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外伝 はじまりの光
第一幕 鳥飼澪十八歳 別離
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月明かりの光の下で今までと違う感情をお互いにもって抱き合ったあの夜から、二人の間には微かな緊張感を伴った空気が生まれていた。お互いの気持ちを知りながら無理に押しかくすような微妙な空気の変化。
それを一緒に暮らしている成孝の母が、一番近くで気がつかない訳はない。
夕刻の人気に溢れる道場の門下生を見つめ正座している成孝の横に彼の母親はたおやかに座る。彼は微かに身を動かしたが遅くに生まれた息子の横で、わずかに老成した母は微笑み周囲を見渡しながら小さく囁いた。
「お前が望む様にしてもいいんですよ、成孝。」
その言葉に成孝は微かに戸惑う様な表情を浮かべる。母がわざとこの時間を選んできたのは、この時間に澪は道場にけしてこない事を知っているからだ。
最近の澪は以前の様に人前で演武を行う事はけしてなくなった。それが何故か問いかけても彼女は微かに美しく微笑むだけで答える様子はない。だが、今の状況ではそれは好都合とも言える。
「あの子は良い子ですからね。婚約と言っても親同士の口約束。お前が望む様になさい。」
母はそれだけ言うと穏やかな微笑みのまま場を立ち去った。そう、成孝には親同士が決めた婚約者がいる。相手とは何度か顔を会わせもして、四つ下の大人しく穏やかな彼女と結婚するのだろうと何気なく考えていた。しかし、自分は確かに澪に惹かれている。惹かれて出来ることなら思いを通じ会わせたいと、一人きりの彼女の家族になりたいと、何処かで強く願ってもいるのだ。
母の言葉の意味を考えながら成孝は門下生の動きを見回すようにしながらも、心の中はじっと物思いに耽る。
どうしたらいいのか、自分でも分からない。
それがその時の彼の正直な気持ちだったのだ。
※※※
その日、成孝に自分が決めたことを話そうと、澪は心に決めていた。
何故なら彼の優しい母親は、その日の午後に仲のよい友人と旅行に出かけて数日の間留守にしている。本当なら彼女がいる場所で話すべきなのだろうが、その前に直に成孝には話しておきたいと彼女は考えたのだ。
人気のない薄暗い二月の寒空に浮かぶ月明かりの下。
道場に差し込む月の光の中で、彼女は手慣れた舞いを舞う様に演武を行っていた。
軽い足捌きは畳の音すら立たず、まるで猫科の動物のようにフワリと吸い付くように動く。身に纏う白い道着も袴ですらも体の一部のようで、音をたてずに裾を捌き切ることが出来る。何より弱い月明かりの中で、暗い筈の道場の隅々迄が苦もなく見通せていた。
そうしてみると、自分の体内の変化が手に取る様に分かる。
鋭く速い動きは、まるで留まる事もない。それなのに、その足元は殆どその場から位置を移動する事もない。足が畳を擦る音もなく、道着の掠る衣擦れの音もない。時折繰り出す掌底の空を切る音が微かに立つが、息も上がらず汗もかかない自分の体。その上自分の技は鋭さを増し、感覚は研ぎ澄まされ体力も比べようもなく満ちている。ほんの二年前は二度繰り返せば汗だくになる筈の、激しい一通りの演武を何度繰り返しても変わらない。それがどれだけ奇異な状態なのかは、もう彼女にはよく分かっていた。
やっぱり…そうするしかないんだわ…。
彼女は静かに動きを止めると、息も荒げずに悲しげに俯いた。汗一つかかない少し伸びた髪の毛がサラリと音をたてて、解かれて肩に絹糸のように光ながら舞い落ちる。
