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外伝 はじまりの光
第六幕 鳥飼澪三十五歳 異例
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その時その黒髪の青年は誰かに呼ばれたような気がして窓の外を見上げた。
艶やかな黒髪に秀麗な面立ちは彼の母親に良く似たものがある。その目の前で一緒に勉強をしていた少し体格のいいもう一人の青年がその顔を不思議そうに見やりながら、シャーペンをクルリと回した。あの喧嘩の後担任の福上が、再三母に電話をかけたが一向に繋がらなかった。母子家庭なのは知っているし、昔から仲の良い土志田純子が代わりに迎に来てくれると言う羽目になっていた。親を事故でなくしたばかりの宮井智雪は現在叔母の家に預けられていて、しかもまだチビの従妹にベタぼれ中なので先に帰ったところだ。未だに母から携帯に折り返しがない。恐らく秘密の仕事中なのだと信哉は理解していたが、それでもこの時間になっても何の連絡もないのは滅多にない事だった。
「どした?信哉?」
窓の外の星の光に吸い寄せられたようにその視線は身じろぎもせず、まるで何か不思議な光を帯びたように艶やかに輝いて見えた。昔からどこかエキセントリックと言うか掴めない人物と思われがちの幼馴染だが、本当に生まれて直ぐからの付き合いの産院から一緒だった悌順には大体の感情の起伏は掴める。だか、その時の彼はどことなくいつもとは違って見えた。まるで何か得体の知れないものがその体の中に不意に芽生えたかのような。
「…俺、帰るよ。」
「はぁ?ど。どうしたんだよ?」
勉強とは名ばかりで、結局信哉に分からない部分を教わろうとしていたのにその目的の半分も達していない。が、目の前の彼のその決意はどうも揺るぎそうもないことが分かった。
悌順の母の泊まっていくんじゃなかったの?という温和な柔らかい言葉を振り切るようにして場を辞すると信哉はまっすぐに家の方へと駆け出す。
しなやかな四肢の動きも独特の物腰も、結局信哉は過分なほどに両親から受け継いでいた。その姿から内面まで、多くのことを受け継ぎすぎていたのかもしれない。
夜道をかける自分の足が酷く何時もより速いような気がして、ふと彼は歩調を緩める。その時視界に入った西の空に浮かぶ酷く赤い色をした月を見上げ思わず立ちすくんだ。赤い血のような色を見ると何時も不安な気持ちに、信哉は襲われる。
はるか昔の幼い頃に見た夕日の赤を思い出すからだ。
あの日を境に自分の母の中で何かが変わってしまったことを彼は良く知っている。
ぼんやりとその場に立つ自分の体内で、不意に何かがざわめく感覚がした。
…?!!
そのざわめきは自分でもはじめて知る感覚だ。
不意に周囲の音が酷く澄んで聞こえるような感覚がして、視界が急にクリアになっていく。周囲の臭いまでも微細なものまで嗅ぎとれるような感覚に、思わず眩暈を起こし傍の家屋の壁に手をついた。吐き気にも似た感覚の中で、不意に自分の体内に電気が走る様な明確な感覚が生れ落ち全身に広がっていく。
そして、それは同じような気配を持つ者達の存在をはるかに離れた場所に感覚として捉えさせた。
…何だ……これ………?
