91 / 206
第二部
第六幕 都立第三高校 生徒指導室
しおりを挟む
残念ながら礼慈や敷島や四神のように、香坂智美はその目で直に何かを見ることが出来るわけではない。だが、智美には普通でない能力がある。彼はただ多くの事を知り、様々な事を理解していた。
閉じ込められた時点で止まった教室の時計。
今迄通じたはずなのに沈黙したスマホ。
動かなくなったノートパソコン。
それにもう一人の青年が気がつく前から、智美はその脳内で秒針を刻み自分達の置かれた場の時間を体内で把握する。それが会話や行動と平行して、延々と行われている事が普通ではないのは理解していた。それでも、可能で有る限りの方策を全てとらないとならないのは、何としてもこの状況から抜け出す必要性があるからだ。時間はここに閉じ込められてソロソロ三時間半を過ぎる筈。もしかすれば異界の時間の流れはまともな時間とは違う可能性はあるが、そんなことを気にしていたら何も進まない。恐らく現時点は異界の時間の流れが同じと仮定すれば、二十一時前後。少なくとも友村礼慈は学校の近郊には既にいて、現状がどんな状態かを把握している筈だ。それであれば、礼慈が四神に動きやすいよう、配慮しているのは間違いない。足枷になるのは自分と真見塚孝で、特に横の孝は普段から最大の戦力である白虎の最大の弱点にもなりかねない。せめて、孝だけは早々に何とかここから出さないと、敵に足元を掬われかねない。いくら白虎でも急所をつかれては、ひとたまりもない筈だ。
智美はそう思いながら自分の保護者でもある礼慈の言葉を、もう一度思い起こし微かな苦悩に満ちた表情を浮かべた。
自分の異様さを知られたい訳ではない。
隣の孝も普通とは少し違う面があるが、智美程ではない筈だと考える。孝がそれを知ってどう反応するのか、正直なところ想像もつかない。
その教室の中には何の音一つ吹き込む事も無く、ただ不気味な壁の軋みだけかわ何時までも振動と一緒に続いていた。時折大きな軋みと同時に大きく揺らぐ壁に、埃が振り落ち不安げに孝が頭上を見上げるのに気がつく。三階建ての一階に閉じ込められている圧迫感が、暗闇に沈むほどに強い不安になっているのだと智美も思う。あれから何度か窓を割ろうと苦心していた孝は、得意の足技でも叩きつける椅子や机でも傷一つ付かないガラスを忌々しげに眺める。柾目の八分試割板の四枚程度、五センチ程度の厚さの杉板ならなら、容易く回し蹴りで割ることが出来るのに経年劣化もある筈の教室の窓ガラスはビクともしない。意図的に窓を割ろうとしたことなんか今まで一度もないが、案外簡単にはガラスは割れることくらい知っていた。
「何なんだ…傷もつかないなんて……。」
その後姿を暫し無言で眺めていた智美は、ゆっくりと窓際に歩み寄り孝の顔を覗き込んだ。
「孝、ひとつ考えがある。」
その言葉に孝が目を丸くして、彼の顔を見つめるのが分かる。それに智美は一瞬迷うような表情を微かに浮かべたものの、諦めたように言葉をゆっくりと繋いだ。
「ここが今、普通の空間ではないのは、見れば分かる。」
暮明の中で躊躇いがちに口を開いた香坂智美の眼鏡のレンズが、光源のない暗闇の中で闇で包んだように孝の瞳から遮る。茶色く澄んだ瞳が黒いレンズに飲み込まれ、彼がどんな視線で自分を見つめているのか分からず孝は戸惑う。
「何が効くのか分からないが、僕が知っていることを試してみてもいいか?孝。」
「知ってること?」
まるで囁くように聞こえる声は、何処と無く普段の彼の声とは違ってヨソヨソしく聞こえる気がする。それに孝は眉を潜めるが、力ずくが効果を示さない今となっては自分には智美の考えにかけてみる程度しかない。
