32 / 206
外伝 はじまりの光
第一幕 三十年前 都市下
しおりを挟む
これはゲートキーパー達の物語から、三十年も前の古い記憶の物語。
ここに一人の少女が存在している。
艶やかな黒髪を腰近くまで伸ばし、誰もが驚くほどの清楚な美しさを讃えた少女。白磁の傷一つない滑らかな肌に、黒目勝ちの瞳。まさにその容姿は大和撫子の見本のようだ。
その少女の名は鳥飼 澪という。
※※※
鳥飼澪は、言葉もなく冷たい霧の様な三月の雨の中に一人佇んでいた。
全身を霧雨に曝しながら傘をさすこともなく、頭上の一点を見上げて身動きもせずに佇んでいる。三月だと言うのに今にも雪に変わらないのが不思議なほど、酷く冷たい冷たい音もしない霧雨だった。辺りは霧雨に煙るように鈍く霞み、彼女が何を見つめて佇むのかは離れていては判別することも難しい。凍りつくようにアスファルトは音もなく続く霧雨を受けてしっとり濡れそぼり、足元は逆に地面の暖かさを示すように靄を放つように煙って見えた。霧雨は何時になってもやむ気配を見せず、氷のような滴が彼女の真っ白な肌を伝い落ちる。それはまるで涙のように頬を幾つも筋になって伝い、細い顎に雫になって落ちていく。
数日前に澪は、十六歳になったばかりだった。
まだ幼さを色濃く残してはいるが、艶やかな成長の気配を漂わせる美しい少女。その体はしなやかだが細く、軟らかな丸みを帯びている。普段なら生き生きとしたその肢体は、今は少しでも触れたら砕けてしまいそうなガラス細工のように脆いものに見える。
天涯孤独。
よく物語では、そんな言葉を聞くことがある。しかし、大概の人間はそんな立場になることを考えもしないものだ。鳥飼澪もその一人だった。まさか、自分がそんな立場になるなど、数日前には欠片すら考えもしない。
彼女が今こうして一人佇み見あげているのは、荼毘に付した白い儚い煙だった。よく見れば泣き腫らした赤い縁をした黒目勝ちの瞳で、雨を避けようともせずに立ち上り天に還っていく白い煙に変わってしまった両親をただじっと見上げている。
※※※
鳥飼家は随分古くからそこに住んでいた。
歴史は古く遡れば戦国時代云々迄に遡る事が出来る。元は諸藩の武芸指南を生業に、多くの門下生を排出したと古文書めいたものが山のように自宅の敷地の中にある倉に納められていた。自宅の敷地は駅に近いというのに広大で、以前に大分区画整理されて削られても今なお広い。元は敷地の中に本家だけでなく親族も共に暮らしていたらしいが、今では鳥飼の名を持つのは澪親子だけだった。
祖父は大分前に病で故人となっていた。祖母は澪が生まれる前に当に亡くなっている。理由は分からないが、鳥飼家はあまり子宝に恵まれず早世するものも多かった。
それでも祖父から継いで代々古武術と合気道の道場を開いている強くもあり温和な父、そして日本舞踊と茶道を教えている淑やかで美しい母。そして、そのどちらの優れた資質をも選択して受け継いだかのような、素晴らしい素地と容姿を持つ美しい少女。他に親戚は全て早世していたが、鳥飼家は絵の様に幸せな家族だった。
それを大きく覆したのは、まさに数日前の澪の誕生日の当日の事。そろそろ桜の咲き始める春の気配を風に感じながら、寒さの緩み始めた夜。一家は1人娘の誕生日を祝うため、ただ普通に揃って出かけ一つの車を走らせていた。ただそれだけの日常で、彼女たち一家には何一つ非の無い出来事だった。いや、ある意味では、その相手にも大きな非があるとは言えないのかもしれない。
