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外伝 はじまりの光
第二幕 鳥飼澪二十四歳 検体
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目的の場所に辿り着いた時、始めてみたそれに澪は息を飲んだ。それはまさに『穴』という表現が相応しく、それでいて溢れ出す底冷えするような気配は出入口。つまりは『ゲート』というのに相応しいように感じられる。
そこは山間部を最短で西の大都市を繋ごうと山中の峰の一部を抉るように削り取っていた。人の手によるその所業の後にポッカリと開いた闇が、生暖かく病み始めた膿のような風を放っている。それは地の底に開く穴であり、何か得体の知れないものが這い出てくる門ようなものに、確かに見えた。
透き通る月の光ですら奥を照らさないそのゲートは、今は人気の全くない工事現場に無言で存在している。
「あれが『ゲート』なのね?」
彼女の言葉に玄武が、「そうだ」と答える。
直径は三メートルあるかないか、闇の穴は生温い風を吐き出しているのに何処か足元から凍りつくような気配を放つ。そこにいても普通の人間には、あの穴自体が見えないのだと玄武が話すのを横に聞いて驚きを禁じ得ない。
この穴が開く瞬間の気配を感じられるのは、ここにいる三人とあの『星読』と呼ばれる古老だけなのだという。それ以外の者には殆ど穴を直に見ることでしか確認できない。僅かに有りかを探り出せる者もいるが、星読に大まかな場所を告げられてからでないと正確な場所は読み取れないのだと言う。院の者は星読が探知した穴を、式読の指示で動き穴を閉じに行くのだ。
「殆どは俺達が塞いでるけどな。」
「あっちはトロいし、場所を探すのもまともに出来ねぇんだよ。」
たった二人で国内全てを網羅すると聞くだけで、澪は唖然としてしまう。そんな状況では昼間に仕事をすることすら出来ないではないだろうか。その疑問は至極全うで、同時に彼らにとって残酷な現実でもある。何故ならそれはこれからの澪の姿でもあるのだ。
そんな馬鹿な話ないわ。
澪は心の中でそう呟きながら、けして自分の生活を彼らに売り渡しはしないと硬く決心する。大事な一人息子との生活だって澪は絶対に諦めるつもりはない。
そんなことに負けてたまるもんですか。
澪は誰に教えられるでもなく本能が囁くままに、その微かに生み始めた未知の気を放つ暗闇の淵に歩み寄る。そして、そのゲートの放つ気配こそが、今まで不意に体を襲ってきた感覚の原因であった事を感じていた。つまり、あの感覚が現れたり消えたりしていたのは、このゲートが開く時と彼らが閉じた時の感覚だったのだという事が、その時になって初めて理解できた。
澪は全身に月の光を浴びてその身を白銀に輝かせながら、武術をするのにも似た感覚で全身に気を満たしゆっくりと練り始める。それは今まで自分が行ってきたものとは違う気の使い方であったが、そうすることに違和感はなく澪は本能に従った。突然、引かれる様にゲートに向かって彼女が手を差し向けたかと思うと、澪の細く白い両腕から白銀に輝く光が閃光のように弾け散った。光はゲートを丸ごと包み込んだかと思うと。ゆるりと圧力をかけて少しずつ暗闇を閉じ始める。
「初めてとは思えねェな。白虎。」
ひゅうと口笛が音色を立てたかと思うと、同時に背後から優しげな声音が響いて一つの人影がふわりと宙に舞い上がる。その姿は瞳から真紅の輝きを放ちながら、闇から這い出してくる異様な蜘蛛のようなモノを炎で炙り燃やし尽くしていく。
澪は林の木々の木立から自分を監視する視線があることを感じながら、力を緩めることなく自分の両手から放たれる白銀の光を不思議な思いで見つめた。