「何を知ってるんだ?智美。」
「本の受け売りだよ、駄目だったら馬鹿にして笑ってくれ。」
その言葉に普段の智美が感じられて、思わず孝は微かに苦笑する。その苦笑に何故か智美は視線を上げて、目を細め孝の顔を真っ直ぐに見つめた。
「何だ?智美。」
「こんなことに巻き込まれるなんて、孝も充分巻き込まれ体質だな。麻希子と変わんないよ、孝。」
宮井麻希子は二人の同級生の少女で一種独特のパワーがあって、大概騒動に巻き込まれる得意な体質だ。本人は全く自覚がないが、巻き込まれた上に更に周囲の人を巻き込んで、騒ぎ自体を全部飲み込んだ上に結果を出すという世にも稀な特技を持っている。容姿は小動物のように可愛らしいのにとんでもないパワーで容赦なく巻き込まれ、智美だけでなく何人もをクラスの輪に引きずり込む。
「宮井と一緒にするな、僕はあんな非常識な天然じゃない。」
孝の言葉に智美は苦く笑う。何とかここを出ないと麻希子が血相を変えて乗り込んできそうだなと呟くと、孝もそうだなと笑う。智美は窓際に立つと、来ている制服の内ポケットから小さな袋のようなモノを取り出した。
それは一見すればただの匂袋、勿論平素ではその通り匂袋でしかない。智美はそれの口を縫い付ける糸を口に咥え、上手くいけばいいがと心の中で呟く。
地脈に開けられた穴は、地の底から溢れ出す気で曝され続ける。本流に近く勢いが強く濃密な穴から溢れる気は、過剰な養分となり土を腐らせるのだと彼は考えている。地脈の枝葉の先では気が水に混じり流れ出しても、土地が豊かになるだけで腐りはしない。つまりはちゃんとしたフィルターを通してあれば、気は有害なものにはならないのだ。では、今自分達の閉じ込められている場所は、どうなのか?地脈は遠く饕餮のように贄を使って、地脈を力ずくで捻じ曲げた訳でもない。だが、ここには確かに異界が広がっている。
なら、清廉な気の塊を贄にすると同時に、穴に変容させられる方法があったらどうなるか?
彼が目にした竜胆貴理子という女性が本当に木崎蒼子だとしたら、彼女は火気の化身である朱雀と同じ血をひく人間だ。それを何らかの方法で敵が手にいれ、贄にしているのなら?饕餮のやり方の応用が既に完成しているのなら?もし仮定が正しければこの空間の気は、四神の言うゲートが病んだ状態と変わらない筈だ。
プツリと音をたてて糸が切れ、その袋の中から仄かに甘さを含んだ柔らかで爽やかな香りが立ち上る。嗅ぎ慣れない孝にはそれが、これが白檀の匂いだとは分からないだろう。白檀は沈香と並ぶ香木だが常温でも香り、仏具や仏像に加工されたりする。線香の香りにもあるが、その殆どは人工的に調合された精油の匂いだ。白檀は鎮静効果も含め細胞の活性化作用まであるとされ、浄化作用を目的として寺院仏閣でも多く使用されている。時には宗教行事や瞑想用の薫香としても用いられるのだ。高品質のものは現在では入手困難で人工物で代用されているが、手の中のものは本物の老山白檀。空間を浄化する作用があるとされるモノをずっと礼慈から持たされていた意図が、ここにあるかどうかは智美自身にもわからない。
中に差し込んだ指が窓ガラスに、白檀で薄く円を描いていく。ピリピリと空間が指先で震える感覚に、意識が糸を寄り合わせるように集中していく。
「ひい…あ…ふあみぃ、よつぃあ……。」
ビリビリと唐突に白檀で描かれた円が振動するのに、横に立つ孝は目を見開いた。今までビクともしなかった窓ガラスが、まるで共鳴振動でも起こしているように撓み激しく音をたてる。横にたつ智美は頬から一筋汗を流して、酷く真剣な顔で聞いたこともない言葉を放つ。