予約した目的の店の間近で、突然暗闇をヘッドライトが切り裂いた。一家三人の乗る乗用車に向かって、一台の巨大なトラックが大きくハンドルを切りセンターラインを越える。かと思うと、トラックの巨体は一瞬の間もおかず真正面から一家ごと乗用車を踏みつぶしていた。
悲鳴をあげる間もない、ほんの一瞬の出来事。
そして、彼女は激しい衝撃にシートに挟まれた。鉄の壁に押し付けられたような衝撃が、車に襲いかかり自分の命はないと思ったのに、何故かほんのわずかな軽傷をおっただけで意識を失うことすらなかった。そして、運命は残酷にも、彼女の目の前で前の座席が両親ごと一瞬にして消え去るのを見せる。それはスローモーションのように彼女の目の前で起きて、澪はそれを身動きも出来ずにまざまざと見つめていたのだった。
※※※
霧雨に薄くくゆる白い煙を見上げながら、彼女は頭の中でボンヤリと思った。
あのトラックの運転手を恨めたらどんなに楽だろう。
しかし現実には、トラックの運転手は彼女達の乗用車を踏みつぶす直前に、座席に座ったまま心臓の病で既に死んでいたのだと聞かされた。車を運転している最中に心臓の血管が破裂して破け、一瞬で意識を失った運転手の腕がハンドルを回したのは偶然の事だ。トラックの運転手にも多くの家族がいて、その家族のためには一人で仕事をするしかなかったのだろう。それに若いトラックの運転手が、心臓の病で即死するなんて誰が思うだろうか。それを憎むには、酷過ぎる現実だ。
それに、自分達の車でなければ、トラックはどこかの家か他の車を潰していたのだろう。
それを考える。けして、自分達で良かったとは思えないが、同時にそうであれば良いのにと思う事すらも彼女には出来なかった。他人が被害にあえば良かったとは、どうしても思えない。そう思うには澪は、両親の穏やかで純粋な気質を受け継ぎ過ぎていたのだ。
そうして、ただ彼女は誰を恨むこともできず、憎むこともできず、ただ空虚に空ろな心を抱えて不釣り合いに見える喪服に身を包む。そして今こうしてただ一人冷たい霧雨に身を濡らし、残酷な運命を思う事しかできないでいる。
「…澪さん。」
スッと雨を遮る様に傘を差しかけられ、彼女はその傘の主を感情を失ったような視線で見上げた。
まだ祖父が健在だった頃、彼女の祖父のもとで彼女の父と一緒に古武術を一時期学んだ。そして、それからずっと家族と交流がある男性。自分より丁度一回り近く年の離れたその人の姿を見上げ、澪は長い睫毛から水滴を払う様に瞬かせる。
性別や歳の割に背の高い彼女より、さらに三十センチも背の高いスラリとした美丈夫なその青年は一種独特の武術をたしなむ者の優雅な動きで少し歩み寄った。彼・真見塚成孝は、心配そうな視線で少し背を丸め彼女を見下ろす。
澪はその自分を案じてくれている優しい眼差しに、不意に成孝がいなかったら子供の自分では何一つ出来なかった事に気がついた。自分独りだけでは通夜の手配の仕方も知らず、葬儀も火葬も手配することは出来なかった。彼女はただ途方に暮れ泣くだけで、こうして両親を見送る事も儘ならなかったろう。
彼が鳥飼家の事故のニュースを聞きつけて、その日のうちに病院の彼女の元に現われてくれた。その事がどれだけ彼女を助けたか。痺れた様な感情の中でそれにふと気がついた澪は、こんな時だというのに皮肉にも完璧に身についたしなやかで美しい動作でゆるりと頭を下げる。
「色々と……ありがとうごさいました……。」
切ないほど幼く弱いその震える澪のその声に、「そんな」と青年は言いよどむ。無言の空気にふと彼を見上げると、成孝は言葉に詰まって哀しく寂しげな表情を浮かべ彼女を見下ろしている。その視線の意味が彼女にはつかめず、彼女は微かに戸惑う様な表情を浮かべた。すると、彼は苦悩に満ちた声で、澪に囁く。
