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外伝 はじまりの光
第六幕 鳥飼澪三十五歳 残響
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過去の母鳥飼澪がしたのと全く同じ仕草で、あの時よりはるかに冷たい凍りつくような十一月の霧雨の中。真新しい喪服に袖を通した青年が全身をその中に曝しながら立ちつくしていた。
アスファルトは今も変わらず音もなく霧雨を受けて、しっとりと靄を放つように煙って見える。まだ本格的な冬を迎える前とはいえ酷く冷たい雨が、その細い身を芯まで凍りつかせるかのようだ。
青年の背後には彼を見つめる心配げな視線を浮かばせる姿がある。しかし、今はまだ誰もその背から放たれる拒否の気配に近づく事ができないでいた。
五代武と長月想が手配をしてくれなければ、こうやって母を普通に荼毘にふすことが出来なかったのだ。それは既に信哉自身にも理解できていた。何しろ急がなければ母の遺体ごと奪われかねなかった等と、まともな生活をしていたら考えもしない。
実際はまだ信哉の実父は存命している。それを証明するのは容易そうだが、彼にとっては父は他の女性の夫であり他の子供の父であり他人のままでいるべきだと今は考えている。そうして結局、過去に母がなったと同じく天涯孤独の身となりその場に存在した。その姿は彼の母に良く似たしなやかさと光り輝くような気配を持ち合わせている。
私は誰かの希望の光りを消したくなかった・・・。
母は泣きながら掠れた声で喘ぐように息をしながら、彼にそう語った。澪が十六歳で失ってしまった、全ての希望という光。
その光に新しくなってくれたのは信哉の実父でもある真見塚成孝だったのだ。結ばれたかったが澪に芽生えてしまった異能の存在がそれを邪魔したことも、だからこそ希望になってくれた光を傷つけないために独りになった事も澪自身の決断だった。
それでも信哉が産まれて、信哉が新しい自分の希望の光になった事。
そうして自分に芽生えたものの存在と、それの意味する全て。
新しく見えた仲間という光。
自分が他に生きる人の希望の光を消さないためにこの力があるのならと澪は考えたのだ。自分のように天涯孤独になる者を少しでも減らせるならと。
だけど、私は優輝が死んで奴を倒すことしか考えられなくなった…だから罰なのね。
澪の悲痛な声が心に木霊している気がした。
大事な者を全て奪われる痛みが今の彼には良く分かる。それを恨んで罰が当たるなんてとも思う。
だが彼の前で母はそう言いながら泣いたのだ。
そして自分も今全てを失ってしまった。大事な母親をなくして、こうして彼女が天に還るのを見守るしかできない自分は酷く無力だ。思い切り泣きたいのに、こんな時に限って涙が出ないとは思っても見なかった。
「信哉。」
不意にかけられた声に彼は、白い煙から視線をはずし背後に立つ幼馴染の姿を見つめる。憔悴しきった幼馴染の姿に土志田悌順は哀しそうに瞳を震わせながら、誰も近寄れずにいた彼の頭を抱え自分の額と彼の額を押し当てた。幼い頃から良く知っているからこそ、彼の心の中まで見透かすかのように幼馴染が自分の変わりのように大粒の涙を零すのを彼はぼんやりと痺れた様な感覚で見つめる。
「…我慢しなくていいんだ…我慢しなくって…。」
かつて彼の母が彼に父にかけられたのと同じ言葉が、自分に今かけられたことを彼は知る由もない。
ここには彼の父はいないし、いるのは幼馴染の彼と彼の両親。
そして母の仲間であった人達だけなのだから。
雨に吸い込まれるような静かに囁きかける様な穏やかな幼馴染の言葉。その言葉にふいに彼は突然自分以外の母親の死を悼んでくれた青年の瞳の中に映る自分の姿を、改めて見つめなおした気がした。