信哉は戸惑いながら自分の中の感覚を押さえ込もうと、思わず目を閉じる。その瞬間、はるか遠くに感じていたはずの気配の1つを酷く身近に感じ取ってしまった自分に気がついていた。それは自分と同じものだとしか言いようのない気配だったが、酷く小さいと感じる。その気配の放つ光の小ささが、信哉の心を酷く不安にさせていた。まるで、消えかけている灯火のようなその気配は酷く恐ろしい結末を生むような気がしてならない。不意に、その気配を酷く近くに感じたような気がした。
………信哉…………。
不意に弾ける様に浮かんだ母の顔とその灯火が重なる気がして彼は、思わず天を仰いだ。
酷く不安で嫌な気分が全身を包むのを感じながら、今感じていた気配が自分の中から消え去ってしまっていることに気がついて彼は頭を軽く振って再び歩き出す。不安はしこりの様に心の中に漂い続けているが、それをどうしたら消せるのかも彼には想像もつかなかった。歩き出した彼の鞄の中で不意になりだした携帯電話の着信音に彼は再び凍りついたように足を止め心に漂う不安を噛み殺す様にして、それを取り出すと耳に押し当てる。
『…信哉か…?』
月の光はいまだ酷く血のようにどんよりと赤く、鈍く光を放ちながら彼を見下ろしている。信哉は道の最中で立ちすくみながら息を殺すように携帯を握っている。その受話器の公衆電話らしい音の向こうから酷く怯えた武の声が響き、信哉は押し潰されそうな不安を飲み込んで硬く唇を噛み締めながら、続く言葉を聴いていた。
※※※
不意に眩暈が強くなるような気がした。白い蛍光灯の光が溢れる室内に、目にしみるような淡い緑のカーテンがただ申し訳程度に視界の半分を覆う。
目の前のベットに横たわる姿は、彼から見れば何時もの母の姿にしか見えないのにその中の何かが違って見える。立ち尽くした信哉の目の前には様々な心電図や何かをつけて、蒼白な顔をして横たわる母の姿だった。彼女の布団で包まれた体にも目立った外傷は殆どない様にも見えたし、事実一番大きな外傷は太ももの切傷だったという。
事故自体の外傷はそれほど酷いものではありません…しかしどうにもおかしな事が…。
最初に母を診察して治療した救急室の医師が、まるで信じられないものを見たような顔で自分と一緒に話を聞く武に向かって話す。それを信哉はボンヤリした気持ちで、自分が聞いていたのを感じる。
大型のダンプカーにかなりのスピードで撥ね飛ばされ道路に叩きつけられたと言う話だが、確かに傷は大きいが奇跡としか言いようがなく命にかかわるほどではない。しかし、今の問題はそこではないのだということを医師が言いにくそうに口にした。それを直に耳にしながら、信哉は再び自分の中に何かがざわめくのを感じた。それは隣にいる武からも、そして病院のどこか病室にいる母からも感じる何か特殊な気配。その様子に気がついた武が心配そうに自分を見るのに気がつきながらも彼は無言のまま、今は一人で母の病室に向かいこうして立ちすくんだままでいた。
助けた子供は足の怪我だけで命には問題ないって。母さん。
ふと自分がそう思ったことに彼は哀しくなった。
どこまでも、自分は母の子供なのだと思う。ずっと何時かこんな日が来るのではないかと、あの赤い夕日を見た時から心のどこかで心の中では分かっていた。何時かこんな風に横たわる母を見るはそう遠くないのではと、優輝が逝ってしまったと聞かされた日に心の何処が理解していたのだ。
信哉はまるで足音もさせずにそっと澪に歩み寄るが、彼自身自分の足音がしていないのには気がつきもしない。澪の浅い呼吸は微かに喘ぐ様に胸を波打たせて、蒼白な顔は血の気もなく透き通るかのようにも見える。微かに不規則に刻まれる人工的な心電図の音が酷く弱くアラームを鳴らし、人工的に流される空気の音が酷く冷たく感じられる。首からされる点滴が雫になって落ちる音が聞こえる気がして、信哉は幾つも並ぶ点滴が首から落ちるのを見上げた。
ありえないことだと救急室で母を診た医師は言った。
