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外伝 はじまりの光
第五幕 鳥飼澪三十五歳 血縁
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その後も秘密の仕事に関して、信哉に母から何も伝えられる事はない。それを密かに信哉自身悩みながらも、思いつめたような様子を見せることの多くなった母に問いただす事も出来ずにいる。ただ息子として母の姿を見守るしかできないまま、時が過ぎていく。
母や武、想がしているの秘密の仕事は、優輝を失った後もまるで何事もなかったかのように続けられていた。夕暮れから夜半にかけて母が少し出るわねと口にして出掛けていく度に、信哉はもう辞めてくれと言いたかった。だが、思い詰めた表情で出掛けていく母の姿に、信哉は何も言うことが出来ない。
もし、言ったとしても母は辞めない。
それは何か覚悟めいた硬い思いが滲んでいて、信哉に言葉を口にすることを遮っている。そして同時に不思議なことが起きたら母には話すという約束を、実は信哉自身が守れずにいることもそれに拍車を掛けていた。
微かではあったが信哉自身の中に何か言い知れない不安の様な物が付きまとい始めるようになったのだ。それはまるで身の内をジリジリと何かが炙るような不快な感覚で、時に強まり時に唐突に消え去ることもある。そのせいで夜の眠りは緩慢になり、時折苛立ちに包まれる事が増えた。
「あー、何だよ、お嬢さん?喫煙は校則違反だぜー。」
冷えた風に曝されながら屋上の片隅にいた信哉の手の煙草を見た同級生でもある者達があからさまに嘲笑う。その言葉に信哉は、相手に聞こえるように舌打ちをする。母によく似たこの顔立ちのせいで信哉の事を目の敵にしている奴等は、彼の事をお嬢さんと揶揄するのだ。しかも先だっての文化祭での女装のせいで、余計目の前の奴等は調子にのって信哉の事を女呼ばわりする。
普段は無視して放置しておくのだ。しかし、今日の相手は信哉の明らかな校則違反に調子に乗ってしつこく絡み始めた。その内の一人が合気道部で、信哉の事をずっと以前から知っているのも更に調子に乗らせる原因なのは分かっているのだ。
「きれーな顔した妾のママは元気かよ、お嬢さん。」
「………俺のお袋が…何だって?」
合気道部の男は笑いながら、信哉が妾腹の子なんだと周りに暴露して何も知らないくせに母を尻軽と侮蔑の言葉を吐く。その言葉に普段より沸点の低い信哉は、無表情で煙草を咥えたままユラリと立ち上がる。
数分もせずに屋上には、死屍累々と言わんばかりの惨状が広がった。信哉は冷ややかな目で見下ろしながら、母を侮辱した男の頭の上に屈みこみ顔を覗きこむ。信哉の口にはまだ火の着いた煙草が咥えられたままで、見たことのない氷のような視線を向けている。
「……それで?……俺のお袋が…なんだって?」
鼻から血を流して唇を腫れ上がらせた顔が恐怖に歪むのを、信哉は表情も変えずに見下ろす。煙草の先の灰が落ちて頬に当たるのを感じながら、今にもその煙草を顔に押し付けられるのではと相手が怯えているのが分かる。
「ご、ごめん、鳥飼……。」
「妾が、…何だって?悪いな、聞き逃した…、もう一回言えよ。」