自分の体内の変化は普通ではなく、それを見られない為にここ一年は人前での演武を止めた。だが、このままここで一緒に暮らしていたら自分ではなく、大切な人達に何かが起こりそうな気がする。それが何なのかは分からないが、酷く不快な何かが起こる様な気だけがするのだ。
彼女は、冷たい空気をその肌に感じながら長い睫毛を伏せた。
暖かい心の拠り所である場所を、自分から捨てるのはなんと残酷な事だろう。
自分はまだ十七で、あの時と中身は変わらない気がするのに、
そう心の中で寂しく呟く。
澪は泣きそうになる気持ちを押し殺して、そっと道場を出た。
道場から母屋を繋ぐ廊下の途中で澪はふと立ち止まった。白々とした月の光が降り注ぐ中で庭はボンヤリと美しく青白く浮かんで見え、思わず彼女は足を踏み入れる。
その美しく膨らんだ唇からこぼれる白い息がフワリと風に舞ったかと思うと、夜の闇に溶けて消えていく。それを見上げていると、不意に一ひらの華弁の様に白い雪が舞い落ち、思わず手を伸ばしそれを受け取る。それと殆ど同時に背後に人の気配を感じる。
彼女は振り返らなかった。
ただ手の中の雪をそっと握りしめ澪は泣きそうになっている自分を気取られぬよう祈りながら声を振り絞る。
「卒業と同時に、ここを出ていきます。」
ずっと以前から決めていたのにどうしてもこの言葉を言い出せなかったのは、消しようもない感情のせいだとお互いに気づいていた。彼女が高校を卒業するまであとたった一ヶ月しか残っていない事を知りつつ、彼女がそう言いださない事をずっと願っていた自分がいる事を成孝は冷たい夜風の中で痛いほどに感じていた。
白く輝く小雪の舞う中で立つ澪の後姿を見つめながら、成孝は月明かりの下の彼女をとても美しいと思った。
細くしなやかでスラリと伸びていながら女性らしい丸味も持った肢体、艶やかな肩甲骨辺りで揺れる日本人形の様な絹糸の様な黒髪。
実際、彼女が街を歩けば声をかけてくる者は大勢いたが、彼女は気にもしない。孤高の気高い華の様な、それでいて酷く純粋で脆い一面も持った美しい人。その口から出る事がないようにずっと祈っていた言葉を、自分が耳にして自分が酷く動揺しているのを成孝は自覚していた。
『あなたのしたい様になさい。』
老成した母の言葉が、耳にふと囁きかける様な気がする。
それを掻き消そうとするかの様に、彼女が黒髪を跳ね上げる勢いで思い切った様に振り返った。その彼の心をかき乱す美しい人の表情は半分泣いているかのようにも見えるが、澄んだ大人の女性の気配を匂わせるような艶やかな微笑みを浮かべている。それは哀しげで切なく可憐な微笑みでもあり、自分の鼓動が大きく跳ねたのを月明かりの中で成孝は感じた。
「前から、決めていたんです。でも、貴方とお母様が優しくて暖かくて甘えてしまいました。」
月光の中で舞い降りる小雪がまるで桜か何かの花びらの様にフワリと閃く。不意に澪の表情が揺れた様な気がしたと思った瞬間、彼女は目を伏せた。それは正面から彼女を見下ろしていた成孝から、そっと不自然にも感じるほどの自然な動作で視線をそらしている。
「どうしても……ですか?」
自分声が酷く頼りなく震えている。成孝自身の動揺は、更に深く強まる。目の前の彼女は、彼を見ないように目を伏せたまま縁側に上がると横をすり抜けようと足を運んだ。
それは咄嗟の行動だった。
思わず彼女の細い腕をとってしまった事に困惑しながら、成孝は何故か今は見えない俯いた彼女が泣いているのではないかと感じる。か細い腕は女性らしく折れてしまいそうに細い、酷く戸惑い動揺した心は理性を押しのける様に澪の柔らかな体を引きよせていた。
「澪…。」
冬の夜気の中に舞い散る雪の華を感じながら、冷え切っていながら柔らかく甘い香りが立つ様な美しい人の体を抱きしめる。触れてしまえば成孝の心は砕けてしまいそうな気もする。それでも、その腕の中には確かに澪という一人の女性の感触が在った。