これが…異能…。そして、あれが人外…
力の解放はまるで今まで無理矢理押し込めてきたものを介抱するかのような爽快感があり澪は微かに戦く。まるで自分の中に別な生き物が元々息ずいていたような感覚、それでいてそれを心地いいとすら思う自分の感覚が何だか恐ろしい。
自分の守るべき者を忘れてしまいそうなその気配は、玄武の言葉を思い出させる。
全てを失った者。自分が宿すことになるものに全てを奪われる、まるで生贄のように…。
彼女の視界に入らない場所から玄武の気配が同じようにゲートの回りを這い回るものを消し飛ばしていく。どうやら彼の方は水を圧縮して放出しているようだ。その後の細やかな霧のような水が、朱雀の炎と反応して真っ白な蒸気に変わる。
奪われていく視界の中で、澪は異様に嗅覚が高まっている自分に気がついた。木々の息ずく匂い、その影に生えた草花の匂い。それを無下に踏みしだき、草木の茎を降り潰す人間の臭いと仲間二人の匂いが判別できる。そして、その先にあるゲートから漏れ落ちる汚泥のように腐り果てた臭いが漂っていた。
こんなに嫌な臭いなのに、あそこにいる人達はただ黙って見ていたんだわ。
それが何故か分かったのは、木陰でこちらを監視する者達の臭いの強さのせいかもしれない。やがてゲートを閉じるのに二人が、気を放ち助勢を始めるのを感じた。三つの力を感じながら彼女はそれでも、自分の心の中で息子のことを考える。
澪自身が大事な者を忘れない為に、彼女が一番守らなければならない者の事を一心に思った。力に引きずられて、見失ってしまわぬよう、彼を守るために生きる理由を得た事を必死で考えながら力を放ち続ける。
三方向から力が加わったことで、ゲートは耐え切れないという様に見る間にその口を閉じ始めている。瞬く間にゲートは、その闇の淵に見える暗闇を閉ざしていった。
※※※
その日から鳥飼澪は一人の母でありながら、異能の門番となり『白虎』という名前を継いだ。
十六歳のあの冷たい霧雨の中で、孤独を噛締めながらせめてただ幸せに生き続けたいと願っただけ。それなのに少女の狂った運命の歯車は、澪の幸せな未来への道を再び閉ざしただけでは彼女を離そうとはしない。そして、今や運命は母としてただ穏やかに自分と自分の息子の生活を守りたいという細やかな澪の願いすらも許してはくれなかった。
院と表だって呼ばれるだけの全体像も分からない封建的な組織の監視下の中で、澪の生活は多くの制限を受ける事となる。彼らは澪が仕事を持つことすら難色を示してきた。生活の金銭は支援するといわれたが、頑なに澪はそれを拒否して自分の生活を守ろうと努力する。それが更に院からの締め付けを強くしたが、澪はその程度の事で全てを諦めるつもりはなかった。
金銭的に援助を受けることは全てを捨てて彼らの支配下に置かれるような気がしたし、何より他の二人の仲間もそれだけは絶対に受けるなと彼女の意見に同意したのだ。
「自分達が自分たちと同じ人間と考えられない者達のペットに自分からなる必要はない。」
そう玄武・氷室優輝は彼女にはっきり言い、朱雀・五代武も直ぐ様それに同意した。そんな援助を受けなくても、自分たちは人間なのだから自分で生きて行けると三人は思う。ただ、彼らは自分達を手駒にして手元に置きたいだけなのだ。普通とは違う異能を持った者だから。
そのささやかな反発の代償に澪に課せられたのは、他の二人と同じく時々車に乗せられて連れ出される名前も分からない医療施設での検査を受けることだった。
研究所にも見える人気のない医療施設は、普通とは違って余り消毒の臭いはしない。ただモルモットの様に血液検査を受けたり、言われるがままに異能を使ってみせる事を強いられる。それは様々な種類の苦痛と恥辱を澪に与えていた。