周囲の同級生が呻き声をあげているのが聞こえていて、男は怯えたまま謝罪の言葉を掠れた声で繰り返す。実際に信哉から反撃されたのはこれが始めてで、こんな状態でも信哉があからさまに手加減をしているのは分かっていた。ここら辺で合気道をしていれば、神童鳥飼信哉の噂くらい耳にたこが出来るくらい聞かされるのだ。しかも目の前の相手は合気道だけでなく古武術も完全に習得していると言う。もし本気だったなら骨が砕ける位のことは容易く出来るのは、煙草を咥えたままな上に息も乱れてないので明らかだ。
「なにやってんだよ!鳥飼!」
屋上の扉から鋭い叱責の声がかかって、信哉は再び舌打ちすると不意に咥えていた煙草を手にすると無造作にそれを顔に向かって下ろした。不様な悲鳴を上げた男の頭の横に煙草を押し付け、コンクリートでそれを消すとそれを無造作に男のポケットに押し込む。
「何だよ、風間。上原なら居ないぞ。」
「そんなことより、何だよこの惨状は!」
正義感の塊と言っても過言ではない新しく生徒会長になった風間祥太が、呆れたように何人も同級生が呻いている屋上を見渡す。風間の鋭い叱責の声に、信哉は溜め息混じりに屈みこむのをやめて立ち上がる。顔に煙草を押し付けられなかった安堵と、体の痛みに足元の男が情けない声で啜り泣くのが聞こえて信哉の顔が嘲笑うように歪む。
「泣くくらいなら最初から絡むな、ばぁーか。」
冷ややかに言い捨てて、信哉は無造作にその体を跨ぐ。そこにタイミングがいいのか悪いのか信哉の幼馴染み二人が屋上に顔を見せて、信哉は諦めたようにもう一度深い溜め息をついていた。
それは澪が三十五歳、そして信哉が十七歳になる秋を過ぎて、ジワリと冬の気配が感じ始めるようになった十一月。日暮れが早まり血の様に赤い夕陽が沈むのを一人残された生徒指導室の窓から見つめ、不安が何時もより濃く胸に淀むのを感じた日の事だった。
※※※
同じ時刻、秋の濃く深い赤い夕陽を見つめながら澪は西の空にゲートが開くのを感じ、それと同時に何かが心の中でざわめくのを感じた。
優輝の死からおよそ八ヶ月。
闇に消えた八握脛の行方はようとして知れないまま、無情な時間だけが過ぎていく。だが、彼女はけして諦めるつもりはなかったし、八握脛を許す気もなかった。次に出会った時はけして逃さないとあの日から心に誓っていた。だからこそ、あの後も四神としての役目も何も言わないままに続けてきたのだ。
信哉…。
ふと心の中で息子の名前を呼ぶ。
彼女の息子はあの日を境に、酷く無口になっていた。自分が知らぬ間に武から伝わった優輝の死を、父や兄のように慕っていた信哉はどう感じたのだろう。同時にそれが澪にも起こりうることは気が付いてしまっただろうか。
それでも、無口になった息子は澪に何も言おうとはしない。文化祭で同級生で幼馴染みの二人と子供らしい乱闘騒ぎで不貞腐れた顔を見せはしたものの、普段はまるで別人のように無口になってしまった。昔のように笑うこともなく心配したが、澪の友人の土志田純子は男の子はそんなものよと言う。余り以前から澪に心配をかけることのない信哉だったが、これが反抗期と言うものなのか成長によるものなのか、それとも澪の役目のせいなのか判断が出来ないでいる。物憂げに一人で考え込む顔が、父である成孝によく似てきたのが苦く心に浮かぶ。引っ越して遂に自室を持ったせいもあるのだろうかと、母親としては内心考えもする。最近息子の服から微かに煙草の臭いがする気がして、実はそれも気にかかっているのだ。息子は母親の澪がとても臭いに敏感なのを知っているから、喫煙を隠すのなら周到にしているに違いない。
今度腹をわって話し合わないと駄目かしら……。
そう考えながら彼女は普段と同じく、院のあの薄暗い一室へと向かっていた。
あの日を境に澪達と院の関係は更に冷ややかなモノに変わっていたが、そんな事は既に澪達にとってもどうでもいい事に過ぎない。勿論、その影で澪と礼慈の交流だけは細々と続いていたが、もう一人の幼い存在の事は失念していた。というより、式読の血縁者という意識が、澪が幼い存在に関わるのを躊躇わせているのは事実だ。前室を通り抜け式読のいる薄暗い部屋に辿り着いた時、既に日は暮れて他の仲間二人の姿もそこに到着している。
「白虎、奴だ。」
静かに言う朱雀の声に彼女の表情は酷く凍りつくような冷やかさに包まれた。
あの日闇に姿を消したあの忌まわしき存在は、相剋の傷を癒やすのに耐えかねてとうとう闇から這い出してきたのだ。更に深い老化の影をまといながら古老が擦れた声をあげる。それを完全に無視したまま、彼等は三人で式読ではなく、同じくあの日を境に酷く大人びた星読の少年に視線を向けた。
「…気を付けて…皆さん。」
真剣な黒曜石の瞳をした少年の言葉に三人は無言のまま従い、再び西の空へと三つの輝きが光の尾を引いて空を切り裂く様に駆け抜けていく。
※※※
古めかしい臭いの籠る家屋の一室で、一人の幼い視線が空を見つめていた。漆喰の壁に作りつけられた窓は高く、幼い彼には僅かな空しか見えない。唯一の扉は固く閉ざされて、ほんの僅かな人数しか彼のもとを訪れはしないし、彼の外出は厳しく制限されていた。来年は小学生になる筈だった彼は、まるで牢屋にでも押し込められているようだ。
八ヶ月前のあの日。
自分の曽祖父と名乗る酷く年老いた老人のもとに、彼は無理やり連れて来られた。両親に有無を言わせぬ大勢の人間による無理やりな行動で、小学校の入学に向けて穏やかな幸せの中の一家を絶望のどん底に叩き落としたのだ。
今よりもずっと昔から彼は両親が驚くほど酷く賢い子供だった。見たものは大概記憶していて、大抵の物は理解できる能力に母親は名前のせいかしらねと笑う。彼の名前は婿養子の父の美臣から一字、後は母の家系で名前につけると頭が良くなると伝えられている『智』の字をつけたのだと言う。
父も母も穏やかでのんびりとした似合いの夫婦で、彼の方がしっかりしていると数年前に亡くなった祖父が笑うほどだった。そんな幸せな家族の前に唐突に現れた見たことのない服を着た男は、彼に向かって一枚の紙を見せた後それに何が書かれていたか覚えているかと問いかける。彼は賢い子供だったが、やはり子供だったのだ。素直にそれに何が書いてあったか答えた彼は、ほぼ無理矢理と言う状況で両親と引き離されることになった。
車に押し込められた彼に紙を見せた男が冷ややかな声で、言うことを大人しく聞いてついてくるように告げる。曾祖父に当たる人物が彼に会いたいのだと男は言ったが、その冷ややかな声は情の見えない爬虫類のようで彼には恐ろしかった。恐ろしいから賢明な子供だったからこそ、全てに従わなければ両親の身も危ないとも考えたのだ。
それが両親との別れになるなんて、彼は微塵も考えもしなかった。ここに来てから誰に何を聞いても曾祖父である老人が許さなければ、家には帰せないと繰り返すだけ。しかも、その曾祖父まで爬虫類のように感情を見せず、自分に繰り返し図や文字を覚えさせ答えさせるばかりで一向に家には帰してくれそうにない。冷たい人間に見えない視線で彼を見る老人と、本当に自分は血が繋がっているのだろうかと彼は不快だった。
そうして彼はその繰り返しが終ると、この部屋に閉じ込められて毎夜何とか出来ないだろうかと思案する。会話をする相手もいないここで、彼が出来るのは考えることと空を眺めることくらいなのだ。
流れ星……?