止めたいと思っても止める術がない、止める術がないのに止められない感情があって酷く哀しかった。哀しくて切ない気持だけが満ちていて、何も言う事の出来ない時が存在する事をお互いの間で何度経験しただろう。雪のように淡く溶けてしまえばいいのにと思う感情を幾つ胸の中におしとどめてきただろう。
二人の間に時間がもう僅かしかないと分かるだけに、余計言葉では表せない感情がそこには在った。
物語の様に甘く切ないものではなく、ただそこには狂おしいほどの感情だけが言葉にならずに、舞う雪の様に静かに散っていく様な気がする。
「…ここに…いたら。」
自分の腕の中で小さく囁く様な澪の震える声が心に痛い。
その続きは今は聞きたくなかった。例え、どんな言葉がそれに続くのだとしても聞きたくないと成孝は思う。彼女の唇が言葉の続きを紡ぐ前に、引き寄せた澪のそれに自分の唇を思わず重ね言葉を遮る。それは、二人の間の何かを突き崩す様な切っ掛けの行動だった。
如月のキンと冷えた夜気の中まるで儚い夢の様だった。
それはたった一度、切ない最初で最後の一夜。
その本当にたった一夜だけの晩、静まり返った冷たく見下ろす月明かりの下で、お互いが二年間胸に秘めてきた情を交わす。
白い褥に広がる絹糸のような髪が、その滑らかな曲線を描く白磁の肌に美しく映える。対になるようなしなやかな筋肉の動きに彼女の瞳が見惚れているのに、悲しげな微笑みが浮かぶ。音もなくただ一つに結ばれる事だけを感じながら、澪の瞳からは確かに涙が溢れ落ちた。
その一瞬が永遠であれば良いのにとお互いに心の中で願った。そう願いながらただ秘めてきた激しく狂おしいほどの感情を、お互いの肌から直に感じていた。
※※※
秘めやかなあの一夜から一ヶ月という時の流れは酷く短く、それでいて穏やかに過ぎ去った。まるで、あの夜が夢だったかのようにその事は口にも表にも出ず、誰に知られることもない。
そして、二人の距離が再び縮まる事もないまま、ただ時間だけが過ぎて行く。ただ一人自分の不在にした一夜に、何かあったことを知りつつも二人を見守る成孝の母の視線だけが、何かを訴えかけるが成孝には何もすることができなかった。
やがて二月も終わりに近づき、冬の寒さが緩み始めた頃。
澪は成孝には自分の新しい住所を伝えようとせず、成孝の母に保証人になって貰いアパートを借りた様だ。彼の母は何か彼女から聞いたのかもしれなかったが、成孝には何も伝えないまま引っ越しの準備だけがされていく。でも、成孝自身も彼女に直接何も問う事が出来ないまま、ただ旅立とうとしている彼女を見守った。
桜の蕾が膨らみやがて花が開く頃、少ない荷物をまとめて送り出した彼女は二年前と同じ畳の香りの中ですっと背筋を伸ばし、凛々しくも見えるその視線で二人を正座して見つめている。
穏やかの春の日差しの中で二年前とはまるで別人のように美しく成長した澪が、その優美な動作で二人にその頭を下げ囁く様に、しかし明瞭な声音で告げた。
「今まで本当にありがとうございました。」
穏やかだが凛とした声音は、その静かな光の中で澄んで鈴の音に様に響く。春の香りが風に舞うその時の中で澪の瞳には一つの迷いもなく、その姿に逆に成孝の方が戸惑いを隠せずにいた。母が泣きながら何かを話しかけるのを横に成孝は何も言う事も出来ずに彼女を見つめる。彼女は穏やかに微笑んで、その日の内に真見塚家を去ったのだった。
引き留めたくても、そうさせない何か強い意志を持った澪の瞳だけが、成孝の心に鮮やかな衝撃にも似た感情の残り香を残していた。その後二年程は自分の母と澪が、連絡を取り合っているのは何処となく感じていた。しかし、彼女がいなくなって直ぐに過去を振り払うように自分が結婚して、母が急逝したと同時にその連絡はふつりと途絶えた。