『では、その板を割りなさい。』
特殊ガラス越しの無機質な命令は、到底普通のまともな人間とは思えない。しかし、それを断れば必ず息子という盾を使われることは、ここ数ヶ月で嫌というほど思い知らされている。彼らにとって澪は人間ではないのだ。
目の前には分厚い板と呼ぶにはおかしい金属板が澪の目の前に置かれていた。彼らはガラスの向こうで安心しているが、もしその気になれば彼女がその強化ガラス程度は造作も無く叩き切れる事には気がついていない。
彼らは院の人間ではなく、どうも政府の人間らしいと気がついたのはその様子からだ。院の者であれば彼女の能力が金気といであり、刃物のような鋭さで多くの物を切り裂く事ができる事を知っている。澪が弱いのは朱雀のような火気を持つ者位だ。
やすやすとその四肢から白銀の光を放ち、金属板すら細切れにする彼女の動きをデータにとりながら澪の四肢につけられた電極から不意に電流が流れ出し澪はその苦痛に唇を噛む。動きの後に電気を流すなんて、ハッキリ言って拷問にしか感じない。金気が金属や刃物を示すからと言って、電流をどう流すかなんて何の意味があるというのだろうか。
彼らは本当に自分を実験動物としてしか見ていない。
電流を上げたり下げたりされ苦痛に唇を噛締めた澪の姿を笑いながら眺めている白衣の人間の姿に眩暈がする。
澪の苦悩の姿に耐え切れなくなったのは、彼女ではなく一番仲間の中では冷静だと見られていた優輝だった。強化ガラス越しに不意に研究員の白衣の後ろからバケツをひっくり返したような水が、機械に向かって襲い掛かり彼女のデータを取っていた機器の全てを水流が押しつぶして電光が弾け白煙があがる。慌てる研究員達の様子を嘲る瞳で見下ろしながら検査着のままの優輝の足が、鋼鉄製の扉を蹴り飛ばしてへこませながら叩き開ける。
その人間にあるまじき脚力に白衣の姿が怯えたような視線を向けるのにもまったく意にかえさない様子で優輝は、室内でへたり込んだ彼女の体から電極を引きちぎるようにして取り去るとその部屋から体を支えながら連れ出す。
「あ…お・おい…。」
戸惑うような研究員の声に冷ややかな侮蔑の視線を投げて黙らせると、検査着のまま彼らを見下ろして酷く冷たい声音で口を開く。
「あんた等は、女性の扱いも知らないんだな。」
その声に不意に我に帰ったような表情で二人を見上げる研究員の視線を背にしたまま、彼は踵を返して澪を廊下へと連れ出す。彼は自分より澪の検査の方が過酷だという事に気がついていた。それはどうしても、彼女が初めての女性の四神である上に子供がいるという事実が付きまとう。優輝は不快な気持ちを胸に抱きながら、澪を見下ろすと心配げにその顔色を伺った。
彼自身様々な検査をこの十年受けてきたが、結局研究と称して普通の人間とが違う自分達の体を弄繰り回して遊んでいるだけだと優輝は考えている。何故なら今までの検査ので分かったのは、彼らの能力は遺伝的な素因は無く、遺伝子的にも他の人間となんら代わりが無いということだけなのだ。
「大丈夫か?澪。」
長身でしなやかな姿をした彼は一見すればモデルで通りそうな男ぶりで、二つしか年の違わない澪と並べば検査着でなければどれほど絵になる姿だろう。澪は彼の腕に体を支えられながら疲労の滲んだ表情で弱々しく微笑んだ。
「ありがとう、優輝さん。」
澪は疲れたように呟いた。
他の人間と異なる三人の異能者、そしてその三人の中でもまた違う彼女の存在。眩い光のような清廉な美しさを持つ彼女の身は労わるべきであって、こんな風に酷い目にあわせる人間の気持ちが分からない。そう思いながら優輝は溜め息をついた。
「どうしたァ?大丈夫かよ、澪。」
もう一人の仲間の声に二人の表情が微かに緩む。