「まあ……なぁね、やあ……かへな…たうぉう……。」
突然バシンと何かが打ち付けられるような音が室内に響き渡り、ガラスに目の前で細かな亀裂が入る。
「ひいあふあみぃよついむなね、かぅお、へなたうとも、ちろらね。」
亀裂から差し込む青白い光に視線を向ける孝の横で、低い音楽のような智美の声が漂う。聞いたことのない言葉に言葉もない見つめる孝の様子が、集中している智美の肌に感じ取れる。
「しきるゆいつわぬそをたはくめ、かうおぇにさりへてのますぁせえむ……ほれ……。」
目の前で細かい光の粒が、ガラスに変わりハラハラと花弁のように舞う。唐突に智美は手にしていた杖を振り上げ、勢いよく打突をその中心に向けて放った。
それはガラスが砕ける音とは全く違う、まるで爆発音のようなドォンッという鈍く低い音。それと共に窓ガラスが外に向かって吸い出されるように弾け、冷たく新鮮な外の外気と共に膜のような闇に外の光が差し込む。
「凄い…。」
「感心してる前に先にでてくれないか?」
足の悪い智美が窓を越えるには確かに孝の手助けが必要そうで、慌てて孝は身軽にその穴を乗り越えた。智美と名前を呼びながら振り返った孝の視界で、何故か智美は一歩後退ったように見えた。
「智美?!!」
後退ったと見えたのは既に薄い膜が外に出た孝の視界を遮ったせいだと気がついた瞬間、智美は彼の目の前で皮肉めいた微笑みを浮かべた。
「孝、悪いが早くそこを離れろ。」
「智美!お前!!」
最初からそこから這い出せるのは、一人で限界だと知っていた。そう予想なのか分かっていてか智美がこれをしていたのだと、孝はその時になって気がつく。砕けた筈のガラスが逆回しのように、次第に浮き上がり元の場所に嵌まって埋まっていくのが見える。
「智美!!」
「悪いけど、僕は足のせいで孝みたい素早く動けないんだよ。」
次第に声まで遠ざかっていくのに、孝は愕然として窓に駆け寄ろうとする。
『来るな!孝!これは一回こっきりの裏技なんだからな?』
既にまるで電話口のように聞こえる鋭い声に阻まれ、孝は呆然と立ち尽くす。一度しか使えないものをふいにするなと暗にその声に言われ、孝は智美が足が不自由だった事を改めて思い出していた。確かに杖術を身につけていても智美が不自由だという事実は変わらない。担任の土志田のように抱えて飛び出せたら違ったかもしれないが、まだ成長しきらない孝では彼を抱えて逃げるということも確実とはいえなかった。だが陰り始めた窓の向こうで孝の顔に浮かぶ深い困惑の光に気がついた智美は彼に向かって、安心させようとでも言うように微笑んだ。
『そこを出たら、僕の保護者にここにいると伝えてくれればいい。彼がいれば僕もここから出られる。』
「……本当に?君の保護者って…。」
訝しげに問い返す彼の口調に思わず智美は苦笑する。
『僕だって怖い事は嫌だ。でも出来ると知ってる。だから、孝に礼慈にここにいると伝えて欲しいんだ。』
目の前の少女のように美しい青年の薄い色素の瞳を心に残る不安の中で見つめながら戸惑う孝に、あいつはもう直ぐ傍に着てるからともう一度念を押すかのように智美は口にする。
現実味の無い暗闇に飲まれお互いの世界が隔絶される。孝はそれを呆然としたまま立ち尽くし、彼のいう礼慈という人が何をしようというのか想像の範囲を超えたものを考える。智美がまだ中に閉じ込められた状況では、今は智美の提案に従うしかない事も事実だ。
孝なら、そう言えば礼慈を探す。
暗闇に閉ざされた室内に一人残って、智美は苦く微笑みながら俯いた。可能かと言われれば先に反動さえつければ、窓から飛び出すのは不可能ではなかったかもしれない。それでも先に孝を出すことを優先した自分には、早くも閉じ始めた穴の姿がよく見えていた。それを理解しきった表情で香坂智美は小さな溜め息混じりにその眼鏡を外す。