やがて澪の面影は成孝の心の奥にしまいこまれていく。
それを一緒に暮らしている成孝の母が、一番近くで気がつかない訳はない。
夕刻の人気に溢れる道場の門下生を見つめ正座している成孝の横に彼の母親はたおやかに座る。彼は微かに身を動かしたが遅くに生まれた息子の横で、わずかに老成した母は微笑み周囲を見渡しながら小さく囁いた。
「お前が望む様にしてもいいんですよ、成孝。」
その言葉に成孝は微かに戸惑う様な表情を浮かべる。母がわざとこの時間を選んできたのは、この時間に澪は道場にけしてこない事を知っているからだ。
最近の澪は以前の様に人前で演武を行う事はけしてなくなった。それが何故か問いかけても彼女は微かに美しく微笑むだけで答える様子はない。だが、今の状況ではそれは好都合とも言える。
「あの子は良い子ですからね。婚約と言っても親同士の口約束。お前が望む様になさい。」
母はそれだけ言うと穏やかな微笑みのまま場を立ち去った。そう、成孝には親同士が決めた婚約者がいる。相手とは何度か顔を会わせもして、四つ下の大人しく穏やかな彼女と結婚するのだろうと何気なく考えていた。しかし、自分は確かに澪に惹かれている。惹かれて出来ることなら思いを通じ会わせたいと、一人きりの彼女の家族になりたいと、何処かで強く願ってもいるのだ。
母の言葉の意味を考えながら成孝は門下生の動きを見回すようにしながらも、心の中はじっと物思いに耽る。
どうしたらいいのか、自分でも分からない。
それがその時の彼の正直な気持ちだったのだ。
※※※
その日、成孝に自分が決めたことを話そうと、澪は心に決めていた。
何故なら彼の優しい母親は、その日の午後に仲のよい友人と旅行に出かけて数日の間留守にしている。本当なら彼女がいる場所で話すべきなのだろうが、その前に直に成孝には話しておきたいと彼女は考えたのだ。
人気のない薄暗い二月の寒空に浮かぶ月明かりの下。
道場に差し込む月の光の中で、彼女は手慣れた舞いを舞う様に演武を行っていた。
軽い足捌きは畳の音すら立たず、まるで猫科の動物のようにフワリと吸い付くように動く。身に纏う白い道着も袴ですらも体の一部のようで、音をたてずに裾を捌き切ることが出来る。何より弱い月明かりの中で、暗い筈の道場の隅々迄が苦もなく見通せていた。
そうしてみると、自分の体内の変化が手に取る様に分かる。
鋭く速い動きは、まるで留まる事もない。それなのに、その足元は殆どその場から位置を移動する事もない。足が畳を擦る音もなく、道着の掠る衣擦れの音もない。時折繰り出す掌底の空を切る音が微かに立つが、息も上がらず汗もかかない自分の体。その上自分の技は鋭さを増し、感覚は研ぎ澄まされ体力も比べようもなく満ちている。ほんの二年前は二度繰り返せば汗だくになる筈の、激しい一通りの演武を何度繰り返しても変わらない。それがどれだけ奇異な状態なのかは、もう彼女にはよく分かっていた。
やっぱり…そうするしかないんだわ…。
彼女は静かに動きを止めると、息も荒げずに悲しげに俯いた。汗一つかかない少し伸びた髪の毛がサラリと音をたてて、解かれて肩に絹糸のように光ながら舞い落ちる。
自分の体内の変化は普通ではなく、それを見られない為にここ一年は人前での演武を止めた。だが、このままここで一緒に暮らしていたら自分ではなく、大切な人達に何かが起こりそうな気がする。それが何なのかは分からないが、酷く不快な何かが起こる様な気だけがするのだ。
彼女は、冷たい空気をその肌に感じながら長い睫毛を伏せた。