同じく検査着の朱雀・五代武が、その検査着を焦げ臭いような臭いを漂わせながらそこに立っている。
優輝と武にとっては身寄りのない身の上には澪のように盾になるものはなく、ちょくちょく検査機器を平気で壊して脱走を図っていた。どうせ分かる事なんて無いと言うのが彼らの持論であり、壊した機材にしても次にくれば同じかそれ以上のものが準備されているのだ。そのせいもあって、特に武は容赦なく脱走を図っている様子で検査中に爆破音がすることもままある事だった。しかし、それでも研究員には怪我一つさせていない事にとうの研究員達は気がついてはいないのだろう。時折澪の嗅覚以外にも過敏になりつつある聴覚に、研究員達のブツブツ言う声が入ることもある。
また、あいつが機材を爆破させたらしい。
また、あいつが機材をショートさせたらしいぞ。
何回すれば気がすむんだ…
その最後の言葉は彼女が逆に彼らに聞いてみたいものだが、聞けば今度は聴力検査までさせられそうなので黙って聞き流す。
子供が盾にとられる澪にはやりたくてもできない事を、代わりに彼らがやってくれるような気がして彼女自身止める気にはなれないのだから。
「大丈夫、優輝さんが助けてくれたから。武はどうしたの?」
彼女の声に武が少し不満そうな顔をする。
実際十九歳の彼と二十四歳の彼女には五歳の年の開きがあり、年下というせいか弟のように扱われるのが最近の武の一番の不満らしい。その何だか検査着でさえなければ微笑ましいといえる様子に優輝も穏やかな微笑を浮かべていた。
澪にも日を追うごとに彼ら二人が院に対して、特にあの二人の古老に対して良い感情を持っていないのが理解できるようになった。行動を共にする時間が増えれば増えるほど自分達の置かれた境遇の不思議さは際立ち、自分達をまるで実験動物か人間ではない物の様に扱う者の多さに澪は唖然とするしかなかった。
こんな世界があるなんて、考えたこともなかった。
三人は同じ境遇にあるもの同士、まるで血縁があるかのようにお互いを支えあい知らぬ間に性別も関係なく仲間として支えあいつつある存在になっていたのだ。
そこは山間部を最短で西の大都市を繋ごうと山中の峰の一部を抉るように削り取っていた。人の手によるその所業の後にポッカリと開いた闇が、生暖かく病み始めた膿のような風を放っている。それは地の底に開く穴であり、何か得体の知れないものが這い出てくる門ようなものに、確かに見えた。
透き通る月の光ですら奥を照らさないそのゲートは、今は人気の全くない工事現場に無言で存在している。
「あれが『ゲート』なのね?」
彼女の言葉に玄武が、「そうだ」と答える。
直径は三メートルあるかないか、闇の穴は生温い風を吐き出しているのに何処か足元から凍りつくような気配を放つ。そこにいても普通の人間には、あの穴自体が見えないのだと玄武が話すのを横に聞いて驚きを禁じ得ない。
この穴が開く瞬間の気配を感じられるのは、ここにいる三人とあの『星読』と呼ばれる古老だけなのだという。それ以外の者には殆ど穴を直に見ることでしか確認できない。僅かに有りかを探り出せる者もいるが、星読に大まかな場所を告げられてからでないと正確な場所は読み取れないのだと言う。院の者は星読が探知した穴を、式読の指示で動き穴を閉じに行くのだ。
「殆どは俺達が塞いでるけどな。」
「あっちはトロいし、場所を探すのもまともに出来ねぇんだよ。」
たった二人で国内全てを網羅すると聞くだけで、澪は唖然としてしまう。そんな状況では昼間に仕事をすることすら出来ないではないだろうか。その疑問は至極全うで、同時に彼らにとって残酷な現実でもある。何故ならそれはこれからの澪の姿でもあるのだ。
そんな馬鹿な話ないわ。