「…我慢しなくて……いいんです。澪さん」
霧雨に吸い込まれるような、静かに囁きかける穏やかな成孝の言葉。その言葉にふいに彼女は、突然自分以外の両親の死を悼んでくれた唯一の青年に吸い込まれるように見つめる。けして両親は憎まれるような人間ではなかったが、身内があまりにも少なすぎた。
天涯孤独。
再びその言葉が浮かび、彼の瞳の中に映る自分の姿を見つめなおした気がした。
あぁ、そうだ、私は、一人きりになってしまったんだ……。
自分と血の繋がる者はもうこの世には誰もいない。
祖父や親戚も既にこの世の人ではなく、唯一の存在優しく暖かいよりどころでもあった両親ももういない。無くしてしまったもののあまりにも大きい存在が、まざまざとその脳裏を廻り渦を巻く。ここ数日でもう出しつくして涸れてしまった筈と思っていた涙が、大きな瞳から大粒の雫となって澪の瞳から音もなく溢れおち蒼白な両頬を伝う。
自分は、まだ子供過ぎる…一人じゃ…寂し過ぎるよ……
堰を切ったような感情は憎しみでも怒りでもなく、ただ悲しみと寂しさだけで満ちていた。まるで真珠の様な大粒の涙がキラキラと輝きを放ちながら、霧雨の中で地面に音もなく振り落ちていく。それは止まることも知らずに霧雨と同化しようとするように、ハラハラといつまでも溢れ落ちる。声もたてず涙をこぼす彼女を、成孝はまるで父か兄の様にそっと腕の中に抱き寄せた。
「……我慢しなくていいんです。」
濡れることも厭わずに抱き寄せられた腕の中は、冷たい霧雨の中でホンノリと暖かい。頭を抱き寄せる掌の大きさを感じながら、抱き寄せてくれた人の口から再び耳元で囁かれる言葉が胸に滲みる。彼女はその胸に額を押し当てて、初めて嗚咽を溢した。そうして成孝はまるで幼い子供をあやす様に、その小さな背中をそっと片手で少し不器用な仕草で撫でる。そうしながら成孝は、音もなく天へと昇っていく真っ白な煙の筋を見上げていた。
澪の事は昔からよく知っていた。
澪の祖父は澪の事を孫娘の欲目ではなく、本当に天才だと常々話していたのだ。段位をとったのは恐らく去年だろうが、澪はまだヨチヨチ歩く頃から道場にいた。勿論母親の資質だろう、日舞も茶道もあっという間に身につけてしまったし、父親譲りで中学生になる前には古武術迄習得している筈だ。そんな天武の才能を持つ稀有な少女。
同時に人懐っこい少女でもあった。成孝が教えを乞うため道場に行くと、何時も後をついて駆けてくるような子だ。成孝にとっても、産まれた時から知っている澪は血の繋がりは無いが歳の離れた妹の様なもの。
だから落ち着いたら最初からそう申し出るつもりで、成孝は澪のもとを訪れていた。
勿論彼の健在の母親も同意してくれての上で。ただ、それでも既に彼岸の岸を越えた彼女の両親には断っておかねばならない気がした。心の中で、彼の人達に問いかけてから、彼は思い切ったように口を開く。
「暫く家で暮らしませんか?うちは、あなたの家よりは狭いですが。」
成孝の暖かい大きな手と穏やかで優しい声が、澪の寂しさごと全てを包む様に抱きとめてくれる。彼女はその暖かさに思わず頷いて、再び子供の様に泣きじゃくり始めていた。そんな二人の周りには微かな春の香りを宿した冷たい雨が、涸れる事もない澪の涙と同じく降り続いている。まるで彼岸へ向かう彼女の両親が泣いているかのように、天が泣きつづけているかのように音もなくただ静かに降り続いていた。
ここに一人の少女が存在している。
艶やかな黒髪を腰近くまで伸ばし、誰もが驚くほどの清楚な美しさを讃えた少女。白磁の傷一つない滑らかな肌に、黒目勝ちの瞳。まさにその容姿は大和撫子の見本のようだ。