普通であること全てか…。
彼は苦々しい思いでその言葉を脳裏に反芻する。
全てを見て理解し、その全てを把握する、それは消して書類上のものだけではない。現状の時の流れを理解すると同時に今はただ闇色に染まっている窓ガラスの向こうを眼鏡越しではなく、その薄い茶色の瞳は何かを見定めるように眺めながら、こつりと杖を突き窓に歩み寄る。
その闇が流動的に脈打つように蠢き、時折密度を変える部分があることに彼は既に気がついていた。白檀で一時散らされた邪気が修復され、絡み合い厚さを増したのが分かる。それは何度と無く繰り返される脈動で一定の間隔で蠢いている。
さて、自分の事は自分で何とかしないと……。
智美はそう考えながら、礼慈が作って持たせていた白檀の匂袋を拾い上げた。何とかする、出来なかったら、もうそれは最悪の状態であるというだけの事だ。そうならない為に彼は早く動かなければならない事も理解している。自分がする行為が、どんな結果を生むかはわからなかった。もしかしたらもうこの生活すらなくなるのかもしれない、そう心の何処かで感じながら智美はヒュゥンと空を切る音を立てて小さく杖を撓らせる。
※※※
「智美……。」
闇に飲み込まれて塞がってしまった窓ガラスの中には、教室の中すらも見えない。キツい口調で智美には寄るなと叫ばれては、窓に触れ覗き込むことも出来ないのは分かっていた。
何で……こんなことが出来たか……
それは孝の常識の範疇では、全く理解も想像も出来ない。それでも、彼の親友が自分を助けるのを優先したことだけは、胸に鋭く痛みを感じさせている。
……出てきたら、絶対説明させるからな!智美!
孝は酷く深い心の痛みを感じながら彼の保護者という人物を探さなくてはと、まるで人気のない廃墟のような周囲を思わず見回してた。
閉じ込められた時点で止まった教室の時計。
今迄通じたはずなのに沈黙したスマホ。
動かなくなったノートパソコン。
それにもう一人の青年が気がつく前から、智美はその脳内で秒針を刻み自分達の置かれた場の時間を体内で把握する。それが会話や行動と平行して、延々と行われている事が普通ではないのは理解していた。それでも、可能で有る限りの方策を全てとらないとならないのは、何としてもこの状況から抜け出す必要性があるからだ。時間はここに閉じ込められてソロソロ三時間半を過ぎる筈。もしかすれば異界の時間の流れはまともな時間とは違う可能性はあるが、そんなことを気にしていたら何も進まない。恐らく現時点は異界の時間の流れが同じと仮定すれば、二十一時前後。少なくとも友村礼慈は学校の近郊には既にいて、現状がどんな状態かを把握している筈だ。それであれば、礼慈が四神に動きやすいよう、配慮しているのは間違いない。足枷になるのは自分と真見塚孝で、特に横の孝は普段から最大の戦力である白虎の最大の弱点にもなりかねない。せめて、孝だけは早々に何とかここから出さないと、敵に足元を掬われかねない。いくら白虎でも急所をつかれては、ひとたまりもない筈だ。
智美はそう思いながら自分の保護者でもある礼慈の言葉を、もう一度思い起こし微かな苦悩に満ちた表情を浮かべた。
自分の異様さを知られたい訳ではない。
隣の孝も普通とは少し違う面があるが、智美程ではない筈だと考える。孝がそれを知ってどう反応するのか、正直なところ想像もつかない。
