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第一部
第四幕 護法院奥の院
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鳥飼家に訪れた真見塚孝が異母兄と居候の青年に、真見塚道場の門下生の行方不明の話を伝えていた頃。
護法院の奥の院では、一人香坂智美はモニターに写し出した地図を見つめ目を細めていた。自動で繰り返される地図の上の赤い点は、西から次第に東に向けて線を描くように点在し浮かび上がる。そして、それはある地点から奇妙にブレながらも、赤い点で円を描くように動いている。智美のマウスごとスクロールした指の動きに合わせ、モニタ-の中の地図は広域に変わった。広域地図でもう一度再生すると、地図上には疎らに赤い点が浮かび上がる。勿論特化して赤い点が集中して真っ先に浮かぶのは、地図に都市名が無くても分かる大都市だ。しかし、その沢山の赤い点の中でも、最初に見ていた赤い点が描く線と円は歪に浮かぶ。何度繰り返して再生してもその動きは変わりようがない。
「奴め。」
どう考えてもそれは、正常の範囲の世界ではないのだ。その赤い点はここ数日間にわたる、国内での行方不明者の発生場所だった。発生場所とは言え、自宅などで行方不明になったものもあれば、何処で行方が分からなくなったか不明で家族が捜索願いを出したものもある。それが微妙な誤差にはなっていて、バラツキを生じている。それでもその中に浮かぶ線と円は、見間違う事はできなかった。もっと日にちが経ち長期間になればそれは、更に顕著に同じ円を描き続ける可能性が高い。円の半径はキロ単位。日に数十件の点が、今も尚巨大な赤い円を地図の上に描き続けている。
「人の血で円を描いているつもりか。」
今までこんな行動をとった前例が一つも残っていないのが、正直口惜しい。戦時中の火災で一部焼失した記録には、今回と似た行動をとった可能性がありそうだった。とは言え残念なことに記録の一部は戦禍に焼失し、当時の式読は記録の復元をする前にその戦火に巻き込まれた。そのために失われた記録は全体の一割程とも言われるが、例え最古を守っても今必要な物を失った可能性は高い。
「円を描き、何をする気なんだ。」
要石の伝承を思い起こしながら、暫し思案する智美の目がモニターを見据えて赤い点を追う。地上にそれが円を描き始めてからの赤い点の出現場所は、一定ではなく円上のどこかに変わってしまっている。次の予測をするにも規則性が読み取れない円上の何処かでは、院には手の打ちようがない。何しろ地図上の円は、院から東の都市部に広大な範囲で跨がって広がっているのだ。その何処かでゲートを開く行動を起こす可能性も捨てきれない上に、この円自体が何か他の企みの可能性もある。そんな危険性を持つ行動をとれるほどのモノは、記録には原始の四悪しかいないのだ。
原始の四悪、四凶、四神、四人のゲートキーパー、智美の思案の中には四が付きまとう。
太古の四悪の人外を討ち滅ぼした四人の神を宿した人間
そう最古の記録は書き記した。モノを撃ち破る程の神が、人に宿る気になったのは何故だろう。智美は初めてそれを目にした時に、真っ先にそれを先代の老いた式読に問いかけた。しかし、老いた式読は産まれて初めてそれを問われたのだと、病床の中で皺だらけの色素の薄い瞳を丸くしたものだ。
神は何も意図もなく限られた器に、易々と宿るものなのか?
式読の系譜も星読の系譜も明晰なその頭の中にあり、それらには確かに共通点は幾つか存在する。とは言え共通点であって確実な決定力ではない。名前、能力、家系、何かがそれを引き寄せる理由な筈なのだ。
こんなにも四に拘るのに、彼らの能力は五行。
五行は、水、金、火、木、そして土。五つ目の土気は長い間院の存在と伝えられてきたが、本当にそう捉えるべきかと問われると智美には疑問だった。院にいる能力者全員が力を合わせたとしても、ゲートキーパーが一人能力を顕現させて全力で戦ったと能力に匹敵しない。そんな弱い存在を一つと捉えていいとは、智美にはどうしても思えないのだ。しかし、今まで誰もそれを疑問には思わなかったのは、一体何故か。
僕だったら土の能力を宿す者は、四神より何より生まれにくい存在だと考える方がずっと理解しやすい。
それなのに長い間誰もが、土気は院だと言い伝えたのにも何か理由があるのではないか。だとすれば、やはり焼失した一割の中に、それに纏わる記録があった可能性もないわけではない。しかし、逆に記録には本当に何も残されておらず、千年以上も生まれなかった可能性も確かにある。記憶を遡り古文書の記載を脳裏に音声のように流すと同時に、古老が理解して伝えた事柄を照らし合わせていく。同時に年譜と見比べ残っている年代を改めて、古文書の記載に照らし合わせる。
※※※
古くより闇の中に住まうモノの這い出た跡は、地形にも幾ばくかの痕跡を残した。
太古の人をはるかに凌駕する程成長し、知恵をつけた人外について残された記録には四体。
曰く、矢襖の有り様でなお鬼神の如く頑強に暴れるモノ。
曰く、惑う金銀を操り人間を焔のように煽り誘うモノ。
曰く、空を舞うよう崖を下り雷の早さで毒牙をむくモノ。
曰く、天上人の影に妖艶に銀糸の羽衣を纏い舞うモノ。
どれも実際には数年から数十年の単位で、一部の土地に定着し計算高く人間として住み着いていたと考えられる。時には姿を変え、名前を変え、立場を変えながら、一定の土地に栄華を誇る人間の裏側に寄り添うように住み着いていた。今より遥かに人間の数が少なかったのも事実、同時に今より夜の闇が深かったのも事実だ。しかし、西の海際の戦禍から一人のゲートキーパーが出現したことで、その四体は身を砕かれ地の底に追い込まれたとされる。では、その後に再びその四悪と呼ばれた四体が甦った史実はあるのかといえば、それは千年の間一度もないのだ。それは何を意味しているのか、若い式読は思案し続ける。
正確な伝承てはないが言い伝えによれば、第二次大戦の戦時中の大都市下で三十丈程の穴が開いたとされている。三十丈は約90メートル程だから、今の数メートル程度のゲートに比べれば破格の巨大なゲートだ。しかも、それに纏わる前後の経意が、偶然か戦火で焼失した部分であると考えられた。巨大なゲートから何が現れたか、それにともない何が起きたのかは、当時の院の能力者の約半数の死者と式読当人の死、そしてゲートキーパー三人の死亡しか残されていない。
※※※
繰り返し円の出現を眺めているうちに、視界に赤い円が焼き付いてしまったように見えて智美は一端目を閉じた。思考が停滞している不快感に、数日前智美の同級生がラインしてきた内容が浮かぶ。
《智美、木村の行方が分からないらしい。何か知ってたら学校に連絡してくれ。》
まさか同級生が行方不明者の中にあがるなんて、ほんの少しも思いもしなかった自分がそこにはいた。高校に通う事を進めたのは自分の後見役である友村礼慈だったが、今こうして通っているのは香坂智美の意思でもある。それでも同時にこの役目を彼が放棄したわけではなく、迷うことなくこの役目もこなしてきたつもりだった。
もし、奴の手にかかったとしたら木村は二度と戻らなかった。
それを考えると同級生の笑顔が、今も脳裏に浮かぶ自分がいる。最初に話をしたのは夏休みに、他の同級生に誘われプールに行った時だ。野球部の同級生とクラスで最初に話しかけてきた友人、そして他にも親しくしているクラスメイト。もし、それが巻き込まれる自体が起こっているのだとしたら、そう考える事に焦りを感じる自分がここにいる。彼はその後無事に見つかったと連絡があって智美も安堵の溜め息をついたのたが、同時に何時同じことがまた起きてもおかしくないのに気がつく。
ふと気がつくと夕暮れも過ぎて、室内はヒヤリとした夜気が流れ込み始めていた。不意に薄暗い扉の向こうで何時もは無いざわめきを聞きつけ、智美は閉じていた瞳を開く。
廊下を急く足音と供に何人かの不安げな声も微かに響き彼は微かに眉を潜める。それは廊下の騒ぎに勢いをつけ、その扉を音を立てて開け放った。
「智美さん!」
部屋に飛び込む様にして叫んだ今まで見たことの無い礼慈の顔色に、振り返った智美はそれまでの疲れを忘れるほどの緊張を覚える。それは今までに礼慈の顔に一度も見た事のない、不安と怯えに満ち凍り付いていた。礼慈は唇すら青ざめ微かに体を震わせて汗を滴らせ、崩れ落ちそうになりながら扉を握りしめ立っている。
智美と同様にここ数日間禊ぎをして能力を駆使していた礼慈は疲労の色が濃く、扉から手を離すと崩れ落ちかける。慌てた他の僧衣の者に支えられる様にして、礼慈は再び扉に手をついた。
「穴が……、今までにない程…大きな穴が開きます。」
取り乱す様に声を絞り出した体がフラリと傾いで、横の僧衣の者が再び慌てて支える。しかし、力尽きるように礼慈の体はその場にズルリと崩れ落ちた。その姿に思わず智美は椅子を回し、体を机で支える様にして立ち上がり普段は机の下に押し込んでいる杖を片手に掴んだ。
「礼慈!」
カツンと杖の音をさせて片足を引きずる様に一歩踏み出した智美の動作を、礼慈は疲労の滲む苦しげな表情の中で厳しく鋭い視線で制す。後見役として身近な礼慈を労っている場合ではないのだと、彼らしからぬ激しい声を放つ。
「東です!都市で穴が!!」
礼慈の言葉にサッと智美の表情が我に帰り、その顔は見る間に凍りつき強張った。かと思うと彼は礼慈に歩み寄るのをやめ、踵を返し椅子に座る。
凄まじい勢いでキーボードを打ち始め、激しく明滅するモニターの中に地図と赤い円を描く点が重ねて映し出された。スライドを被せるようにサーモグラフィーの画面が次々と表示され、地図に合わせた一か所で定着した。
今までに大都市部で穴が開く等という前例は戦禍の一度きり。しかも、その時の記録は焼失し予測が立たない。つまり何が起こるのか全く予想のつかない状況が、今や目前に迫っているのだ。他の者に支えられながら室内の椅子に沈みこむ様に礼慈が腰掛け、苦しげに息をつくのが横に感じられる。
「そこに…奴も…≪饕餮≫も……います。」
礼慈のその言葉に合わせたように智美の手が一瞬止まり、愕然とした表情が浮かぶ。目の前で突然地図の中に、ゲートを示す零下の黒点が生じた。点であったものが見る間に地図を飲み込んで、巨大に膨れ上がって行く。想定していたとは言え地図に描かれた赤い点の円とサーモグラフィが零下を示し始めた新たに生まれる円が重なりあう。あの赤い点で結ばれた円はこれを目的としていたのだと、智美は思わず鋭い舌打ちをした。
地脈が既に奥深くにある大都市部で穴を無理やり抉じ開ける方法を身につけてるということか
次の瞬間、院の長たるものとしての厳しい鋭い表情が決意の様に智美の表情を一変させ、鋭い眼差しを僧衣の男に声を放った。
「今院内に残る者と近郊にいる者を全て集めろ!至急だ!動け!」
僧衣の男は鋭い声に弾かれる様に「はっ」と答えたかと思うと勢いよく廊下に躍り出す。
険しく厳しい表情のまま智美は、それでも微かに心配気な色を浮かべてぐったりと座り込んだ礼慈を見つめた。礼慈は心底消耗し疲労の限界にいるのだろう、目を閉じて椅子に沈む様にもたれかかり目を閉じている。
普段は座りきりであまり知られていない不自由な彼の足が、カツンと杖の音と供に引きずられる様にして礼慈の傍に歩み寄った。彼の事が心配でそれを真っ先に問いたいが自分の責務を果たさねばならない、その矛盾に智美の表情は複雑な苦悩を浮かべている。
「礼慈、彼らは?」
最初に問いたかった言葉を無理やり飲み込み智美は式読として言葉を絞り出す。フッとその言葉に視線を上げた礼慈は全てを知っていると言いたげな表情で、苦悩の感情を滲ませた年若い式読の姿を見つめた。
「穴は気がついたでしょう…開く場所から全て察していると思います。」
囁くように絞り出す礼慈の声に智美はそうか、と呟くと背後のモニターを振り仰いだ。そこには院からすぐ東方に当たる都市部の中で、黒々と現れ始めた零下を示す黒点が見る間に深淵の縁の様に姿を現し始めていた。
御法院の奥に広がる庭園にヒヤリとした空気を漂わせながら、畳敷の居室は僧衣に身を包んだ20数名が息を殺す様に顔を揃えていた。どの顔も等しく緊張した面持ちで、智美が現れるのを待っている。
式読はここの本当の姿である院の長だ。しかし、実際にはここにいる間に姿を直に見る事が出来るのは、ほんの一部の者に限られている。式読が直接組織の者に命令を下すことは、稀で殆どの指令は後見役も務める星読が行う。事実式読の能力が何であるかすら、下の者は知らないことが多いのだ。
以前同じように院の者を集め姿を見せたのは正確には六年前。そして、その時同じ様にこの場にいた者は、今やほんの一握りにしか過ぎない。その時を知る者達は事態に既に汗を滲ませ体を強ばらせている。カツンと杖をつく音が室内に響き、姿を見せたあまりにも年若い青年は、僧衣を纏うには儚げに見えた。
室内の殆どが戸惑いの表情を浮かべ、智美の姿にざわめき始める。智美を見つめる視線に戸惑いが滲む中、以前彼を見た事のある一部の者達は静かに頭を垂れ式読を迎えた。
何時も薄暗い居室から姿を見せる事のなかった式読は、御祓を終えてヒヤリとした吐息を吐きユックリと杖をつき皆の見上げる中央まで歩み出る。その姿は酷く儚げな美しさを湛えて、僧衣に眼鏡というかなり奇異なものだ。庭園を背に並ぶ者を見下ろしたその瞬間、その外見に惑わされてはいけないという事を眼前に突きつけた。式読は堂々とした威厳のある強い知性を感じさせる気配を放ち、激しく鋭い眼光で集まりざわめく者を射すくめた。その鋭い眼光に院の能力者達は、一様に張りつめた様な緊張した面持ちに変化する。
「ここより、東方。大都市の中に先程穴が開かれた。」
凛とした声が厳かに災厄を告げるのに、集まった者達が戸惑いにざわめく。感知能力のある者達は既に理解しているようだが、閉じる能力の者達はその言葉がまだ実感できない様子だ。
「穴の出現は人外によるものと判断した。直径にして約一キロ。」
式読の言葉は外気よりも更に冷たく氷の様に集まった者達の間に凛と響きわたり、僧衣の男達は身を固くして彼を見つめた。直径一キロもある穴等、ここにいる誰一人として見たこともないのは事実だ。
「既に四神は穴の存在を認識している。」
月読が告げた言葉を己の言葉にして、式読が告げる。
「我等は外周より穴を封じる。」
その言葉にザワッと僧衣の男達の一部が、ざわめき戸惑いの表情を浮かべた。都市部での巨大な穴と人外が関わるという言葉だけで、これほど簡単に動揺を隠せないのは経験の不足をありありと示している。この事実に式読は、苦々しい思いで目を細める。最初から彼がこう告げるのを理解して汗をかくほどに緊張していた者は、この指示を予期していたのだろう。それは、六年前にこの場にいて、あの悪夢のような一夜を既に経験し生き残った者なのだ。その事は分かっていた事だったが、式読は内心舌打ちした。
「六年前も人外との戦いに四神は皆、穴の中にはいり外周は無防備になった。」
式読の言葉に頭を垂れる以外の者達が、ざわめきを更に深める。
「そこをつかれ、幾つかの人外の塵芥のようなものを解き放ったのだ。」
彼はざわめきをあえて無視して言葉を鋭く放ち、その声に辺りは再び静まり返る。式読の脳裏にはあの時の苦い記憶が甦った。
もっと早く今回と同じ決断をしていたらあの時の結果は変わったかもしれない。
あの時、まだ穴の開く場所の特定は大部分が、星読任せで予測をするにも情報が乏しかった。都市部に穴が開かない理由を声高に訴えても、古老が若い式読を無視することも多かった。やっと彼等の能力と穴の存在を感知できる方法を見つけたと訴えた若い式読を鼻で嗤った古老も多い。若い彼はモニタリングを始めたばかりで、証明するための情報を集め始めたばかりだった。それ故に院の者は無知であり、結果として多くの時に穴の状態は悪化していた。院の内部の抗争のせいで、殆どの穴を封じることをゲートキーパーに全て背負わせてしまったのだ。疲弊した状態で、暫く放置された穴から這い出した人外と対峙することになった彼らに、追い討ちをかけたのは古老の穴の中にはいる指示だった。
もし最初から外周から穴を封じる指示であれば、結果は違ったかもしれない。もしもっと早い時点で院のモウロク爺共が素直に彼の提案に従い、力を貸していればあの時の結果は違ったかもしれないのだ。それは、先代朱雀の命を助ける事が出来たかもしれなかったという事実だ。だからこそ、今は違う。早くから最適な何かをするために動くことを考える事ができる。ざわめきに向けて冷ややかな声で、式読の問いが投げつけられた。
「四神がいない状況で、誰が穴を封じる事が出来るか答えろ。」
式読の静かな怒声に、僧衣の男達は息を呑む。その姿を目に一時も間をおかず怒気をはらんだ声音で、式読は続けざまに言葉を繋ぎ放った。
「答えがなければ、命に従うとみて良いな!二人一組となり等間隔で、配置を命じる!近郊の者はどれくらい戻る?」
「早い者はそろそろ市街地につく頃です。」
彼の鋭い視線と声に殆どのモノが表情を引き締め、決意した様に彼の表情に負けぬ強い視線を放つ。それに、彼が内心満足しかけた時目の前で小さな声が呟いた。
「し…しかし、式読様、我等には巨大な穴を封じる程の力はありません。」
前列に近い、まだ院に入って月日の浅い年若い僧衣の青年が、怯えに満ちた瞳でおずおずと小さな声で呟く。そう、この言葉をあの時モウロク爺が言ったせいで、状況把握の為とあの魑魅魍魎の巣に何人も人を送り込む決議を押し通されたのだ。その結果、その送り込んだ人間を盾に使われ、あげくの果てに全員を失った。
「等間隔で外周を囲む。私は一人で封じろとは言っていない。」
青年は式読の強い意思に満ちた鋭い視線を、真正面から受けて思わずたじろいだ様に視線を足元に落とした。
「ですが、その、封じるのと同時に人外を滅する事はできません。」
「私は二人一組となりと言った。」
式読の決意に満ちた冷たく研ぎ澄まされた刃物の様な視線は、揺らぐ事無くその青年を見下ろした。しかし、その青年の目からは、他の者の怯えとは質の違う怯えが見て取れる。それに気がついた瞬間、酷く穏やかで怜悧な響きをもった声となって零れおちた。
「ここに残れ。」
式読の言葉はその場にいたものの間に、冷水の様にひやりと降り落ちる。青年が呆然と彼を見上げるのも気にせず、式読は鋭く他の者に声をあげた。
「他の者は準備が出来次第、二人一組で活動しろ。」
ここを出て生きていくには異能力が邪魔な者達ばかりが、組織化されているのは充分理解している。かといって、無理強いで命をかけさせるつもりも毛頭ない。だからと言って、彼ら四人だけに背負わせる事も事実出来ないのだ。
「追って、正式な場所を通達する。速やかに動け!」
穏やかなはずのその言葉には、例え様のない憤りが満ちているのを彼等は感じた。その有無を言わせる事のない声音に、弱音を吐いたはずの僧衣の青年がハッとした様に目をあげるが、既に式読の瞳は彼を見ようとすらしていない。彼は既にほかの僧衣の者達の決意に引き締まる表情しか見ていなかった。
そこにあったのは、六年より長い月日の殆どを院に奪われ生きていく事を強いられたものの苦悩。そして今では唯一四神と院を、繋ぐ糸である者の責務。そして守るべき者・守らねばならない者を知る明晰な知性を秘めた者。そして、何より多くの者が死んでいくのを見取る役目を幼くして継がされた者の、悲しく厳しい、そして孤高にすら見える強い意志を内に秘めた姿だった。
「穴は巨大だが、等間隔で周囲を固め、出来る限りこれ以上の拡大を防ぐ。」
彼の声は先程とは変わって穏やかだが、緊張が滲み始める。式読自身、巨大な穴が自分達に封じこめられない事は分かっている。しかし、これ以上穴を巨大にさせないよう抑える事は、この人数がいれば可能なはずだと最初から判断しているのだ。最初にそう言えば、心に油断が生まれる、人外が傍にいる状況でそれだけは避けなければならなかった。
「縮める事は出来なくとも拡大は何としても防ぐ。」
彼はそれぞれの名を呼びあげ指示を出していく。それは式読がここにいる全員の顔と名前を記憶しているだけでなく、それぞれの持つ能力の程度までも記憶している証明だった。初めて顔を見たはずの者の名前まで、全て記憶している彼は、二人一組にならない者の名前を呼びあげる。
「今呼ばれたものは、可能な限りで周囲の人間の避難にあたる様に。」
適材適所。その言葉を改めて痛感して、僧衣の男達は彼を見つめ返す。経験の浅いもの能力の弱い者にも出来る仕事をキチンと振り分け、出来るものには出来る事を指示していく彼の判断は酷く的確だった。
「動け」と一声彼は声をかけると、一斉に動き出す僧衣の男達の姿も独り取り残された眼前の青年の姿も振り返る事なく、再びカツン・カツンと音を立てて廊下の奥の彼の居室に向かって歩き出す。
今度こそ誰一人、命をおとすことなく戦いが終わる。
何時もの薄暗い室内に足を踏み入れると、ヒヤリとした外気が身にまとわりついている。モニターには今では一キロに達した近い巨大な穴が映し出されていて式読は表情を歪めた。
六年前もこれほど大きかっただろうか、いや、もう少し小さいはずだ。
しかし、今それを知る術はない。
式読は一つ溜息をつくと、スマホではなく室内に据え置かれた電話機に手を伸ばし受話器を持ち上げる。物憂げに一つだけボタンを押した。未だ、蒼ざめた表情でモニターを見つめる星読を横に、電話に出た相手に彼は短い言葉を伝える。
「都下で穴が開きます。規模は直径で一キロ。」
相手が息を呑むのが受話器越しに伝わる。
平和ぼけした彼等に何を頼めるだろう。
千年以上もの間、歴史の裏で四神と供に存在し消えていくのが自分達に定められた運命だとしても。安倍晴明や土御門家の様に史上に名を残す事もなく、人間と国を守り続ける自分達に政府は何をしてくれるのだろう。ただ、異端・異能のレッテルを押すだけではないか。そんな多くの苦悩が、その美しい顔に憂いとなって滲み浮かび上がるのを感じながら彼は言葉をつづけた。
「速やかに周辺の住民の避難を。交通機関は閉鎖を検討してください。」
電話口で呻き声が上がるのを、横に冷ややかな声で告げる。
「理由はそちらで巧くお考えください。天候なり人身なり何なりと。」
静かにその受話器を置いてから、やっと彼は星読を振り返ると疲労に大儀そうに歩み寄った。
「大丈夫か?礼慈。」
若くして全ての苦悩を背負う事になったその姿を見つめ返しながら、礼慈は微かに微笑み頷く。弱々しい微笑みではあったが、それに式読の表情は微かに緩んだ。巨大な穴の開口に、後は全てを彼ら四神に託すしかない。そんな事を彼ら二人は良く分かっている。そして、その視線の先のモニターには、黒い深淵の縁を見据えるように4つの激しい光が一つの星のように寄り集まり画面に浮かび上がっていた。
