、彼女が何よりも心配そうに問いかけたのはその言葉だった。そんな風に誰かに心配してもらうなんて、産まれて始めての事で智美は戸惑う。何時死んでもおかしくないと何処かで思っている自分に、向けられる純粋な身を案じる言葉。礼慈がかけるのとも違う、優しい言葉。
なんで、今になって麻希子の事を考えてるんだ?
同級生の宮井麻希子の真っ直ぐに自分を見る視線が、頭の中で浮かんでいる。一番最初に出会ったクラスメイト、彼女が色々な表情をするのをみている内に、自分の周り迄変わっていって高校での生活は智美にとっては楽しみに変わった。沢山交流ができる存在が増えて、世間がどんな風に移ろうのかを見つめていく。
もっと見ていたかったし、聞いてみたいこともある…。
そう心が呟くのを聞きながら、忌々しい死臭が微かに動いたような気がして目を細める。だが意識が朦朧としてきているから気のせいか、ただの願望かもしれないと一瞬心が思う。
でも、少なくとも孝は逃がせた。
そう心で呟いた瞬間、不意に廊下側の壁が鋭く鈍い軋みをあげて教室の扉に細かい亀裂が走った。亀裂はまるで光で出来ているみたいに向こう側から光を溢し、風が吹き込み始めている。
好機か逆か
朦朧とする視線でそれを見つめていると死臭を裂く様に亀裂から吹き込む肌を撫でる風に、ハッと自分が深い息をつくのを感じた。智美は何度も呼吸を繰り返しながら、亀裂を抉じ開けて躍りこむように飛び込んできたモノに息を飲んだ。
産まれて初めて目の当たりに見る白銀の巨躯を、感嘆の思いで見つめる。四神の戦闘を式読が間近で見ることは全くない、過去には戦闘に巻き込まれ死んだ式読もいたらしいが少なくとも先代や自分は話では聞くが実際には見たことがなかった。
ホワイトタイガーというのとは全く別物で、白銀と鐵の色の毛は一本一本が光を放っている。
ちなみにホワイトタイガー自体はアルビノとは異なり、ベンガルトラの変種で正式にはベンガルトラ白変種という。虹彩は青、遺伝子パターンではメンデルの法則が当てはまる。
とは言え目の前の白虎は実際には虎と言うにはその体幹はやや細く、四肢は体に比較すれば太い。体格でいうと虎というより雪豹や何かの別な種類のようなのに、体表の柄は完全に虎でホワイトタイガーのように縞の色が薄かったりすることがなく黒い際立つ縞。その顔は完全に虎のもので他のアルビノ種特有の薄い色素の瞳とは全く異なる白銀に光る瞳が、真っ直ぐに智美を見つめる。
銀か白銀のような輝く翡翠輝石のような瞳をした巨躯の真っ白な虎。瞳と同じ色をした鋭い爪の覗く四肢は、床を踏みしめても何の音もたてず軋みすらたてない。そのそれぞれの足には纏わりつく白炎の様なものが渦巻き尾を引き、まるで絵画の世界から抜け出して駆け込んできたようだ。体長はゆうに五メートル近く、尾の長さまで入れれば恐らく六メートルにもなる。何も知らずにこの姿が目の前に現れたら、自分は喰われると叫ぶ人間が多いのも納得だ。でも、智美のように様々な事を知っていて見上げるその姿は、ただ神々しい神獣の姿で息を飲む。
『………香坂?』
微かに驚きに満ちた巨躯の虎の口元から零れ落ちた声音は、確かに智美のよく知る白虎のもつ声の響きだった。しかし、その神々しく見える姿は、彼がよく知り見ている者ではない初めて眼にする眩い輝きを纏うものだった。白虎の驚きに満ちたその声に、そうかと意識の片隅が納得するのが分かる。恐らく何らかの理由で、彼はここに真見塚孝がいた事の方を知っていたのだ。
家族が居ない筈の白虎に実は父親がまだ密かに存命していて、その家には息子が出来ていたのを知ったのは実は半月前の事。
白虎が表向きの素知らぬ顔をして、この学校に姿を見せたからだ。合気道部で合気道部部長と揉め事になった孝を止めに来て、目の前で容易く二人を制止したのが白虎だった。彼は友人としてその場にいた自分の姿に、溜め息混じりで苦笑いを浮かべる。元々真見塚孝が異常なほどに白虎の事を慕っていたのは知っていたが、まさか兄弟だとは智美も思っても見なかった。