その教室の中には何の音一つ吹き込む事も無く、ただ不気味な壁の軋みだけかわ何時までも振動と一緒に続いていた。時折大きな軋みと同時に大きく揺らぐ壁に、埃が振り落ち不安げに孝が頭上を見上げるのに気がつく。三階建ての一階に閉じ込められている圧迫感が、暗闇に沈むほどに強い不安になっているのだと智美も思う。あれから何度か窓を割ろうと苦心していた孝は、得意の足技でも叩きつける椅子や机でも傷一つ付かないガラスを忌々しげに眺める。柾目の八分試割板の四枚程度、五センチ程度の厚さの杉板ならなら、容易く回し蹴りで割ることが出来るのに経年劣化もある筈の教室の窓ガラスはビクともしない。意図的に窓を割ろうとしたことなんか今まで一度もないが、案外簡単にはガラスは割れることくらい知っていた。
「何なんだ…傷もつかないなんて……。」
その後姿を暫し無言で眺めていた智美は、ゆっくりと窓際に歩み寄り孝の顔を覗き込んだ。
「孝、ひとつ考えがある。」
その言葉に孝が目を丸くして、彼の顔を見つめるのが分かる。それに智美は一瞬迷うような表情を微かに浮かべたものの、諦めたように言葉をゆっくりと繋いだ。
「ここが今、普通の空間ではないのは、見れば分かる。」
暮明の中で躊躇いがちに口を開いた香坂智美の眼鏡のレンズが、光源のない暗闇の中で闇で包んだように孝の瞳から遮る。茶色く澄んだ瞳が黒いレンズに飲み込まれ、彼がどんな視線で自分を見つめているのか分からず孝は戸惑う。
「何が効くのか分からないが、僕が知っていることを試してみてもいいか?孝。」
「知ってること?」
まるで囁くように聞こえる声は、何処と無く普段の彼の声とは違ってヨソヨソしく聞こえる気がする。それに孝は眉を潜めるが、力ずくが効果を示さない今となっては自分には智美の考えにかけてみる程度しかない。
「何を知ってるんだ?智美。」
「本の受け売りだよ、駄目だったら馬鹿にして笑ってくれ。」
その言葉に普段の智美が感じられて、思わず孝は微かに苦笑する。その苦笑に何故か智美は視線を上げて、目を細め孝の顔を真っ直ぐに見つめた。
「何だ?智美。」
「こんなことに巻き込まれるなんて、孝も充分巻き込まれ体質だな。麻希子と変わんないよ、孝。」
宮井麻希子は二人の同級生の少女で一種独特のパワーがあって、大概騒動に巻き込まれる得意な体質だ。本人は全く自覚がないが、巻き込まれた上に更に周囲の人を巻き込んで、騒ぎ自体を全部飲み込んだ上に結果を出すという世にも稀な特技を持っている。容姿は小動物のように可愛らしいのにとんでもないパワーで容赦なく巻き込まれ、智美だけでなく何人もをクラスの輪に引きずり込む。
「宮井と一緒にするな、僕はあんな非常識な天然じゃない。」
孝の言葉に智美は苦く笑う。何とかここを出ないと麻希子が血相を変えて乗り込んできそうだなと呟くと、孝もそうだなと笑う。智美は窓際に立つと、来ている制服の内ポケットから小さな袋のようなモノを取り出した。
それは一見すればただの匂袋、勿論平素ではその通り匂袋でしかない。智美はそれの口を縫い付ける糸を口に咥え、上手くいけばいいがと心の中で呟く。
地脈に開けられた穴は、地の底から溢れ出す気で曝され続ける。本流に近く勢いが強く濃密な穴から溢れる気は、過剰な養分となり土を腐らせるのだと彼は考えている。地脈の枝葉の先では気が水に混じり流れ出しても、土地が豊かになるだけで腐りはしない。つまりはちゃんとしたフィルターを通してあれば、気は有害なものにはならないのだ。では、今自分達の閉じ込められている場所は、どうなのか?地脈は遠く饕餮のように贄を使って、地脈を力ずくで捻じ曲げた訳でもない。だが、ここには確かに異界が広がっている。
なら、清廉な気の塊を贄にすると同時に、穴に変容させられる方法があったらどうなるか?