その少女の名は鳥飼 澪という。
※※※
鳥飼澪は、言葉もなく冷たい霧の様な三月の雨の中に一人佇んでいた。
全身を霧雨に曝しながら傘をさすこともなく、頭上の一点を見上げて身動きもせずに佇んでいる。三月だと言うのに今にも雪に変わらないのが不思議なほど、酷く冷たい冷たい音もしない霧雨だった。辺りは霧雨に煙るように鈍く霞み、彼女が何を見つめて佇むのかは離れていては判別することも難しい。凍りつくようにアスファルトは音もなく続く霧雨を受けてしっとり濡れそぼり、足元は逆に地面の暖かさを示すように靄を放つように煙って見えた。霧雨は何時になってもやむ気配を見せず、氷のような滴が彼女の真っ白な肌を伝い落ちる。それはまるで涙のように頬を幾つも筋になって伝い、細い顎に雫になって落ちていく。
数日前に澪は、十六歳になったばかりだった。
まだ幼さを色濃く残してはいるが、艶やかな成長の気配を漂わせる美しい少女。その体はしなやかだが細く、軟らかな丸みを帯びている。普段なら生き生きとしたその肢体は、今は少しでも触れたら砕けてしまいそうなガラス細工のように脆いものに見える。
天涯孤独。
よく物語では、そんな言葉を聞くことがある。しかし、大概の人間はそんな立場になることを考えもしないものだ。鳥飼澪もその一人だった。まさか、自分がそんな立場になるなど、数日前には欠片すら考えもしない。
彼女が今こうして一人佇み見あげているのは、荼毘に付した白い儚い煙だった。よく見れば泣き腫らした赤い縁をした黒目勝ちの瞳で、雨を避けようともせずに立ち上り天に還っていく白い煙に変わってしまった両親をただじっと見上げている。
※※※
鳥飼家は随分古くからそこに住んでいた。
歴史は古く遡れば戦国時代云々迄に遡る事が出来る。元は諸藩の武芸指南を生業に、多くの門下生を排出したと古文書めいたものが山のように自宅の敷地の中にある倉に納められていた。自宅の敷地は駅に近いというのに広大で、以前に大分区画整理されて削られても今なお広い。元は敷地の中に本家だけでなく親族も共に暮らしていたらしいが、今では鳥飼の名を持つのは澪親子だけだった。
祖父は大分前に病で故人となっていた。祖母は澪が生まれる前に当に亡くなっている。理由は分からないが、鳥飼家はあまり子宝に恵まれず早世するものも多かった。
それでも祖父から継いで代々古武術と合気道の道場を開いている強くもあり温和な父、そして日本舞踊と茶道を教えている淑やかで美しい母。そして、そのどちらの優れた資質をも選択して受け継いだかのような、素晴らしい素地と容姿を持つ美しい少女。他に親戚は全て早世していたが、鳥飼家は絵の様に幸せな家族だった。
それを大きく覆したのは、まさに数日前の澪の誕生日の当日の事。そろそろ桜の咲き始める春の気配を風に感じながら、寒さの緩み始めた夜。一家は1人娘の誕生日を祝うため、ただ普通に揃って出かけ一つの車を走らせていた。ただそれだけの日常で、彼女たち一家には何一つ非の無い出来事だった。いや、ある意味では、その相手にも大きな非があるとは言えないのかもしれない。
予約した目的の店の間近で、突然暗闇をヘッドライトが切り裂いた。一家三人の乗る乗用車に向かって、一台の巨大なトラックが大きくハンドルを切りセンターラインを越える。かと思うと、トラックの巨体は一瞬の間もおかず真正面から一家ごと乗用車を踏みつぶしていた。
悲鳴をあげる間もない、ほんの一瞬の出来事。
