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第二部
第六幕 都立第三高校 生徒指導室
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脆いようにみえる教室の壁。
基礎はコンクリートだろうが、廊下はモルタル。教室内となると石膏ボードを張っている程度な筈だ。そう香坂智美は辺りを見渡し考えた。
時間の経過は教室に入った時点で窓が全て黒一色に塗りつぶされ、視覚的には判断は困難だ。同時に壁に駆けられた時計は電池式だというのに停止し、真見塚孝のしていた腕時計も同様に止まった。
担任の言うとおり教室に入って扉を閉めた瞬間、まるでこの部屋が一つの塊になってしまったような感覚を受ける。その直後からミシミシと不快な建物の軋みは聞こえるのだが、ベニヤ板にしか過ぎない筈の教室の扉がびくともしなくなった。まるで檻のように外部の音も聞こえず、時間も分からない教室の中で智美は孝と一緒に閉じ込められたことに気がつかされる。
とはいえ、彼と一緒にいるのは得策ではないのは事実だ。
彼は「仕掛けてきた」と言ったから、下手をすると自分達が傍にいたら人質もしくは餌になりかねない。とはいえこの教室の状況は最悪だ。今の檻のような状況は、簡単に言えば奴等の餌を確保するための檻の中とも言える。何とかして出ないとどうにもならないが、廊下からは無理そうなのは明白だ。
ギシギシ、ミシミシと音を立て続ける室内で外に出られそうなのは窓ぐらいかだが、その望みも色合いを見ると溜め息が溢れる。
「智美?」
「試すだけなら、ただだね。」
呟くように言う智美は窓に向かって歩み寄ると、その鉄パイプ擬きの杖を鋭く振りかざした。孝の制止の声も気にせず鋭い突きを繰り出した智美は、予想通りの結果に舌打ちする。一点に集中して突きこんだ杖は、コンクリートブロック位は軽く突き崩せる。そんな打突を一番脆い筈の中心に受けたガラス窓は、鈍く音を響かせただけで割れるどころかヒビすらも入らない。智美の能力を知った孝が唖然としたように窓ガラスを見上げたかと思うと、止める隙もなく手加減のない足技の一撃をガラスの中心めがけて放つ。岩でも叩くような鈍い音と同時に弾き返されたガラス窓に、孝は改めて唖然とした顔を浮かべる。
真っ黒に染められたガラスを見据え、少女のような顔をした智美の口から忌々しげな舌打ちの音が響いた。
「…全く……。」
その言葉と同時に傷ひとつない闇を透かすようなガラスを、孝も驚きの目で見つめる。人間一人を悠に突き飛ばして見せたその突きと自分の足技で、強化ガラスでもない教室の窓が無傷である筈がない。しかし、目の前のガラス窓は悠然とした面持ちでその場に佇んでいる。
「何なんだ?」
孝がおもむろにしなやかな動作で普段は見せない全力での一蹴を弧線を描き窓ガラスに向けるのを智美は眺めた。綺麗な無駄のないしなやかさで、舞うようにすら見える弧線は自分が突いた場所とほぼ同じ場所を打つがそれも同じように弾かれる。やはり先程と同じく足の下に触れた感覚はガラスというより、何かゴムか何かで保護されたもののように感じた。兎も角力ずくでは、窓は割れないのだけは分かる。しかも、孝には背筋を襲う悪寒は次第に強まっていて、まるで遠くから恐ろしいものがにじりよって来ている気分になるのだ。
「全く…。」
智美の小さな呟きを聞きながら、孝は喧嘩の代償とはいえこんな状況はあり得ないと心の中で考える。そうは思うが状況は紛れもない無い現実で、たかが一階の校舎の外れの教室から外に出ることもできないままに、壁の鈍く軋む音だけを聞いているのだ。