暖かい心の拠り所である場所を、自分から捨てるのはなんと残酷な事だろう。
自分はまだ十七で、あの時と中身は変わらない気がするのに、
そう心の中で寂しく呟く。
澪は泣きそうになる気持ちを押し殺して、そっと道場を出た。
道場から母屋を繋ぐ廊下の途中で澪はふと立ち止まった。白々とした月の光が降り注ぐ中で庭はボンヤリと美しく青白く浮かんで見え、思わず彼女は足を踏み入れる。
その美しく膨らんだ唇からこぼれる白い息がフワリと風に舞ったかと思うと、夜の闇に溶けて消えていく。それを見上げていると、不意に一ひらの華弁の様に白い雪が舞い落ち、思わず手を伸ばしそれを受け取る。それと殆ど同時に背後に人の気配を感じる。
彼女は振り返らなかった。
ただ手の中の雪をそっと握りしめ澪は泣きそうになっている自分を気取られぬよう祈りながら声を振り絞る。
「卒業と同時に、ここを出ていきます。」
ずっと以前から決めていたのにどうしてもこの言葉を言い出せなかったのは、消しようもない感情のせいだとお互いに気づいていた。彼女が高校を卒業するまであとたった一ヶ月しか残っていない事を知りつつ、彼女がそう言いださない事をずっと願っていた自分がいる事を成孝は冷たい夜風の中で痛いほどに感じていた。
白く輝く小雪の舞う中で立つ澪の後姿を見つめながら、成孝は月明かりの下の彼女をとても美しいと思った。
細くしなやかでスラリと伸びていながら女性らしい丸味も持った肢体、艶やかな肩甲骨辺りで揺れる日本人形の様な絹糸の様な黒髪。
実際、彼女が街を歩けば声をかけてくる者は大勢いたが、彼女は気にもしない。孤高の気高い華の様な、それでいて酷く純粋で脆い一面も持った美しい人。その口から出る事がないようにずっと祈っていた言葉を、自分が耳にして自分が酷く動揺しているのを成孝は自覚していた。
『あなたのしたい様になさい。』
老成した母の言葉が、耳にふと囁きかける様な気がする。
それを掻き消そうとするかの様に、彼女が黒髪を跳ね上げる勢いで思い切った様に振り返った。その彼の心をかき乱す美しい人の表情は半分泣いているかのようにも見えるが、澄んだ大人の女性の気配を匂わせるような艶やかな微笑みを浮かべている。それは哀しげで切なく可憐な微笑みでもあり、自分の鼓動が大きく跳ねたのを月明かりの中で成孝は感じた。
「前から、決めていたんです。でも、貴方とお母様が優しくて暖かくて甘えてしまいました。」
月光の中で舞い降りる小雪がまるで桜か何かの花びらの様にフワリと閃く。不意に澪の表情が揺れた様な気がしたと思った瞬間、彼女は目を伏せた。それは正面から彼女を見下ろしていた成孝から、そっと不自然にも感じるほどの自然な動作で視線をそらしている。
「どうしても……ですか?」
自分声が酷く頼りなく震えている。成孝自身の動揺は、更に深く強まる。目の前の彼女は、彼を見ないように目を伏せたまま縁側に上がると横をすり抜けようと足を運んだ。
それは咄嗟の行動だった。
思わず彼女の細い腕をとってしまった事に困惑しながら、成孝は何故か今は見えない俯いた彼女が泣いているのではないかと感じる。か細い腕は女性らしく折れてしまいそうに細い、酷く戸惑い動揺した心は理性を押しのける様に澪の柔らかな体を引きよせていた。
「澪…。」
冬の夜気の中に舞い散る雪の華を感じながら、冷え切っていながら柔らかく甘い香りが立つ様な美しい人の体を抱きしめる。触れてしまえば成孝の心は砕けてしまいそうな気もする。それでも、その腕の中には確かに澪という一人の女性の感触が在った。
止めたいと思っても止める術がない、止める術がないのに止められない感情があって酷く哀しかった。哀しくて切ない気持だけが満ちていて、何も言う事の出来ない時が存在する事をお互いの間で何度経験しただろう。雪のように淡く溶けてしまえばいいのにと思う感情を幾つ胸の中におしとどめてきただろう。
