GATEKEEPERS  四神奇譚

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第二部

第三幕 鳥飼邸

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疲労した兄の表情に自分がお茶を入れる事にして、孝はキッチンに立った。普段ならそれでもいいよと笑ってお茶をいれる兄なのだが、今は目を伏せてソファーに深く腰かけている。孝はカウンター越しに、普段とは違う異母兄の姿を眺めた。こんなに酷く疲労している信哉の姿は、孝はあまり見たことがない。しかも、先程の女性の出現に、触れられたくない部分に触れられて苦悩する様な青ざめた表情。今もまだ言葉もなく眼を伏せて物思いに沈んでいる。

そう言えば…僕は兄さんの母親については殆ど知らない。

鳥飼澪という女性は、合気道の書籍などで僅かに目にすることが出来る。女性として最年少で段位を取得した彼女は、十八歳迄に段位を次々とあげた。しかも、女性でありながら古武術の組討術だけだなく、棒術、槍術、柔術、弓術、抜刀術、そして薙刀術までの免許皆伝を持つとされる鳥飼流の最後の継承者だ。兄には直接聞いたことがないが鳥飼信哉はその全てを身に付けているだろうと、父の真見塚成孝は考えている様子だ。
ちなみに真見塚家に伝わる古武術は組討術と棒術とそこから派生した杖術、忍び術など。宮内家には組討術と槍術、短刀術と十手術なとが伝わっているらしい。
鳥飼澪が亡くなったのは、今から十一年前。孝がまだ六歳位の事で、自分と彼の父でもある男がそれを知ったのは葬式も全てが終わった後だった。それは彼女の願いだったというが、写真でしか見た事のないその女性は何の感情もなく目にしただけでも、聡明で美しい容姿と印象的な黒目がちの瞳をしている。知る人は信哉の目元が父に似ているとよく言うが、本当は母親の顔立ちによく似ていると孝は思う。

現実的に確かに自分の母も綺麗な人だとは思うが、出会った彼の母である女性と父がどうして結ばれなかったのか不思議だと思った。父が一度だけ話してくれたが、あまりにも純粋過ぎて真っ直ぐな人だったというその女性は父の方にも愛情めいた思いがあったのを感じさせる。それでも、自分の方がフラれたんだと、父は母の前で笑いながら言うのだ。だが、答えは何だったのかと、孝は時々考えることがある。
愛し合っていた筈なのに何か理由かあって、二人は結婚しなかったんだろうというのが今の結論。そして、兄が産まれたのをしらずに父は母との生活を選んだのだと。
コポコポとお湯を注ぎながら目を閉じて、黙りこんだままの兄の姿を眺める。父も母も最初から信哉の事を息子として認めていて、信哉も孝が兄と言っても拒否する風でもなく接してくれた。だが、彼の身の回りに関しては誰も聞こうとしていない。もしかしたら自分だけが知らないだけで、父も母も知っているだけなのかもしれないが。
先程の見知らぬ女性が口にした言葉を思い浮かべ、その言葉に見せた信哉の反応が酷く心にひっかっかった。自分を紹介するか母親の話をと言われた時に信哉が見せた、冷淡で何者も寄せ付けないような凍り付いた微笑と気配。一瞬見たこともないその姿は、孝の背筋を凍らせるような思いがしたのだ。

兄さんらしくない…でも、そうさせるものがあるってことなのか、きっと。

竜胆とか名乗った女性に対する信哉の反応は、普段から冷静ではあるが穏やかな信哉からは想像もつかないものだ。一度だけ相手をして貰った道場での手合わせの時ですら、あんなに凍りつき刃物で切りつける様な気配を放った事もない。
湯気の向こうで長い睫毛をゆっくりとまたたかせ少し長い前髪をかき上げながら溜息交じりに頬杖をついたその姿に気がつきながら、孝はゆっくりと再び湯をフィルターに注ぎながら目を細めた。彼の知らなかった信哉の姿、それは何だか今までより彼を遠ざけてしまった様な気がして少し寂しい。
カチャリと音を立ててテーブルに芳しい香りの立つティーカップを置いた瞬間、孝は思わぬ状況に身を固くした。そこまで疲労しているとは思わなかったが、何時の間にか閉じた目が眠りに落ちている信哉の姿を思わずまじまじと覗き込む。
蒼ざめた硬い表情は微かに緩みはしたものの、いくら目を奪われる様な美形が無防備に寝ているとはいえそのまま眺めているわけにもいかない事に気がついた。流石に孝一人では幾ら信哉が細身とはいえ、長身の体格のいい彼を抱えて移動する事も出来ないと考えた瞬間。ふと不本意ながらその家の同居人を思い浮かべた自分に気がつく。ここ数回訪れたかの同居人の部屋の扉をノックしながら、かなり不本意というあからさまな感情を滲ませて孝はその扉を開いた。