「何なんだ…一体…。」
教室の中を見渡し呟く孝の問いに、智美も答えようがない。
智美にはこの不可思議な状況を生み出した原因は、恐らく壁一枚向こうに現れたモノのせいだとは理解している。だが、それを孝に説明する為の言葉がないのだ。
壁一枚、状況は最悪だった。
異界のようにみえるこの状況は、恐らく都市停電の時の異形のゲートとほぼ同じようだと考えられた。あの時事後に読み漁ったカルテに、暗闇に包まれ全ての機器が止まっていたと言った人間は多かった。幾つか事例もあるが多くの時計が停止していて、中には電池式の時計も含まれていたのだ。振動のためかとも考えられたが、恐らく異界が広がる瞬間に精密機器には異常が生じるのだろう。それに、あの時の半球体は中に入る事は出来ても、半球体が存在するうちは内部から外部には通過出来なかった。ここが既にあの内部と同じなら、そう簡単には外には出られない上に、グズグズしていると彼らの言う蜘蛛のような矮小な人外を頭に人間を餌にする化け物が溢れだしてくる可能性がある。しかも、夜の闇に紛れずに夕暮れに学校に姿を見せられるようなモノは矮小なモノとは考えにくい。
つまり、壁の向こうはズル賢い大妖と交戦中。
となれば廊下のモノは自分達の存在を知っていて、ここに閉じ込めた可能性がある。餌を確保して戦闘開始とは、忌々しいにも程があるではないか。同時に自分達は悌順にとっては大きな枷だ。表の職業の生徒なんて、人質にはもってこい過ぎて呆れて言葉にならない。
「…スマホも…駄目か…。」
当然のように暗く沈黙する画面に、孝が溜め息をつく。アンテナどころか電子機器の沈黙は、教室内のパソコンも同様だろう。担任教師の給料で購入されたのだろう、ノートパソコンも廃棄の可能性が高そうだ。
何か考えないとな。
そう頭の中で思考した瞬間、悌順にとっての枷は自分にとっても同様の枷だったことに気がつく。智美が都立第三高校に通ってきたのは普通であるということを知らない智美が、普通とはどう言うことなのかを学ぶためだった。同時に普通であることを、智美自身が体験するためでもあったのだ。そして、今目の前にいるのは、普通である生活の中で出来た智美の友人。何か脱出の方法を考えないとならないのに、躊躇いが微かにあるのは彼に自分が普通でないことを知られるのが嫌だからだ。
…その者にとっての普通である事全て…
礼慈の言った言葉の意味を微かに思い起こしながら、彼は静かに目を伏せて避けようのない今の状況を思った。
※※※
飲み込まれるように 白磁の肌は真っ黒に塗り替えられていった。通路を満たす熱気めいた湿度を含む妖気の風が、まるでその体を押すように彼女を後退り続けさせる。新品同様だった筈のスーツが、炭のような手足の変化に負けて煤けたように薄汚れていくのを二人は躊躇いに満ちた視線で追う。
落ち窪んだ眼窩に光る瞳だけが、爛々と燐のように揺れ今は戸惑いを浮かべている。
「あわせて、……くれる、やくそくだった。」
たたらを踏む彼女の体は蒸気をあげ続け、次第に萎れ枯れていくように見えた。その言葉を放つ彼女を首に開いた闇が嘲笑する。放たれる熱気を孕んだ妖気の風に、まるで木炭で全身を塗ったかのような彼女の肌がスーツの下でわなわなと震えを帯びるのを見つめた。
造形を残した形のいい唇からこぼれる甘い香りは既に腐臭としか思えない。白虎でもある信哉は眉を寄せて、彼女の瞳を見つめた。その瞳は既に今までの憎しみではなく深い困惑に揺れて、自分の姿と周囲を順に廻る。
「たける……に…あうはず……だった…、そして…はなし……を、して…。」
首から溢れ落ちる嘲笑は甲高く彼女の言葉に笑いを返した。