酷く孤独な古ぼけた部屋の中で、もう大分長い期間少年は一人で様々な事を考え過ごしてきた。一体自分の身に何が起こったのか、そして今同じ空の下で自分の両親はどうしているのか。
そんな思いを巡らせながら、この世界から隔絶された部屋を抜け出す方法を必死に思案する。
帰りたいよ…。
話もしないでいると言葉をどんどん自分が忘れていく様な気がして、酷く少年は恐ろしいと感じていた。両親との暖かい記憶だけが彼を何とか繋ぎ止めていて、それがなければ等の昔におかしくなっていただろう。
普通に幼稚園に通っていた五歳の少年が、突然見ず知らずの曾祖父と名乗る人間に拉致されている。幼いが賢明な彼にはそんなことは許されない筈だと理解できるのに、何故か警察も誰も彼を助けにやって来てはくれないのだ。
だから、僕が自分で何とかしなきゃ。
そう一人で思案にくれる彼は、暗く星の光が瞬く空を言葉もなく見上げていた。
母や武、想がしているの秘密の仕事は、優輝を失った後もまるで何事もなかったかのように続けられていた。夕暮れから夜半にかけて母が少し出るわねと口にして出掛けていく度に、信哉はもう辞めてくれと言いたかった。だが、思い詰めた表情で出掛けていく母の姿に、信哉は何も言うことが出来ない。
もし、言ったとしても母は辞めない。
それは何か覚悟めいた硬い思いが滲んでいて、信哉に言葉を口にすることを遮っている。そして同時に不思議なことが起きたら母には話すという約束を、実は信哉自身が守れずにいることもそれに拍車を掛けていた。
微かではあったが信哉自身の中に何か言い知れない不安の様な物が付きまとい始めるようになったのだ。それはまるで身の内をジリジリと何かが炙るような不快な感覚で、時に強まり時に唐突に消え去ることもある。そのせいで夜の眠りは緩慢になり、時折苛立ちに包まれる事が増えた。
「あー、何だよ、お嬢さん?喫煙は校則違反だぜー。」
冷えた風に曝されながら屋上の片隅にいた信哉の手の煙草を見た同級生でもある者達があからさまに嘲笑う。その言葉に信哉は、相手に聞こえるように舌打ちをする。母によく似たこの顔立ちのせいで信哉の事を目の敵にしている奴等は、彼の事をお嬢さんと揶揄するのだ。しかも先だっての文化祭での女装のせいで、余計目の前の奴等は調子にのって信哉の事を女呼ばわりする。
普段は無視して放置しておくのだ。しかし、今日の相手は信哉の明らかな校則違反に調子に乗ってしつこく絡み始めた。その内の一人が合気道部で、信哉の事をずっと以前から知っているのも更に調子に乗らせる原因なのは分かっているのだ。
「きれーな顔した妾のママは元気かよ、お嬢さん。」
「………俺のお袋が…何だって?」
合気道部の男は笑いながら、信哉が妾腹の子なんだと周りに暴露して何も知らないくせに母を尻軽と侮蔑の言葉を吐く。その言葉に普段より沸点の低い信哉は、無表情で煙草を咥えたままユラリと立ち上がる。
数分もせずに屋上には、死屍累々と言わんばかりの惨状が広がった。信哉は冷ややかな目で見下ろしながら、母を侮辱した男の頭の上に屈みこみ顔を覗きこむ。信哉の口にはまだ火の着いた煙草が咥えられたままで、見たことのない氷のような視線を向けている。
「……それで?……俺のお袋が…なんだって?」
鼻から血を流して唇を腫れ上がらせた顔が恐怖に歪むのを、信哉は表情も変えずに見下ろす。煙草の先の灰が落ちて頬に当たるのを感じながら、今にもその煙草を顔に押し付けられるのではと相手が怯えているのが分かる。
「ご、ごめん、鳥飼……。」
「妾が、…何だって?悪いな、聞き逃した…、もう一回言えよ。」
周囲の同級生が呻き声をあげているのが聞こえていて、男は怯えたまま謝罪の言葉を掠れた声で繰り返す。実際に信哉から反撃されたのはこれが始めてで、こんな状態でも信哉があからさまに手加減をしているのは分かっていた。ここら辺で合気道をしていれば、神童鳥飼信哉の噂くらい耳にたこが出来るくらい聞かされるのだ。しかも目の前の相手は合気道だけでなく古武術も完全に習得していると言う。もし本気だったなら骨が砕ける位のことは容易く出来るのは、煙草を咥えたままな上に息も乱れてないので明らかだ。
「なにやってんだよ!鳥飼!」
屋上の扉から鋭い叱責の声がかかって、信哉は再び舌打ちすると不意に咥えていた煙草を手にすると無造作にそれを顔に向かって下ろした。不様な悲鳴を上げた男の頭の横に煙草を押し付け、コンクリートでそれを消すとそれを無造作に男のポケットに押し込む。
「何だよ、風間。上原なら居ないぞ。」
「そんなことより、何だよこの惨状は!」
正義感の塊と言っても過言ではない新しく生徒会長になった風間祥太が、呆れたように何人も同級生が呻いている屋上を見渡す。風間の鋭い叱責の声に、信哉は溜め息混じりに屈みこむのをやめて立ち上がる。顔に煙草を押し付けられなかった安堵と、体の痛みに足元の男が情けない声で啜り泣くのが聞こえて信哉の顔が嘲笑うように歪む。
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それは澪が三十五歳、そして信哉が十七歳になる秋を過ぎて、ジワリと冬の気配が感じ始めるようになった十一月。日暮れが早まり血の様に赤い夕陽が沈むのを一人残された生徒指導室の窓から見つめ、不安が何時もより濃く胸に淀むのを感じた日の事だった。
※※※
同じ時刻、秋の濃く深い赤い夕陽を見つめながら澪は西の空にゲートが開くのを感じ、それと同時に何かが心の中でざわめくのを感じた。
優輝の死からおよそ八ヶ月。
闇に消えた八握脛の行方はようとして知れないまま、無情な時間だけが過ぎていく。だが、彼女はけして諦めるつもりはなかったし、八握脛を許す気もなかった。次に出会った時はけして逃さないとあの日から心に誓っていた。だからこそ、あの後も四神としての役目も何も言わないままに続けてきたのだ。
信哉…。
ふと心の中で息子の名前を呼ぶ。
彼女の息子はあの日を境に、酷く無口になっていた。自分が知らぬ間に武から伝わった優輝の死を、父や兄のように慕っていた信哉はどう感じたのだろう。同時にそれが澪にも起こりうることは気が付いてしまっただろうか。
それでも、無口になった息子は澪に何も言おうとはしない。文化祭で同級生で幼馴染みの二人と子供らしい乱闘騒ぎで不貞腐れた顔を見せはしたものの、普段はまるで別人のように無口になってしまった。昔のように笑うこともなく心配したが、澪の友人の土志田純子は男の子はそんなものよと言う。余り以前から澪に心配をかけることのない信哉だったが、これが反抗期と言うものなのか成長によるものなのか、それとも澪の役目のせいなのか判断が出来ないでいる。物憂げに一人で考え込む顔が、父である成孝によく似てきたのが苦く心に浮かぶ。引っ越して遂に自室を持ったせいもあるのだろうかと、母親としては内心考えもする。最近息子の服から微かに煙草の臭いがする気がして、実はそれも気にかかっているのだ。息子は母親の澪がとても臭いに敏感なのを知っているから、喫煙を隠すのなら周到にしているに違いない。
今度腹をわって話し合わないと駄目かしら……。
そう考えながら彼女は普段と同じく、院のあの薄暗い一室へと向かっていた。
あの日を境に澪達と院の関係は更に冷ややかなモノに変わっていたが、そんな事は既に澪達にとってもどうでもいい事に過ぎない。勿論、その影で澪と礼慈の交流だけは細々と続いていたが、もう一人の幼い存在の事は失念していた。というより、式読の血縁者という意識が、澪が幼い存在に関わるのを躊躇わせているのは事実だ。前室を通り抜け式読のいる薄暗い部屋に辿り着いた時、既に日は暮れて他の仲間二人の姿もそこに到着している。
「白虎、奴だ。」
静かに言う朱雀の声に彼女の表情は酷く凍りつくような冷やかさに包まれた。