彼が目にした竜胆貴理子という女性が本当に木崎蒼子だとしたら、彼女は火気の化身である朱雀と同じ血をひく人間だ。それを何らかの方法で敵が手にいれ、贄にしているのなら?饕餮のやり方の応用が既に完成しているのなら?もし仮定が正しければこの空間の気は、四神の言うゲートが病んだ状態と変わらない筈だ。
プツリと音をたてて糸が切れ、その袋の中から仄かに甘さを含んだ柔らかで爽やかな香りが立ち上る。嗅ぎ慣れない孝にはそれが、これが白檀の匂いだとは分からないだろう。白檀は沈香と並ぶ香木だが常温でも香り、仏具や仏像に加工されたりする。線香の香りにもあるが、その殆どは人工的に調合された精油の匂いだ。白檀は鎮静効果も含め細胞の活性化作用まであるとされ、浄化作用を目的として寺院仏閣でも多く使用されている。時には宗教行事や瞑想用の薫香としても用いられるのだ。高品質のものは現在では入手困難で人工物で代用されているが、手の中のものは本物の老山白檀。空間を浄化する作用があるとされるモノをずっと礼慈から持たされていた意図が、ここにあるかどうかは智美自身にもわからない。
中に差し込んだ指が窓ガラスに、白檀で薄く円を描いていく。ピリピリと空間が指先で震える感覚に、意識が糸を寄り合わせるように集中していく。
「ひい…あ…ふあみぃ、よつぃあ……。」
ビリビリと唐突に白檀で描かれた円が振動するのに、横に立つ孝は目を見開いた。今までビクともしなかった窓ガラスが、まるで共鳴振動でも起こしているように撓み激しく音をたてる。横にたつ智美は頬から一筋汗を流して、酷く真剣な顔で聞いたこともない言葉を放つ。
「まあ……なぁね、やあ……かへな…たうぉう……。」
突然バシンと何かが打ち付けられるような音が室内に響き渡り、ガラスに目の前で細かな亀裂が入る。
「ひいあふあみぃよついむなね、かぅお、へなたうとも、ちろらね。」
亀裂から差し込む青白い光に視線を向ける孝の横で、低い音楽のような智美の声が漂う。聞いたことのない言葉に言葉もない見つめる孝の様子が、集中している智美の肌に感じ取れる。
「しきるゆいつわぬそをたはくめ、かうおぇにさりへてのますぁせえむ……ほれ……。」
目の前で細かい光の粒が、ガラスに変わりハラハラと花弁のように舞う。唐突に智美は手にしていた杖を振り上げ、勢いよく打突をその中心に向けて放った。
それはガラスが砕ける音とは全く違う、まるで爆発音のようなドォンッという鈍く低い音。それと共に窓ガラスが外に向かって吸い出されるように弾け、冷たく新鮮な外の外気と共に膜のような闇に外の光が差し込む。
「凄い…。」
「感心してる前に先にでてくれないか?」
足の悪い智美が窓を越えるには確かに孝の手助けが必要そうで、慌てて孝は身軽にその穴を乗り越えた。智美と名前を呼びながら振り返った孝の視界で、何故か智美は一歩後退ったように見えた。
「智美?!!」
後退ったと見えたのは既に薄い膜が外に出た孝の視界を遮ったせいだと気がついた瞬間、智美は彼の目の前で皮肉めいた微笑みを浮かべた。
「孝、悪いが早くそこを離れろ。」
「智美!お前!!」
最初からそこから這い出せるのは、一人で限界だと知っていた。そう予想なのか分かっていてか智美がこれをしていたのだと、孝はその時になって気がつく。砕けた筈のガラスが逆回しのように、次第に浮き上がり元の場所に嵌まって埋まっていくのが見える。
「智美!!」
「悪いけど、僕は足のせいで孝みたい素早く動けないんだよ。」
次第に声まで遠ざかっていくのに、孝は愕然として窓に駆け寄ろうとする。
