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第一部
第五幕 大都市下
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朱雀の脳裏には、戦闘に出る直前に言い含める様に白虎が言った言葉が稲妻のように閃いていた。
奴の手を避けろ。
その白虎の言葉の意味が、今朱雀の視界の中まさに目の前に突きつけられていた。両腕を掴み押さえつけている筈の饕餮の両の掌が翻る様に反されていく。そしてその掌の中心には、饕餮の深淵の闇を湛える瞳と全く同じ色。深く黒い闇の縁の様な穴がポッカリと左右それぞれに口を開いている。記憶を駆け巡る今までの饕餮の動きと行為を見ていれば、朱雀にもそこが何なのかが簡単に理解できた。
そうか、そこがお前の口だったんだ、そこで飽きもせずに喰い漁っていたんだな。
理解が朱雀の頭で閃く。
ほぼ同時にモノクロの世界の中よりずっと暗い深淵の縁の様な穴を持つその両掌が、朱雀の鉤爪の足に牙をつきたてた。ただ触れただけに見えるのに身の内まで饕餮の牙が、めり込み体の芯に喰い込むのを感じる。
『このぉ!!』
掌が掴む場所からミシリと鈍い音を立てて、体の奥底が冷たい氷のような炎で爆ぜる。激しい虚脱感を伴う金串を刺すような痛みが、朱雀の背筋から脳髄の奥に突き刺さる。その激しい痛みは、思わず苦悶の悲鳴となって朱雀の口から迸った。
『うあぁぁあああぁっ!!』
『朱雀!馬鹿!離れろっ!』
苦痛を省みない白虎の絞り出すような怒声に、一瞬遠のきかけていた意識がまるで冷水でも頭からかぶせられたように引き戻され朱雀は我に返る。普段にはなく頭の中で冷ややかな理性が自分を叱咤しながら、朱雀は饕餮の両手から吸いだされていく自分の生命でもある根元の火気を感じた。
吸い出され、吸い尽くされ、
そんなことさせてたまるかと激しく身震いをして、激しくその紅蓮の炎の欠片の様に羽根を飛び散らせた。朱雀は高らかに嘶く。そして朱雀は再び両下肢から、今度は改めて饕餮の火気を吸いだそうと力を込める。
負けられない……いや!負けてたまるかよ!!
お互いの気で身の内を焦がしながら拮抗する二つの火気のせめぎ合いは、金気の光の渦の中で互いに一歩も引く様子を見せない。しかし、そんな中で朱雀の双翼にわざと隠れる様に体をずらす饕餮の狡猾な仕草に、玄武は思わず舌打ちした。
くそ!気づいてやがる!
今攻撃を仕掛ければ、先ほど言い放った『金侮火』の理りによって仲間である朱雀に傷を負わせかねない事は自明の理だ。火気を吸いだす事は必要だが、この事態は最良とはいえなかった。これは、最悪の策になりかねない状況だ。
玄武は唇を噛んだ。
誰か一人でも失敗すれば、仲間を一人どころか二人失う可能性もある。何よりもしそうなれば自分も含めて皆、饕餮の餌食になるに違いない。水流を細く細かく操るため異形の亀の様な姿で玄武は、ザザッと地を蹴立てて饕餮の背後へ回り込もうと身を翻す。しかし、饕餮も回り込むように、玄武の視界から逃れるように朱雀の羽の下に潜り込む。
駄目だ!このままじゃ白虎も朱雀ももたねぇ!
周囲の戦闘を見つめていた青龍は、周囲の様子に表情を歪めた。一気に風を巻き上げる音を立てて一直線に蒼い鱗を閃かせ中空へと駆け昇った。青龍の判断も玄武と寸分たがわぬ結論に達していた。彼に残された手は、木気を火気に与え助勢する方法だけだが、それも一歩間違えば敵の助勢と成りかねない諸刃の剣。その身から放たれる木気を朱雀だけに与えるためには、緻密な気の操作が必要で青龍が神経を尖らせ気を練り始める。
不意に彼の手で練り始められていた気が音をたてて四散し、青龍自身それに全く気が付いていない様子で背後の球面に蒼水晶の瞳が向けられていた。それは背後から近寄る何か強い波のうねりのように押し寄せる、強く激しい気配の存在だった。青龍は驚き戸惑いながら、近づくその気配の方をじっと見つめる。
それはその空間の中では、唯一彼だけが気がつくことができた、新たなる異変だった。
※※※
それが彼等の耳に情報として届く前に、彼ら二人はその薄暗いモニターの群れの中に既にそれを見つけていた。
強大な妖力のせいか、それとも巨大な穴のせいかモニターの中の黒点はいつも以上に温度を失って黒々として見える。そして今まさに黒円の淵に向かって、四神よりも更に一際高い温度を放つ熱源が出現していた。それが急激な速度で一直線に黒円を目掛けて駆けるのを、目の前のモニターは映し出していく。あまりにも高い熱源反応は赤を越して白く輝いて映り、それを拡大したモニターの一つが不意に煙を噴いて沈黙した。智美はやむを得ず遠景のモニターで熱源を観察しているが、やがてそのモニターまで感知しきれなくなったようにブツンと音をたてて沈黙する。それはまるで、式読の観察を拒んでいるようだ。
遠距離のカメラ越しにすら近付くことを許さない何か。
式読・星読の二人は息を呑んで、その高熱源の行き先を見つめていた。沈黙したモニターに関与しない無線連絡の声が、雑音混じりに最前線の状況を緊迫感と一緒に伝えてくる。何人か怪我をおったのは聞こえてきたが、その後の沈黙が一瞬何かが起きたことを感じさせた。一瞬雑音が途切れ、院の者の声が驚愕の呟きを溢す。
『何だあれは…。』
恐らく高熱源を至近距離で見た者の声なのだろう、周囲に居る院の者が驚いた様に続けけ声を張り上げている。
『はいってはいけない!』
しかし、それを有無を言わさぬ気配が押しのけるのを、機械越しに二人は音の向こうに感じていた。そして、その通りの状況が起きている事を機械の向こうで男が、慌てたように大声で叫び続ける。式読は微かに目を細め、その光が黒点の表面に近づいたのを見つめた。
「礼慈、あれは一体なんだ?」
星読の青年はサラリと音を立てて黒髪を揺らしながら「わかりません」と首を横に振り、横にいる智美に向かって呟いていた。その表情は疲労の色も見えたが、それ以上に見たこともない困惑の色が深い。
「気配が全く掴めないんです。本当に分からないんです。」
式読は雑音の酷い現場の音に耳を傾けながら、不意にハッとした様にその熱源を再度見つめなおした。熱源をまじまじと見下ろしたまま、自分の記憶の中の言葉をモニターの群れの前でなぞり心の中で繰り返す。それは、彼の明晰な頭脳の中で痛いほどに響きわたっている。
「まさかこれが。」
ふと言葉が口をつく。
式読の脳裏には、四神のうちの二人白虎と玄武とで交わした会話が、一言一句違わず繰り返される。土気そして要。そして守護するもの、その単語が閃くように舞っていた。
※※※
突然青龍の眼前で闇色の球壁に鮮やかな閃光が円を描いたかと思うと、フワリとその光が闇の球体の表面に大きな穴を穿つのを見た。その穴から滑る様に淡い光の球が、モノクロの世界に舞い降りる。
そうして光の球の中の一人の青年が、まるで夢遊病者の様にボンヤリとした表情で歩を進める。気配で何かが来ることは気が付いていたとはいえ、青年の姿に青龍は宙を舞いながら驚きに目を見張り息をのんだ。ただ一人その場でその姿に気づき何かを叫ぼうと青龍が口を開こうとしたその瞬間、不意に意識のハッキリしない様子のままで彼は真正面の者達に体を向けやおら口を開いた。
『――――――――。』
その声は人間のモノではない。
声というには音として捉えることの出来ない、別な次元の音色。まるで不思議な楽器の奏でる音楽の様な音が、モノクロの世界に響きわたり病んだ地脈の気を切り裂いて駆け巡る。今まで耳にした事のない不思議な天上の音色に、青龍以外の饕餮を含む全員がその姿を振り仰いだ。頼りなげなまだ幼さの残る青年の口から放たれる不思議な音は、波紋の様に波を作り周囲に満ちていく。
『仁?!』
驚きに思わず放たれた玄武の声にも青年は全く反応しない。まるでその体全てが天上の楽器と化してしまったかのように、麗しい音色が宙に四散し空間に満ちていく。
不意に白虎の放ち続けていた白銀の気を柔らかな金色の気がそっと包み込み、やんわりと穏やかに癒しながら体へと押し戻した。そして白銀の気に立ち代わるように、金色の気が穴をヴェールで包みこんだ。それとほぼ同時に朱雀は両下肢で抑え込んでいる目の前の饕餮の表情が驚愕に歪み、手から微かに力が抜け苦痛に満ちた声を発するのを聞いた。
『そんな………馬鹿な………。』
『―――――――――――。』
不意に奏でられる音階が変わり、その心地いい音色に逆に饕餮は思わずたたらを踏む様に後退る。咄嗟に朱雀を掴んでいた手を離し、その腕が鋭い鉤爪で腕の肉を引き千切られるのも構わず朱雀を振り払い饕餮はその耳を塞いだ。それは、四神には心地いいその音色が、まるで毒であるとでもいうかの様に苦悩に満ちた恐怖の表情だった。
何故だ、この音は、あれは
波紋が神経に突き刺さる。天上の音色に饕餮は両腕を滴り落ちる黒い血にも気がつかない様子で呻き声を初めて上げた。先程までの悠然とした顔に、色濃い怯えが刻み込まれマジマジと青年の姿を見据える。
天上の音色の力に包み込まれ、自身の命を削る気を放つのを止めた白虎がその場で変化が解け人の姿で膝をつく。視界の端でそれを見た朱雀は、一瞬躊躇したが饕餮から踵を返し宙で後ろ向きに反転するとさっと人の姿に戻る。暖かく輝く金色の光の中を駆け、白虎を駆け寄るとその体を支え起こした。
「………あれは………仁か?」
朱雀に支え起こされ囁くように呟く白虎に、朱雀も驚きを隠さずああと頷く。一体今何が起こっているのか全く分からないまま、その場に満ちていく心地いい癒しの音色に包まれている。
「これは一体…。」
妖気が四神にとって害であったのと同じように饕餮にとっては、その音色は害に当たる気配を見せていた。半球体の内部で肥大した筈の狼達が、口から黒い物を吐き出しひっくり返って四肢を痙攣させている。それを目にいれた饕餮は、つんざくような悲鳴を上げて頭をかきむしり始めた。
『うがぁああああ!!!』
叫べば音色が打ち消せるとでも言いたげに、饕餮は大声で叫び顔に爪をたてる。引きちぎられた顔の皮がおぞましく垂れ下がり、指の合間から滝のように黒い血を滴らさせ苦悶の大声で叫ぶ。それでも天上の音色はまるで揺るぎもしなかった。
『おのれえええぇええ!!』
今も天上の音色を奏で続ける青年を、忌々しげに饕餮は激しい憎悪をたぎらせてギロリと睨みつける。次の瞬間、黒い血に染まった両の手を突き出す様に饕餮は、青年に向かって躍りかかっていた。
『仁君!』
ザッという風の立てる音とともに青龍が、その青年を庇うように饕餮の眼前に舞い降り巨体を盾にして行く手を遮る。その青龍の蒼い鱗に饕餮の黒い口をもつ両手が触れようとした瞬間、再び天上の音楽の音階が再び変化した。
『ーーーーーーーーー。』
両手を目一杯に伸ばし龍鱗に掠る寸前、まるで見えない巨大な何かに突き飛ばされた。凄まじい勢いで饕餮の腹部が窪んだかと思うと、その体ごと後方へ弾き飛ばされ金色の光の中で再びたたらを踏んだ。
『グゥ……っ?!』
グブッという音が饕餮の喉からせり上がり、喉が異様に膨らむ。美しい形をした妖艶な造形を持っていた唇から、大量の黒い血液が固まりの様に金の光の中に吐瀉された。黒い液体がバシャリとモノクロの地面に降り注いで、饕餮は苦悶の表情で呻く。痛みすら伴うような大量の吐瀉に饕餮は、狼狽する様な戸惑いの表情を浮かべその場で立ちすくんだ。そして、救いを求める困惑の表情で、自分の足元の見回す。
『っ!!?くそっ!』
足元に開いていた筈の地脈の穴は、今や既に白銀ではなく斑のない完全な金色の光でビッチリと塞がれていた。白虎が命懸けで張っていた白銀の蓋など比ではない。一部の隙もなく完全に金色の光の蓋で、穴自体が閉じられている。そして、妖気を含んでいた空間に満ちた地脈の気すら、次々と天上の音色が浄化し目の前で清廉なものに変わっていく。
『がぁ…。』
ゴポリと再び喉をせりあがる大量の黒い吐瀉が、吐き出された端から消え去る。天上の音色が満たされた半球体の残りの半分、地中に存在していた饕餮の領域が揺らいでいるのが聞こえた。この球体は実は対極図だった。地表から上の陽と地下の陰の境を消し飛ばし、全てを陰に塗り替えてそれを起点に自分達の世界の扉に固定する。それはほぼ完成する間近迄来ていて、その駄賃に邪魔な四神を喰い尽くす筈だった。
四神の妖力を喰い尽くせば、自分は最強に生まれ変われる筈だった。
自分自身の思考が既に過去形で言葉を紡いでいるのに、饕餮は
同時にまざまざと肌に感じられた変化に目を向いて絶叫した。
奴の手を避けろ。
その白虎の言葉の意味が、今朱雀の視界の中まさに目の前に突きつけられていた。両腕を掴み押さえつけている筈の饕餮の両の掌が翻る様に反されていく。そしてその掌の中心には、饕餮の深淵の闇を湛える瞳と全く同じ色。深く黒い闇の縁の様な穴がポッカリと左右それぞれに口を開いている。記憶を駆け巡る今までの饕餮の動きと行為を見ていれば、朱雀にもそこが何なのかが簡単に理解できた。
そうか、そこがお前の口だったんだ、そこで飽きもせずに喰い漁っていたんだな。
理解が朱雀の頭で閃く。
ほぼ同時にモノクロの世界の中よりずっと暗い深淵の縁の様な穴を持つその両掌が、朱雀の鉤爪の足に牙をつきたてた。ただ触れただけに見えるのに身の内まで饕餮の牙が、めり込み体の芯に喰い込むのを感じる。
『このぉ!!』
掌が掴む場所からミシリと鈍い音を立てて、体の奥底が冷たい氷のような炎で爆ぜる。激しい虚脱感を伴う金串を刺すような痛みが、朱雀の背筋から脳髄の奥に突き刺さる。その激しい痛みは、思わず苦悶の悲鳴となって朱雀の口から迸った。
『うあぁぁあああぁっ!!』
『朱雀!馬鹿!離れろっ!』
苦痛を省みない白虎の絞り出すような怒声に、一瞬遠のきかけていた意識がまるで冷水でも頭からかぶせられたように引き戻され朱雀は我に返る。普段にはなく頭の中で冷ややかな理性が自分を叱咤しながら、朱雀は饕餮の両手から吸いだされていく自分の生命でもある根元の火気を感じた。
吸い出され、吸い尽くされ、
そんなことさせてたまるかと激しく身震いをして、激しくその紅蓮の炎の欠片の様に羽根を飛び散らせた。朱雀は高らかに嘶く。そして朱雀は再び両下肢から、今度は改めて饕餮の火気を吸いだそうと力を込める。
負けられない……いや!負けてたまるかよ!!
お互いの気で身の内を焦がしながら拮抗する二つの火気のせめぎ合いは、金気の光の渦の中で互いに一歩も引く様子を見せない。しかし、そんな中で朱雀の双翼にわざと隠れる様に体をずらす饕餮の狡猾な仕草に、玄武は思わず舌打ちした。
くそ!気づいてやがる!
今攻撃を仕掛ければ、先ほど言い放った『金侮火』の理りによって仲間である朱雀に傷を負わせかねない事は自明の理だ。火気を吸いだす事は必要だが、この事態は最良とはいえなかった。これは、最悪の策になりかねない状況だ。
玄武は唇を噛んだ。
誰か一人でも失敗すれば、仲間を一人どころか二人失う可能性もある。何よりもしそうなれば自分も含めて皆、饕餮の餌食になるに違いない。水流を細く細かく操るため異形の亀の様な姿で玄武は、ザザッと地を蹴立てて饕餮の背後へ回り込もうと身を翻す。しかし、饕餮も回り込むように、玄武の視界から逃れるように朱雀の羽の下に潜り込む。
駄目だ!このままじゃ白虎も朱雀ももたねぇ!
周囲の戦闘を見つめていた青龍は、周囲の様子に表情を歪めた。一気に風を巻き上げる音を立てて一直線に蒼い鱗を閃かせ中空へと駆け昇った。青龍の判断も玄武と寸分たがわぬ結論に達していた。彼に残された手は、木気を火気に与え助勢する方法だけだが、それも一歩間違えば敵の助勢と成りかねない諸刃の剣。その身から放たれる木気を朱雀だけに与えるためには、緻密な気の操作が必要で青龍が神経を尖らせ気を練り始める。
不意に彼の手で練り始められていた気が音をたてて四散し、青龍自身それに全く気が付いていない様子で背後の球面に蒼水晶の瞳が向けられていた。それは背後から近寄る何か強い波のうねりのように押し寄せる、強く激しい気配の存在だった。青龍は驚き戸惑いながら、近づくその気配の方をじっと見つめる。
それはその空間の中では、唯一彼だけが気がつくことができた、新たなる異変だった。
※※※
それが彼等の耳に情報として届く前に、彼ら二人はその薄暗いモニターの群れの中に既にそれを見つけていた。
強大な妖力のせいか、それとも巨大な穴のせいかモニターの中の黒点はいつも以上に温度を失って黒々として見える。そして今まさに黒円の淵に向かって、四神よりも更に一際高い温度を放つ熱源が出現していた。それが急激な速度で一直線に黒円を目掛けて駆けるのを、目の前のモニターは映し出していく。あまりにも高い熱源反応は赤を越して白く輝いて映り、それを拡大したモニターの一つが不意に煙を噴いて沈黙した。智美はやむを得ず遠景のモニターで熱源を観察しているが、やがてそのモニターまで感知しきれなくなったようにブツンと音をたてて沈黙する。それはまるで、式読の観察を拒んでいるようだ。
遠距離のカメラ越しにすら近付くことを許さない何か。
式読・星読の二人は息を呑んで、その高熱源の行き先を見つめていた。沈黙したモニターに関与しない無線連絡の声が、雑音混じりに最前線の状況を緊迫感と一緒に伝えてくる。何人か怪我をおったのは聞こえてきたが、その後の沈黙が一瞬何かが起きたことを感じさせた。一瞬雑音が途切れ、院の者の声が驚愕の呟きを溢す。
『何だあれは…。』
恐らく高熱源を至近距離で見た者の声なのだろう、周囲に居る院の者が驚いた様に続けけ声を張り上げている。
『はいってはいけない!』
しかし、それを有無を言わさぬ気配が押しのけるのを、機械越しに二人は音の向こうに感じていた。そして、その通りの状況が起きている事を機械の向こうで男が、慌てたように大声で叫び続ける。式読は微かに目を細め、その光が黒点の表面に近づいたのを見つめた。
「礼慈、あれは一体なんだ?」
星読の青年はサラリと音を立てて黒髪を揺らしながら「わかりません」と首を横に振り、横にいる智美に向かって呟いていた。その表情は疲労の色も見えたが、それ以上に見たこともない困惑の色が深い。
「気配が全く掴めないんです。本当に分からないんです。」
式読は雑音の酷い現場の音に耳を傾けながら、不意にハッとした様にその熱源を再度見つめなおした。熱源をまじまじと見下ろしたまま、自分の記憶の中の言葉をモニターの群れの前でなぞり心の中で繰り返す。それは、彼の明晰な頭脳の中で痛いほどに響きわたっている。
「まさかこれが。」
ふと言葉が口をつく。
式読の脳裏には、四神のうちの二人白虎と玄武とで交わした会話が、一言一句違わず繰り返される。土気そして要。そして守護するもの、その単語が閃くように舞っていた。
※※※
突然青龍の眼前で闇色の球壁に鮮やかな閃光が円を描いたかと思うと、フワリとその光が闇の球体の表面に大きな穴を穿つのを見た。その穴から滑る様に淡い光の球が、モノクロの世界に舞い降りる。
そうして光の球の中の一人の青年が、まるで夢遊病者の様にボンヤリとした表情で歩を進める。気配で何かが来ることは気が付いていたとはいえ、青年の姿に青龍は宙を舞いながら驚きに目を見張り息をのんだ。ただ一人その場でその姿に気づき何かを叫ぼうと青龍が口を開こうとしたその瞬間、不意に意識のハッキリしない様子のままで彼は真正面の者達に体を向けやおら口を開いた。
『――――――――。』
その声は人間のモノではない。
声というには音として捉えることの出来ない、別な次元の音色。まるで不思議な楽器の奏でる音楽の様な音が、モノクロの世界に響きわたり病んだ地脈の気を切り裂いて駆け巡る。今まで耳にした事のない不思議な天上の音色に、青龍以外の饕餮を含む全員がその姿を振り仰いだ。頼りなげなまだ幼さの残る青年の口から放たれる不思議な音は、波紋の様に波を作り周囲に満ちていく。
『仁?!』
驚きに思わず放たれた玄武の声にも青年は全く反応しない。まるでその体全てが天上の楽器と化してしまったかのように、麗しい音色が宙に四散し空間に満ちていく。
不意に白虎の放ち続けていた白銀の気を柔らかな金色の気がそっと包み込み、やんわりと穏やかに癒しながら体へと押し戻した。そして白銀の気に立ち代わるように、金色の気が穴をヴェールで包みこんだ。それとほぼ同時に朱雀は両下肢で抑え込んでいる目の前の饕餮の表情が驚愕に歪み、手から微かに力が抜け苦痛に満ちた声を発するのを聞いた。
『そんな………馬鹿な………。』
『―――――――――――。』
不意に奏でられる音階が変わり、その心地いい音色に逆に饕餮は思わずたたらを踏む様に後退る。咄嗟に朱雀を掴んでいた手を離し、その腕が鋭い鉤爪で腕の肉を引き千切られるのも構わず朱雀を振り払い饕餮はその耳を塞いだ。それは、四神には心地いいその音色が、まるで毒であるとでもいうかの様に苦悩に満ちた恐怖の表情だった。
何故だ、この音は、あれは
波紋が神経に突き刺さる。天上の音色に饕餮は両腕を滴り落ちる黒い血にも気がつかない様子で呻き声を初めて上げた。先程までの悠然とした顔に、色濃い怯えが刻み込まれマジマジと青年の姿を見据える。
天上の音色の力に包み込まれ、自身の命を削る気を放つのを止めた白虎がその場で変化が解け人の姿で膝をつく。視界の端でそれを見た朱雀は、一瞬躊躇したが饕餮から踵を返し宙で後ろ向きに反転するとさっと人の姿に戻る。暖かく輝く金色の光の中を駆け、白虎を駆け寄るとその体を支え起こした。
「………あれは………仁か?」
朱雀に支え起こされ囁くように呟く白虎に、朱雀も驚きを隠さずああと頷く。一体今何が起こっているのか全く分からないまま、その場に満ちていく心地いい癒しの音色に包まれている。
「これは一体…。」
妖気が四神にとって害であったのと同じように饕餮にとっては、その音色は害に当たる気配を見せていた。半球体の内部で肥大した筈の狼達が、口から黒い物を吐き出しひっくり返って四肢を痙攣させている。それを目にいれた饕餮は、つんざくような悲鳴を上げて頭をかきむしり始めた。
『うがぁああああ!!!』
叫べば音色が打ち消せるとでも言いたげに、饕餮は大声で叫び顔に爪をたてる。引きちぎられた顔の皮がおぞましく垂れ下がり、指の合間から滝のように黒い血を滴らさせ苦悶の大声で叫ぶ。それでも天上の音色はまるで揺るぎもしなかった。
『おのれえええぇええ!!』
今も天上の音色を奏で続ける青年を、忌々しげに饕餮は激しい憎悪をたぎらせてギロリと睨みつける。次の瞬間、黒い血に染まった両の手を突き出す様に饕餮は、青年に向かって躍りかかっていた。
『仁君!』
ザッという風の立てる音とともに青龍が、その青年を庇うように饕餮の眼前に舞い降り巨体を盾にして行く手を遮る。その青龍の蒼い鱗に饕餮の黒い口をもつ両手が触れようとした瞬間、再び天上の音楽の音階が再び変化した。
『ーーーーーーーーー。』
両手を目一杯に伸ばし龍鱗に掠る寸前、まるで見えない巨大な何かに突き飛ばされた。凄まじい勢いで饕餮の腹部が窪んだかと思うと、その体ごと後方へ弾き飛ばされ金色の光の中で再びたたらを踏んだ。
『グゥ……っ?!』
グブッという音が饕餮の喉からせり上がり、喉が異様に膨らむ。美しい形をした妖艶な造形を持っていた唇から、大量の黒い血液が固まりの様に金の光の中に吐瀉された。黒い液体がバシャリとモノクロの地面に降り注いで、饕餮は苦悶の表情で呻く。痛みすら伴うような大量の吐瀉に饕餮は、狼狽する様な戸惑いの表情を浮かべその場で立ちすくんだ。そして、救いを求める困惑の表情で、自分の足元の見回す。
『っ!!?くそっ!』
足元に開いていた筈の地脈の穴は、今や既に白銀ではなく斑のない完全な金色の光でビッチリと塞がれていた。白虎が命懸けで張っていた白銀の蓋など比ではない。一部の隙もなく完全に金色の光の蓋で、穴自体が閉じられている。そして、妖気を含んでいた空間に満ちた地脈の気すら、次々と天上の音色が浄化し目の前で清廉なものに変わっていく。
『がぁ…。』
ゴポリと再び喉をせりあがる大量の黒い吐瀉が、吐き出された端から消え去る。天上の音色が満たされた半球体の残りの半分、地中に存在していた饕餮の領域が揺らいでいるのが聞こえた。この球体は実は対極図だった。地表から上の陽と地下の陰の境を消し飛ばし、全てを陰に塗り替えてそれを起点に自分達の世界の扉に固定する。それはほぼ完成する間近迄来ていて、その駄賃に邪魔な四神を喰い尽くす筈だった。
四神の妖力を喰い尽くせば、自分は最強に生まれ変われる筈だった。
自分自身の思考が既に過去形で言葉を紡いでいるのに、饕餮は
同時にまざまざと肌に感じられた変化に目を向いて絶叫した。
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