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第二部
第三幕 鳥飼邸
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夢も見ない深い眠りから目を覚ましたその青年は、眩しい朝日に目を細める。そうしながら、ふと家の中に誰の気配もないことに気がつき首を傾げていた。折しも土曜日の朝で学校は休みだから、遅く起きても別段問題ない。それでも、家の中の気配のなさは今始まったものではないようだ。ひんやりとしたフローリングの床を歩きながら、澤江仁は空気を見るように視線を動かす。
記憶喪失の自分を何も言わず、家主の青年は預かって学校にまで通わせてくれている。それが普通てはないことはよくわかっているが、家主の青年は疑問には感じていない風でもあった。
窓辺から朝日に輝く街並みを眺め、仁は目を細める。一ヶ月前に夜の闇の中で見た暗い球体の記憶は鮮明なのに、それ以降の記憶が掻き消していた。仁の記憶はそんなことの繰り返しだ。
自分でもおかしいのは分かる。
断片的な記憶はあるが、その中には自分の身の上を把握するようなものが何一つない。そして今こうして日射しの中で彼が見ている街並みにも、高い建物にも何一つ記憶に触る感覚がないのは何故だろう。ここ近隣に住んでいた分け出はなくても、何かしら自分の心に触れるものがあってもいいのにと思う。学校の同級生の香坂智美と宮井麻希子は、自分が記憶喪失のせいで自分の限界が認識できてないと言う。だが本当にそんなことはあり得るのだろうかと仁は思うのだ。いくら記憶がなくても、無意識な部分は普通は分かる筈だ。そう考えると答えは世にも奇妙な事に結び付いていく。
自分は記憶喪失なのではなく、元々そんな記憶も経験もないのではないだろうか。
そんなことはあり得ないと否定しても、断片的な記憶の片鱗を考えていくとそれが本当のような気がする。仁の中にある記憶は酷く遠く霞んだもので、深い森の濃い緑と田畑、幾つもの住居の並ぶ場所、陰影になった雪を被る山、波に揺れる船の明かり、そんなものだらけなのだ。人を感じる記憶なんて何一つ思い出せない。ここに来てから触れあった人間との記憶しかないも同然だ。
彼ら四人は特別なのは分かる。
自分が傍にいる四人が他の人間と違うのは、仁の目には明らかだった。普通の人間みたいに色々な要素が感じない、何処か単一の純粋さの塊みたいな彼ら。彼らの傍にいると安心するのは、そのせいなのかもしれない。
最初はそれ以外の色々な要素を持つ人間が、うまく理解できなくて怖かった。最初に出会った真見塚孝なんて隣に座っている信哉に似たものもあるのに、嫌悪やら嫉妬やら訳のわからない感情剥き出して思わず喧嘩を売る始末だった。そこから色々な人間に出会うようになって、宮井麻希子や須藤香苗。香坂智美、若瀬透、クラスメイトや教師、街の中を歩く沢山の人間を見るうち、特別なのは四人の方なのだと気がついた。普通の人間の中にも少し他の人間と違う感覚を持った人間がいるのも分かって来ている。
香坂智美とか宮井麻希子はちょっと普通とは違う。完全に違う訳じゃないけど、少し違うから信哉は何かあったらその二人に相談するんだと言ったんだと仁は考えている。
窓の外に見える景色の見方を変えると、沢山の色と気配が空気に光っていた。輝く帯のように立ち上ぼり絡み合い、様々な光を放つこの世界の姿。
これが他の誰にも見えないのも分かってる……
時折黒く濁ったものも混じるこの光景を、仁は話す術を持たない。何時からこれが見えるのか、これが何を見ているのかが彼にも分からないからだ。何しろ外に出てこの帯が何から立ち上るのか確かめようとすると、視界が白くなり記憶が飛んでしまう。何度か試してみたが気がつくとここにいて、信哉に聞いても普段とかわりなくしていたと言われる。考えても答えはわからないし、分かったら分かったで対応に困るかもしれない。光景を見飽きたように仁は首を降ると、部屋から滑り出しシンと静かな家の中を見回した。
信哉が夜に出ていくことは、そう珍しくはない。でも、朝までいないことは始めてだった。そう言うこともあるとは最初から言われていたし、困ったら隣のマンションの義人達に電話をするか隣に行くように教えられてもいる。ふと視線を壁越しに隣の棟のマンションを眺めるように虚空を眺め呟く。
「……皆、ヤスんちなのかな?」
呟くように言葉がこぼれ、その瞳がふっと滑るように虚空を動く。それは無意識の動作のようにも見えるが、確かに意思を持って何かを見定めようとする動きだった。しかし、その瞳が不意に宙に張り付くように止まったかと思うと、その瞳はまるでわからない何かを見ているかという様に微かに眉が潜められる。そうしてその瞳は、もっとそれを良く見定めようと目を凝らすように虚空を見ていた。
その時玄関を開いて人の気配が室内に入ってきたことにも反応せず、仁の瞳は虚空を見つめる。その姿は知っている人間が見たら、黒曜石の輝きを持つ瞳の青年とよく似通っていた。
「仁?……起きてたのか?」
リビングのドアの開く音も、仁は気がつかなかった。家主である青年が微かに疲労の滲む表情でリビングに足を踏み入れ、そこに立ち尽くす仁を見つめた時も全く反応すらできないでいた。ただ仁は目に見える不可解なものに目を凝らし、それを見定めようとしていただけだ。そのやがて表情は困惑に染まり、瞳は虚空を彷徨ったまま帰宅したばかりの青年を通り抜ける。
何なんだ?黒い…靄?
そう感じた瞬間、それは仁の存在に気がついた。自分が見られていると気がついて、それは唐突に矢のように仁に向かって何かを放つ。
「仁…?」
戸惑う信哉の声。それから目を離そうとしたが、それは一瞬遅く鋭い痛みが目から全身を貫いた。
「うあああああぁっ!!!」
不意に目を両手で押さえ絶叫した仁の姿に信哉は驚愕しながら駆け寄り、昨夜の再現のように、そして信哉が過去に見た様々な場面の再現のように自分の腕の中に倒れこむその体を抱きとめていた。
※※※
そんなことが起きたというのに、病院に着く前にその青年は一見すると何時もと同じ状態に戻っていた。
痛みもなく視力にも問題がない。
そして、何より本人が何があったかを全く覚えていない。
そういう訳で結局信哉と悌順は顔を見合わせて、暫し考えた後病院の駐車場まででUターンすることにした。昨夜から一睡もせずに動き回っているのが分かり後部座席で疲労に滲む幼馴染の顔を、バックミラー越しに悌順の瞳が覗き込む。
「少し寝てもいいぞ?信哉。」
「ん?あぁ、大丈夫だ。悪かったな?ヤス。」
緊急事態じゃしかたねぇしなと苦笑する鏡越しの幼馴染の視線を感じつつ、信哉は自分の肩にもたれて寝入っている仁を溜め息交じりに眺めた。
悲鳴を上げてそのまま卒倒した仁を独りで病院まで運ぶにはどうしても無理があったので悌順に連絡を取ったのだが、あの時の状況を思うと微かに背筋が寒くなる気がする。余りにも多くの事が一度に起こり過ぎて、どれが関係ない事なのかどれも関係しているのかが分からなくなりそうだ。そんな風に思う信哉に気がついたように、悌順が再び口を開く。
「……あんまり、独りで背負うなよ?お前本当はそんなに万能って訳じゃないんだぞ?」
信哉の表情を見て何を感じたのか、運転席の幼馴染が放った気遣う言葉。一瞬それに苦い笑みを浮かべながら、信哉は分かってると了承の言葉を口にした。長い付き合いだからこそ顔色一つで伝わってしまう事もあるのだ。そして、ふと思い出したように口を開く。
「義人の様子はどうだ?」
「いい方だとは言い難いけどな、今は忠志が残ってるから大丈夫だろう。」
身じろぎした青年を伺いながら溜め息混じりに信哉は目を細め、ミラー越しのその顔をまじまじと見やる。その視線に気がついたように悌順も微かに視線を投げ返した。その視線の中には拭いきれない不安がお互いに滲んでいる気がする。
「想さんの件と昨日の事は繋がってそうか?」
「多分な…。義人しか相手を見てないとこが、痛いな。」
低く呟くような声に悌順は帰宅してから話を聞こうとしても、全く口を開く様子のなかった義人の姿を思い浮かべる。そんな義人は以前にも一度見たことがあって、溜め息が溢れ落ちた。自分もそんな時期はあったとは思うが、生来の気質が悌順と義人ではかけ離れている。動いて発散する気質の悌順とは違って、義人は内向的な面が強くて溜め込む質なのだ。
「少なくとも、まだ義人なら傍に居られるからな。」
「まぁアイツの事は産まれた時から見てるから、考えそうな事は分かるしな。」
お互いの言葉に思わずそれぞれに苦い笑いが浮かぶ。
「しかし、どう思う?」
「何がだ?」
「院の奴等みたいに、木気だから一番穏やかだと人外も考えてるのかね?」
「まさか。厄介だから狙うんだろ?」
なるほどと悌順が笑いながら返す。木気だから戦闘力は劣るなんていうのは言い訳なのだと、二人は十分知っているがあえてそれを指摘する程皮肉やでもない。
暫しの無言。
車中には今は規則正しい寝息とエンジンの音だけが微かに響き、それ以外の音楽は全く流れていない。それなのに何かが聞こえた気がして思わず二人は鏡越しに視線を合わせると、その音の発信者である青年の真横にいた信哉はそっと覗き込んだ。
微かに唇からこぼれる音楽のような音は、既に二人も聞いたことがあるものだった。
その瞳は微かに開いてはいるが何も映してはいない。
意識すらもあるかどうか分からないその様子に、思わず手近な駐車場に車を乗り入れて悌順も後部座席の仁の顔を覗き込んだ。
「……炎駒……?」
恐る恐る彼らが知りうる名前で悌順が彼に呼びかけると、その瞳は微かに意識という光を帯びたような気がした。
小さな天上の調べは途切れる事無くその唇から溢れ続けていたかと思うと、鮮やかな色を伴って車中に溢れ満ちわたる。二人の癒えきらない傷をたちどころに癒しながら、仁自身の両方の瞳に吸い込まれて消えていく。その治癒の能力に驚きながらも光が注ぎこまれる場所に二人は微かに眉を潜めた。
異能や人外ですら見定める不思議な視力を持つ友村礼慈以外のもう一人の存在、そして唯一土気の存在でもある可能性を秘めた青年。それは、彼があの時何を見たのかを証明しているかのような気がした。
「……仁…?」
思わずこぼれた自分の名を呼ぶ声に、ふっと瞳が更に色を増して二人をユルリと見やった。今だ半分眠っているかのようなその視線は、順繰りに二人の姿を見やり微かに首をかしげると微かに口元を動かす。それは、やがて言葉となって車中に零れ落ちた。
『………が必要だ…。』
その意味を問い返す間も与えずに、光はまるで煙のように四散して消えて糸が切れたようにその体は力を抜いた。再び自分にもたれかかって眠っている仁の姿を見やりながら、意味深なもう一人の彼である者の言葉の意味も掴めないままに、二人は思わず顔を居合わせていたのだった。
記憶喪失の自分を何も言わず、家主の青年は預かって学校にまで通わせてくれている。それが普通てはないことはよくわかっているが、家主の青年は疑問には感じていない風でもあった。
窓辺から朝日に輝く街並みを眺め、仁は目を細める。一ヶ月前に夜の闇の中で見た暗い球体の記憶は鮮明なのに、それ以降の記憶が掻き消していた。仁の記憶はそんなことの繰り返しだ。
自分でもおかしいのは分かる。
断片的な記憶はあるが、その中には自分の身の上を把握するようなものが何一つない。そして今こうして日射しの中で彼が見ている街並みにも、高い建物にも何一つ記憶に触る感覚がないのは何故だろう。ここ近隣に住んでいた分け出はなくても、何かしら自分の心に触れるものがあってもいいのにと思う。学校の同級生の香坂智美と宮井麻希子は、自分が記憶喪失のせいで自分の限界が認識できてないと言う。だが本当にそんなことはあり得るのだろうかと仁は思うのだ。いくら記憶がなくても、無意識な部分は普通は分かる筈だ。そう考えると答えは世にも奇妙な事に結び付いていく。
自分は記憶喪失なのではなく、元々そんな記憶も経験もないのではないだろうか。
そんなことはあり得ないと否定しても、断片的な記憶の片鱗を考えていくとそれが本当のような気がする。仁の中にある記憶は酷く遠く霞んだもので、深い森の濃い緑と田畑、幾つもの住居の並ぶ場所、陰影になった雪を被る山、波に揺れる船の明かり、そんなものだらけなのだ。人を感じる記憶なんて何一つ思い出せない。ここに来てから触れあった人間との記憶しかないも同然だ。
彼ら四人は特別なのは分かる。
自分が傍にいる四人が他の人間と違うのは、仁の目には明らかだった。普通の人間みたいに色々な要素が感じない、何処か単一の純粋さの塊みたいな彼ら。彼らの傍にいると安心するのは、そのせいなのかもしれない。
最初はそれ以外の色々な要素を持つ人間が、うまく理解できなくて怖かった。最初に出会った真見塚孝なんて隣に座っている信哉に似たものもあるのに、嫌悪やら嫉妬やら訳のわからない感情剥き出して思わず喧嘩を売る始末だった。そこから色々な人間に出会うようになって、宮井麻希子や須藤香苗。香坂智美、若瀬透、クラスメイトや教師、街の中を歩く沢山の人間を見るうち、特別なのは四人の方なのだと気がついた。普通の人間の中にも少し他の人間と違う感覚を持った人間がいるのも分かって来ている。
香坂智美とか宮井麻希子はちょっと普通とは違う。完全に違う訳じゃないけど、少し違うから信哉は何かあったらその二人に相談するんだと言ったんだと仁は考えている。
窓の外に見える景色の見方を変えると、沢山の色と気配が空気に光っていた。輝く帯のように立ち上ぼり絡み合い、様々な光を放つこの世界の姿。
これが他の誰にも見えないのも分かってる……
時折黒く濁ったものも混じるこの光景を、仁は話す術を持たない。何時からこれが見えるのか、これが何を見ているのかが彼にも分からないからだ。何しろ外に出てこの帯が何から立ち上るのか確かめようとすると、視界が白くなり記憶が飛んでしまう。何度か試してみたが気がつくとここにいて、信哉に聞いても普段とかわりなくしていたと言われる。考えても答えはわからないし、分かったら分かったで対応に困るかもしれない。光景を見飽きたように仁は首を降ると、部屋から滑り出しシンと静かな家の中を見回した。
信哉が夜に出ていくことは、そう珍しくはない。でも、朝までいないことは始めてだった。そう言うこともあるとは最初から言われていたし、困ったら隣のマンションの義人達に電話をするか隣に行くように教えられてもいる。ふと視線を壁越しに隣の棟のマンションを眺めるように虚空を眺め呟く。
「……皆、ヤスんちなのかな?」
呟くように言葉がこぼれ、その瞳がふっと滑るように虚空を動く。それは無意識の動作のようにも見えるが、確かに意思を持って何かを見定めようとする動きだった。しかし、その瞳が不意に宙に張り付くように止まったかと思うと、その瞳はまるでわからない何かを見ているかという様に微かに眉が潜められる。そうしてその瞳は、もっとそれを良く見定めようと目を凝らすように虚空を見ていた。
その時玄関を開いて人の気配が室内に入ってきたことにも反応せず、仁の瞳は虚空を見つめる。その姿は知っている人間が見たら、黒曜石の輝きを持つ瞳の青年とよく似通っていた。
「仁?……起きてたのか?」
リビングのドアの開く音も、仁は気がつかなかった。家主である青年が微かに疲労の滲む表情でリビングに足を踏み入れ、そこに立ち尽くす仁を見つめた時も全く反応すらできないでいた。ただ仁は目に見える不可解なものに目を凝らし、それを見定めようとしていただけだ。そのやがて表情は困惑に染まり、瞳は虚空を彷徨ったまま帰宅したばかりの青年を通り抜ける。
何なんだ?黒い…靄?
そう感じた瞬間、それは仁の存在に気がついた。自分が見られていると気がついて、それは唐突に矢のように仁に向かって何かを放つ。
「仁…?」
戸惑う信哉の声。それから目を離そうとしたが、それは一瞬遅く鋭い痛みが目から全身を貫いた。
「うあああああぁっ!!!」
不意に目を両手で押さえ絶叫した仁の姿に信哉は驚愕しながら駆け寄り、昨夜の再現のように、そして信哉が過去に見た様々な場面の再現のように自分の腕の中に倒れこむその体を抱きとめていた。
※※※
そんなことが起きたというのに、病院に着く前にその青年は一見すると何時もと同じ状態に戻っていた。
痛みもなく視力にも問題がない。
そして、何より本人が何があったかを全く覚えていない。
そういう訳で結局信哉と悌順は顔を見合わせて、暫し考えた後病院の駐車場まででUターンすることにした。昨夜から一睡もせずに動き回っているのが分かり後部座席で疲労に滲む幼馴染の顔を、バックミラー越しに悌順の瞳が覗き込む。
「少し寝てもいいぞ?信哉。」
「ん?あぁ、大丈夫だ。悪かったな?ヤス。」
緊急事態じゃしかたねぇしなと苦笑する鏡越しの幼馴染の視線を感じつつ、信哉は自分の肩にもたれて寝入っている仁を溜め息交じりに眺めた。
悲鳴を上げてそのまま卒倒した仁を独りで病院まで運ぶにはどうしても無理があったので悌順に連絡を取ったのだが、あの時の状況を思うと微かに背筋が寒くなる気がする。余りにも多くの事が一度に起こり過ぎて、どれが関係ない事なのかどれも関係しているのかが分からなくなりそうだ。そんな風に思う信哉に気がついたように、悌順が再び口を開く。
「……あんまり、独りで背負うなよ?お前本当はそんなに万能って訳じゃないんだぞ?」
信哉の表情を見て何を感じたのか、運転席の幼馴染が放った気遣う言葉。一瞬それに苦い笑みを浮かべながら、信哉は分かってると了承の言葉を口にした。長い付き合いだからこそ顔色一つで伝わってしまう事もあるのだ。そして、ふと思い出したように口を開く。
「義人の様子はどうだ?」
「いい方だとは言い難いけどな、今は忠志が残ってるから大丈夫だろう。」
身じろぎした青年を伺いながら溜め息混じりに信哉は目を細め、ミラー越しのその顔をまじまじと見やる。その視線に気がついたように悌順も微かに視線を投げ返した。その視線の中には拭いきれない不安がお互いに滲んでいる気がする。
「想さんの件と昨日の事は繋がってそうか?」
「多分な…。義人しか相手を見てないとこが、痛いな。」
低く呟くような声に悌順は帰宅してから話を聞こうとしても、全く口を開く様子のなかった義人の姿を思い浮かべる。そんな義人は以前にも一度見たことがあって、溜め息が溢れ落ちた。自分もそんな時期はあったとは思うが、生来の気質が悌順と義人ではかけ離れている。動いて発散する気質の悌順とは違って、義人は内向的な面が強くて溜め込む質なのだ。
「少なくとも、まだ義人なら傍に居られるからな。」
「まぁアイツの事は産まれた時から見てるから、考えそうな事は分かるしな。」
お互いの言葉に思わずそれぞれに苦い笑いが浮かぶ。
「しかし、どう思う?」
「何がだ?」
「院の奴等みたいに、木気だから一番穏やかだと人外も考えてるのかね?」
「まさか。厄介だから狙うんだろ?」
なるほどと悌順が笑いながら返す。木気だから戦闘力は劣るなんていうのは言い訳なのだと、二人は十分知っているがあえてそれを指摘する程皮肉やでもない。
暫しの無言。
車中には今は規則正しい寝息とエンジンの音だけが微かに響き、それ以外の音楽は全く流れていない。それなのに何かが聞こえた気がして思わず二人は鏡越しに視線を合わせると、その音の発信者である青年の真横にいた信哉はそっと覗き込んだ。
微かに唇からこぼれる音楽のような音は、既に二人も聞いたことがあるものだった。
その瞳は微かに開いてはいるが何も映してはいない。
意識すらもあるかどうか分からないその様子に、思わず手近な駐車場に車を乗り入れて悌順も後部座席の仁の顔を覗き込んだ。
「……炎駒……?」
恐る恐る彼らが知りうる名前で悌順が彼に呼びかけると、その瞳は微かに意識という光を帯びたような気がした。
小さな天上の調べは途切れる事無くその唇から溢れ続けていたかと思うと、鮮やかな色を伴って車中に溢れ満ちわたる。二人の癒えきらない傷をたちどころに癒しながら、仁自身の両方の瞳に吸い込まれて消えていく。その治癒の能力に驚きながらも光が注ぎこまれる場所に二人は微かに眉を潜めた。
異能や人外ですら見定める不思議な視力を持つ友村礼慈以外のもう一人の存在、そして唯一土気の存在でもある可能性を秘めた青年。それは、彼があの時何を見たのかを証明しているかのような気がした。
「……仁…?」
思わずこぼれた自分の名を呼ぶ声に、ふっと瞳が更に色を増して二人をユルリと見やった。今だ半分眠っているかのようなその視線は、順繰りに二人の姿を見やり微かに首をかしげると微かに口元を動かす。それは、やがて言葉となって車中に零れ落ちた。
『………が必要だ…。』
その意味を問い返す間も与えずに、光はまるで煙のように四散して消えて糸が切れたようにその体は力を抜いた。再び自分にもたれかかって眠っている仁の姿を見やりながら、意味深なもう一人の彼である者の言葉の意味も掴めないままに、二人は思わず顔を居合わせていたのだった。
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