母の内臓は機能しているのが奇跡的な状況なのだという。血液検査の結果、母の体の中の異常はまるで重度の火傷でも負っているかのような数値で、全ての値は限りなく末期的な症状に近いという。もし体の中の出血したらそれ止める作用など機能しない程の血液自体の崩壊、心臓を止めかねない程の電解質の異常な高値、肝臓も腎臓も本来の活動などとうにしていない。しかも全身の筋肉すらも障害されているのか、血液の中にその証明をするような高い数値ばかりが並んだ。そうして撮影された放射線下の写真には、既に体内で出血が始まっているのが分かっていた。
目の前の母にはあとほんの僅かな時間しか残されていない。それなのにベットに横たわる姿は、そんなことが起きているとは到底思えない。綺麗な母のまま体内の出血が歪に体を歪ませることすらないのが、良いことなのか悪いことなのかが分からなかった。そして、それが何故起こったのか、信哉には判るような気がした。
全ては秘密の仕事……それのせいなんだろ?母さん。
最近は呼ばなくなった呼び方で母に心の中で呟いた瞬間、澪の目がふと開き彼に焦点を結んだ。酸素マスクの下で彼女は微かに微笑み息子を見つめていたが、その目が微かな違和感に震えるのを信哉は見つめた。
「…母さん?」
彼女の目は何かを見透かしているかのように自分の中を見つめ、改めて戦きに震えてその美しい唇を歪める。その唇から微かな呻き声の様に掠れた声が絞り出され、信哉は母が自分の中に何かを見ていることに気がついた。それははっきりとした苦悩の声となって、今の彼女にはありえないほどの声を悲鳴のように上げさせている。
「……そんな!……あなたは関係ないはずよ!」
悲鳴のような叫びが室内に淡くにじんで消えると澪の瞳から突然何かの堰を切ったように涙が溢れ出した。今までにそんな風に泣く母を見たことのない信哉は、戸惑いながらベットの傍に屈みこむ。何がそんなに母を苦悩させているのかが分からない彼は酷く困惑しながら、枕もとのタオルで母の涙を拭うしかできず、それでも澪の涙を止める事はできないことは目に見えていた。既に肺の中にも出血が始まり呼吸のままならない澪は、喘ぐように胸を波打たせて苦しげに表情を歪めながら泣き続ける。そんな母を今まで一度も見たことのない青年は困惑を更に深めた。何時も毅然として涙なんて数えるほどしか見せたことのない母が、信哉を前に子供のように泣く。その姿はどうしようもなく哀しいものだという事を、信哉は初めて知らされた気がした。
「母さん、落ち着いて。どうしたの?」
白い人工灯の白々しい光の下で狼狽して苦悩しながら涙を流す母の顔を、まるで昔自分にしてくれたように優しく撫でる。信哉は訳も分からないままに困惑しながらただ傍に座り、溢れ落ちる涙を優しく丁寧に拭い続ける。
過去には澪の自分の体内に宿っていた筈の光。つい数時間前に自分の体をすり抜けて何処かへ消えていった筈の、あの白銀の炎のような光の存在。失われていく力を感じた時、澪は正直これで自分の役目は終わったのだと安堵すらしていた。息子に隠しながら夜の仮面を被る日々が終わり、もしかしたらこのまま信哉とひっそり暮らしていけるとすら。
ああ、私が間違っていた、意地でも力が抜けていくのを食い止めていたら…
優しく父親に似た仕草で自分を労る息子の体内に、その光が自分の時よりはるかに激しく強い光に変わって確かに見える。そしてそれは酷く哀しい悲鳴のように心に中で空ろに虚しく響きわたる叫びになって、澪の美しい瞳から涙に変わり流れ落ち消えていく。既に自分の中にはもう残りわずかしか感じられない四神の閃きが、今目の前の息子に見えるのは何故なのか。彼女は声も上げることもできずに、ただ泣き続けていた。
「母さん…落ち着いて、ゆっくり息をして、ね。」
額を撫でながらかけられる声が、酷く真見塚成孝に似ているのに切なく鋭い痛みが胸に走る。愛しいと思って肌をあわせ、それでもこのまま一緒にいたら失ってしまうと確信したから離れた人。その人の血を引いた息子。大事な息子だけは巻き込むまいと必死に守ってきたはずなのに、最悪の形で自分の宝物を残酷な運命に引き摺りこんでしまった。
この力は、遺伝しない…そのはずだった…今までは…
そう信じきっていたけれど、澪は同時に最初からこの運命を知っていた気もする。院の老獪が白虎を宿した自分を見失ったのは、澪が妊娠して信哉を産んだからだ。この子は澪のせいで、生まれついて白虎の能力を魂に刻まれてしまっていたのだ。だから、澪がその力を体内に秘めておけなくなったら、白虎はより才能を高めて魂に印を持った信哉を選ぶのは当然としか思えない。こうして残酷な現実理解できたと同時に、酷く虚しくあの忌まわしい言葉が彼女の心には去来する。
それは、異例。
彼女が嫌になるほど何度も言われ続けてきた、何よりも忌まわしい言葉だ。それが分かった今、彼女に出来ることは一つしかなくなっていた。
「しん、や、聞いて。」
「母さん、あとで聞く、今は…。」
「いいから、聞いて、大事なこと、なの。」
血が喉を競り上がってくるのを、飲み下し必死に言葉を繋ぐ。澪が知りうる全てを残された時間で信哉に伝えることしか、もう澪に出来ることはなかったのだ。
艶やかな黒髪に秀麗な面立ちは彼の母親に良く似たものがある。その目の前で一緒に勉強をしていた少し体格のいいもう一人の青年がその顔を不思議そうに見やりながら、シャーペンをクルリと回した。あの喧嘩の後担任の福上が、再三母に電話をかけたが一向に繋がらなかった。母子家庭なのは知っているし、昔から仲の良い土志田純子が代わりに迎に来てくれると言う羽目になっていた。親を事故でなくしたばかりの宮井智雪は現在叔母の家に預けられていて、しかもまだチビの従妹にベタぼれ中なので先に帰ったところだ。未だに母から携帯に折り返しがない。恐らく秘密の仕事中なのだと信哉は理解していたが、それでもこの時間になっても何の連絡もないのは滅多にない事だった。
「どした?信哉?」
窓の外の星の光に吸い寄せられたようにその視線は身じろぎもせず、まるで何か不思議な光を帯びたように艶やかに輝いて見えた。昔からどこかエキセントリックと言うか掴めない人物と思われがちの幼馴染だが、本当に生まれて直ぐからの付き合いの産院から一緒だった悌順には大体の感情の起伏は掴める。だか、その時の彼はどことなくいつもとは違って見えた。まるで何か得体の知れないものがその体の中に不意に芽生えたかのような。
「…俺、帰るよ。」
「はぁ?ど。どうしたんだよ?」
勉強とは名ばかりで、結局信哉に分からない部分を教わろうとしていたのにその目的の半分も達していない。が、目の前の彼のその決意はどうも揺るぎそうもないことが分かった。
悌順の母の泊まっていくんじゃなかったの?という温和な柔らかい言葉を振り切るようにして場を辞すると信哉はまっすぐに家の方へと駆け出す。
しなやかな四肢の動きも独特の物腰も、結局信哉は過分なほどに両親から受け継いでいた。その姿から内面まで、多くのことを受け継ぎすぎていたのかもしれない。
夜道をかける自分の足が酷く何時もより速いような気がして、ふと彼は歩調を緩める。その時視界に入った西の空に浮かぶ酷く赤い色をした月を見上げ思わず立ちすくんだ。赤い血のような色を見ると何時も不安な気持ちに、信哉は襲われる。
はるか昔の幼い頃に見た夕日の赤を思い出すからだ。
あの日を境に自分の母の中で何かが変わってしまったことを彼は良く知っている。
ぼんやりとその場に立つ自分の体内で、不意に何かがざわめく感覚がした。
…?!!
そのざわめきは自分でもはじめて知る感覚だ。
不意に周囲の音が酷く澄んで聞こえるような感覚がして、視界が急にクリアになっていく。周囲の臭いまでも微細なものまで嗅ぎとれるような感覚に、思わず眩暈を起こし傍の家屋の壁に手をついた。吐き気にも似た感覚の中で、不意に自分の体内に電気が走る様な明確な感覚が生れ落ち全身に広がっていく。
そして、それは同じような気配を持つ者達の存在をはるかに離れた場所に感覚として捉えさせた。
…何だ……これ………?
信哉は戸惑いながら自分の中の感覚を押さえ込もうと、思わず目を閉じる。その瞬間、はるか遠くに感じていたはずの気配の1つを酷く身近に感じ取ってしまった自分に気がついていた。それは自分と同じものだとしか言いようのない気配だったが、酷く小さいと感じる。その気配の放つ光の小ささが、信哉の心を酷く不安にさせていた。まるで、消えかけている灯火のようなその気配は酷く恐ろしい結末を生むような気がしてならない。不意に、その気配を酷く近くに感じたような気がした。
………信哉…………。
不意に弾ける様に浮かんだ母の顔とその灯火が重なる気がして彼は、思わず天を仰いだ。
酷く不安で嫌な気分が全身を包むのを感じながら、今感じていた気配が自分の中から消え去ってしまっていることに気がついて彼は頭を軽く振って再び歩き出す。不安はしこりの様に心の中に漂い続けているが、それをどうしたら消せるのかも彼には想像もつかなかった。歩き出した彼の鞄の中で不意になりだした携帯電話の着信音に彼は再び凍りついたように足を止め心に漂う不安を噛み殺す様にして、それを取り出すと耳に押し当てる。
『…信哉か…?』
月の光はいまだ酷く血のようにどんよりと赤く、鈍く光を放ちながら彼を見下ろしている。信哉は道の最中で立ちすくみながら息を殺すように携帯を握っている。その受話器の公衆電話らしい音の向こうから酷く怯えた武の声が響き、信哉は押し潰されそうな不安を飲み込んで硬く唇を噛み締めながら、続く言葉を聴いていた。
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不意に眩暈が強くなるような気がした。白い蛍光灯の光が溢れる室内に、目にしみるような淡い緑のカーテンがただ申し訳程度に視界の半分を覆う。
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事故自体の外傷はそれほど酷いものではありません…しかしどうにもおかしな事が…。
最初に母を診察して治療した救急室の医師が、まるで信じられないものを見たような顔で自分と一緒に話を聞く武に向かって話す。それを信哉はボンヤリした気持ちで、自分が聞いていたのを感じる。
大型のダンプカーにかなりのスピードで撥ね飛ばされ道路に叩きつけられたと言う話だが、確かに傷は大きいが奇跡としか言いようがなく命にかかわるほどではない。しかし、今の問題はそこではないのだということを医師が言いにくそうに口にした。それを直に耳にしながら、信哉は再び自分の中に何かがざわめくのを感じた。それは隣にいる武からも、そして病院のどこか病室にいる母からも感じる何か特殊な気配。その様子に気がついた武が心配そうに自分を見るのに気がつきながらも彼は無言のまま、今は一人で母の病室に向かいこうして立ちすくんだままでいた。
助けた子供は足の怪我だけで命には問題ないって。母さん。
ふと自分がそう思ったことに彼は哀しくなった。
どこまでも、自分は母の子供なのだと思う。ずっと何時かこんな日が来るのではないかと、あの赤い夕日を見た時から心のどこかで心の中では分かっていた。何時かこんな風に横たわる母を見るはそう遠くないのではと、優輝が逝ってしまったと聞かされた日に心の何処が理解していたのだ。
信哉はまるで足音もさせずにそっと澪に歩み寄るが、彼自身自分の足音がしていないのには気がつきもしない。澪の浅い呼吸は微かに喘ぐ様に胸を波打たせて、蒼白な顔は血の気もなく透き通るかのようにも見える。微かに不規則に刻まれる人工的な心電図の音が酷く弱くアラームを鳴らし、人工的に流される空気の音が酷く冷たく感じられる。首からされる点滴が雫になって落ちる音が聞こえる気がして、信哉は幾つも並ぶ点滴が首から落ちるのを見上げた。
ありえないことだと救急室で母を診た医師は言った。
母の内臓は機能しているのが奇跡的な状況なのだという。血液検査の結果、母の体の中の異常はまるで重度の火傷でも負っているかのような数値で、全ての値は限りなく末期的な症状に近いという。もし体の中の出血したらそれ止める作用など機能しない程の血液自体の崩壊、心臓を止めかねない程の電解質の異常な高値、肝臓も腎臓も本来の活動などとうにしていない。しかも全身の筋肉すらも障害されているのか、血液の中にその証明をするような高い数値ばかりが並んだ。そうして撮影された放射線下の写真には、既に体内で出血が始まっているのが分かっていた。