二人の間に時間がもう僅かしかないと分かるだけに、余計言葉では表せない感情がそこには在った。
物語の様に甘く切ないものではなく、ただそこには狂おしいほどの感情だけが言葉にならずに、舞う雪の様に静かに散っていく様な気がする。
「…ここに…いたら。」
自分の腕の中で小さく囁く様な澪の震える声が心に痛い。
その続きは今は聞きたくなかった。例え、どんな言葉がそれに続くのだとしても聞きたくないと成孝は思う。彼女の唇が言葉の続きを紡ぐ前に、引き寄せた澪のそれに自分の唇を思わず重ね言葉を遮る。それは、二人の間の何かを突き崩す様な切っ掛けの行動だった。
如月のキンと冷えた夜気の中まるで儚い夢の様だった。
それはたった一度、切ない最初で最後の一夜。
その本当にたった一夜だけの晩、静まり返った冷たく見下ろす月明かりの下で、お互いが二年間胸に秘めてきた情を交わす。
白い褥に広がる絹糸のような髪が、その滑らかな曲線を描く白磁の肌に美しく映える。対になるようなしなやかな筋肉の動きに彼女の瞳が見惚れているのに、悲しげな微笑みが浮かぶ。音もなくただ一つに結ばれる事だけを感じながら、澪の瞳からは確かに涙が溢れ落ちた。
その一瞬が永遠であれば良いのにとお互いに心の中で願った。そう願いながらただ秘めてきた激しく狂おしいほどの感情を、お互いの肌から直に感じていた。
※※※
秘めやかなあの一夜から一ヶ月という時の流れは酷く短く、それでいて穏やかに過ぎ去った。まるで、あの夜が夢だったかのようにその事は口にも表にも出ず、誰に知られることもない。
そして、二人の距離が再び縮まる事もないまま、ただ時間だけが過ぎて行く。ただ一人自分の不在にした一夜に、何かあったことを知りつつも二人を見守る成孝の母の視線だけが、何かを訴えかけるが成孝には何もすることができなかった。
やがて二月も終わりに近づき、冬の寒さが緩み始めた頃。
澪は成孝には自分の新しい住所を伝えようとせず、成孝の母に保証人になって貰いアパートを借りた様だ。彼の母は何か彼女から聞いたのかもしれなかったが、成孝には何も伝えないまま引っ越しの準備だけがされていく。でも、成孝自身も彼女に直接何も問う事が出来ないまま、ただ旅立とうとしている彼女を見守った。
桜の蕾が膨らみやがて花が開く頃、少ない荷物をまとめて送り出した彼女は二年前と同じ畳の香りの中ですっと背筋を伸ばし、凛々しくも見えるその視線で二人を正座して見つめている。
穏やかの春の日差しの中で二年前とはまるで別人のように美しく成長した澪が、その優美な動作で二人にその頭を下げ囁く様に、しかし明瞭な声音で告げた。
「今まで本当にありがとうございました。」
穏やかだが凛とした声音は、その静かな光の中で澄んで鈴の音に様に響く。春の香りが風に舞うその時の中で澪の瞳には一つの迷いもなく、その姿に逆に成孝の方が戸惑いを隠せずにいた。母が泣きながら何かを話しかけるのを横に成孝は何も言う事も出来ずに彼女を見つめる。彼女は穏やかに微笑んで、その日の内に真見塚家を去ったのだった。
引き留めたくても、そうさせない何か強い意志を持った澪の瞳だけが、成孝の心に鮮やかな衝撃にも似た感情の残り香を残していた。その後二年程は自分の母と澪が、連絡を取り合っているのは何処となく感じていた。しかし、彼女がいなくなって直ぐに過去を振り払うように自分が結婚して、母が急逝したと同時にその連絡はふつりと途絶えた。
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