あぁ…もう母さんはいないんだ…。
祖父や親戚もすでにこの世の人ではなく、唯一の存在だった優しく暖かいよりどころでもあった母親もいない。その事実と、無くしてしまったもののあまりにも大きいい存在がまざまざとその脳裏を廻り渦を巻く。それはまさに過去に彼の母が感じたのと同じ強く哀しい感情だった。
不意に今まで忘れていたかのような涙が、その澄んだ瞳から大粒の雫となって信哉の瞳から音もなく溢れおち、その両頬を伝い落ちる。堰を切ったような感情は憎しみでも怒りでもなく、ただ悲しみと寂しさだけで満ちていた。まるで真珠の様な大粒の涙がキラキラと輝きを放ちながら、地面に音もなく振り落ちていく雨と同化しようとするようにハラハラと頬を伝い落ちていく。
これから何が起こるのだろう
澪は最後の息の中で彼に全てを語ると何度も謝り、やがて涙の中で逝ってしまった。武が手続きをしている間に信哉に出来たのは暗がりの廊下で声を殺して泣くことだけだ。そんな最中に宮井智雪の叔母の有希子と子供の麻希子に鉢合わせたのは、自分でもどう考えたらいいのか分からない。結局暫く抱き寄せられ嗚咽を溢した自分を、信哉は自分が不甲斐ない無力な子供にしか過ぎないと痛感した。
あなたを巻き込むはずじゃなかった…あなたは普通に生きるはずだった、ごめんね…ごめんね。
その言葉は酷く哀しく彼の心に響く。信哉は何も母が悪いのではないと心のどこかで理解していたのに、ただ謝りながら泣く母をそのまま逝かせてしまった自分を酷く後悔している。
…ごめんね、信哉……、私は、お前だけは守りきるつもりだったのに…。ごめんね。
痛いほどの母の後悔と自分の後悔。
それは永遠に自分の心に残るだろう。
それ程に母を後悔させたものは直ぐそこに近づいている事も今の彼には分かるような気がしている。それは、以前は母の仲間であった二人が今は自分の仲間であるという感覚を得ていると同時に、直ぐ傍で自分の様子を伺う知らない気配を感じる事で確信していた。あの赤い月の光りの下で、感じた何かがともるような感覚とともに信哉の中で何かが変わり、自分は以前と変わってしまったのだ。
だが信哉は、今はただ幼馴染に抱きすくめられる様にして、悲しみが涙に少しでも溶けて和らぐことだけを祈りながら堪え切れない涙を流し続けていた。
※※※
彼は身じろぎもしない真っ直ぐな視線で、促されるままにその薄暗い光源の浮かぶ室内にコツリと足音をさせて踏み入れる。自分を見る室内の全てが微かな息を呑んだのを直に感じながらも、宿した光の意味は既に青年は彼岸のかなたの母から聞いていた。
ここまで辿り着く迄にある者は彼自身の存在に驚き、ある者はその余りの真っ直ぐな視線に驚き、ある者はその青年の面差しが彼の母とよく似ていることに驚きながら、室内に光を投げるような青年の姿を見つめる。そうしてここに通され何時もの威圧的な態度すら忘れてしまったかのように一瞬彼の姿を見つめていた酷く年老いた古老が、わざとらしく咳払いをして我を取り戻す。それを見つめながら信哉はただ静かにその室内を感じ取り穏やかに見える心で、自分を見つめる他の三つの視線を感じた。
「新しいお役目として…白虎には…。」
掠れて弱々しい古老の話は、彼の心を微風のようにすり抜けていく。
母がしてきた仕事。
澪が他の人の希望の光を守るために、そして自分を守るためにしてきた多くの事。その母を最後の最後に後悔の海に沈めるようにして逝かせてしまった自分の罪。それを贖う為に自分は今、ここにこうしているのかもしれない。信哉は年に似合わない冷静さでそう考えながら、それでも自分の心が未だ虚ろに痺れたままの様な気がした。
あの赤い月の光と冷たい雨で自分の心も母と一緒に逝ったのかもしれない。
不意にそう思いながら彼は、不自然に揺らめく幼い黒曜石の瞳の視線を無表情に真っ直ぐに見つめ返した。何の感情も浮かばないその視線に幼い瞳は戸惑うように思わず視線を下げる。ふと、母が時折顔を見に来ていたのはこの子なのかも知れないなと心が囁くのを聞きながら彼は無表情のままに、式読と名乗る酷く弱りかけた古老の言葉に促されるままお役目を果たすものとして動き始めた。
「…信哉。」
酷く戸惑う武の視線が今はまだ何も考えられない信哉に向けられ、思わず信哉は微かな自重めいた笑みを口元にしく。それは今までの彼にはなかった表情で思わず、武と想が押し黙るのを感じた。
「仕事の時は、俺は白虎なんだろ?朱雀さん。」
青年はそう言うと、迷うこともなく気を練り教えられたわけでもないのに白銀に輝くような異装を纏う。人外というものに名前を知られないための決まり事。人を守るための闇の下での密やかな人ではない者の仕事。それが母から受け継がれたものならば、甘んじて受け継ごう青年は静かにそう思う。母が自分の罪といったものも全て自分が背負えば、自分は少なくとも生きる意味だけは残す事ができる。白虎は誰に促されるわけでもなく、一番初めの仕事となる西の小さなゲートに向かって白銀の光の尾を引いて夜の闇を切り裂いた。
新しい白虎を含む四神が室内から姿を消して、酷くその薄暗い室内には虚無感が漂っていた。
幼い星読は元から、年老いた式読すらも更に老けたかのような吐息を漏らしその場に力なく座り込む。この数日の間に式読は酷く弱ったように見えるのは、強ち間違いではないような気がした。それが実は強い心労のせいなのだと気がついたのはつい数日前の事だ。古老は屋敷を逃げ出し交通事故にあった曾孫を、後継者ということではなく本気で案じていた。幼い曾孫は体は白虎が体を張って守ってくれたのだが、両足に深い傷をおった。恐らく歩くのに一生障害が残ると告げられた時、初めて古老は式読ではなく香坂智充として医師にすがり付いたのだ。
そんな馬鹿な!こんな幼い子の足が治らないなんて!
体幹に傷がないのが不思議な位なのだと医師は告げた。両足の複雑骨折は、開放骨折でしかも一部は抉れて腱や神経も傷つけていた。それでも、体が無傷なのは奇跡的だという。何しろ二人を跳ねたのは大型の運搬車両だったのだ。澪がどれだけ必死に守ろうとしてくれたか、対価として失われた澪の存在は礼慈にとってははるかに大きい。そして、その苦悩を誰に見せるわけでもない古老の以前は遠かった黒い影は、確実に古老に這いよりはじめている。
「儂の死の影が近いか?星読。」
不意にかけられた声に黒曜石の瞳は微かにたじろぐ。今まで一度も影の話は口にしたことがなかったのに、まるで以前からそれを知っていたかのような口ぶりで古老は語りかけながら幼い少年を見下ろす。
そう、実際は凄く近寄っていた。だがこれが何処まで本当なのかは、今の礼慈には分からない。何故なら、彼よりずっと影が遠くに見えていたはずなのに、優しい澪はもうこの世にはいないのだから。
「前よりは。」
彼の事務的な声に、古老はほろ苦く笑う。
それは酷く普通の老人の笑みにも見えて礼慈は微かな戸惑いを感じた。いつもそうだ、何故この人物はまるで憎まれるようにしていながら、不意に本当の自分を覗かせるそう少年は思う。
少年はそれを心でどう処理したらいいのか分からない。あの礼慈にとっても母のような人に良く似た面差しをした青年だって、自分の母親が助けた者が誰なのか知ったらどうするだろうと不安にすら思う。
「…儂が去ったら、智美を頼む。」
不意にポツリと古老が呟いた言葉に礼慈は目を見張りながら、激しく咳き込み始めた古老の背を思わずさする。不意に心の中で、彼女が彼に幾度となく語りかけた言葉がまるで柔らかい音楽のように鮮やかに光を放つように閃き響き渡るのを聞いた様な気がした。
アスファルトは今も変わらず音もなく霧雨を受けて、しっとりと靄を放つように煙って見える。まだ本格的な冬を迎える前とはいえ酷く冷たい雨が、その細い身を芯まで凍りつかせるかのようだ。
青年の背後には彼を見つめる心配げな視線を浮かばせる姿がある。しかし、今はまだ誰もその背から放たれる拒否の気配に近づく事ができないでいた。
五代武と長月想が手配をしてくれなければ、こうやって母を普通に荼毘にふすことが出来なかったのだ。それは既に信哉自身にも理解できていた。何しろ急がなければ母の遺体ごと奪われかねなかった等と、まともな生活をしていたら考えもしない。
実際はまだ信哉の実父は存命している。それを証明するのは容易そうだが、彼にとっては父は他の女性の夫であり他の子供の父であり他人のままでいるべきだと今は考えている。そうして結局、過去に母がなったと同じく天涯孤独の身となりその場に存在した。その姿は彼の母に良く似たしなやかさと光り輝くような気配を持ち合わせている。
私は誰かの希望の光りを消したくなかった・・・。
母は泣きながら掠れた声で喘ぐように息をしながら、彼にそう語った。澪が十六歳で失ってしまった、全ての希望という光。
その光に新しくなってくれたのは信哉の実父でもある真見塚成孝だったのだ。結ばれたかったが澪に芽生えてしまった異能の存在がそれを邪魔したことも、だからこそ希望になってくれた光を傷つけないために独りになった事も澪自身の決断だった。
それでも信哉が産まれて、信哉が新しい自分の希望の光になった事。
そうして自分に芽生えたものの存在と、それの意味する全て。
新しく見えた仲間という光。
自分が他に生きる人の希望の光を消さないためにこの力があるのならと澪は考えたのだ。自分のように天涯孤独になる者を少しでも減らせるならと。
だけど、私は優輝が死んで奴を倒すことしか考えられなくなった…だから罰なのね。
澪の悲痛な声が心に木霊している気がした。
大事な者を全て奪われる痛みが今の彼には良く分かる。それを恨んで罰が当たるなんてとも思う。
だが彼の前で母はそう言いながら泣いたのだ。
そして自分も今全てを失ってしまった。大事な母親をなくして、こうして彼女が天に還るのを見守るしかできない自分は酷く無力だ。思い切り泣きたいのに、こんな時に限って涙が出ないとは思っても見なかった。
「信哉。」
不意にかけられた声に彼は、白い煙から視線をはずし背後に立つ幼馴染の姿を見つめる。憔悴しきった幼馴染の姿に土志田悌順は哀しそうに瞳を震わせながら、誰も近寄れずにいた彼の頭を抱え自分の額と彼の額を押し当てた。幼い頃から良く知っているからこそ、彼の心の中まで見透かすかのように幼馴染が自分の変わりのように大粒の涙を零すのを彼はぼんやりと痺れた様な感覚で見つめる。
「…我慢しなくていいんだ…我慢しなくって…。」
かつて彼の母が彼に父にかけられたのと同じ言葉が、自分に今かけられたことを彼は知る由もない。
ここには彼の父はいないし、いるのは幼馴染の彼と彼の両親。
そして母の仲間であった人達だけなのだから。
雨に吸い込まれるような静かに囁きかける様な穏やかな幼馴染の言葉。その言葉にふいに彼は突然自分以外の母親の死を悼んでくれた青年の瞳の中に映る自分の姿を、改めて見つめなおした気がした。
あぁ…もう母さんはいないんだ…。
祖父や親戚もすでにこの世の人ではなく、唯一の存在だった優しく暖かいよりどころでもあった母親もいない。その事実と、無くしてしまったもののあまりにも大きいい存在がまざまざとその脳裏を廻り渦を巻く。それはまさに過去に彼の母が感じたのと同じ強く哀しい感情だった。
不意に今まで忘れていたかのような涙が、その澄んだ瞳から大粒の雫となって信哉の瞳から音もなく溢れおち、その両頬を伝い落ちる。堰を切ったような感情は憎しみでも怒りでもなく、ただ悲しみと寂しさだけで満ちていた。まるで真珠の様な大粒の涙がキラキラと輝きを放ちながら、地面に音もなく振り落ちていく雨と同化しようとするようにハラハラと頬を伝い落ちていく。
これから何が起こるのだろう
澪は最後の息の中で彼に全てを語ると何度も謝り、やがて涙の中で逝ってしまった。武が手続きをしている間に信哉に出来たのは暗がりの廊下で声を殺して泣くことだけだ。そんな最中に宮井智雪の叔母の有希子と子供の麻希子に鉢合わせたのは、自分でもどう考えたらいいのか分からない。結局暫く抱き寄せられ嗚咽を溢した自分を、信哉は自分が不甲斐ない無力な子供にしか過ぎないと痛感した。
あなたを巻き込むはずじゃなかった…あなたは普通に生きるはずだった、ごめんね…ごめんね。
その言葉は酷く哀しく彼の心に響く。信哉は何も母が悪いのではないと心のどこかで理解していたのに、ただ謝りながら泣く母をそのまま逝かせてしまった自分を酷く後悔している。
…ごめんね、信哉……、私は、お前だけは守りきるつもりだったのに…。ごめんね。
痛いほどの母の後悔と自分の後悔。
それは永遠に自分の心に残るだろう。
それ程に母を後悔させたものは直ぐそこに近づいている事も今の彼には分かるような気がしている。それは、以前は母の仲間であった二人が今は自分の仲間であるという感覚を得ていると同時に、直ぐ傍で自分の様子を伺う知らない気配を感じる事で確信していた。あの赤い月の光りの下で、感じた何かがともるような感覚とともに信哉の中で何かが変わり、自分は以前と変わってしまったのだ。
だが信哉は、今はただ幼馴染に抱きすくめられる様にして、悲しみが涙に少しでも溶けて和らぐことだけを祈りながら堪え切れない涙を流し続けていた。
※※※
彼は身じろぎもしない真っ直ぐな視線で、促されるままにその薄暗い光源の浮かぶ室内にコツリと足音をさせて踏み入れる。自分を見る室内の全てが微かな息を呑んだのを直に感じながらも、宿した光の意味は既に青年は彼岸のかなたの母から聞いていた。
ここまで辿り着く迄にある者は彼自身の存在に驚き、ある者はその余りの真っ直ぐな視線に驚き、ある者はその青年の面差しが彼の母とよく似ていることに驚きながら、室内に光を投げるような青年の姿を見つめる。そうしてここに通され何時もの威圧的な態度すら忘れてしまったかのように一瞬彼の姿を見つめていた酷く年老いた古老が、わざとらしく咳払いをして我を取り戻す。それを見つめながら信哉はただ静かにその室内を感じ取り穏やかに見える心で、自分を見つめる他の三つの視線を感じた。
「新しいお役目として…白虎には…。」
掠れて弱々しい古老の話は、彼の心を微風のようにすり抜けていく。
母がしてきた仕事。
澪が他の人の希望の光を守るために、そして自分を守るためにしてきた多くの事。その母を最後の最後に後悔の海に沈めるようにして逝かせてしまった自分の罪。それを贖う為に自分は今、ここにこうしているのかもしれない。信哉は年に似合わない冷静さでそう考えながら、それでも自分の心が未だ虚ろに痺れたままの様な気がした。
あの赤い月の光と冷たい雨で自分の心も母と一緒に逝ったのかもしれない。
不意にそう思いながら彼は、不自然に揺らめく幼い黒曜石の瞳の視線を無表情に真っ直ぐに見つめ返した。何の感情も浮かばないその視線に幼い瞳は戸惑うように思わず視線を下げる。ふと、母が時折顔を見に来ていたのはこの子なのかも知れないなと心が囁くのを聞きながら彼は無表情のままに、式読と名乗る酷く弱りかけた古老の言葉に促されるままお役目を果たすものとして動き始めた。
「…信哉。」
酷く戸惑う武の視線が今はまだ何も考えられない信哉に向けられ、思わず信哉は微かな自重めいた笑みを口元にしく。それは今までの彼にはなかった表情で思わず、武と想が押し黙るのを感じた。
「仕事の時は、俺は白虎なんだろ?朱雀さん。」
青年はそう言うと、迷うこともなく気を練り教えられたわけでもないのに白銀に輝くような異装を纏う。人外というものに名前を知られないための決まり事。人を守るための闇の下での密やかな人ではない者の仕事。それが母から受け継がれたものならば、甘んじて受け継ごう青年は静かにそう思う。母が自分の罪といったものも全て自分が背負えば、自分は少なくとも生きる意味だけは残す事ができる。白虎は誰に促されるわけでもなく、一番初めの仕事となる西の小さなゲートに向かって白銀の光の尾を引いて夜の闇を切り裂いた。
新しい白虎を含む四神が室内から姿を消して、酷くその薄暗い室内には虚無感が漂っていた。
幼い星読は元から、年老いた式読すらも更に老けたかのような吐息を漏らしその場に力なく座り込む。この数日の間に式読は酷く弱ったように見えるのは、強ち間違いではないような気がした。それが実は強い心労のせいなのだと気がついたのはつい数日前の事だ。古老は屋敷を逃げ出し交通事故にあった曾孫を、後継者ということではなく本気で案じていた。幼い曾孫は体は白虎が体を張って守ってくれたのだが、両足に深い傷をおった。恐らく歩くのに一生障害が残ると告げられた時、初めて古老は式読ではなく香坂智充として医師にすがり付いたのだ。
そんな馬鹿な!こんな幼い子の足が治らないなんて!
体幹に傷がないのが不思議な位なのだと医師は告げた。両足の複雑骨折は、開放骨折でしかも一部は抉れて腱や神経も傷つけていた。それでも、体が無傷なのは奇跡的だという。何しろ二人を跳ねたのは大型の運搬車両だったのだ。澪がどれだけ必死に守ろうとしてくれたか、対価として失われた澪の存在は礼慈にとってははるかに大きい。そして、その苦悩を誰に見せるわけでもない古老の以前は遠かった黒い影は、確実に古老に這いよりはじめている。
「儂の死の影が近いか?星読。」
不意にかけられた声に黒曜石の瞳は微かにたじろぐ。今まで一度も影の話は口にしたことがなかったのに、まるで以前からそれを知っていたかのような口ぶりで古老は語りかけながら幼い少年を見下ろす。
そう、実際は凄く近寄っていた。だがこれが何処まで本当なのかは、今の礼慈には分からない。何故なら、彼よりずっと影が遠くに見えていたはずなのに、優しい澪はもうこの世にはいないのだから。
「前よりは。」
彼の事務的な声に、古老はほろ苦く笑う。
それは酷く普通の老人の笑みにも見えて礼慈は微かな戸惑いを感じた。いつもそうだ、何故この人物はまるで憎まれるようにしていながら、不意に本当の自分を覗かせるそう少年は思う。
少年はそれを心でどう処理したらいいのか分からない。あの礼慈にとっても母のような人に良く似た面差しをした青年だって、自分の母親が助けた者が誰なのか知ったらどうするだろうと不安にすら思う。
「…儂が去ったら、智美を頼む。」
不意にポツリと古老が呟いた言葉に礼慈は目を見張りながら、激しく咳き込み始めた古老の背を思わずさする。不意に心の中で、彼女が彼に幾度となく語りかけた言葉がまるで柔らかい音楽のように鮮やかに光を放つように閃き響き渡るのを聞いた様な気がした。
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