『来るな!孝!これは一回こっきりの裏技なんだからな?』
既にまるで電話口のように聞こえる鋭い声に阻まれ、孝は呆然と立ち尽くす。一度しか使えないものをふいにするなと暗にその声に言われ、孝は智美が足が不自由だった事を改めて思い出していた。確かに杖術を身につけていても智美が不自由だという事実は変わらない。担任の土志田のように抱えて飛び出せたら違ったかもしれないが、まだ成長しきらない孝では彼を抱えて逃げるということも確実とはいえなかった。だが陰り始めた窓の向こうで孝の顔に浮かぶ深い困惑の光に気がついた智美は彼に向かって、安心させようとでも言うように微笑んだ。
『そこを出たら、僕の保護者にここにいると伝えてくれればいい。彼がいれば僕もここから出られる。』
「……本当に?君の保護者って…。」
訝しげに問い返す彼の口調に思わず智美は苦笑する。
『僕だって怖い事は嫌だ。でも出来ると知ってる。だから、孝に礼慈にここにいると伝えて欲しいんだ。』
目の前の少女のように美しい青年の薄い色素の瞳を心に残る不安の中で見つめながら戸惑う孝に、あいつはもう直ぐ傍に着てるからともう一度念を押すかのように智美は口にする。
現実味の無い暗闇に飲まれお互いの世界が隔絶される。孝はそれを呆然としたまま立ち尽くし、彼のいう礼慈という人が何をしようというのか想像の範囲を超えたものを考える。智美がまだ中に閉じ込められた状況では、今は智美の提案に従うしかない事も事実だ。
孝なら、そう言えば礼慈を探す。
暗闇に閉ざされた室内に一人残って、智美は苦く微笑みながら俯いた。可能かと言われれば先に反動さえつければ、窓から飛び出すのは不可能ではなかったかもしれない。それでも先に孝を出すことを優先した自分には、早くも閉じ始めた穴の姿がよく見えていた。それを理解しきった表情で香坂智美は小さな溜め息混じりにその眼鏡を外す。
普通であること全てか…。
彼は苦々しい思いでその言葉を脳裏に反芻する。
全てを見て理解し、その全てを把握する、それは消して書類上のものだけではない。現状の時の流れを理解すると同時に今はただ闇色に染まっている窓ガラスの向こうを眼鏡越しではなく、その薄い茶色の瞳は何かを見定めるように眺めながら、こつりと杖を突き窓に歩み寄る。
その闇が流動的に脈打つように蠢き、時折密度を変える部分があることに彼は既に気がついていた。白檀で一時散らされた邪気が修復され、絡み合い厚さを増したのが分かる。それは何度と無く繰り返される脈動で一定の間隔で蠢いている。
さて、自分の事は自分で何とかしないと……。
智美はそう考えながら、礼慈が作って持たせていた白檀の匂袋を拾い上げた。何とかする、出来なかったら、もうそれは最悪の状態であるというだけの事だ。そうならない為に彼は早く動かなければならない事も理解している。自分がする行為が、どんな結果を生むかはわからなかった。もしかしたらもうこの生活すらなくなるのかもしれない、そう心の何処かで感じながら智美はヒュゥンと空を切る音を立てて小さく杖を撓らせる。
※※※
「智美……。」
闇に飲み込まれて塞がってしまった窓ガラスの中には、教室の中すらも見えない。キツい口調で智美には寄るなと叫ばれては、窓に触れ覗き込むことも出来ないのは分かっていた。
何で……こんなことが出来たか……
それは孝の常識の範疇では、全く理解も想像も出来ない。それでも、彼の親友が自分を助けるのを優先したことだけは、胸に鋭く痛みを感じさせている。
……出てきたら、絶対説明させるからな!智美!
孝は酷く深い心の痛みを感じながら彼の保護者という人物を探さなくてはと、まるで人気のない廃墟のような周囲を思わず見回してた。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
黄昏は悲しき堕天使達のシュプール
Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・
黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に
儚くも露と消えていく』
ある朝、
目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。
小学校六年生に戻った俺を取り巻く
懐かしい顔ぶれ。
優しい先生。
いじめっ子のグループ。
クラスで一番美しい少女。
そして。
密かに想い続けていた初恋の少女。
この世界は嘘と欺瞞に満ちている。
愛を語るには幼過ぎる少女達と
愛を語るには汚れ過ぎた大人。
少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、
大人は平然と他人を騙す。
ある時、
俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。
そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。
夕日に少女の涙が落ちる時、
俺は彼女達の笑顔と
失われた真実を
取り戻すことができるのだろうか。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
紺青の鬼
砂詠 飛来
ホラー
専門学校の卒業制作として執筆したものです。
千葉県のとある地域に言い伝えられている民話・伝承を砂詠イズムで書きました。
全3編、連作になっています。
江戸時代から現代までを大まかに書いていて、ちょっとややこしいのですがみなさん頑張ってついて来てください。
幾年も前の作品をほぼそのまま載せるので「なにこれ稚拙な文め」となると思いますが、砂詠もそう思ったのでその感覚は正しいです。
この作品を執筆していたとある秋の夜、原因不明の高熱にうなされ胃液を吐きまくるという現象に苛まれました。しぬかと思いましたが、いまではもう笑い話です。よかったいのちがあって。
其のいち・青鬼の井戸、生き肝の眼薬
──慕い合う気持ちは、歪み、いつしか井戸のなかへ消える。
その村には一軒の豪農と古い井戸があった。目の見えない老婆を救うためには、子どもの生き肝を喰わねばならぬという。怪しげな僧と女の童の思惑とは‥‥。
其のに・青鬼の面、鬼堂の大杉
──許されぬ欲望に身を任せた者は、孤独に苛まれ後悔さえ無駄になる。
その年頃の娘と青年は、決して結ばれてはならない。しかし、互いの懸想に気がついたときには、すでにすべてが遅かった。娘に宿った新たな命によって狂わされた運命に‥‥。
其のさん・青鬼の眼、耳切りの坂
──抗うことのできぬ輪廻は、ただ空回りしただけにすぎなかった。
その眼科医のもとをふいに訪れた患者が、思わぬ過去を携えてきた。自身の出生の秘密が解き明かされる。残酷さを刻み続けてきただけの時が、いまここでつながろうとは‥‥。
感染した世界で~Second of Life's~
霧雨羽加賀
ホラー
世界は半ば終わりをつげ、希望という言葉がこの世からなくなりつつある世界で、いまだ希望を持ち続け戦っている人間たちがいた。
物資は底をつき、感染者のはびこる世の中、しかし抵抗はやめない。
それの彼、彼女らによる、感染した世界で~終わりの始まり~から一年がたった物語......
ワールドミキシング
天野ハザマ
ホラー
空想好きの少年「遠竹瑞貴」はある日、ダストワールドと呼ばれる別の世界に迷い込んだ。
此処ではない世界を想像していた瑞貴が出会ったのは、赤マントを名乗る少女。
そして、二つの世界を繋ぎ混ぜ合わせる力の目覚めだった……。
【表紙・挿絵は「こころ」様に描いていただいております。ありがとうございます!】
最終死発電車
真霜ナオ
ホラー
バイト帰りの大学生・清瀬蒼真は、いつものように終電へと乗り込む。
直後、車体に大きな衝撃が走り、車内の様子は一変していた。
外に出ようとした乗客の一人は身体が溶け出し、おぞましい化け物まで現れる。
生き残るためには、先頭車両を目指すしかないと知る。
「第6回ホラー・ミステリー小説大賞」奨励賞をいただきました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる