GATEKEEPERS  四神奇譚

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外伝 はじまりの光

第一幕 三十年前 都市下

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これはゲートキーパー達の物語から、三十年も前の古い記憶の物語。
ここに一人の少女が存在している。
艶やかな黒髪を腰近くまで伸ばし、誰もが驚くほどの清楚な美しさを讃えた少女。白磁の傷一つない滑らかな肌に、黒目勝ちの瞳。まさにその容姿は大和撫子の見本のようだ。
その少女の名は鳥飼 澪という。



※※※



鳥飼澪は、言葉もなく冷たい霧の様な三月の雨の中に一人佇んでいた。
全身を霧雨に曝しながら傘をさすこともなく、頭上の一点を見上げて身動きもせずに佇んでいる。三月だと言うのに今にも雪に変わらないのが不思議なほど、酷く冷たい冷たい音もしない霧雨だった。辺りは霧雨に煙るように鈍く霞み、彼女が何を見つめて佇むのかは離れていては判別することも難しい。凍りつくようにアスファルトは音もなく続く霧雨を受けてしっとり濡れそぼり、足元は逆に地面の暖かさを示すように靄を放つように煙って見えた。霧雨は何時になってもやむ気配を見せず、氷のような滴が彼女の真っ白な肌を伝い落ちる。それはまるで涙のように頬を幾つも筋になって伝い、細い顎に雫になって落ちていく。
数日前に澪は、十六歳になったばかりだった。
まだ幼さを色濃く残してはいるが、艶やかな成長の気配を漂わせる美しい少女。その体はしなやかだが細く、軟らかな丸みを帯びている。普段なら生き生きとしたその肢体は、今は少しでも触れたら砕けてしまいそうなガラス細工のように脆いものに見える。
天涯孤独。
よく物語では、そんな言葉を聞くことがある。しかし、大概の人間はそんな立場になることを考えもしないものだ。鳥飼澪もその一人だった。まさか、自分がそんな立場になるなど、数日前には欠片すら考えもしない。
彼女が今こうして一人佇み見あげているのは、荼毘に付した白い儚い煙だった。よく見れば泣き腫らした赤い縁をした黒目勝ちの瞳で、雨を避けようともせずに立ち上り天に還っていく白い煙に変わってしまった両親をただじっと見上げている。



※※※



鳥飼家は随分古くからそこに住んでいた。
歴史は古く遡れば戦国時代云々迄に遡る事が出来る。元は諸藩の武芸指南を生業に、多くの門下生を排出したと古文書めいたものが山のように自宅の敷地の中にある倉に納められていた。自宅の敷地は駅に近いというのに広大で、以前に大分区画整理されて削られても今なお広い。元は敷地の中に本家だけでなく親族も共に暮らしていたらしいが、今では鳥飼の名を持つのは澪親子だけだった。
祖父は大分前に病で故人となっていた。祖母は澪が生まれる前に当に亡くなっている。理由は分からないが、鳥飼家はあまり子宝に恵まれず早世するものも多かった。
それでも祖父から継いで代々古武術と合気道の道場を開いている強くもあり温和な父、そして日本舞踊と茶道を教えている淑やかで美しい母。そして、そのどちらの優れた資質をも選択して受け継いだかのような、素晴らしい素地と容姿を持つ美しい少女。他に親戚は全て早世していたが、鳥飼家は絵の様に幸せな家族だった。
それを大きく覆したのは、まさに数日前の澪の誕生日の当日の事。そろそろ桜の咲き始める春の気配を風に感じながら、寒さの緩み始めた夜。一家は1人娘の誕生日を祝うため、ただ普通に揃って出かけ一つの車を走らせていた。ただそれだけの日常で、彼女たち一家には何一つ非の無い出来事だった。いや、ある意味では、その相手にも大きな非があるとは言えないのかもしれない。
予約した目的の店の間近で、突然暗闇をヘッドライトが切り裂いた。一家三人の乗る乗用車に向かって、一台の巨大なトラックが大きくハンドルを切りセンターラインを越える。かと思うと、トラックの巨体は一瞬の間もおかず真正面から一家ごと乗用車を踏みつぶしていた。

悲鳴をあげる間もない、ほんの一瞬の出来事。

そして、彼女は激しい衝撃にシートに挟まれた。鉄の壁に押し付けられたような衝撃が、車に襲いかかり自分の命はないと思ったのに、何故かほんのわずかな軽傷をおっただけで意識を失うことすらなかった。そして、運命は残酷にも、彼女の目の前で前の座席が両親ごと一瞬にして消え去るのを見せる。それはスローモーションのように彼女の目の前で起きて、澪はそれを身動きも出来ずにまざまざと見つめていたのだった。



※※※



霧雨に薄くくゆる白い煙を見上げながら、彼女は頭の中でボンヤリと思った。

あのトラックの運転手を恨めたらどんなに楽だろう。

しかし現実には、トラックの運転手は彼女達の乗用車を踏みつぶす直前に、座席に座ったまま心臓の病で既に死んでいたのだと聞かされた。車を運転している最中に心臓の血管が破裂して破け、一瞬で意識を失った運転手の腕がハンドルを回したのは偶然の事だ。トラックの運転手にも多くの家族がいて、その家族のためには一人で仕事をするしかなかったのだろう。それに若いトラックの運転手が、心臓の病で即死するなんて誰が思うだろうか。それを憎むには、酷過ぎる現実だ。

それに、自分達の車でなければ、トラックはどこかの家か他の車を潰していたのだろう。

それを考える。けして、自分達で良かったとは思えないが、同時にそうであれば良いのにと思う事すらも彼女には出来なかった。他人が被害にあえば良かったとは、どうしても思えない。そう思うには澪は、両親の穏やかで純粋な気質を受け継ぎ過ぎていたのだ。
そうして、ただ彼女は誰を恨むこともできず、憎むこともできず、ただ空虚に空ろな心を抱えて不釣り合いに見える喪服に身を包む。そして今こうしてただ一人冷たい霧雨に身を濡らし、残酷な運命を思う事しかできないでいる。

「…澪さん。」

スッと雨を遮る様に傘を差しかけられ、彼女はその傘の主を感情を失ったような視線で見上げた。
まだ祖父が健在だった頃、彼女の祖父のもとで彼女の父と一緒に古武術を一時期学んだ。そして、それからずっと家族と交流がある男性。自分より丁度一回り近く年の離れたその人の姿を見上げ、澪は長い睫毛から水滴を払う様に瞬かせる。
性別や歳の割に背の高い彼女より、さらに三十センチも背の高いスラリとした美丈夫なその青年は一種独特の武術をたしなむ者の優雅な動きで少し歩み寄った。彼・真見塚成孝は、心配そうな視線で少し背を丸め彼女を見下ろす。
澪はその自分を案じてくれている優しい眼差しに、不意に成孝がいなかったら子供の自分では何一つ出来なかった事に気がついた。自分独りだけでは通夜の手配の仕方も知らず、葬儀も火葬も手配することは出来なかった。彼女はただ途方に暮れ泣くだけで、こうして両親を見送る事も儘ならなかったろう。
彼が鳥飼家の事故のニュースを聞きつけて、その日のうちに病院の彼女の元に現われてくれた。その事がどれだけ彼女を助けたか。痺れた様な感情の中でそれにふと気がついた澪は、こんな時だというのに皮肉にも完璧に身についたしなやかで美しい動作でゆるりと頭を下げる。

「色々と……ありがとうごさいました……。」

切ないほど幼く弱いその震える澪のその声に、「そんな」と青年は言いよどむ。無言の空気にふと彼を見上げると、成孝は言葉に詰まって哀しく寂しげな表情を浮かべ彼女を見下ろしている。その視線の意味が彼女にはつかめず、彼女は微かに戸惑う様な表情を浮かべた。すると、彼は苦悩に満ちた声で、澪に囁く。

「…我慢しなくて……いいんです。澪さん」

霧雨に吸い込まれるような、静かに囁きかける穏やかな成孝の言葉。その言葉にふいに彼女は、突然自分以外の両親の死を悼んでくれた唯一の青年に吸い込まれるように見つめる。けして両親は憎まれるような人間ではなかったが、身内があまりにも少なすぎた。
天涯孤独。
再びその言葉が浮かび、彼の瞳の中に映る自分の姿を見つめなおした気がした。

あぁ、そうだ、私は、一人きりになってしまったんだ……。

自分と血の繋がる者はもうこの世には誰もいない。
祖父や親戚も既にこの世の人ではなく、唯一の存在優しく暖かいよりどころでもあった両親ももういない。無くしてしまったもののあまりにも大きい存在が、まざまざとその脳裏を廻り渦を巻く。ここ数日でもう出しつくして涸れてしまった筈と思っていた涙が、大きな瞳から大粒の雫となって澪の瞳から音もなく溢れおち蒼白な両頬を伝う。

自分は、まだ子供過ぎる…一人じゃ…寂し過ぎるよ……

堰を切ったような感情は憎しみでも怒りでもなく、ただ悲しみと寂しさだけで満ちていた。まるで真珠の様な大粒の涙がキラキラと輝きを放ちながら、霧雨の中で地面に音もなく振り落ちていく。それは止まることも知らずに霧雨と同化しようとするように、ハラハラといつまでも溢れ落ちる。声もたてず涙をこぼす彼女を、成孝はまるで父か兄の様にそっと腕の中に抱き寄せた。

「……我慢しなくていいんです。」

濡れることも厭わずに抱き寄せられた腕の中は、冷たい霧雨の中でホンノリと暖かい。頭を抱き寄せる掌の大きさを感じながら、抱き寄せてくれた人の口から再び耳元で囁かれる言葉が胸に滲みる。彼女はその胸に額を押し当てて、初めて嗚咽を溢した。そうして成孝はまるで幼い子供をあやす様に、その小さな背中をそっと片手で少し不器用な仕草で撫でる。そうしながら成孝は、音もなく天へと昇っていく真っ白な煙の筋を見上げていた。
澪の事は昔からよく知っていた。
澪の祖父は澪の事を孫娘の欲目ではなく、本当に天才だと常々話していたのだ。段位をとったのは恐らく去年だろうが、澪はまだヨチヨチ歩く頃から道場にいた。勿論母親の資質だろう、日舞も茶道もあっという間に身につけてしまったし、父親譲りで中学生になる前には古武術迄習得している筈だ。そんな天武の才能を持つ稀有な少女。
同時に人懐っこい少女でもあった。成孝が教えを乞うため道場に行くと、何時も後をついて駆けてくるような子だ。成孝にとっても、産まれた時から知っている澪は血の繋がりは無いが歳の離れた妹の様なもの。
だから落ち着いたら最初からそう申し出るつもりで、成孝は澪のもとを訪れていた。
勿論彼の健在の母親も同意してくれての上で。ただ、それでも既に彼岸の岸を越えた彼女の両親には断っておかねばならない気がした。心の中で、彼の人達に問いかけてから、彼は思い切ったように口を開く。

「暫く家で暮らしませんか?うちは、あなたの家よりは狭いですが。」

成孝の暖かい大きな手と穏やかで優しい声が、澪の寂しさごと全てを包む様に抱きとめてくれる。彼女はその暖かさに思わず頷いて、再び子供の様に泣きじゃくり始めていた。そんな二人の周りには微かな春の香りを宿した冷たい雨が、涸れる事もない澪の涙と同じく降り続いている。まるで彼岸へ向かう彼女の両親が泣いているかのように、天が泣きつづけているかのように音もなくただ静かに降り続いていた。

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