そして、彼女は激しい衝撃にシートに挟まれた。鉄の壁に押し付けられたような衝撃が、車に襲いかかり自分の命はないと思ったのに、何故かほんのわずかな軽傷をおっただけで意識を失うことすらなかった。そして、運命は残酷にも、彼女の目の前で前の座席が両親ごと一瞬にして消え去るのを見せる。それはスローモーションのように彼女の目の前で起きて、澪はそれを身動きも出来ずにまざまざと見つめていたのだった。
※※※
霧雨に薄くくゆる白い煙を見上げながら、彼女は頭の中でボンヤリと思った。
あのトラックの運転手を恨めたらどんなに楽だろう。
しかし現実には、トラックの運転手は彼女達の乗用車を踏みつぶす直前に、座席に座ったまま心臓の病で既に死んでいたのだと聞かされた。車を運転している最中に心臓の血管が破裂して破け、一瞬で意識を失った運転手の腕がハンドルを回したのは偶然の事だ。トラックの運転手にも多くの家族がいて、その家族のためには一人で仕事をするしかなかったのだろう。それに若いトラックの運転手が、心臓の病で即死するなんて誰が思うだろうか。それを憎むには、酷過ぎる現実だ。
それに、自分達の車でなければ、トラックはどこかの家か他の車を潰していたのだろう。
それを考える。けして、自分達で良かったとは思えないが、同時にそうであれば良いのにと思う事すらも彼女には出来なかった。他人が被害にあえば良かったとは、どうしても思えない。そう思うには澪は、両親の穏やかで純粋な気質を受け継ぎ過ぎていたのだ。
そうして、ただ彼女は誰を恨むこともできず、憎むこともできず、ただ空虚に空ろな心を抱えて不釣り合いに見える喪服に身を包む。そして今こうしてただ一人冷たい霧雨に身を濡らし、残酷な運命を思う事しかできないでいる。
「…澪さん。」
スッと雨を遮る様に傘を差しかけられ、彼女はその傘の主を感情を失ったような視線で見上げた。
まだ祖父が健在だった頃、彼女の祖父のもとで彼女の父と一緒に古武術を一時期学んだ。そして、それからずっと家族と交流がある男性。自分より丁度一回り近く年の離れたその人の姿を見上げ、澪は長い睫毛から水滴を払う様に瞬かせる。
性別や歳の割に背の高い彼女より、さらに三十センチも背の高いスラリとした美丈夫なその青年は一種独特の武術をたしなむ者の優雅な動きで少し歩み寄った。彼・真見塚成孝は、心配そうな視線で少し背を丸め彼女を見下ろす。
澪はその自分を案じてくれている優しい眼差しに、不意に成孝がいなかったら子供の自分では何一つ出来なかった事に気がついた。自分独りだけでは通夜の手配の仕方も知らず、葬儀も火葬も手配することは出来なかった。彼女はただ途方に暮れ泣くだけで、こうして両親を見送る事も儘ならなかったろう。
彼が鳥飼家の事故のニュースを聞きつけて、その日のうちに病院の彼女の元に現われてくれた。その事がどれだけ彼女を助けたか。痺れた様な感情の中でそれにふと気がついた澪は、こんな時だというのに皮肉にも完璧に身についたしなやかで美しい動作でゆるりと頭を下げる。
「色々と……ありがとうごさいました……。」
切ないほど幼く弱いその震える澪のその声に、「そんな」と青年は言いよどむ。無言の空気にふと彼を見上げると、成孝は言葉に詰まって哀しく寂しげな表情を浮かべ彼女を見下ろしている。その視線の意味が彼女にはつかめず、彼女は微かに戸惑う様な表情を浮かべた。すると、彼は苦悩に満ちた声で、澪に囁く。
「…我慢しなくて……いいんです。澪さん」
霧雨に吸い込まれるような、静かに囁きかける穏やかな成孝の言葉。その言葉にふいに彼女は、突然自分以外の両親の死を悼んでくれた唯一の青年に吸い込まれるように見つめる。けして両親は憎まれるような人間ではなかったが、身内があまりにも少なすぎた。