目の前の母にはあとほんの僅かな時間しか残されていない。それなのにベットに横たわる姿は、そんなことが起きているとは到底思えない。綺麗な母のまま体内の出血が歪に体を歪ませることすらないのが、良いことなのか悪いことなのかが分からなかった。そして、それが何故起こったのか、信哉には判るような気がした。
全ては秘密の仕事……それのせいなんだろ?母さん。
最近は呼ばなくなった呼び方で母に心の中で呟いた瞬間、澪の目がふと開き彼に焦点を結んだ。酸素マスクの下で彼女は微かに微笑み息子を見つめていたが、その目が微かな違和感に震えるのを信哉は見つめた。
「…母さん?」
彼女の目は何かを見透かしているかのように自分の中を見つめ、改めて戦きに震えてその美しい唇を歪める。その唇から微かな呻き声の様に掠れた声が絞り出され、信哉は母が自分の中に何かを見ていることに気がついた。それははっきりとした苦悩の声となって、今の彼女にはありえないほどの声を悲鳴のように上げさせている。
「……そんな!……あなたは関係ないはずよ!」
悲鳴のような叫びが室内に淡くにじんで消えると澪の瞳から突然何かの堰を切ったように涙が溢れ出した。今までにそんな風に泣く母を見たことのない信哉は、戸惑いながらベットの傍に屈みこむ。何がそんなに母を苦悩させているのかが分からない彼は酷く困惑しながら、枕もとのタオルで母の涙を拭うしかできず、それでも澪の涙を止める事はできないことは目に見えていた。既に肺の中にも出血が始まり呼吸のままならない澪は、喘ぐように胸を波打たせて苦しげに表情を歪めながら泣き続ける。そんな母を今まで一度も見たことのない青年は困惑を更に深めた。何時も毅然として涙なんて数えるほどしか見せたことのない母が、信哉を前に子供のように泣く。その姿はどうしようもなく哀しいものだという事を、信哉は初めて知らされた気がした。
「母さん、落ち着いて。どうしたの?」
白い人工灯の白々しい光の下で狼狽して苦悩しながら涙を流す母の顔を、まるで昔自分にしてくれたように優しく撫でる。信哉は訳も分からないままに困惑しながらただ傍に座り、溢れ落ちる涙を優しく丁寧に拭い続ける。
過去には澪の自分の体内に宿っていた筈の光。つい数時間前に自分の体をすり抜けて何処かへ消えていった筈の、あの白銀の炎のような光の存在。失われていく力を感じた時、澪は正直これで自分の役目は終わったのだと安堵すらしていた。息子に隠しながら夜の仮面を被る日々が終わり、もしかしたらこのまま信哉とひっそり暮らしていけるとすら。
ああ、私が間違っていた、意地でも力が抜けていくのを食い止めていたら…
優しく父親に似た仕草で自分を労る息子の体内に、その光が自分の時よりはるかに激しく強い光に変わって確かに見える。そしてそれは酷く哀しい悲鳴のように心に中で空ろに虚しく響きわたる叫びになって、澪の美しい瞳から涙に変わり流れ落ち消えていく。既に自分の中にはもう残りわずかしか感じられない四神の閃きが、今目の前の息子に見えるのは何故なのか。彼女は声も上げることもできずに、ただ泣き続けていた。
「母さん…落ち着いて、ゆっくり息をして、ね。」
額を撫でながらかけられる声が、酷く真見塚成孝に似ているのに切なく鋭い痛みが胸に走る。愛しいと思って肌をあわせ、それでもこのまま一緒にいたら失ってしまうと確信したから離れた人。その人の血を引いた息子。大事な息子だけは巻き込むまいと必死に守ってきたはずなのに、最悪の形で自分の宝物を残酷な運命に引き摺りこんでしまった。
この力は、遺伝しない…そのはずだった…今までは…
そう信じきっていたけれど、澪は同時に最初からこの運命を知っていた気もする。院の老獪が白虎を宿した自分を見失ったのは、澪が妊娠して信哉を産んだからだ。この子は澪のせいで、生まれついて白虎の能力を魂に刻まれてしまっていたのだ。だから、澪がその力を体内に秘めておけなくなったら、白虎はより才能を高めて魂に印を持った信哉を選ぶのは当然としか思えない。こうして残酷な現実理解できたと同時に、酷く虚しくあの忌まわしい言葉が彼女の心には去来する。
それは、異例。
彼女が嫌になるほど何度も言われ続けてきた、何よりも忌まわしい言葉だ。それが分かった今、彼女に出来ることは一つしかなくなっていた。
「しん、や、聞いて。」
「母さん、あとで聞く、今は…。」
「いいから、聞いて、大事なこと、なの。」
血が喉を競り上がってくるのを、飲み下し必死に言葉を繋ぐ。澪が知りうる全てを残された時間で信哉に伝えることしか、もう澪に出来ることはなかったのだ。
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