二人並んで会話をする姿を見て、初めておや?と眉を潜めた智美に後日白虎が仕方ないと言いたげに説明したのだ。
白虎の父親に当たる男性の存在を隠してきたのは先代の白虎の時からで、他の四神も以前から知っていたのだという。ひた隠しにしていた訳ではないが、自分が公に血の繋がりを認めると血の繋がる父と弟に害が及びそうで嫌なのだと言葉少なに白虎は告げる。その言葉の意図は智美にも理解できるものだった。
「白虎…。彼ならもう一足先に逃がしたよ。」
そう息をついた智美の体が崩れ落ちるのを、まるで本物のようなその柔らかい毛並みの巨躯がやんわりと背に受け止める。始めて触れるその気配はあまりにも強烈で、触れた瞬間に眼が眩むような鮮烈な衝撃が走る。思わず呻いてしまった智美に気がついた白虎は、僅かに気を緩めてみせた。それでも純粋な気の流れが自分の周囲を取り巻く死臭をうち払うのを感じ、思わずその毛並みに手を載せる。驚くほどに鮮烈で清浄な気を纏うだけでなく、自在に操る事ができるのだと智美は肌で改めて理解する。
『そうか……ありがとう、香坂。』
溜め息のような吐息をつきながら白虎は、横腹にもたれる智美を顔を向けてその翡翠輝石の瞳で覗きこむ。
『大丈夫か?』
「驚くね……、式になっても直にこの目で見れるモノなんて、モニターだけだし、神獣なんか見たことないよ…。」
『………俺はまだ常識的な方の様相なんだがな?』
苦笑混じりの声が囁きながら空気の邪気を払い、白虎は智美の様子を眺める。そう言われてしまうと、虎と近いと思えば白虎の姿は想像可能な範囲の姿ではあるかもしれない。
「玄武の方が驚くってこと?」
『神獣というなら、青龍だろ?』
思っていたよりずっと柔らかい毛並みに包まれながら、そんなことを言われて思わず笑いが込み上げる。少なくとも今ここで呼吸困難で命を落とすと言うことだけは無くなったのに、智美は安堵を感じた自分に気がつく。
「クソジジイどもの悔しがる顔が見える。」
『良かったな、お前が一番面白がる顔じゃないか。』
扉の後に開いていた亀裂がゆるりと閉じていくのを僅かに忌々しげに見やりながら、白虎が周囲に気を放ち腐臭を祓うのを感じる。呼吸が楽になると同時に頭の中に動いていた、様々な思考がスムーズに戻り始めるのを感じて智美は目を瞬かせた。この状況でなければ、極上の毛並みをタップリ堪能出来るのに等と皮肉めいた思考をする。それが伝わったように白虎の毛並みが微かな動きを見せると、さて…と微かに視線を返した。何かを見定めるように辺りを見渡した白虎の瞳に、思わず吸いつけられる様に智美は見入る。智美の視線に気がついた白虎の微かな苦笑の声音が、その口元から滲む。
『先ずはここからお前を連れ出さないとな…。』
「何か方法が?」
『悪いがな……相手が香坂なら簡単だった。』
智美がここにいるのはどうやら想定外だったようだ。だが、もしここに残っていたのが真見塚孝だけなら、恐らく彼はもう少し早い時点で命を落とした可能性がないわけではない。勿論智美の方も、紙一重といったところではあったのだが。
白虎は緩い動作で体の向きを変えて、体育館がある方面に顔を上げる。不意に地響きが強まってビリビリと壁が振動する気配が走って、智美は目を丸くして視線を上げた。恐らく白虎の目には、智美には見えない世界が広がっていて何が起こりかけているのか分かるに違いない。
『そろそろ青龍が動く気だ。』
そう穏やかに彼は語りかけながら、彼の体を守るように微かに毛を逆立てるように体の容積を増す。そうしてまるで子猫でも抱くようにクルリと体と回すと、フワリとした毛並みの中に智美の体を包みこんだ。しかも、包み込まれただけでなく頭を埋めるように上から巨大な顎を意図的に乗せられて、智美の視界は巨大な虎の真っ白な毛並みに飲み込まれる。不意のその変化を驚く隙も与えない次の瞬間、聴力すら奪うかのような激しい爆風が白銀の体の周囲を飲み込むように弾け飛んだ。
……簡単に言えば、硫化水素みたいなものか。