《そうさ、蒼子。その前に殺された。》
五代武。元朱雀だった青年の最後を知っている。その場に立ち尽くした二人は、その光景を忘れるはずもない。
《もうずっと前に…仲間が殺した。》
その言葉を遮る事は可能だったのかもしれない。だが、その困惑の瞳と彼女の姿を見て、二人はあの夜のことをまざまざと脳裏に描き出され、ただ息を呑む。変えようのない事実がそこには確かに存在して、事実は二人の心に痛いほどに心に刺さる。
全てを失うとされた筈の者に、何故か残された一人の人間。
その存在の余りの大きさが二人の行動を止めているのを知っているかのように、砕けた指先の先が更に広がる。
「どうして?……それが、……しんじつなの?……しっていたの?……どうして?」
≪―――どうして…?≫
不意に二人の心に警鐘を鳴らすような嘲笑の響きが、甲高い声に混じった。崩れた指先からあふれ出した妖気を孕む風が、一際激しい音を掻き鳴らし周囲にある全ての物を軋ませながら全てに鋭く爪痕を刻む。ビシンッと亀裂のはいる音を立てて、一瞬蒼子と呼ばれる女性の肩口のスーツの滑らかな布地が避けてハラリと散る。その肩口から玄武である悌順の目には、黒く淀んだ深遠の瞳が映った。
「……よせ…っ。」
殆ど同時に信哉の口から溢れ落ちた制止の声を聞きながら、そのものはこの中から更に高らかに笑う。まるで、この日が来るのを心待ちにしていたかのように、全てを傷つける為にその瞬間をずっと狙っていたかのように。それは体内の奥深くから、邪悪に心底楽しげに嘲笑を放っていた。
≪この世界に人間の憎悪と絶望ほど、私を楽しませてくれるものはないからさ。≫
言葉の意味を深く感じれば感じるほどに彼女の心の中で何かが崩れていくのが手に取るように分かった。支えにしていた何かを崩され、全てを奪われようとしているその姿は苦悩と絶望に満ちた瞳だけがその彼女だった面影を残している。
「私を…。」
けたたましくそれは甲高い声で笑い、肩口のヒビが更に大きく口を開く。
≪騙してはいない、嘘もいってはいない。教えなかっただけで。≫
その声は彼女の体内ではなくその肩口のひびから直にその場に響き渡り、けたたましくも甲高い嘲笑が重なる。そのひびはまるで卵の殻に入った亀裂のようにその体を走り滑らかなスーツの布地が細かい歯切れとなって飛び散った。不意に亀裂の中から盛り上がった黒い塊が彼女と全く同じ顔をその肩口にもう一つ形にして奇妙な造形を生み出す。まるで肩に同じ顔を2つ乗せたかのような奇妙な造形は片方が黒く染まっていなかったとしたら奇形の双生児とでも思えたかもしれない。だがそれは明らかに異質な存在だった。
「っ…貴様は…?」
その言葉に其のものは首をゆるりとめぐらせて白銀の光を放つ姿を眺め、次に黒曜の光を持つもう一人の青年の姿も見回して、微かに美しいその口元を歪めた。そしてその新しく自分の肩に生えた自分の顔の存在を恐怖の瞳で見る寄生するものを見つめる。
≪そんなに怯えるな、まだお前には役に立ってもらわなければならないのだよ、蒼子。≫
顔に向けて掲げ様とした自分の手の先が殆ど崩れ落ちていた事に気がついて、彼女は鋭い悲鳴を上げた。
「い…いや…っわたしはっ!」
痛ましいほどの恐怖と困惑の姿に、思わず唇を噛んだ信哉の姿にその邪悪なるもう一つの頭は邪悪な気を撒き散らす微笑を投げる。堪えきれずに動こうとした悌順の姿を、視線で制した彼の姿に満足げに其のものは嘲笑した。恐怖に打ちのめされた意識は途切れがちの声を絞り出す。
「……?…た…たす、け……。」
彼女の声を遮る人外の声音の横で一つの蒼子の首の形を模したものは、興味深げに信哉の表情を眺めた。
≪聡いな?西の者…。≫