「おい、仁。嫌だけどちょっと……。」

言葉を繋ごうとした彼はそのままその空間に凍りつき目を見開くと、その言葉は先を続ける事もなく完全に凍りついていた。



※※※



不意にその時、クッションに顔を埋めて転寝していたと思っていた忠志が弾かれた様に身を起こした。それを正面に座っていた悌順は、新聞越しに驚いたように見つめる。寝ぼけているのか?と呟く悌順の視線の向こうで、忠志の視線は半分意識の外にあるかのように空間を通り抜け見つめているように身じろぎもしない。そしてその虹彩は陽射しの中で明確に紅玉の光りに渦を巻く様に変色していくのが、同じ能力を持つ彼らにまざまざと見える。

「また…?忠志…。」

その姿を見つめ呻くように呟いた義人の蒼ざめた表情を見やりながら、悌順は眉をひそめ目の前の様子をジッと見つめる。やがて示すモノに思い至ったかのように悌順は、耳を澄ましたように眉を潜めた。唐突に忠志の姿から視線を動かすと、悌順は音を立てて立ちあがった。その動作の音で目を覚ましたのか、気がついた忠志が我に帰る。それに気がつきながらも、既に悌順は大股で室内を横切り始めている。

「ヤス?」

彼はその言葉に視線を向ける事もなく硬い表情のまま呟くように言い放つ。

「向こうに…何かあったかもしれない。見てくる。」

悌順の硬い表情に戸惑う様な義人と我に返って呆然としている忠志の視線が意味も分からないままに見合せられる。そして二人も思わず同じように立ち上がっていた。



※※※



僅かな微睡みの中何かを感じた気がして、不意に眠りが遠のき信哉は一瞬自分が転寝していた事に気がついた。かなり疲労が蓄積していたのは事実だが、自分自身転た寝してしまう程だと気が付いていなかった。それに苦笑しながら視線を伏せたその先に置かれた物にふと視線が止まる。
まだ芳しい香りを微かに漂わせるティーカップが二つ残されたテーブルに、そこに居るべき姿が無い事に気がついて彼は訝しげに室内に視線を向けた。室内は今はシンと静まり返って物音一つなく、差し込む陽射しも僅かに緩み始めているかのようだ。

「孝?」

思わず音と臭いに感覚を向けてしまう。自分の無意識に自己嫌悪しながら、微かに感じとる気配に彼は音もないしなやかな動作で立ち上がる。微かに強張る様な体を、猫のように伸ばしながらリビングを横切る。その手がリビングの扉を引いた瞬間、彼は凍り付いた様にその場に立ちすくんだ。
開いた扉の向こうには、立ちすくんだまま身じろぎもしない異母弟の姿があった。
その目は何かを見つめたまま、凍りつき瞬きすらしない。そして扉の先は彼が身元を引き受けた青年が今眠っている筈の部屋である事も変えようのない事実だった。

「孝?!」

自分の言葉がまるでその口火を切ったかのように、ゆらりと後ろに向かって揺らいだ異母弟の姿に信哉は駆け寄る。昨夜から何度目の同じ感覚を抱かせれば気が済むのかと一瞬苦悩が心を過ぎるのを感じながら、孝の体を抱きとめた信哉は思わず室内に視線を投げた。そこには何かが満ちていた気配だけが漂っているが、その気配が何だったのかを見定めるには時間が足りない。まるで結晶が砕けるように室内に満ちていた気配はパリパリと砕けちって、淡い雪のように溶け去っていく。そして、そこにはまるで何もなかったかのように彼自身もよく知る室内が広がっているだけだ。