あの日闇に姿を消したあの忌まわしき存在は、相剋の傷を癒やすのに耐えかねてとうとう闇から這い出してきたのだ。更に深い老化の影をまといながら古老が擦れた声をあげる。それを完全に無視したまま、彼等は三人で式読ではなく、同じくあの日を境に酷く大人びた星読の少年に視線を向けた。
「…気を付けて…皆さん。」
真剣な黒曜石の瞳をした少年の言葉に三人は無言のまま従い、再び西の空へと三つの輝きが光の尾を引いて空を切り裂く様に駆け抜けていく。
※※※
古めかしい臭いの籠る家屋の一室で、一人の幼い視線が空を見つめていた。漆喰の壁に作りつけられた窓は高く、幼い彼には僅かな空しか見えない。唯一の扉は固く閉ざされて、ほんの僅かな人数しか彼のもとを訪れはしないし、彼の外出は厳しく制限されていた。来年は小学生になる筈だった彼は、まるで牢屋にでも押し込められているようだ。
八ヶ月前のあの日。
自分の曽祖父と名乗る酷く年老いた老人のもとに、彼は無理やり連れて来られた。両親に有無を言わせぬ大勢の人間による無理やりな行動で、小学校の入学に向けて穏やかな幸せの中の一家を絶望のどん底に叩き落としたのだ。
今よりもずっと昔から彼は両親が驚くほど酷く賢い子供だった。見たものは大概記憶していて、大抵の物は理解できる能力に母親は名前のせいかしらねと笑う。彼の名前は婿養子の父の美臣から一字、後は母の家系で名前につけると頭が良くなると伝えられている『智』の字をつけたのだと言う。
父も母も穏やかでのんびりとした似合いの夫婦で、彼の方がしっかりしていると数年前に亡くなった祖父が笑うほどだった。そんな幸せな家族の前に唐突に現れた見たことのない服を着た男は、彼に向かって一枚の紙を見せた後それに何が書かれていたか覚えているかと問いかける。彼は賢い子供だったが、やはり子供だったのだ。素直にそれに何が書いてあったか答えた彼は、ほぼ無理矢理と言う状況で両親と引き離されることになった。
車に押し込められた彼に紙を見せた男が冷ややかな声で、言うことを大人しく聞いてついてくるように告げる。曾祖父に当たる人物が彼に会いたいのだと男は言ったが、その冷ややかな声は情の見えない爬虫類のようで彼には恐ろしかった。恐ろしいから賢明な子供だったからこそ、全てに従わなければ両親の身も危ないとも考えたのだ。
それが両親との別れになるなんて、彼は微塵も考えもしなかった。ここに来てから誰に何を聞いても曾祖父である老人が許さなければ、家には帰せないと繰り返すだけ。しかも、その曾祖父まで爬虫類のように感情を見せず、自分に繰り返し図や文字を覚えさせ答えさせるばかりで一向に家には帰してくれそうにない。冷たい人間に見えない視線で彼を見る老人と、本当に自分は血が繋がっているのだろうかと彼は不快だった。
そうして彼はその繰り返しが終ると、この部屋に閉じ込められて毎夜何とか出来ないだろうかと思案する。会話をする相手もいないここで、彼が出来るのは考えることと空を眺めることくらいなのだ。
流れ星……?
酷く孤独な古ぼけた部屋の中で、もう大分長い期間少年は一人で様々な事を考え過ごしてきた。一体自分の身に何が起こったのか、そして今同じ空の下で自分の両親はどうしているのか。
そんな思いを巡らせながら、この世界から隔絶された部屋を抜け出す方法を必死に思案する。
帰りたいよ…。
話もしないでいると言葉をどんどん自分が忘れていく様な気がして、酷く少年は恐ろしいと感じていた。両親との暖かい記憶だけが彼を何とか繋ぎ止めていて、それがなければ等の昔におかしくなっていただろう。
普通に幼稚園に通っていた五歳の少年が、突然見ず知らずの曾祖父と名乗る人間に拉致されている。幼いが賢明な彼にはそんなことは許されない筈だと理解できるのに、何故か警察も誰も彼を助けにやって来てはくれないのだ。
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