そのものが何を考えているかは手に取るように分かる。それを阻止するためには方法はあまり残されてはいないのに、どうしても躊躇いが動きを鈍らせていた。それに、隣の悌順に確認しなくともここで交戦する状況だったと言うことは、すぐ真横の教室には少なくとも真見塚孝がいることも理解していた。
音もなく手だけを包みこんでいた光がそれぞれの全身を包み、それは一瞬にして異装に変容する。
問いかけるでもなく確認するまでもないという視線を浮かべる白虎に、問いかけるまでもない事は玄武自身にもよく分かった。そして、不意にその腕を掴んだ白虎の気を受けて微かに上がった感知の能力が、目の前にいる女性だったのもの足元からまるで樹木の根のように張り巡らされ床にも壁にも絡みつく妖気の根のような存在を見つめた。
驚くほどの細微で、まるで菌糸にすら想えるほどの細かい妖気が縦横無尽に張り巡らされ、それは一寸の隙もないほどに彼女が立ち尽くしている通路を埋め尽くす。微かな舌打ちと同時に低い囁きがその口から零れた。
「…白虎、二人はどうだ?」
「気がついただろう。これだけの状況だ。」
微かな返答を耳に周囲を眺め、微かに呆れると同時に感嘆の吐息にも似た溜息をもらしながら玄武の光はその菌糸の先に触れる。ジリッと音を立てて触れた先が急激に足を伸ばす様に菌糸を成長させるのを見やりながら、二人は目の前のものをもう一度見つめた。その存在の本質は明確に分かっているのに手が出せない状況がただ歯がゆさを増す。それを知って其のものは再び声を上げた。
≪さて、ただこうしているのも馬鹿馬鹿しいな。≫
その瞬間不意にその場の空気がざわめき色を変えて、密度を変えはじめていた。嘲笑うかのように二人の体をまるで球体のように空気の層が周囲を取り囲み、その内部の密度を変えていくのをなす術も無く見守る。やがて球体の中の変化はその全身を包む光だけでは防ぎきれない変化を迎え始めていた。
基礎はコンクリートだろうが、廊下はモルタル。教室内となると石膏ボードを張っている程度な筈だ。そう香坂智美は辺りを見渡し考えた。
時間の経過は教室に入った時点で窓が全て黒一色に塗りつぶされ、視覚的には判断は困難だ。同時に壁に駆けられた時計は電池式だというのに停止し、真見塚孝のしていた腕時計も同様に止まった。
担任の言うとおり教室に入って扉を閉めた瞬間、まるでこの部屋が一つの塊になってしまったような感覚を受ける。その直後からミシミシと不快な建物の軋みは聞こえるのだが、ベニヤ板にしか過ぎない筈の教室の扉がびくともしなくなった。まるで檻のように外部の音も聞こえず、時間も分からない教室の中で智美は孝と一緒に閉じ込められたことに気がつかされる。
とはいえ、彼と一緒にいるのは得策ではないのは事実だ。
彼は「仕掛けてきた」と言ったから、下手をすると自分達が傍にいたら人質もしくは餌になりかねない。とはいえこの教室の状況は最悪だ。今の檻のような状況は、簡単に言えば奴等の餌を確保するための檻の中とも言える。何とかして出ないとどうにもならないが、廊下からは無理そうなのは明白だ。
ギシギシ、ミシミシと音を立て続ける室内で外に出られそうなのは窓ぐらいかだが、その望みも色合いを見ると溜め息が溢れる。
「智美?」
「試すだけなら、ただだね。」
呟くように言う智美は窓に向かって歩み寄ると、その鉄パイプ擬きの杖を鋭く振りかざした。孝の制止の声も気にせず鋭い突きを繰り出した智美は、予想通りの結果に舌打ちする。一点に集中して突きこんだ杖は、コンクリートブロック位は軽く突き崩せる。そんな打突を一番脆い筈の中心に受けたガラス窓は、鈍く音を響かせただけで割れるどころかヒビすらも入らない。智美の能力を知った孝が唖然としたように窓ガラスを見上げたかと思うと、止める隙もなく手加減のない足技の一撃をガラスの中心めがけて放つ。岩でも叩くような鈍い音と同時に弾き返されたガラス窓に、孝は改めて唖然とした顔を浮かべる。
真っ黒に染められたガラスを見据え、少女のような顔をした智美の口から忌々しげな舌打ちの音が響いた。
「…全く……。」
その言葉と同時に傷ひとつない闇を透かすようなガラスを、孝も驚きの目で見つめる。人間一人を悠に突き飛ばして見せたその突きと自分の足技で、強化ガラスでもない教室の窓が無傷である筈がない。しかし、目の前のガラス窓は悠然とした面持ちでその場に佇んでいる。
「何なんだ?」
孝がおもむろにしなやかな動作で普段は見せない全力での一蹴を弧線を描き窓ガラスに向けるのを智美は眺めた。綺麗な無駄のないしなやかさで、舞うようにすら見える弧線は自分が突いた場所とほぼ同じ場所を打つがそれも同じように弾かれる。やはり先程と同じく足の下に触れた感覚はガラスというより、何かゴムか何かで保護されたもののように感じた。兎も角力ずくでは、窓は割れないのだけは分かる。しかも、孝には背筋を襲う悪寒は次第に強まっていて、まるで遠くから恐ろしいものがにじりよって来ている気分になるのだ。
「全く…。」
智美の小さな呟きを聞きながら、孝は喧嘩の代償とはいえこんな状況はあり得ないと心の中で考える。そうは思うが状況は紛れもない無い現実で、たかが一階の校舎の外れの教室から外に出ることもできないままに、壁の鈍く軋む音だけを聞いているのだ。
「何なんだ…一体…。」
教室の中を見渡し呟く孝の問いに、智美も答えようがない。
智美にはこの不可思議な状況を生み出した原因は、恐らく壁一枚向こうに現れたモノのせいだとは理解している。だが、それを孝に説明する為の言葉がないのだ。
壁一枚、状況は最悪だった。
異界のようにみえるこの状況は、恐らく都市停電の時の異形のゲートとほぼ同じようだと考えられた。あの時事後に読み漁ったカルテに、暗闇に包まれ全ての機器が止まっていたと言った人間は多かった。幾つか事例もあるが多くの時計が停止していて、中には電池式の時計も含まれていたのだ。振動のためかとも考えられたが、恐らく異界が広がる瞬間に精密機器には異常が生じるのだろう。それに、あの時の半球体は中に入る事は出来ても、半球体が存在するうちは内部から外部には通過出来なかった。ここが既にあの内部と同じなら、そう簡単には外には出られない上に、グズグズしていると彼らの言う蜘蛛のような矮小な人外を頭に人間を餌にする化け物が溢れだしてくる可能性がある。しかも、夜の闇に紛れずに夕暮れに学校に姿を見せられるようなモノは矮小なモノとは考えにくい。
つまり、壁の向こうはズル賢い大妖と交戦中。
となれば廊下のモノは自分達の存在を知っていて、ここに閉じ込めた可能性がある。餌を確保して戦闘開始とは、忌々しいにも程があるではないか。同時に自分達は悌順にとっては大きな枷だ。表の職業の生徒なんて、人質にはもってこい過ぎて呆れて言葉にならない。
「…スマホも…駄目か…。」
当然のように暗く沈黙する画面に、孝が溜め息をつく。アンテナどころか電子機器の沈黙は、教室内のパソコンも同様だろう。担任教師の給料で購入されたのだろう、ノートパソコンも廃棄の可能性が高そうだ。
何か考えないとな。