澪は心の中でそう呟きながら、けして自分の生活を彼らに売り渡しはしないと硬く決心する。大事な一人息子との生活だって澪は絶対に諦めるつもりはない。
そんなことに負けてたまるもんですか。
澪は誰に教えられるでもなく本能が囁くままに、その微かに生み始めた未知の気を放つ暗闇の淵に歩み寄る。そして、そのゲートの放つ気配こそが、今まで不意に体を襲ってきた感覚の原因であった事を感じていた。つまり、あの感覚が現れたり消えたりしていたのは、このゲートが開く時と彼らが閉じた時の感覚だったのだという事が、その時になって初めて理解できた。
澪は全身に月の光を浴びてその身を白銀に輝かせながら、武術をするのにも似た感覚で全身に気を満たしゆっくりと練り始める。それは今まで自分が行ってきたものとは違う気の使い方であったが、そうすることに違和感はなく澪は本能に従った。突然、引かれる様にゲートに向かって彼女が手を差し向けたかと思うと、澪の細く白い両腕から白銀に輝く光が閃光のように弾け散った。光はゲートを丸ごと包み込んだかと思うと。ゆるりと圧力をかけて少しずつ暗闇を閉じ始める。
「初めてとは思えねェな。白虎。」
ひゅうと口笛が音色を立てたかと思うと、同時に背後から優しげな声音が響いて一つの人影がふわりと宙に舞い上がる。その姿は瞳から真紅の輝きを放ちながら、闇から這い出してくる異様な蜘蛛のようなモノを炎で炙り燃やし尽くしていく。
澪は林の木々の木立から自分を監視する視線があることを感じながら、力を緩めることなく自分の両手から放たれる白銀の光を不思議な思いで見つめた。
これが…異能…。そして、あれが人外…
力の解放はまるで今まで無理矢理押し込めてきたものを介抱するかのような爽快感があり澪は微かに戦く。まるで自分の中に別な生き物が元々息ずいていたような感覚、それでいてそれを心地いいとすら思う自分の感覚が何だか恐ろしい。
自分の守るべき者を忘れてしまいそうなその気配は、玄武の言葉を思い出させる。
全てを失った者。自分が宿すことになるものに全てを奪われる、まるで生贄のように…。
彼女の視界に入らない場所から玄武の気配が同じようにゲートの回りを這い回るものを消し飛ばしていく。どうやら彼の方は水を圧縮して放出しているようだ。その後の細やかな霧のような水が、朱雀の炎と反応して真っ白な蒸気に変わる。
奪われていく視界の中で、澪は異様に嗅覚が高まっている自分に気がついた。木々の息ずく匂い、その影に生えた草花の匂い。それを無下に踏みしだき、草木の茎を降り潰す人間の臭いと仲間二人の匂いが判別できる。そして、その先にあるゲートから漏れ落ちる汚泥のように腐り果てた臭いが漂っていた。
こんなに嫌な臭いなのに、あそこにいる人達はただ黙って見ていたんだわ。
それが何故か分かったのは、木陰でこちらを監視する者達の臭いの強さのせいかもしれない。やがてゲートを閉じるのに二人が、気を放ち助勢を始めるのを感じた。三つの力を感じながら彼女はそれでも、自分の心の中で息子のことを考える。
澪自身が大事な者を忘れない為に、彼女が一番守らなければならない者の事を一心に思った。力に引きずられて、見失ってしまわぬよう、彼を守るために生きる理由を得た事を必死で考えながら力を放ち続ける。
三方向から力が加わったことで、ゲートは耐え切れないという様に見る間にその口を閉じ始めている。瞬く間にゲートは、その闇の淵に見える暗闇を閉ざしていった。
※※※
その日から鳥飼澪は一人の母でありながら、異能の門番となり『白虎』という名前を継いだ。
十六歳のあの冷たい霧雨の中で、孤独を噛締めながらせめてただ幸せに生き続けたいと願っただけ。それなのに少女の狂った運命の歯車は、澪の幸せな未来への道を再び閉ざしただけでは彼女を離そうとはしない。そして、今や運命は母としてただ穏やかに自分と自分の息子の生活を守りたいという細やかな澪の願いすらも許してはくれなかった。