「に…兄さん?」

腕の中で当惑したその声にホッと息をついて信哉が視線を向けると、慌てた様に孝はその身を腕の中で起こした。彼の意識がはっきりしているのを確認しながら信哉は、言葉を選ぶようにしながら孝の顔をその真っ直ぐで気遣う様な視線で見つめる。

「何があった?孝。」

不安すら滲ませる様な信哉の視線に戸惑いを隠せずに、だが正直なところ孝は心配されている事自体に遥に喜んでしまっている。自覚すらも感じながら孝は、何が起きたのかという問いに思わず首をひねった。

「…わ・分からない、何も覚えてないです。」
「覚えてない?」

手を借りて立ち上がりながら蒼ざめた信哉の顔を見上げながら、自分でも当惑した表情で首を傾げる。何か見たような気がするのに、それがなんだったか何一つ浮かんでこない。その姿を信哉は困惑した表情で見つめる。その言葉が事実である事は声音で理解できたが、それ以上にそれだけではなく何かが起きた様な気がしてならなかった。その考えが信哉の蒼ざめた表情から更に血の気を引かせて、その表情は蒼白にすら見える。

「今は?平気か?」
「だ・大丈夫です、何ともないし…。」

自分よりも信哉の方が倒れそうだと口にしそうになった瞬間、おもむろに玄関の扉が開く音がして視線の先に表情を硬くした青年の姿が覗いた。

「…ヤス。」

一瞬問いかけようとした言葉を呑みこんだ様な奇妙な一拍を置いて、悌順は二人の姿に息をつくと徐に慎重に言葉を選ぶ。

「……大丈夫か?」

その言葉に含まれた色々な意味を推察したかのように信哉が微妙に当惑の表情を浮かべる。予想だにしない不意の来訪に唖然としてる孝の姿に悌順は溜め息交じりに頭をかく。追いついた後忠志と義人の姿に、更に困惑した表情を浮かべる孝の気持ちは分かる気がした。
誰も呼んだ訳でもないのに何かが起きたのではないかと思って現れる等という偶然は普通はあり得ない。だが、暫く考え込んだ孝は自分が意識の無い間に何か行動があったのかもしれないと無理矢理結論付けたかのように見えた。その様子を触れた手からも感じながら信哉は、未だぬぐい切れない不安の中で彼の姿を見下ろす。そうして、重い気持ちを溜め息で散らすかのように玄関先の者達にも室内に入るように促した。義人が孝が卒倒したと聞いて率先して、先に孝をリビングに連れていくのを横に信哉と悌順と忠志は戸口から中を眺める。

「…何があった?」

室内に消える義人と孝の後姿を眺めながら悌順の囁く問いに、信哉は不安げに揺れる青ざめた表情で彼らしからぬ当惑した瞳で首を振った。その様子に悌順は眉をよせその表情を眺める。室内の仁は布団に丸まって眠っているようにしか見えない。

「わからん…仁の方を見て立ち尽くしてた。俺が覗き込んだ時には何もなかった。」

ふうと溜め息混じりに目元を手で覆った信哉の姿に、忠志も心配げに眺める。

「…大丈夫……じゃなさそうだな。」
「……そうだな…昨日から…少し……倒れこまれてばかりだからな………少々疲れる…。」

そういわれて始めて彼ばかりが昨日から仲間や弟等、倒れ込む姿ばかりみるはめになっていたことに気がつく。疲れた微笑みにはるか過去に彼が感じ苦悩した時がうっすらと浮かび、悌順は目を細めた。苦悩は今もまだ彼の中で深い傷になって彼を駆り立てる、そう分かっているからこそ彼は何時も先陣を切るしかないのだ。誰も傷つけないという彼自身の信念のために、だが、ある意味でそれは彼を追い詰める信念でもある。
溜め息交じりにその表情を眺めた悌順に肩をトンと小突かれて彼は再び笑みを浮かべながら、気を取り直した様にリビングへと踵を返していた。
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