天涯孤独。
再びその言葉が浮かび、彼の瞳の中に映る自分の姿を見つめなおした気がした。
あぁ、そうだ、私は、一人きりになってしまったんだ……。
自分と血の繋がる者はもうこの世には誰もいない。
祖父や親戚も既にこの世の人ではなく、唯一の存在優しく暖かいよりどころでもあった両親ももういない。無くしてしまったもののあまりにも大きい存在が、まざまざとその脳裏を廻り渦を巻く。ここ数日でもう出しつくして涸れてしまった筈と思っていた涙が、大きな瞳から大粒の雫となって澪の瞳から音もなく溢れおち蒼白な両頬を伝う。
自分は、まだ子供過ぎる…一人じゃ…寂し過ぎるよ……
堰を切ったような感情は憎しみでも怒りでもなく、ただ悲しみと寂しさだけで満ちていた。まるで真珠の様な大粒の涙がキラキラと輝きを放ちながら、霧雨の中で地面に音もなく振り落ちていく。それは止まることも知らずに霧雨と同化しようとするように、ハラハラといつまでも溢れ落ちる。声もたてず涙をこぼす彼女を、成孝はまるで父か兄の様にそっと腕の中に抱き寄せた。
「……我慢しなくていいんです。」
濡れることも厭わずに抱き寄せられた腕の中は、冷たい霧雨の中でホンノリと暖かい。頭を抱き寄せる掌の大きさを感じながら、抱き寄せてくれた人の口から再び耳元で囁かれる言葉が胸に滲みる。彼女はその胸に額を押し当てて、初めて嗚咽を溢した。そうして成孝はまるで幼い子供をあやす様に、その小さな背中をそっと片手で少し不器用な仕草で撫でる。そうしながら成孝は、音もなく天へと昇っていく真っ白な煙の筋を見上げていた。
澪の事は昔からよく知っていた。
澪の祖父は澪の事を孫娘の欲目ではなく、本当に天才だと常々話していたのだ。段位をとったのは恐らく去年だろうが、澪はまだヨチヨチ歩く頃から道場にいた。勿論母親の資質だろう、日舞も茶道もあっという間に身につけてしまったし、父親譲りで中学生になる前には古武術迄習得している筈だ。そんな天武の才能を持つ稀有な少女。
同時に人懐っこい少女でもあった。成孝が教えを乞うため道場に行くと、何時も後をついて駆けてくるような子だ。成孝にとっても、産まれた時から知っている澪は血の繋がりは無いが歳の離れた妹の様なもの。
だから落ち着いたら最初からそう申し出るつもりで、成孝は澪のもとを訪れていた。
勿論彼の健在の母親も同意してくれての上で。ただ、それでも既に彼岸の岸を越えた彼女の両親には断っておかねばならない気がした。心の中で、彼の人達に問いかけてから、彼は思い切ったように口を開く。
「暫く家で暮らしませんか?うちは、あなたの家よりは狭いですが。」
成孝の暖かい大きな手と穏やかで優しい声が、澪の寂しさごと全てを包む様に抱きとめてくれる。彼女はその暖かさに思わず頷いて、再び子供の様に泣きじゃくり始めていた。そんな二人の周りには微かな春の香りを宿した冷たい雨が、涸れる事もない澪の涙と同じく降り続いている。まるで彼岸へ向かう彼女の両親が泣いているかのように、天が泣きつづけているかのように音もなくただ静かに降り続いていた。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
最終死発電車
真霜ナオ
ホラー
バイト帰りの大学生・清瀬蒼真は、いつものように終電へと乗り込む。
直後、車体に大きな衝撃が走り、車内の様子は一変していた。
外に出ようとした乗客の一人は身体が溶け出し、おぞましい化け物まで現れる。
生き残るためには、先頭車両を目指すしかないと知る。
「第6回ホラー・ミステリー小説大賞」奨励賞をいただきました!