院と表だって呼ばれるだけの全体像も分からない封建的な組織の監視下の中で、澪の生活は多くの制限を受ける事となる。彼らは澪が仕事を持つことすら難色を示してきた。生活の金銭は支援するといわれたが、頑なに澪はそれを拒否して自分の生活を守ろうと努力する。それが更に院からの締め付けを強くしたが、澪はその程度の事で全てを諦めるつもりはなかった。
金銭的に援助を受けることは全てを捨てて彼らの支配下に置かれるような気がしたし、何より他の二人の仲間もそれだけは絶対に受けるなと彼女の意見に同意したのだ。
「自分達が自分たちと同じ人間と考えられない者達のペットに自分からなる必要はない。」
そう玄武・氷室優輝は彼女にはっきり言い、朱雀・五代武も直ぐ様それに同意した。そんな援助を受けなくても、自分たちは人間なのだから自分で生きて行けると三人は思う。ただ、彼らは自分達を手駒にして手元に置きたいだけなのだ。普通とは違う異能を持った者だから。
そのささやかな反発の代償に澪に課せられたのは、他の二人と同じく時々車に乗せられて連れ出される名前も分からない医療施設での検査を受けることだった。
研究所にも見える人気のない医療施設は、普通とは違って余り消毒の臭いはしない。ただモルモットの様に血液検査を受けたり、言われるがままに異能を使ってみせる事を強いられる。それは様々な種類の苦痛と恥辱を澪に与えていた。
『では、その板を割りなさい。』
特殊ガラス越しの無機質な命令は、到底普通のまともな人間とは思えない。しかし、それを断れば必ず息子という盾を使われることは、ここ数ヶ月で嫌というほど思い知らされている。彼らにとって澪は人間ではないのだ。
目の前には分厚い板と呼ぶにはおかしい金属板が澪の目の前に置かれていた。彼らはガラスの向こうで安心しているが、もしその気になれば彼女がその強化ガラス程度は造作も無く叩き切れる事には気がついていない。
彼らは院の人間ではなく、どうも政府の人間らしいと気がついたのはその様子からだ。院の者であれば彼女の能力が金気といであり、刃物のような鋭さで多くの物を切り裂く事ができる事を知っている。澪が弱いのは朱雀のような火気を持つ者位だ。
やすやすとその四肢から白銀の光を放ち、金属板すら細切れにする彼女の動きをデータにとりながら澪の四肢につけられた電極から不意に電流が流れ出し澪はその苦痛に唇を噛む。動きの後に電気を流すなんて、ハッキリ言って拷問にしか感じない。金気が金属や刃物を示すからと言って、電流をどう流すかなんて何の意味があるというのだろうか。
彼らは本当に自分を実験動物としてしか見ていない。
電流を上げたり下げたりされ苦痛に唇を噛締めた澪の姿を笑いながら眺めている白衣の人間の姿に眩暈がする。
澪の苦悩の姿に耐え切れなくなったのは、彼女ではなく一番仲間の中では冷静だと見られていた優輝だった。強化ガラス越しに不意に研究員の白衣の後ろからバケツをひっくり返したような水が、機械に向かって襲い掛かり彼女のデータを取っていた機器の全てを水流が押しつぶして電光が弾け白煙があがる。慌てる研究員達の様子を嘲る瞳で見下ろしながら検査着のままの優輝の足が、鋼鉄製の扉を蹴り飛ばしてへこませながら叩き開ける。
その人間にあるまじき脚力に白衣の姿が怯えたような視線を向けるのにもまったく意にかえさない様子で優輝は、室内でへたり込んだ彼女の体から電極を引きちぎるようにして取り去るとその部屋から体を支えながら連れ出す。
「あ…お・おい…。」
戸惑うような研究員の声に冷ややかな侮蔑の視線を投げて黙らせると、検査着のまま彼らを見下ろして酷く冷たい声音で口を開く。