護法院の奥の院では、一人香坂智美はモニターに写し出した地図を見つめ目を細めていた。自動で繰り返される地図の上の赤い点は、西から次第に東に向けて線を描くように点在し浮かび上がる。そして、それはある地点から奇妙にブレながらも、赤い点で円を描くように動いている。智美のマウスごとスクロールした指の動きに合わせ、モニタ-の中の地図は広域に変わった。広域地図でもう一度再生すると、地図上には疎らに赤い点が浮かび上がる。勿論特化して赤い点が集中して真っ先に浮かぶのは、地図に都市名が無くても分かる大都市だ。しかし、その沢山の赤い点の中でも、最初に見ていた赤い点が描く線と円は歪に浮かぶ。何度繰り返して再生してもその動きは変わりようがない。
「奴め。」
どう考えてもそれは、正常の範囲の世界ではないのだ。その赤い点はここ数日間にわたる、国内での行方不明者の発生場所だった。発生場所とは言え、自宅などで行方不明になったものもあれば、何処で行方が分からなくなったか不明で家族が捜索願いを出したものもある。それが微妙な誤差にはなっていて、バラツキを生じている。それでもその中に浮かぶ線と円は、見間違う事はできなかった。もっと日にちが経ち長期間になればそれは、更に顕著に同じ円を描き続ける可能性が高い。円の半径はキロ単位。日に数十件の点が、今も尚巨大な赤い円を地図の上に描き続けている。
「人の血で円を描いているつもりか。」
今までこんな行動をとった前例が一つも残っていないのが、正直口惜しい。戦時中の火災で一部焼失した記録には、今回と似た行動をとった可能性がありそうだった。とは言え残念なことに記録の一部は戦禍に焼失し、当時の式読は記録の復元をする前にその戦火に巻き込まれた。そのために失われた記録は全体の一割程とも言われるが、例え最古を守っても今必要な物を失った可能性は高い。
「円を描き、何をする気なんだ。」
要石の伝承を思い起こしながら、暫し思案する智美の目がモニターを見据えて赤い点を追う。地上にそれが円を描き始めてからの赤い点の出現場所は、一定ではなく円上のどこかに変わってしまっている。次の予測をするにも規則性が読み取れない円上の何処かでは、院には手の打ちようがない。何しろ地図上の円は、院から東の都市部に広大な範囲で跨がって広がっているのだ。その何処かでゲートを開く行動を起こす可能性も捨てきれない上に、この円自体が何か他の企みの可能性もある。そんな危険性を持つ行動をとれるほどのモノは、記録には原始の四悪しかいないのだ。
原始の四悪、四凶、四神、四人のゲートキーパー、智美の思案の中には四が付きまとう。
太古の四悪の人外を討ち滅ぼした四人の神を宿した人間
そう最古の記録は書き記した。モノを撃ち破る程の神が、人に宿る気になったのは何故だろう。智美は初めてそれを目にした時に、真っ先にそれを先代の老いた式読に問いかけた。しかし、老いた式読は産まれて初めてそれを問われたのだと、病床の中で皺だらけの色素の薄い瞳を丸くしたものだ。
神は何も意図もなく限られた器に、易々と宿るものなのか?
式読の系譜も星読の系譜も明晰なその頭の中にあり、それらには確かに共通点は幾つか存在する。とは言え共通点であって確実な決定力ではない。名前、能力、家系、何かがそれを引き寄せる理由な筈なのだ。
こんなにも四に拘るのに、彼らの能力は五行。
五行は、水、金、火、木、そして土。五つ目の土気は長い間院の存在と伝えられてきたが、本当にそう捉えるべきかと問われると智美には疑問だった。院にいる能力者全員が力を合わせたとしても、ゲートキーパーが一人能力を顕現させて全力で戦ったと能力に匹敵しない。そんな弱い存在を一つと捉えていいとは、智美にはどうしても思えないのだ。しかし、今まで誰もそれを疑問には思わなかったのは、一体何故か。
僕だったら土の能力を宿す者は、四神より何より生まれにくい存在だと考える方がずっと理解しやすい。
それなのに長い間誰もが、土気は院だと言い伝えたのにも何か理由があるのではないか。だとすれば、やはり焼失した一割の中に、それに纏わる記録があった可能性もないわけではない。しかし、逆に記録には本当に何も残されておらず、千年以上も生まれなかった可能性も確かにある。記憶を遡り古文書の記載を脳裏に音声のように流すと同時に、古老が理解して伝えた事柄を照らし合わせていく。同時に年譜と見比べ残っている年代を改めて、古文書の記載に照らし合わせる。
※※※
古くより闇の中に住まうモノの這い出た跡は、地形にも幾ばくかの痕跡を残した。
太古の人をはるかに凌駕する程成長し、知恵をつけた人外について残された記録には四体。
曰く、矢襖の有り様でなお鬼神の如く頑強に暴れるモノ。
曰く、惑う金銀を操り人間を焔のように煽り誘うモノ。
曰く、空を舞うよう崖を下り雷の早さで毒牙をむくモノ。
曰く、天上人の影に妖艶に銀糸の羽衣を纏い舞うモノ。
どれも実際には数年から数十年の単位で、一部の土地に定着し計算高く人間として住み着いていたと考えられる。時には姿を変え、名前を変え、立場を変えながら、一定の土地に栄華を誇る人間の裏側に寄り添うように住み着いていた。今より遥かに人間の数が少なかったのも事実、同時に今より夜の闇が深かったのも事実だ。しかし、西の海際の戦禍から一人のゲートキーパーが出現したことで、その四体は身を砕かれ地の底に追い込まれたとされる。では、その後に再びその四悪と呼ばれた四体が甦った史実はあるのかといえば、それは千年の間一度もないのだ。それは何を意味しているのか、若い式読は思案し続ける。
正確な伝承てはないが言い伝えによれば、第二次大戦の戦時中の大都市下で三十丈程の穴が開いたとされている。三十丈は約90メートル程だから、今の数メートル程度のゲートに比べれば破格の巨大なゲートだ。しかも、それに纏わる前後の経意が、偶然か戦火で焼失した部分であると考えられた。巨大なゲートから何が現れたか、それにともない何が起きたのかは、当時の院の能力者の約半数の死者と式読当人の死、そしてゲートキーパー三人の死亡しか残されていない。
※※※
繰り返し円の出現を眺めているうちに、視界に赤い円が焼き付いてしまったように見えて智美は一端目を閉じた。思考が停滞している不快感に、数日前智美の同級生がラインしてきた内容が浮かぶ。
《智美、木村の行方が分からないらしい。何か知ってたら学校に連絡してくれ。》
まさか同級生が行方不明者の中にあがるなんて、ほんの少しも思いもしなかった自分がそこにはいた。高校に通う事を進めたのは自分の後見役である友村礼慈だったが、今こうして通っているのは香坂智美の意思でもある。それでも同時にこの役目を彼が放棄したわけではなく、迷うことなくこの役目もこなしてきたつもりだった。
もし、奴の手にかかったとしたら木村は二度と戻らなかった。
それを考えると同級生の笑顔が、今も脳裏に浮かぶ自分がいる。最初に話をしたのは夏休みに、他の同級生に誘われプールに行った時だ。野球部の同級生とクラスで最初に話しかけてきた友人、そして他にも親しくしているクラスメイト。もし、それが巻き込まれる自体が起こっているのだとしたら、そう考える事に焦りを感じる自分がここにいる。彼はその後無事に見つかったと連絡があって智美も安堵の溜め息をついたのたが、同時に何時同じことがまた起きてもおかしくないのに気がつく。
ふと気がつくと夕暮れも過ぎて、室内はヒヤリとした夜気が流れ込み始めていた。不意に薄暗い扉の向こうで何時もは無いざわめきを聞きつけ、智美は閉じていた瞳を開く。
廊下を急く足音と供に何人かの不安げな声も微かに響き彼は微かに眉を潜める。それは廊下の騒ぎに勢いをつけ、その扉を音を立てて開け放った。
「智美さん!」
部屋に飛び込む様にして叫んだ今まで見たことの無い礼慈の顔色に、振り返った智美はそれまでの疲れを忘れるほどの緊張を覚える。それは今までに礼慈の顔に一度も見た事のない、不安と怯えに満ち凍り付いていた。礼慈は唇すら青ざめ微かに体を震わせて汗を滴らせ、崩れ落ちそうになりながら扉を握りしめ立っている。
智美と同様にここ数日間禊ぎをして能力を駆使していた礼慈は疲労の色が濃く、扉から手を離すと崩れ落ちかける。慌てた他の僧衣の者に支えられる様にして、礼慈は再び扉に手をついた。
「穴が……、今までにない程…大きな穴が開きます。」
取り乱す様に声を絞り出した体がフラリと傾いで、横の僧衣の者が再び慌てて支える。しかし、力尽きるように礼慈の体はその場にズルリと崩れ落ちた。その姿に思わず智美は椅子を回し、体を机で支える様にして立ち上がり普段は机の下に押し込んでいる杖を片手に掴んだ。
「礼慈!」
カツンと杖の音をさせて片足を引きずる様に一歩踏み出した智美の動作を、礼慈は疲労の滲む苦しげな表情の中で厳しく鋭い視線で制す。後見役として身近な礼慈を労っている場合ではないのだと、彼らしからぬ激しい声を放つ。
「東です!都市で穴が!!」
礼慈の言葉にサッと智美の表情が我に帰り、その顔は見る間に凍りつき強張った。かと思うと彼は礼慈に歩み寄るのをやめ、踵を返し椅子に座る。
凄まじい勢いでキーボードを打ち始め、激しく明滅するモニターの中に地図と赤い円を描く点が重ねて映し出された。スライドを被せるようにサーモグラフィーの画面が次々と表示され、地図に合わせた一か所で定着した。
今までに大都市部で穴が開く等という前例は戦禍の一度きり。しかも、その時の記録は焼失し予測が立たない。つまり何が起こるのか全く予想のつかない状況が、今や目前に迫っているのだ。他の者に支えられながら室内の椅子に沈みこむ様に礼慈が腰掛け、苦しげに息をつくのが横に感じられる。
「そこに…奴も…≪饕餮≫も……います。」
礼慈のその言葉に合わせたように智美の手が一瞬止まり、愕然とした表情が浮かぶ。目の前で突然地図の中に、ゲートを示す零下の黒点が生じた。点であったものが見る間に地図を飲み込んで、巨大に膨れ上がって行く。想定していたとは言え地図に描かれた赤い点の円とサーモグラフィが零下を示し始めた新たに生まれる円が重なりあう。あの赤い点で結ばれた円はこれを目的としていたのだと、智美は思わず鋭い舌打ちをした。
地脈が既に奥深くにある大都市部で穴を無理やり抉じ開ける方法を身につけてるということか
次の瞬間、院の長たるものとしての厳しい鋭い表情が決意の様に智美の表情を一変させ、鋭い眼差しを僧衣の男に声を放った。
「今院内に残る者と近郊にいる者を全て集めろ!至急だ!動け!」
僧衣の男は鋭い声に弾かれる様に「はっ」と答えたかと思うと勢いよく廊下に躍り出す。
険しく厳しい表情のまま智美は、それでも微かに心配気な色を浮かべてぐったりと座り込んだ礼慈を見つめた。礼慈は心底消耗し疲労の限界にいるのだろう、目を閉じて椅子に沈む様にもたれかかり目を閉じている。
普段は座りきりであまり知られていない不自由な彼の足が、カツンと杖の音と供に引きずられる様にして礼慈の傍に歩み寄った。彼の事が心配でそれを真っ先に問いたいが自分の責務を果たさねばならない、その矛盾に智美の表情は複雑な苦悩を浮かべている。
「礼慈、彼らは?」
最初に問いたかった言葉を無理やり飲み込み智美は式読として言葉を絞り出す。フッとその言葉に視線を上げた礼慈は全てを知っていると言いたげな表情で、苦悩の感情を滲ませた年若い式読の姿を見つめた。
「穴は気がついたでしょう…開く場所から全て察していると思います。」
囁くように絞り出す礼慈の声に智美はそうか、と呟くと背後のモニターを振り仰いだ。そこには院からすぐ東方に当たる都市部の中で、黒々と現れ始めた零下を示す黒点が見る間に深淵の縁の様に姿を現し始めていた。
御法院の奥に広がる庭園にヒヤリとした空気を漂わせながら、畳敷の居室は僧衣に身を包んだ20数名が息を殺す様に顔を揃えていた。どの顔も等しく緊張した面持ちで、智美が現れるのを待っている。
式読はここの本当の姿である院の長だ。しかし、実際にはここにいる間に姿を直に見る事が出来るのは、ほんの一部の者に限られている。式読が直接組織の者に命令を下すことは、稀で殆どの指令は後見役も務める星読が行う。事実式読の能力が何であるかすら、下の者は知らないことが多いのだ。
以前同じように院の者を集め姿を見せたのは正確には六年前。そして、その時同じ様にこの場にいた者は、今やほんの一握りにしか過ぎない。その時を知る者達は事態に既に汗を滲ませ体を強ばらせている。カツンと杖をつく音が室内に響き、姿を見せたあまりにも年若い青年は、僧衣を纏うには儚げに見えた。
室内の殆どが戸惑いの表情を浮かべ、智美の姿にざわめき始める。智美を見つめる視線に戸惑いが滲む中、以前彼を見た事のある一部の者達は静かに頭を垂れ式読を迎えた。
何時も薄暗い居室から姿を見せる事のなかった式読は、御祓を終えてヒヤリとした吐息を吐きユックリと杖をつき皆の見上げる中央まで歩み出る。その姿は酷く儚げな美しさを湛えて、僧衣に眼鏡というかなり奇異なものだ。庭園を背に並ぶ者を見下ろしたその瞬間、その外見に惑わされてはいけないという事を眼前に突きつけた。式読は堂々とした威厳のある強い知性を感じさせる気配を放ち、激しく鋭い眼光で集まりざわめく者を射すくめた。その鋭い眼光に院の能力者達は、一様に張りつめた様な緊張した面持ちに変化する。
「ここより、東方。大都市の中に先程穴が開かれた。」
凛とした声が厳かに災厄を告げるのに、集まった者達が戸惑いにざわめく。感知能力のある者達は既に理解しているようだが、閉じる能力の者達はその言葉がまだ実感できない様子だ。
「穴の出現は人外によるものと判断した。直径にして約一キロ。」
式読の言葉は外気よりも更に冷たく氷の様に集まった者達の間に凛と響きわたり、僧衣の男達は身を固くして彼を見つめた。直径一キロもある穴等、ここにいる誰一人として見たこともないのは事実だ。
「既に四神は穴の存在を認識している。」
月読が告げた言葉を己の言葉にして、式読が告げる。
「我等は外周より穴を封じる。」
その言葉にザワッと僧衣の男達の一部が、ざわめき戸惑いの表情を浮かべた。都市部での巨大な穴と人外が関わるという言葉だけで、これほど簡単に動揺を隠せないのは経験の不足をありありと示している。この事実に式読は、苦々しい思いで目を細める。最初から彼がこう告げるのを理解して汗をかくほどに緊張していた者は、この指示を予期していたのだろう。それは、六年前にこの場にいて、あの悪夢のような一夜を既に経験し生き残った者なのだ。その事は分かっていた事だったが、式読は内心舌打ちした。
「六年前も人外との戦いに四神は皆、穴の中にはいり外周は無防備になった。」
式読の言葉に頭を垂れる以外の者達が、ざわめきを更に深める。
「そこをつかれ、幾つかの人外の塵芥のようなものを解き放ったのだ。」
彼はざわめきをあえて無視して言葉を鋭く放ち、その声に辺りは再び静まり返る。式読の脳裏にはあの時の苦い記憶が甦った。
もっと早く今回と同じ決断をしていたらあの時の結果は変わったかもしれない。
あの時、まだ穴の開く場所の特定は大部分が、星読任せで予測をするにも情報が乏しかった。都市部に穴が開かない理由を声高に訴えても、古老が若い式読を無視することも多かった。やっと彼等の能力と穴の存在を感知できる方法を見つけたと訴えた若い式読を鼻で嗤った古老も多い。若い彼はモニタリングを始めたばかりで、証明するための情報を集め始めたばかりだった。それ故に院の者は無知であり、結果として多くの時に穴の状態は悪化していた。院の内部の抗争のせいで、殆どの穴を封じることをゲートキーパーに全て背負わせてしまったのだ。疲弊した状態で、暫く放置された穴から這い出した人外と対峙することになった彼らに、追い討ちをかけたのは古老の穴の中にはいる指示だった。
もし最初から外周から穴を封じる指示であれば、結果は違ったかもしれない。もしもっと早い時点で院のモウロク爺共が素直に彼の提案に従い、力を貸していればあの時の結果は違ったかもしれないのだ。それは、先代朱雀の命を助ける事が出来たかもしれなかったという事実だ。だからこそ、今は違う。早くから最適な何かをするために動くことを考える事ができる。ざわめきに向けて冷ややかな声で、式読の問いが投げつけられた。
「四神がいない状況で、誰が穴を封じる事が出来るか答えろ。」
式読の静かな怒声に、僧衣の男達は息を呑む。その姿を目に一時も間をおかず怒気をはらんだ声音で、式読は続けざまに言葉を繋ぎ放った。
「答えがなければ、命に従うとみて良いな!二人一組となり等間隔で、配置を命じる!近郊の者はどれくらい戻る?」
「早い者はそろそろ市街地につく頃です。」
彼の鋭い視線と声に殆どのモノが表情を引き締め、決意した様に彼の表情に負けぬ強い視線を放つ。それに、彼が内心満足しかけた時目の前で小さな声が呟いた。
「し…しかし、式読様、我等には巨大な穴を封じる程の力はありません。」
前列に近い、まだ院に入って月日の浅い年若い僧衣の青年が、怯えに満ちた瞳でおずおずと小さな声で呟く。そう、この言葉をあの時モウロク爺が言ったせいで、状況把握の為とあの魑魅魍魎の巣に何人も人を送り込む決議を押し通されたのだ。その結果、その送り込んだ人間を盾に使われ、あげくの果てに全員を失った。
「等間隔で外周を囲む。私は一人で封じろとは言っていない。」
青年は式読の強い意思に満ちた鋭い視線を、真正面から受けて思わずたじろいだ様に視線を足元に落とした。
「ですが、その、封じるのと同時に人外を滅する事はできません。」
「私は二人一組となりと言った。」
式読の決意に満ちた冷たく研ぎ澄まされた刃物の様な視線は、揺らぐ事無くその青年を見下ろした。しかし、その青年の目からは、他の者の怯えとは質の違う怯えが見て取れる。それに気がついた瞬間、酷く穏やかで怜悧な響きをもった声となって零れおちた。
「ここに残れ。」
式読の言葉はその場にいたものの間に、冷水の様にひやりと降り落ちる。青年が呆然と彼を見上げるのも気にせず、式読は鋭く他の者に声をあげた。
「他の者は準備が出来次第、二人一組で活動しろ。」
ここを出て生きていくには異能力が邪魔な者達ばかりが、組織化されているのは充分理解している。かといって、無理強いで命をかけさせるつもりも毛頭ない。だからと言って、彼ら四人だけに背負わせる事も事実出来ないのだ。
「追って、正式な場所を通達する。速やかに動け!」
穏やかなはずのその言葉には、例え様のない憤りが満ちているのを彼等は感じた。その有無を言わせる事のない声音に、弱音を吐いたはずの僧衣の青年がハッとした様に目をあげるが、既に式読の瞳は彼を見ようとすらしていない。彼は既にほかの僧衣の者達の決意に引き締まる表情しか見ていなかった。
そこにあったのは、六年より長い月日の殆どを院に奪われ生きていく事を強いられたものの苦悩。そして今では唯一四神と院を、繋ぐ糸である者の責務。そして守るべき者・守らねばならない者を知る明晰な知性を秘めた者。そして、何より多くの者が死んでいくのを見取る役目を幼くして継がされた者の、悲しく厳しい、そして孤高にすら見える強い意志を内に秘めた姿だった。
「穴は巨大だが、等間隔で周囲を固め、出来る限りこれ以上の拡大を防ぐ。」
彼の声は先程とは変わって穏やかだが、緊張が滲み始める。式読自身、巨大な穴が自分達に封じこめられない事は分かっている。しかし、これ以上穴を巨大にさせないよう抑える事は、この人数がいれば可能なはずだと最初から判断しているのだ。最初にそう言えば、心に油断が生まれる、人外が傍にいる状況でそれだけは避けなければならなかった。
「縮める事は出来なくとも拡大は何としても防ぐ。」
彼はそれぞれの名を呼びあげ指示を出していく。それは式読がここにいる全員の顔と名前を記憶しているだけでなく、それぞれの持つ能力の程度までも記憶している証明だった。初めて顔を見たはずの者の名前まで、全て記憶している彼は、二人一組にならない者の名前を呼びあげる。
「今呼ばれたものは、可能な限りで周囲の人間の避難にあたる様に。」
適材適所。その言葉を改めて痛感して、僧衣の男達は彼を見つめ返す。経験の浅いもの能力の弱い者にも出来る仕事をキチンと振り分け、出来るものには出来る事を指示していく彼の判断は酷く的確だった。
「動け」と一声彼は声をかけると、一斉に動き出す僧衣の男達の姿も独り取り残された眼前の青年の姿も振り返る事なく、再びカツン・カツンと音を立てて廊下の奥の彼の居室に向かって歩き出す。
今度こそ誰一人、命をおとすことなく戦いが終わる。
何時もの薄暗い室内に足を踏み入れると、ヒヤリとした外気が身にまとわりついている。モニターには今では一キロに達した近い巨大な穴が映し出されていて式読は表情を歪めた。
六年前もこれほど大きかっただろうか、いや、もう少し小さいはずだ。
しかし、今それを知る術はない。
式読は一つ溜息をつくと、スマホではなく室内に据え置かれた電話機に手を伸ばし受話器を持ち上げる。物憂げに一つだけボタンを押した。未だ、蒼ざめた表情でモニターを見つめる星読を横に、電話に出た相手に彼は短い言葉を伝える。
「都下で穴が開きます。規模は直径で一キロ。」
相手が息を呑むのが受話器越しに伝わる。
平和ぼけした彼等に何を頼めるだろう。
千年以上もの間、歴史の裏で四神と供に存在し消えていくのが自分達に定められた運命だとしても。安倍晴明や土御門家の様に史上に名を残す事もなく、人間と国を守り続ける自分達に政府は何をしてくれるのだろう。ただ、異端・異能のレッテルを押すだけではないか。そんな多くの苦悩が、その美しい顔に憂いとなって滲み浮かび上がるのを感じながら彼は言葉をつづけた。
「速やかに周辺の住民の避難を。交通機関は閉鎖を検討してください。」
電話口で呻き声が上がるのを、横に冷ややかな声で告げる。
「理由はそちらで巧くお考えください。天候なり人身なり何なりと。」
静かにその受話器を置いてから、やっと彼は星読を振り返ると疲労に大儀そうに歩み寄った。
「大丈夫か?礼慈。」
若くして全ての苦悩を背負う事になったその姿を見つめ返しながら、礼慈は微かに微笑み頷く。弱々しい微笑みではあったが、それに式読の表情は微かに緩んだ。巨大な穴の開口に、後は全てを彼ら四神に託すしかない。そんな事を彼ら二人は良く分かっている。そして、その視線の先のモニターには、黒い深淵の縁を見据えるように4つの激しい光が一つの星のように寄り集まり画面に浮かび上がっていた。
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