そう頭の中で思考した瞬間、悌順にとっての枷は自分にとっても同様の枷だったことに気がつく。智美が都立第三高校に通ってきたのは普通であるということを知らない智美が、普通とはどう言うことなのかを学ぶためだった。同時に普通であることを、智美自身が体験するためでもあったのだ。そして、今目の前にいるのは、普通である生活の中で出来た智美の友人。何か脱出の方法を考えないとならないのに、躊躇いが微かにあるのは彼に自分が普通でないことを知られるのが嫌だからだ。
…その者にとっての普通である事全て…
礼慈の言った言葉の意味を微かに思い起こしながら、彼は静かに目を伏せて避けようのない今の状況を思った。
※※※
飲み込まれるように 白磁の肌は真っ黒に塗り替えられていった。通路を満たす熱気めいた湿度を含む妖気の風が、まるでその体を押すように彼女を後退り続けさせる。新品同様だった筈のスーツが、炭のような手足の変化に負けて煤けたように薄汚れていくのを二人は躊躇いに満ちた視線で追う。
落ち窪んだ眼窩に光る瞳だけが、爛々と燐のように揺れ今は戸惑いを浮かべている。
「あわせて、……くれる、やくそくだった。」
たたらを踏む彼女の体は蒸気をあげ続け、次第に萎れ枯れていくように見えた。その言葉を放つ彼女を首に開いた闇が嘲笑する。放たれる熱気を孕んだ妖気の風に、まるで木炭で全身を塗ったかのような彼女の肌がスーツの下でわなわなと震えを帯びるのを見つめた。
造形を残した形のいい唇からこぼれる甘い香りは既に腐臭としか思えない。白虎でもある信哉は眉を寄せて、彼女の瞳を見つめた。その瞳は既に今までの憎しみではなく深い困惑に揺れて、自分の姿と周囲を順に廻る。
「たける……に…あうはず……だった…、そして…はなし……を、して…。」
首から溢れ落ちる嘲笑は甲高く彼女の言葉に笑いを返した。
《そうさ、蒼子。その前に殺された。》
五代武。元朱雀だった青年の最後を知っている。その場に立ち尽くした二人は、その光景を忘れるはずもない。
《もうずっと前に…仲間が殺した。》
その言葉を遮る事は可能だったのかもしれない。だが、その困惑の瞳と彼女の姿を見て、二人はあの夜のことをまざまざと脳裏に描き出され、ただ息を呑む。変えようのない事実がそこには確かに存在して、事実は二人の心に痛いほどに心に刺さる。
全てを失うとされた筈の者に、何故か残された一人の人間。
その存在の余りの大きさが二人の行動を止めているのを知っているかのように、砕けた指先の先が更に広がる。
「どうして?……それが、……しんじつなの?……しっていたの?……どうして?」
≪―――どうして…?≫
不意に二人の心に警鐘を鳴らすような嘲笑の響きが、甲高い声に混じった。崩れた指先からあふれ出した妖気を孕む風が、一際激しい音を掻き鳴らし周囲にある全ての物を軋ませながら全てに鋭く爪痕を刻む。ビシンッと亀裂のはいる音を立てて、一瞬蒼子と呼ばれる女性の肩口のスーツの滑らかな布地が避けてハラリと散る。その肩口から玄武である悌順の目には、黒く淀んだ深遠の瞳が映った。
「……よせ…っ。」
殆ど同時に信哉の口から溢れ落ちた制止の声を聞きながら、そのものはこの中から更に高らかに笑う。まるで、この日が来るのを心待ちにしていたかのように、全てを傷つける為にその瞬間をずっと狙っていたかのように。それは体内の奥深くから、邪悪に心底楽しげに嘲笑を放っていた。
≪この世界に人間の憎悪と絶望ほど、私を楽しませてくれるものはないからさ。≫
言葉の意味を深く感じれば感じるほどに彼女の心の中で何かが崩れていくのが手に取るように分かった。支えにしていた何かを崩され、全てを奪われようとしているその姿は苦悩と絶望に満ちた瞳だけがその彼女だった面影を残している。
「私を…。」
けたたましくそれは甲高い声で笑い、肩口のヒビが更に大きく口を開く。
≪騙してはいない、嘘もいってはいない。教えなかっただけで。≫
その声は彼女の体内ではなくその肩口のひびから直にその場に響き渡り、けたたましくも甲高い嘲笑が重なる。そのひびはまるで卵の殻に入った亀裂のようにその体を走り滑らかなスーツの布地が細かい歯切れとなって飛び散った。不意に亀裂の中から盛り上がった黒い塊が彼女と全く同じ顔をその肩口にもう一つ形にして奇妙な造形を生み出す。まるで肩に同じ顔を2つ乗せたかのような奇妙な造形は片方が黒く染まっていなかったとしたら奇形の双生児とでも思えたかもしれない。だがそれは明らかに異質な存在だった。
「っ…貴様は…?」
その言葉に其のものは首をゆるりとめぐらせて白銀の光を放つ姿を眺め、次に黒曜の光を持つもう一人の青年の姿も見回して、微かに美しいその口元を歪めた。そしてその新しく自分の肩に生えた自分の顔の存在を恐怖の瞳で見る寄生するものを見つめる。
≪そんなに怯えるな、まだお前には役に立ってもらわなければならないのだよ、蒼子。≫
顔に向けて掲げ様とした自分の手の先が殆ど崩れ落ちていた事に気がついて、彼女は鋭い悲鳴を上げた。
「い…いや…っわたしはっ!」
痛ましいほどの恐怖と困惑の姿に、思わず唇を噛んだ信哉の姿にその邪悪なるもう一つの頭は邪悪な気を撒き散らす微笑を投げる。堪えきれずに動こうとした悌順の姿を、視線で制した彼の姿に満足げに其のものは嘲笑した。恐怖に打ちのめされた意識は途切れがちの声を絞り出す。
「……?…た…たす、け……。」
彼女の声を遮る人外の声音の横で一つの蒼子の首の形を模したものは、興味深げに信哉の表情を眺めた。
≪聡いな?西の者…。≫
そのものが何を考えているかは手に取るように分かる。それを阻止するためには方法はあまり残されてはいないのに、どうしても躊躇いが動きを鈍らせていた。それに、隣の悌順に確認しなくともここで交戦する状況だったと言うことは、すぐ真横の教室には少なくとも真見塚孝がいることも理解していた。
音もなく手だけを包みこんでいた光がそれぞれの全身を包み、それは一瞬にして異装に変容する。
問いかけるでもなく確認するまでもないという視線を浮かべる白虎に、問いかけるまでもない事は玄武自身にもよく分かった。そして、不意にその腕を掴んだ白虎の気を受けて微かに上がった感知の能力が、目の前にいる女性だったのもの足元からまるで樹木の根のように張り巡らされ床にも壁にも絡みつく妖気の根のような存在を見つめた。
驚くほどの細微で、まるで菌糸にすら想えるほどの細かい妖気が縦横無尽に張り巡らされ、それは一寸の隙もないほどに彼女が立ち尽くしている通路を埋め尽くす。微かな舌打ちと同時に低い囁きがその口から零れた。
「…白虎、二人はどうだ?」
「気がついただろう。これだけの状況だ。」
微かな返答を耳に周囲を眺め、微かに呆れると同時に感嘆の吐息にも似た溜息をもらしながら玄武の光はその菌糸の先に触れる。ジリッと音を立てて触れた先が急激に足を伸ばす様に菌糸を成長させるのを見やりながら、二人は目の前のものをもう一度見つめた。その存在の本質は明確に分かっているのに手が出せない状況がただ歯がゆさを増す。それを知って其のものは再び声を上げた。
≪さて、ただこうしているのも馬鹿馬鹿しいな。≫
その瞬間不意にその場の空気がざわめき色を変えて、密度を変えはじめていた。嘲笑うかのように二人の体をまるで球体のように空気の層が周囲を取り囲み、その内部の密度を変えていくのをなす術も無く見守る。やがて球体の中の変化はその全身を包む光だけでは防ぎきれない変化を迎え始めていた。
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