「あんた等は、女性の扱いも知らないんだな。」
その声に不意に我に帰ったような表情で二人を見上げる研究員の視線を背にしたまま、彼は踵を返して澪を廊下へと連れ出す。彼は自分より澪の検査の方が過酷だという事に気がついていた。それはどうしても、彼女が初めての女性の四神である上に子供がいるという事実が付きまとう。優輝は不快な気持ちを胸に抱きながら、澪を見下ろすと心配げにその顔色を伺った。
彼自身様々な検査をこの十年受けてきたが、結局研究と称して普通の人間とが違う自分達の体を弄繰り回して遊んでいるだけだと優輝は考えている。何故なら今までの検査ので分かったのは、彼らの能力は遺伝的な素因は無く、遺伝子的にも他の人間となんら代わりが無いということだけなのだ。
「大丈夫か?澪。」
長身でしなやかな姿をした彼は一見すればモデルで通りそうな男ぶりで、二つしか年の違わない澪と並べば検査着でなければどれほど絵になる姿だろう。澪は彼の腕に体を支えられながら疲労の滲んだ表情で弱々しく微笑んだ。
「ありがとう、優輝さん。」
澪は疲れたように呟いた。
他の人間と異なる三人の異能者、そしてその三人の中でもまた違う彼女の存在。眩い光のような清廉な美しさを持つ彼女の身は労わるべきであって、こんな風に酷い目にあわせる人間の気持ちが分からない。そう思いながら優輝は溜め息をついた。
「どうしたァ?大丈夫かよ、澪。」
もう一人の仲間の声に二人の表情が微かに緩む。
同じく検査着の朱雀・五代武が、その検査着を焦げ臭いような臭いを漂わせながらそこに立っている。
優輝と武にとっては身寄りのない身の上には澪のように盾になるものはなく、ちょくちょく検査機器を平気で壊して脱走を図っていた。どうせ分かる事なんて無いと言うのが彼らの持論であり、壊した機材にしても次にくれば同じかそれ以上のものが準備されているのだ。そのせいもあって、特に武は容赦なく脱走を図っている様子で検査中に爆破音がすることもままある事だった。しかし、それでも研究員には怪我一つさせていない事にとうの研究員達は気がついてはいないのだろう。時折澪の嗅覚以外にも過敏になりつつある聴覚に、研究員達のブツブツ言う声が入ることもある。
また、あいつが機材を爆破させたらしい。
また、あいつが機材をショートさせたらしいぞ。
何回すれば気がすむんだ…
その最後の言葉は彼女が逆に彼らに聞いてみたいものだが、聞けば今度は聴力検査までさせられそうなので黙って聞き流す。
子供が盾にとられる澪にはやりたくてもできない事を、代わりに彼らがやってくれるような気がして彼女自身止める気にはなれないのだから。
「大丈夫、優輝さんが助けてくれたから。武はどうしたの?」
彼女の声に武が少し不満そうな顔をする。
実際十九歳の彼と二十四歳の彼女には五歳の年の開きがあり、年下というせいか弟のように扱われるのが最近の武の一番の不満らしい。その何だか検査着でさえなければ微笑ましいといえる様子に優輝も穏やかな微笑を浮かべていた。
澪にも日を追うごとに彼ら二人が院に対して、特にあの二人の古老に対して良い感情を持っていないのが理解できるようになった。行動を共にする時間が増えれば増えるほど自分達の置かれた境遇の不思議さは際立ち、自分達をまるで実験動物か人間ではない物の様に扱う者の多さに澪は唖然とするしかなかった。
こんな世界があるなんて、考えたこともなかった。
三人は同じ境遇にあるもの同士、まるで血縁があるかのようにお互いを支えあい知らぬ間に性別も関係なく仲間として支えあいつつある存在になっていたのだ。
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