硫化水素は硫黄と水素の化合物。温泉地でよくある腐卵臭を持つ無色有毒な空気より重い気体で、大量に吸い込むと肺胞が傷つけられる。温泉地などだけでなく下水道でも発生するような、珍しくもない化合物質。水にも溶けやすく可燃性もある上に、僅かに水に熔けている場合は薬効すらあると来ている。そんなことを無意識に頭の中で考えながら呼吸で空気が肺に入る度に、少しずつ酸素の有効な交換量が下がっている気がした。それすらも錯覚なのかもしれないが、次第に呼吸が満足にできていない苦しさが脳幹に響き始めている。
酸素が上手く取り込めないから次第に呼吸の回数は増え、それでも酸素が足りずに体内に酸素を巡らせようと血流を循環させようと心拍が上がっていく。普段から智美は運動をしているわけではないから、孝のように鍛えている人間に比べたらその上がり方は早いだろう。深呼吸をしたいがすれば余計に、この有毒な空気を吸う羽目になる。
呼吸困難で死ぬのは流石に勘弁してほしいな、……出来ればその前に意識を失いたいね。
だが、この状況では恐らくジワジワと苦しみながら、呼吸だけが減弱させられる気がしていた。本当に人間をいたぶるために作られているみたいな状況に、思わず溜め息と共に苦笑が浮かぶ。この状況で何時までも漢字の暗唱もしてろだなんて、馬鹿臭いにもほどがある。ゲホンと咳き込むと呼吸が浅くなり、暗唱が揺らいで掠れてしまう。視界が霞む息苦しい強い腐臭の中で途切れかけた弱い呪文を暗唱する声は、ふと視界が揺らめくのを感じた。効能もハッキリしない結界の漢字の暗証に、香坂智美は深く杖に寄りかかるように立ち尽くしながら溜め息をつく。
ここまで……か?
溜め息なのか深呼吸なのか全く分かりもしない。もう暗唱を続ける気力も尽きてしまって、杖に体重をかけながら智美は目を伏せた。思わぬ自分のこの先行きを喜ぶ者は、どれくらいいるだろうかと冷静な頭がふと囁く。恐らく院の古参のクソジジイどもは最初から全く思う通りにならなかった智美が死ねば、大喜びで次の式読の能力を持つ香坂の末裔を探すはずだ。今度は自分達の言いなりになるような式読であるように、自分のように幼く物心つく前のまだ七歳前後の香坂なら喜んで引き上げてくる。自分の時だって何処から探し出すのかと思っていたが、政府も一枚噛むなら戸籍なんてモノが手の内で簡単に見つけるだろう。香坂の名前以外の者を候補に上げたがる者も出てきてもおかしくはないし、智美としてもカメラアイがあればいいのなら香坂に限らなくてもいいのかもしれないとも思うこともある。
何故、うちの家系だけなのかも、ろくな記録がない。ただ、定められた香坂だとしかないし、自分の家系であと何人が残っているかも正確なところ疑問だ。恐らく残っているのは二人か三人だったはず……。今何処で生活しているかは調べてもいないが、自分はまだあと数十年位生きると思ってたんだけど。
腐臭は既に濃度が濃すぎて、死臭としか思えない。放置され風に曝されて朽ちていく生き物の死の臭い、それが辺りを飲みこんでまるで自分の体内から漂い始めている気がする。
そんなことを考えていたら何故か脳裏に一ヶ月以上も前の光景が浮かぶ。下校しようとした同級生の少女の腕を、思わず掴んで声をかけた自分の姿。
麻希、今日一人だろ?乗せていくから。
不思議そうな視線で振り返り自分を見上げる、丸い純粋な光を宿した瞳。その時周囲では饕餮が、何人もの人間を闇に引き込んでいて行方不明が頻発していた。彼女はそんなことは知りもしないが、クラスメイトが一人行方が一時分からなくなっていて智美は五割程度、同級生も饕餮に喰われたのかとすら考えていたのだ。何故か彼女を一人で帰らせるのが、智美は嫌だった。だから家まで車で送ると告げる。
智美君、何か知ってるの?
何故彼女がそう反応するのか分からなくて、どういう意味?と問い返すと、彼女は真っ直ぐに見つめたまま自分に向かって口を開く。
何か知ってて隠してる、と思うから。
見抜かれていたのに自分は素直に驚きながら、彼女を見下ろす。ただ普通の少女なのに、時折彼女は根底まで見抜くような観察力を見せる。思わず自分はその観察力に苦笑いすら浮かべてしまう。
智美君は危なくない?
何も正直には答えなかった智美に、彼女が何よりも心配そうに問いかけたのはその言葉だった。そんな風に誰かに心配してもらうなんて、産まれて始めての事で智美は戸惑う。何時死んでもおかしくないと何処かで思っている自分に、向けられる純粋な身を案じる言葉。礼慈がかけるのとも違う、優しい言葉。
なんで、今になって麻希子の事を考えてるんだ?
同級生の宮井麻希子の真っ直ぐに自分を見る視線が、頭の中で浮かんでいる。一番最初に出会ったクラスメイト、彼女が色々な表情をするのをみている内に、自分の周り迄変わっていって高校での生活は智美にとっては楽しみに変わった。沢山交流ができる存在が増えて、世間がどんな風に移ろうのかを見つめていく。
もっと見ていたかったし、聞いてみたいこともある…。
そう心が呟くのを聞きながら、忌々しい死臭が微かに動いたような気がして目を細める。だが意識が朦朧としてきているから気のせいか、ただの願望かもしれないと一瞬心が思う。
でも、少なくとも孝は逃がせた。
そう心で呟いた瞬間、不意に廊下側の壁が鋭く鈍い軋みをあげて教室の扉に細かい亀裂が走った。亀裂はまるで光で出来ているみたいに向こう側から光を溢し、風が吹き込み始めている。
好機か逆か
朦朧とする視線でそれを見つめていると死臭を裂く様に亀裂から吹き込む肌を撫でる風に、ハッと自分が深い息をつくのを感じた。智美は何度も呼吸を繰り返しながら、亀裂を抉じ開けて躍りこむように飛び込んできたモノに息を飲んだ。
産まれて初めて目の当たりに見る白銀の巨躯を、感嘆の思いで見つめる。四神の戦闘を式読が間近で見ることは全くない、過去には戦闘に巻き込まれ死んだ式読もいたらしいが少なくとも先代や自分は話では聞くが実際には見たことがなかった。
ホワイトタイガーというのとは全く別物で、白銀と鐵の色の毛は一本一本が光を放っている。
ちなみにホワイトタイガー自体はアルビノとは異なり、ベンガルトラの変種で正式にはベンガルトラ白変種という。虹彩は青、遺伝子パターンではメンデルの法則が当てはまる。
とは言え目の前の白虎は実際には虎と言うにはその体幹はやや細く、四肢は体に比較すれば太い。体格でいうと虎というより雪豹や何かの別な種類のようなのに、体表の柄は完全に虎でホワイトタイガーのように縞の色が薄かったりすることがなく黒い際立つ縞。その顔は完全に虎のもので他のアルビノ種特有の薄い色素の瞳とは全く異なる白銀に光る瞳が、真っ直ぐに智美を見つめる。
銀か白銀のような輝く翡翠輝石のような瞳をした巨躯の真っ白な虎。瞳と同じ色をした鋭い爪の覗く四肢は、床を踏みしめても何の音もたてず軋みすらたてない。そのそれぞれの足には纏わりつく白炎の様なものが渦巻き尾を引き、まるで絵画の世界から抜け出して駆け込んできたようだ。体長はゆうに五メートル近く、尾の長さまで入れれば恐らく六メートルにもなる。何も知らずにこの姿が目の前に現れたら、自分は喰われると叫ぶ人間が多いのも納得だ。でも、智美のように様々な事を知っていて見上げるその姿は、ただ神々しい神獣の姿で息を飲む。
『………香坂?』
微かに驚きに満ちた巨躯の虎の口元から零れ落ちた声音は、確かに智美のよく知る白虎のもつ声の響きだった。しかし、その神々しく見える姿は、彼がよく知り見ている者ではない初めて眼にする眩い輝きを纏うものだった。白虎の驚きに満ちたその声に、そうかと意識の片隅が納得するのが分かる。恐らく何らかの理由で、彼はここに真見塚孝がいた事の方を知っていたのだ。
家族が居ない筈の白虎に実は父親がまだ密かに存命していて、その家には息子が出来ていたのを知ったのは実は半月前の事。
白虎が表向きの素知らぬ顔をして、この学校に姿を見せたからだ。合気道部で合気道部部長と揉め事になった孝を止めに来て、目の前で容易く二人を制止したのが白虎だった。彼は友人としてその場にいた自分の姿に、溜め息混じりで苦笑いを浮かべる。元々真見塚孝が異常なほどに白虎の事を慕っていたのは知っていたが、まさか兄弟だとは智美も思っても見なかった。
二人並んで会話をする姿を見て、初めておや?と眉を潜めた智美に後日白虎が仕方ないと言いたげに説明したのだ。
白虎の父親に当たる男性の存在を隠してきたのは先代の白虎の時からで、他の四神も以前から知っていたのだという。ひた隠しにしていた訳ではないが、自分が公に血の繋がりを認めると血の繋がる父と弟に害が及びそうで嫌なのだと言葉少なに白虎は告げる。その言葉の意図は智美にも理解できるものだった。
「白虎…。彼ならもう一足先に逃がしたよ。」
そう息をついた智美の体が崩れ落ちるのを、まるで本物のようなその柔らかい毛並みの巨躯がやんわりと背に受け止める。始めて触れるその気配はあまりにも強烈で、触れた瞬間に眼が眩むような鮮烈な衝撃が走る。思わず呻いてしまった智美に気がついた白虎は、僅かに気を緩めてみせた。それでも純粋な気の流れが自分の周囲を取り巻く死臭をうち払うのを感じ、思わずその毛並みに手を載せる。驚くほどに鮮烈で清浄な気を纏うだけでなく、自在に操る事ができるのだと智美は肌で改めて理解する。
『そうか……ありがとう、香坂。』
溜め息のような吐息をつきながら白虎は、横腹にもたれる智美を顔を向けてその翡翠輝石の瞳で覗きこむ。
『大丈夫か?』
「驚くね……、式になっても直にこの目で見れるモノなんて、モニターだけだし、神獣なんか見たことないよ…。」
『………俺はまだ常識的な方の様相なんだがな?』
苦笑混じりの声が囁きながら空気の邪気を払い、白虎は智美の様子を眺める。そう言われてしまうと、虎と近いと思えば白虎の姿は想像可能な範囲の姿ではあるかもしれない。
「玄武の方が驚くってこと?」
『神獣というなら、青龍だろ?』
思っていたよりずっと柔らかい毛並みに包まれながら、そんなことを言われて思わず笑いが込み上げる。少なくとも今ここで呼吸困難で命を落とすと言うことだけは無くなったのに、智美は安堵を感じた自分に気がつく。
「クソジジイどもの悔しがる顔が見える。」
『良かったな、お前が一番面白がる顔じゃないか。』
扉の後に開いていた亀裂がゆるりと閉じていくのを僅かに忌々しげに見やりながら、白虎が周囲に気を放ち腐臭を祓うのを感じる。呼吸が楽になると同時に頭の中に動いていた、様々な思考がスムーズに戻り始めるのを感じて智美は目を瞬かせた。この状況でなければ、極上の毛並みをタップリ堪能出来るのに等と皮肉めいた思考をする。それが伝わったように白虎の毛並みが微かな動きを見せると、さて…と微かに視線を返した。何かを見定めるように辺りを見渡した白虎の瞳に、思わず吸いつけられる様に智美は見入る。智美の視線に気がついた白虎の微かな苦笑の声音が、その口元から滲む。
『先ずはここからお前を連れ出さないとな…。』
「何か方法が?」
『悪いがな……相手が香坂なら簡単だった。』
智美がここにいるのはどうやら想定外だったようだ。だが、もしここに残っていたのが真見塚孝だけなら、恐らく彼はもう少し早い時点で命を落とした可能性がないわけではない。勿論智美の方も、紙一重といったところではあったのだが。
白虎は緩い動作で体の向きを変えて、体育館がある方面に顔を上げる。不意に地響きが強まってビリビリと壁が振動する気配が走って、智美は目を丸くして視線を上げた。恐らく白虎の目には、智美には見えない世界が広がっていて何が起こりかけているのか分かるに違いない。
『そろそろ青龍が動く気だ。』
そう穏やかに彼は語りかけながら、彼の体を守るように微かに毛を逆立てるように体の容積を増す。そうしてまるで子猫でも抱くようにクルリと体と回すと、フワリとした毛並みの中に智美の体を包みこんだ。しかも、包み込まれただけでなく頭を埋めるように上から巨大な顎を意図的に乗せられて、智美の視界は巨大な虎の真っ白な毛並みに飲み込まれる。不意のその変化を驚く隙も与えない次の瞬間、聴力すら奪うかのような激しい爆風が白銀の体の周囲を飲み込むように弾け飛んだ。
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