KAKIDAMISHI -The Ultimate Karate Battle-
ジェド
歴史・時代
1894年、東洋の島国・琉球王国が沖縄県となった明治時代――
後の世で「空手」や「琉球古武術」と呼ばれることとなる武術は、琉球語で「ティー(手)」と呼ばれていた。
ティーの修業者たちにとって腕試しの場となるのは、自由組手形式の野試合「カキダミシ(掛け試し)」。
誇り高き武人たちは、時代に翻弄されながらも戦い続ける。
拳と思いが交錯する空手アクション歴史小説、ここに誕生!
・検索キーワード
空手道、琉球空手、沖縄空手、琉球古武道、剛柔流、上地流、小林流、少林寺流、少林流、松林流、和道流、松濤館流、糸東流、東恩流、劉衛流、極真会館、大山道場、芦原会館、正道会館、白蓮会館、国際FSA拳真館、大道塾空道
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
黄昏は悲しき堕天使達のシュプール
Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・
黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に
儚くも露と消えていく』
ある朝、
目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。
小学校六年生に戻った俺を取り巻く
懐かしい顔ぶれ。
優しい先生。
いじめっ子のグループ。
クラスで一番美しい少女。
そして。
密かに想い続けていた初恋の少女。
この世界は嘘と欺瞞に満ちている。
愛を語るには幼過ぎる少女達と
愛を語るには汚れ過ぎた大人。
少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、
大人は平然と他人を騙す。
ある時、
俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。
そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。
夕日に少女の涙が落ちる時、
俺は彼女達の笑顔と
失われた真実を
取り戻すことができるのだろうか。
クトゥルフ・ミュージアム
招杜羅147
ホラー
本日はクトゥルフ・ミュージアムにご来館いただき、誠にありがとうございます。
当館では我々を魅了してやまない神々やその配下の、躍動感あふれる姿を捕らえ、展示しております。
各エリアの出口には展示品を更に楽しめるよう小冊子もご用意してありますので、併せてご利用くださいませ。
どうぞごゆっくりご観覧下さい。
~3年前ほどに別サイトにに投稿した作品で、クラシカルな感じのクトゥルフ作品です。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
紺青の鬼
砂詠 飛来
ホラー
専門学校の卒業制作として執筆したものです。
千葉県のとある地域に言い伝えられている民話・伝承を砂詠イズムで書きました。
全3編、連作になっています。
江戸時代から現代までを大まかに書いていて、ちょっとややこしいのですがみなさん頑張ってついて来てください。
幾年も前の作品をほぼそのまま載せるので「なにこれ稚拙な文め」となると思いますが、砂詠もそう思ったのでその感覚は正しいです。
この作品を執筆していたとある秋の夜、原因不明の高熱にうなされ胃液を吐きまくるという現象に苛まれました。しぬかと思いましたが、いまではもう笑い話です。よかったいのちがあって。
其のいち・青鬼の井戸、生き肝の眼薬
──慕い合う気持ちは、歪み、いつしか井戸のなかへ消える。
その村には一軒の豪農と古い井戸があった。目の見えない老婆を救うためには、子どもの生き肝を喰わねばならぬという。怪しげな僧と女の童の思惑とは‥‥。
其のに・青鬼の面、鬼堂の大杉
──許されぬ欲望に身を任せた者は、孤独に苛まれ後悔さえ無駄になる。
その年頃の娘と青年は、決して結ばれてはならない。しかし、互いの懸想に気がついたときには、すでにすべてが遅かった。娘に宿った新たな命によって狂わされた運命に‥‥。
其のさん・青鬼の眼、耳切りの坂
──抗うことのできぬ輪廻は、ただ空回りしただけにすぎなかった。
その眼科医のもとをふいに訪れた患者が、思わぬ過去を携えてきた。自身の出生の秘密が解き明かされる。残酷さを刻み続けてきただけの時が、いまここでつながろうとは‥‥。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる