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第一部
第二幕 都市下 鳥飼邸
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悪夢のような一時から、僅かに約一時間後。
独りで住むにはあまりにも広すぎる、しかし物の余りない簡素なマンションの一室に三人の姿があった。そこは信哉が一人で住んでいるマンションで、実は義人達のマンションの直ぐ隣に建っている。
モノトーンに統一された簡素なリビングのソファーの上で、血の気の失せた顔色で、信哉は上半身裸になって手当てを受けていた。左肩には前後に何かが突き抜けた様な痕、肩から二の腕にかけて幾つか水疱を作って赤黒い焼け爛れた肌が痛々しい。悌順の手がその傷に翳され、薄い水色の光を放つ。苦痛に信哉の顔が歪むのは、その光が治癒を直にしているのではなく回復を早回しで行っているようなものだからだ。失われた肉が盛り上がり組織を再構成するのを、無理矢理に早回しで進行させるのは不自然で痛むのは避けられない。
「つつっ!」
「後少しだ、我慢しろ。」
「わかってる、っつ!」
貫通の痕が埋まるのが痛むのだろう、信哉は無言のまま眉を寄せて目を伏せる。やがて、僅かな赤い火傷の痕だけが残り、義人が残った火傷の痕を消毒し始めた。勿論痛みを堪えて全てを完全な治癒まで早回りすることも可能だが、それには気力も体力も必要だ。活動に支障のないものは、自然の時間に治癒を任せる方が信哉も楽なのである。
ここにいない忠志は、客間のベットの上にいた。気を失ったままの忠志は、今も時おり呻き悪夢にうかされている。信哉の左腕にガーゼを当てて包帯を巻きながら、義人が躊躇いがちに口を開いた。
「あれは、どういうことですか?」
その問いかけの意味に信哉が視線を向ける。義人があの童子に手も足もでなかった理由を問いているのだと、目の前の信哉にも治療を終えて壁に寄りかかった悌順にも分かっていた。
童子の姿をした化け物は、人を喰い、攻撃も効いていなかったように見えた。しかも、あっという間に白虎を撥ね飛ばし、目を合わせただけで朱雀を戦闘から離脱させたのだ。憮然とした表情でそれを見つめている悌順の姿に信哉は、暫し迷う気配を滲ませる。
「可能性ではあるが。」
処置を終えてガーゼの上から包帯を巻かれる痛みに、蒼ざめた信哉の顔が微かに歪む。その体にはそれ以外も大小の傷が散らばっているのを見やり、悌順は微かに溜息をついた。
「あいつの五行が火気の可能性はある。」
「可能性、なんですか?」
「ああ、可能性だ。」
その頼りない言葉に義人が瞳を曇らせるのを眺め、信哉は申し訳なさそうに溜め息をつく。
「少し、気になることがあるが、おおよそは火気だ。」
「何でそう思う?信哉。」
壁際の悌順の憮然とした声に、苦痛の落ち着いた顔で信哉が思案顔で呟く。
「一つは俺の攻撃が効いていない。一つは朱雀の甘い火球を飲み込んで、自分の火炎弾に組み替えた。後一つは目のあった朱雀を、気を被せて飲み込みにかかった。」
蒼白な顔ながらも信哉は、溜め息混じりにほんの一時間前の出来事を脳裏で思い返す。彼にしては珍しくもう一度深い溜め息をついて、信哉は義人を見つめ返した。
「忠志の弱い部分から、火気で飲み込みにかかったんだ。恐らく、忠志が一番触れられたくない心の弱い部分、家族の事とかな。」
義人は息を飲んで唇を噛んだ。
二年前槙山忠志の家族達を巻き込んだ事件は当時大々的に報道され、未だに犯人の捕まらない事件として世の中には記憶されている。当時現場にいた筈の忠志が、頭の怪我のせいで記憶を失って犯人を覚えていないのもその報道に熱が入った理由でもあった。あの事件で忠志は両親親戚だけでなく、妹も失っている。あの童子の瞳を真正面から覗いただけで、その事件を追体験させられるなんて考えたくもない。
「忠志は、目を覚ましますか?」
「方法はあるが、できるのはお前だ。義人。」
呟くように言う信哉に、義人は眉を潜めながらその意味を問う。すると、壁に寄りかかっていた悌順が俯きながら、信哉は金気だから火気の忠志を壊しかねないんだよと相剋の関係を告げる。つまり相生の関係で、弱っている忠志の気を底上げしろと言うのだ。それは相生である木気を持つ義人にしかできないと理解して、義人は険しい表情で二人を見上げた。
「どうすればいいですか?」
それから数分後、気を失ったまま苦痛の顔を浮かべる忠志の横で、険しい顔をした義人の体が青く発光するのを信哉が見つめる。
「もう少し気を弱めろ、強すぎる、義人。」
チリチリと髪の毛が逆立つ木気の気配に信哉が呟き、義人は放つ気を押さえ込もうと眉をしかめた。気を操ることに関しては別段得手でも不得手でもないとは思うが、相手にあわせて微調整することなど殆どない。しかも、相手の気にあわせて自分の出力を調整するとなると、辛辣かもしれないが気を失っている忠志なんか確実に難しいだろう。
「もう少し気を練って、そう、それくらいだ。そのままを保てるか?」
義人が言われる通りにすると青い発光が全身を一定の輝きで包み込み、それに呼応するように眠っている忠志の体も赤く発光が始まる。義人のぶれることのない青い発光は、忠志のものと同等の光を保ち続ける。
「なんとか…出来そうです。」
「よし、保ったまま一点に集中して、忠志に放て。」
スッと全身を包んでいた光が矢のように忠志の眉間に飛び、その体に吸い込まれるように溶ける。光が吸いとられるのと同時に、義人の体を強い倦怠感と目眩が襲う。目眩によろめいた義人の体を、それを予期していたように信哉の腕が抱き止めた。
「これで?」
「ああ、暫くしたら目が覚めるだろう。」
躊躇いがちに忠志を見ると、確かに先程までとは表情が違う。ベットで穏やかに眠っている忠志の顔に、安堵の息を溢した義人の頭をポンと信哉が撫でる。
「気の扱いが上手いな、義人は。昔ヤスは気が練れなくて四苦八苦してた。」
「光栄です。でも、あんまりやりたくないですね、相手との同調なんて感覚が上手く分かりません。」
一気に疲労を滲ませた義人の顔に、苦く微笑み同感だと信哉が呟く。暫く重苦しい無言の時間が過ぎて、不意に奥の部屋で気配が跳ね起きるの感じとる。壁越しの気配が、布団をはねのけ駆け出してくるのが分かって三人は緊張を緩めた。
「信哉?!」
部屋から飛び出してきた忠志の声に、微かに微笑んだ信哉に気がつく。三人の視線に呆然と立ち尽くしたまま、忠志は戸惑うように仲間を眺める。
「信哉の怪我は?」
「すぐヤスが応急処置をしてくれた。大事には至らない。」
普段より酷く優しい信哉の声に、安堵したように忠志の肩から力が抜ける。しょげたままの忠志の顔を慰める様に見つめ、そして不機嫌を隠しもせずに見つめている悌順の視線に信哉は目をあげた。信哉の視線が自分を捉えても、悌順は無言のままじっと見つめ返せ。信哉が包帯の巻き終わった痛む傷をかばう様にして、そっとシャツに腕を通す頃になって彼はやっと低く怒りのこもった声で口を開いた。
「トウテツ…とか名のりやがったな…アイツ。」
その声音で悌順が自分に一番腹を立てている事に信哉は気がついた。仲間を制しきれずに信哉が怪我をした事を自分のせいの様に考えているなと気がつく。経験の浅い二人を制しきれなかった責任は、同等に信哉にもある。それでも、戦闘となると攻撃に比重の高い先陣を切ってしまう自分に比べ、防御に比重の高い悌順の方が状況の把握に長けているのだ。
「ああ、そうだな。」
信哉は彼らしい怒りに僅かに目を細め、シャツのボタンを片手で駆けながら小さく頷いた。
「で?」
「うん?」
悌順の問いの意味が一瞬分からず、信哉は悌順の顔を見上げ気がついた様にあぁと声を溢した。戦いの最中に自分が何を言おうとして、あからさまな隙を見せたのかを問われているのだ。蒼白な顔が更に血の気を失ったように見え、信哉は一つ辛そうな溜め息をつく。信哉が先ほどを思い起こすような瞳をするのに、悌順の表情が僅かに曇る。
「あれは、まだ完全体じゃないと思う。…半実体という感じだった。」
童子の体を牙の切り裂く感覚を思い出しながら信哉が言うと、その言葉に忠志と義人が目を丸くする。まじまじと自分の顔を見つめる二人の表情に苦笑いしてから、信哉は再びフゥと息をついた。まるで子供にでもする様にポンポンと忠志の頭を、実に珍しく綺麗に微笑みながら撫でた。
「初めての人外が大物とはな。お前達は運がいいんだか悪いんだか。俺も悌順も大物相手は久々だったから戸惑ってしまった。」
もっとちゃんと説明してから出るべきだったと、信哉が素直に頭を下げる。
「どうりで。だから、直接攻撃してこなかったのか、あのヤロウ。」
チッと忌々しげに舌打ちして悌順が言うと、信哉は小さく溜息をついて頷いた。信哉の蒼白な顔は今では紙の様に白く透き通るようにすら見える。その言葉に忠志は眉を潜め、信哉の顔を覗きこむ。直接攻撃をしてこなかったとは、どういうことかとその目が問いかけていた。
「あいつは直接炎を吐いたりはしてないだろ?お前の炎を自分の気に組み換えて、使ったのは分かるか?」
ああと納得したように忠志が、あの時童子の口元に火炎弾が引き込まれたのを思い浮かべた。確かに自分のように何もないところから火炎を生じさせたのではなく、あるものを利用したという感じだ。
「お前が気を失うはめになったのも、奴が眼から火気でお前ごと飲み込もうとしたんだろうが、本体ではない分お前を飲み込むまでの力がなかったんだろう。」
「もし、本体だったら俺ごと呑まれたってこと?」
可能性はあったと正直に信哉に告げられ、忠志の顔色が見ているものに分かるほど青ざめる。固い顔のままの悌順に、信哉が改めて謝罪を込めるように視線を向けた。
「今回はいわば鏡に攻撃した様なものだ。俺達の見極めが悪かったよ、ヤス。」
「わ―ってるよ、それくらい。」
いらつく様にガリガリと頭を掻いていた悌順は、突然耐え切れなくなった様につかつか歩み寄る。紙の様に白い顔色の信哉が不思議そうに見上げるのに、その左肩には触れないようにスルリと体をすくいあげた。まるで羽でも持つように肩に担ぎあげられた信哉が、悌順の行動に面食らった声をあげる
「?!なっ!!ヤス?!!おいっ!!」
「いい加減にしろっ!お前、もう限界だろうがっ!!」
普段ならあり得ない光景に唖然とする二人をリビングに残し、じたばたと肩の上で暴れる信哉をものともせず悌順は勝手知ったるなんとやらでズカズカと寝室に入る。信哉の身長のためか一人で寝るには大分広すぎるベットにドサッと体を落として無理やり布団をかぶせると、子供の様な困惑した信哉の顔が見上げた。
「お…お前な……。」
「しんどいくせに我慢すんなって言ってんだろうがよ。何時も何時も。」
グッと言葉につまる信哉の表情で、自分の考えが痛い処を突いていた事を確信する。その左肩の傷は思ったより酷く信哉の体力を大幅に削っていたのだ。昔とは違い相手の気の質を読み取りながら、悌順は大きな手の平を当てる。フワリとその手が透き通った光に包まれたかと思うと水が滴り落ちていくように光が信哉の肩に沁み込んでいく。
「ヤス…。」
無言のまま彼はその手から光を放ち続け、やがて放たれる水気の力にあてられたのか、うと…と信哉の瞼が下がり始める。
相生の関係からしても水気の自分と金気の信哉は相性がいい。それだけではなく水気を持つ玄武には命の泉という意味もあってか、少しだけ傷を癒す能力がある。それでも、それはまだ治癒の手助けであって、完全な治癒ではない。何処までが限界なのか知らないが、完全に治癒するまでには力は至らないのだ。何時かは可能になるのかもしれないとも思うが、悌順には可能になってしまったら自分が人間ではないと証明するようなものだと考える。
それでも治癒出来るだけましだ。今は少しでも手助けになる程度でも構わない、何もできない自分よりはずっとマシだ。
そう眠りに落ちる蒼白な信哉の顔を見下ろしながら、悌順は悲しげに瞳を曇らせ思った。完全に信哉が眠ったのを確認してから、信哉の額に触れる。ジワリと体表に滲むように妖炎の残渣が信哉の体の中にあってその体内を炙るのを感じとり、悌順はもう一度疲労を覚えながらも気を練り始めた。信哉の体内の妖炎を噛み潰し、やがて信哉の体内から熱が引くのを確かめると悌順は小さな溜息をつく。そして、悌順は一気にまた不機嫌そうな表情に戻って、スタスタとリビングに取って返した。
あの信哉を担ぎ上げるというあり得ない光景を見た事で凍り付いたように座ったままの二人の頭をペン・ペンと続けざまに軽く小突く様に叩いた。
「だから、手ェだすなっつったろーが!お前等。」
憮然とした表情の不機嫌な声に、思わず二人は肩を落とし目を伏せる。悌順は不機嫌そうに頭をかきながら、一つ溜め息をついて二人の前に沈む様に腰かけると、義人に信哉が熱を出すだろうから冷やしてやってくれと呟いた。その意味を直ぐくんで動く義人を見る彼の瞳の暗い影に、忠志はふと不安になった。
やがて再び悌順の前に神妙な面持ちで二人が座ると、彼は何かを思うように膝の上で手を組むと目を伏せる。暫く無言のまま悌順の表情は今までになく真剣で暗く重く、何時もの人を食ったような雰囲気は鳴りをひそめていた。その様子に二人は自然と不安を覚え、緊張した顔で彼を見つめた。
「相剋・相生は前に教えたな。」
彼は酷く話しづらそうに思い口を開いた。
彼らの能力の一端でもある、木気や火気・金気・水気は五行思想に基づいている。五行思想とは、万物は5つの元素≪木・火・土・金・水≫で成るとされる説である。五行思想はのちに陰陽説に統合され陰陽五行説が成立した。
その中で五行のお互いの関係には『相生』・『相剋』・『比和』・『相乗』・『相侮』という性質が付与されている。
そのうち『相剋』は相手を打ち滅ぼす陰の関係を表す。
それはすなわち以下の事を表す。
木剋土・木は根を土にはって締めつけ、養分を吸い取り土を痩せさせる
土剋水・土は水を濁す、また土は水を吸い取り水を堰き止める
水剋火・水は火を消し止める
火剋金・火は金属を溶かす
金剋木・金属は気を傷つけ切り倒す
何度となく説明された事に二人が頷くと、一瞬躊躇うように口を閉ざしながら悌順は目を伏せた。その視線は暗く口にしたくないことを、脳裏で思い浮かべていると見ているだけで分かる。
「先代朱雀だった五代さんが亡くなったのは、院の者を助けるためと俺の水気の術を人外に逆手に取られたからだ。」
ポツリと呻くように低く悲しい悌順の声音が、室内に冷え冷えと呟いた。
※※※
五年前のあの夜。
追い詰めた人の姿をした人外は、酷く狡猾で強かだった。完全に瑞獣に変化した三人がかりで、必死に後一歩でその力を削ぎきる事が出来る。やっと追い詰めたと思った次の瞬間狡猾な人外は蛇のように攻撃を交わし、しぶとく地表を這い回る。這い回った先にいたのは数人の院の人間だった。
タイミング悪く近郊の穴を封じに来ていた院の人間を、直ぐ殺さず捕らえあげる。そして、あえて殺さずにジワジワとなぶり悲鳴を上げさせ、更にその人間を盾に使い変化した玄武を挑発した。
『くそ!!そいつを離せ!!』
『クハッ!こいつごとわらわを真っ二つにしてみるかえ?!』
同じ蛇の帯を腰辺りからくねらせ人を掲げるモノは、戦闘で片目が潰れてさえいなければ見目麗しい女だ。しかし、その妖艶な口から吐く吐息は毒気を放ち、異形の舌は蛇のもののようにチロチロと蠢く。毒蛇に巻かれた人間が、穴と言う穴から血を吹き出しながら悲鳴をあげる。
「ひいい!!嫌だ!死にたくない!!死にたくないぃい!!」
『くそぉ!離せっていうんだ!!化け物!』
『化け物?お前だって同じようなものじゃないかえ?』
嘲るような相手の声音に、玄武の頭の芯が怒りに満ちていく。その気配に気がついた朱雀がきつい声音を放つが、それすら玄武の耳に入らない。
『玄武!落ち着け!!冷静になれ!』
「助けでぇえええ!死にたくないいいぃい!」
『お前だって何もないところから水を吐き出す化け物の癖に、何を綺麗事で人間を助ける気だえ?』
ブワリと四方に鎌首をあげた蛇の頭が、巻き込んで持ち上げていた内の一人に頭からかぶりつきブッと玄武に向かってそれ吐き飛ばす。目の前で人間の残り半分の体がビクビクと痙攣し、上半身が玄武の目の前で血の泡を吐きながら絶命する。それを見せつけられ捕まったままの院の者達が、絶望に更なる絶叫をあげた。
苛立つ玄武の視線が人外の視線が重なったと感じた瞬間、目の前で上がる人の悲鳴が頭の中に記憶に残る両親の悲鳴に重なった。水に飲まれていく船尾から逃れようと、何度も映像で見せつけられた両親の苦悩に満ちながら自分の名前を最後にと呼ぶ声。頭を埋める深い怒りが、冷静になれと叫ぶ仲間達の声を遠ざけていく。
三年という期間は、まだ玄武に冷静に状況を見る能力を育て上げる事が出来ていなかった。しかも、頭では理解していても相生や比和が、何を生むのかを正直知りもしなかったのだ。
『このおおぉ!!化け物が!!』
『駄目だ!!玄武!』
殺されかけ恐怖の悲鳴をあげる人間を目の前に、白虎の制止も聞かず全力で水気を水の刃に変えて人外に向けて放っていた。
その後は、悪夢としかおもえなかった。
人外は補食したものを身に還元する力すら、実はもう残っていなかったのかもしれない。その女の姿をしたモノはニヤリと残った美しい顔で笑ったかと思うと、巻き込んでいた人間全てを水風船のように握りつぶし血を浴びた。浴びた血潮ごと自分を追うレーザーのような鋭い水の刃を、美しかった唇を奇妙に皺を寄せて押し広げ蛇の様に丸呑みにした。
『なっ!』
まるで玄武の水気を引き込むように吸い上げ、人外の腹を妊婦のように膨らませる。同時に玄武は激しい脱力感に変化を解かれ、人間の姿で地面に倒れこんだ。玄武の目の前で人外の腹が、内側からボコボコと突き上げら激しく蠢く。まるで今にも腹を突き破り何かが出てこようとしているような蠢きに、人外の顔が苦痛に歪みながら邪悪に笑いかける。
やられる。
脱力して身動きの取れない玄武は心の中で、自分の骸がその場に転がるのを覚悟した。玄武の目の前で飲み込んだ清水を、女の形をしたモノは妖力を過分に含ませた黒い濁りきった汚泥に変化させゴバッと吐き出す。
『玄武!!』
白銀の閃光のように白虎が駆け込み、玄武の襟元を咥えあげ跳ねる。汚泥が地面を毒で焼きながら勢いよく流れになり、急激に向きを変えた先にいたのは朱雀だった。
人外は朽ち果てようとする最後の力で、玄武の清廉な水気を呑み全てを汚泥に変えた。しかも、最後に狙ったのは玄武ではなかったのだ。最初から自分の相剋であり、その時三人の要であった朱雀を狙っていた。
必死にその人外の放った最後の汚泥を消滅させた時、白虎と玄武はボロボロになった姿で立ち尽くした。累々と転がる屍の中で、右半身を血みどろにした朱雀は辛うじて立てている。毒に焼かれた足は黒く焦げて肉が削げ落ちていくのに、白虎がよろめきながら駆け寄った。
「武兄!」
普段ならけしてゲートキーパーの時には呼ばない名前を、白虎が叫びながら倒れていく朱雀の体を抱き止める。喉を焼かれたのか、朱雀が血の塊を吐き出しながら白虎の腕の中で大空を見上げた。倒れた反動で既に彼の足は骨が砕け、どうみても生きているのか不思議な状態だ。よろめき駆け寄りながら彼とは相剋ではあっても、せめて治癒をと気を練ろうとする玄武の腕に朱雀の左の手が弱く触れる。既に朱雀は覚悟を決めているのだろう、残された最後の時を見つめる穏やかな顔だった。
「……いい、もう。」
「武兄!そんなっ!」
白虎の声にやっと崩れ落ちた足を感じ取ったのか、苦痛に眉をしかめながら朱雀は深く息をついた。一番年下だった自分が朱雀になって、いつの間にか代が変わり、自分が最年長に変わった時から覚悟はできていたと朱雀は笑う。
「……仕方ねェよ、…後は…任せるな。」
彼は穏やかにそう最後に呟き、白虎の腕の中で玄武の目の前で死んだ。炎の体を汚泥の毒の流れに洗われ、彼の炎ごと消し飛ばされてしまった。
彼は信哉がほんの幼い頃から、信哉の母と共にいて戦ってきた信哉にとって実の兄に等しい大事な存在。信哉が兄と慕い、仲間になってからは無二の師のように信哉にも悌順にも精神的な支えになり続けた。多くの無意味に潰され屍となった人間と共に、二人は大事な人間を失ってしまったのだ。
だから、院の者も本当は穴を封じるために動いて欲しくなかった。それが玄武の本心の苦い思いだ。嫌いだが死んで欲しくない。もう誰も死なせたくはない。
※※※
静かに表情も変えず悌順の話した内容に、息をのんだ二人が驚きで目を見張っていた。自分達以外の能力を受けついだ者がどうなるのか、今までどうして来たのか、何故受け継がれるのか。詳しい話を信哉と悌順が、二人にしたのは初めてだった。二人とも疑問に感じてはいたが、不思議なことに改めて信哉達に聞いた事がなかったのである。何処かで心が知っていて真実を聞くのを拒否していたのかもしれないと、義人は悌順の顔を見て感じた。先代の名前すら知ろうとしない自分達の歪さに、今更のように気がついた忠志が唇を噛む。
信哉がゲートキーパーになったのは十二年前、その時に自分達ではない玄武や朱雀や青龍であった者がいた筈なのだ。つまりは、自分達も戦いの中で果てる可能性があるという事を悌順は暗に語っているのだ。
「今日は奴が本来の力を出せなかった、それにお前もまだ力を上手く使いこなせていないから、あれですんだ。」
ちらりと寝室の方を見やり、再び真剣な目で二人を見つめると重い口調で話す。炎を上手く操れない忠志でなく先代朱雀五代武の火炎だったら、恐らく信哉はあの場で消し飛んでしまっただろう。だが、それは一歩間違っていたら今の朱雀の火気でも、白虎の金気を殺してしまった事を言っている事に他ならなかった。それが、理解できた心に刺さり忠志が表情を曇らせる。
「いいか、俺等の能力は五行に限定され格段に強い。強いからこそ相剋や相生に硬く縛られるんだ。」
悌順の言葉は低く、水が流れるように室内に響く。
「だから、尚更冷静に見極めろ。」
忠志を慰める事はせず、あえて彼は言葉を繋ぐ。悌順自身語っておかなければ、何時か同じ過ちが繰り返される可能性があるからだと知っているからだ。二人は無言のままその言葉の主の顔にくぎ付けになる。そう語る悌順の瞳はまるで泣いているかのように微かにキラリと光った。
「じゃないと、俺のように後悔してもしきれないことになる。」
静かにそう言い切ると、悌順は目を伏せたまま黙り込んだ。重く苦しい雰囲気がそこには漂い、二人も今夜を思い返して思わず黙り込む。自分達は確かに強い異能の能力を持つが、それはお互いを傷つける諸刃の剣の様だと義人はふと感じた。この感覚はどうにかすれば消えるのだろうか、そう彼の心の中で言葉が逡巡する。暫くして、不意に悌順はその重苦しい記憶を振り払う様に、勢いよく立ちあがりその雰囲気を打ち消した。
「ヤス?」
独りで住むにはあまりにも広すぎる、しかし物の余りない簡素なマンションの一室に三人の姿があった。そこは信哉が一人で住んでいるマンションで、実は義人達のマンションの直ぐ隣に建っている。
モノトーンに統一された簡素なリビングのソファーの上で、血の気の失せた顔色で、信哉は上半身裸になって手当てを受けていた。左肩には前後に何かが突き抜けた様な痕、肩から二の腕にかけて幾つか水疱を作って赤黒い焼け爛れた肌が痛々しい。悌順の手がその傷に翳され、薄い水色の光を放つ。苦痛に信哉の顔が歪むのは、その光が治癒を直にしているのではなく回復を早回しで行っているようなものだからだ。失われた肉が盛り上がり組織を再構成するのを、無理矢理に早回しで進行させるのは不自然で痛むのは避けられない。
「つつっ!」
「後少しだ、我慢しろ。」
「わかってる、っつ!」
貫通の痕が埋まるのが痛むのだろう、信哉は無言のまま眉を寄せて目を伏せる。やがて、僅かな赤い火傷の痕だけが残り、義人が残った火傷の痕を消毒し始めた。勿論痛みを堪えて全てを完全な治癒まで早回りすることも可能だが、それには気力も体力も必要だ。活動に支障のないものは、自然の時間に治癒を任せる方が信哉も楽なのである。
ここにいない忠志は、客間のベットの上にいた。気を失ったままの忠志は、今も時おり呻き悪夢にうかされている。信哉の左腕にガーゼを当てて包帯を巻きながら、義人が躊躇いがちに口を開いた。
「あれは、どういうことですか?」
その問いかけの意味に信哉が視線を向ける。義人があの童子に手も足もでなかった理由を問いているのだと、目の前の信哉にも治療を終えて壁に寄りかかった悌順にも分かっていた。
童子の姿をした化け物は、人を喰い、攻撃も効いていなかったように見えた。しかも、あっという間に白虎を撥ね飛ばし、目を合わせただけで朱雀を戦闘から離脱させたのだ。憮然とした表情でそれを見つめている悌順の姿に信哉は、暫し迷う気配を滲ませる。
「可能性ではあるが。」
処置を終えてガーゼの上から包帯を巻かれる痛みに、蒼ざめた信哉の顔が微かに歪む。その体にはそれ以外も大小の傷が散らばっているのを見やり、悌順は微かに溜息をついた。
「あいつの五行が火気の可能性はある。」
「可能性、なんですか?」
「ああ、可能性だ。」
その頼りない言葉に義人が瞳を曇らせるのを眺め、信哉は申し訳なさそうに溜め息をつく。
「少し、気になることがあるが、おおよそは火気だ。」
「何でそう思う?信哉。」
壁際の悌順の憮然とした声に、苦痛の落ち着いた顔で信哉が思案顔で呟く。
「一つは俺の攻撃が効いていない。一つは朱雀の甘い火球を飲み込んで、自分の火炎弾に組み替えた。後一つは目のあった朱雀を、気を被せて飲み込みにかかった。」
蒼白な顔ながらも信哉は、溜め息混じりにほんの一時間前の出来事を脳裏で思い返す。彼にしては珍しくもう一度深い溜め息をついて、信哉は義人を見つめ返した。
「忠志の弱い部分から、火気で飲み込みにかかったんだ。恐らく、忠志が一番触れられたくない心の弱い部分、家族の事とかな。」
義人は息を飲んで唇を噛んだ。
二年前槙山忠志の家族達を巻き込んだ事件は当時大々的に報道され、未だに犯人の捕まらない事件として世の中には記憶されている。当時現場にいた筈の忠志が、頭の怪我のせいで記憶を失って犯人を覚えていないのもその報道に熱が入った理由でもあった。あの事件で忠志は両親親戚だけでなく、妹も失っている。あの童子の瞳を真正面から覗いただけで、その事件を追体験させられるなんて考えたくもない。
「忠志は、目を覚ましますか?」
「方法はあるが、できるのはお前だ。義人。」
呟くように言う信哉に、義人は眉を潜めながらその意味を問う。すると、壁に寄りかかっていた悌順が俯きながら、信哉は金気だから火気の忠志を壊しかねないんだよと相剋の関係を告げる。つまり相生の関係で、弱っている忠志の気を底上げしろと言うのだ。それは相生である木気を持つ義人にしかできないと理解して、義人は険しい表情で二人を見上げた。
「どうすればいいですか?」
それから数分後、気を失ったまま苦痛の顔を浮かべる忠志の横で、険しい顔をした義人の体が青く発光するのを信哉が見つめる。
「もう少し気を弱めろ、強すぎる、義人。」
チリチリと髪の毛が逆立つ木気の気配に信哉が呟き、義人は放つ気を押さえ込もうと眉をしかめた。気を操ることに関しては別段得手でも不得手でもないとは思うが、相手にあわせて微調整することなど殆どない。しかも、相手の気にあわせて自分の出力を調整するとなると、辛辣かもしれないが気を失っている忠志なんか確実に難しいだろう。
「もう少し気を練って、そう、それくらいだ。そのままを保てるか?」
義人が言われる通りにすると青い発光が全身を一定の輝きで包み込み、それに呼応するように眠っている忠志の体も赤く発光が始まる。義人のぶれることのない青い発光は、忠志のものと同等の光を保ち続ける。
「なんとか…出来そうです。」
「よし、保ったまま一点に集中して、忠志に放て。」
スッと全身を包んでいた光が矢のように忠志の眉間に飛び、その体に吸い込まれるように溶ける。光が吸いとられるのと同時に、義人の体を強い倦怠感と目眩が襲う。目眩によろめいた義人の体を、それを予期していたように信哉の腕が抱き止めた。
「これで?」
「ああ、暫くしたら目が覚めるだろう。」
躊躇いがちに忠志を見ると、確かに先程までとは表情が違う。ベットで穏やかに眠っている忠志の顔に、安堵の息を溢した義人の頭をポンと信哉が撫でる。
「気の扱いが上手いな、義人は。昔ヤスは気が練れなくて四苦八苦してた。」
「光栄です。でも、あんまりやりたくないですね、相手との同調なんて感覚が上手く分かりません。」
一気に疲労を滲ませた義人の顔に、苦く微笑み同感だと信哉が呟く。暫く重苦しい無言の時間が過ぎて、不意に奥の部屋で気配が跳ね起きるの感じとる。壁越しの気配が、布団をはねのけ駆け出してくるのが分かって三人は緊張を緩めた。
「信哉?!」
部屋から飛び出してきた忠志の声に、微かに微笑んだ信哉に気がつく。三人の視線に呆然と立ち尽くしたまま、忠志は戸惑うように仲間を眺める。
「信哉の怪我は?」
「すぐヤスが応急処置をしてくれた。大事には至らない。」
普段より酷く優しい信哉の声に、安堵したように忠志の肩から力が抜ける。しょげたままの忠志の顔を慰める様に見つめ、そして不機嫌を隠しもせずに見つめている悌順の視線に信哉は目をあげた。信哉の視線が自分を捉えても、悌順は無言のままじっと見つめ返せ。信哉が包帯の巻き終わった痛む傷をかばう様にして、そっとシャツに腕を通す頃になって彼はやっと低く怒りのこもった声で口を開いた。
「トウテツ…とか名のりやがったな…アイツ。」
その声音で悌順が自分に一番腹を立てている事に信哉は気がついた。仲間を制しきれずに信哉が怪我をした事を自分のせいの様に考えているなと気がつく。経験の浅い二人を制しきれなかった責任は、同等に信哉にもある。それでも、戦闘となると攻撃に比重の高い先陣を切ってしまう自分に比べ、防御に比重の高い悌順の方が状況の把握に長けているのだ。
「ああ、そうだな。」
信哉は彼らしい怒りに僅かに目を細め、シャツのボタンを片手で駆けながら小さく頷いた。
「で?」
「うん?」
悌順の問いの意味が一瞬分からず、信哉は悌順の顔を見上げ気がついた様にあぁと声を溢した。戦いの最中に自分が何を言おうとして、あからさまな隙を見せたのかを問われているのだ。蒼白な顔が更に血の気を失ったように見え、信哉は一つ辛そうな溜め息をつく。信哉が先ほどを思い起こすような瞳をするのに、悌順の表情が僅かに曇る。
「あれは、まだ完全体じゃないと思う。…半実体という感じだった。」
童子の体を牙の切り裂く感覚を思い出しながら信哉が言うと、その言葉に忠志と義人が目を丸くする。まじまじと自分の顔を見つめる二人の表情に苦笑いしてから、信哉は再びフゥと息をついた。まるで子供にでもする様にポンポンと忠志の頭を、実に珍しく綺麗に微笑みながら撫でた。
「初めての人外が大物とはな。お前達は運がいいんだか悪いんだか。俺も悌順も大物相手は久々だったから戸惑ってしまった。」
もっとちゃんと説明してから出るべきだったと、信哉が素直に頭を下げる。
「どうりで。だから、直接攻撃してこなかったのか、あのヤロウ。」
チッと忌々しげに舌打ちして悌順が言うと、信哉は小さく溜息をついて頷いた。信哉の蒼白な顔は今では紙の様に白く透き通るようにすら見える。その言葉に忠志は眉を潜め、信哉の顔を覗きこむ。直接攻撃をしてこなかったとは、どういうことかとその目が問いかけていた。
「あいつは直接炎を吐いたりはしてないだろ?お前の炎を自分の気に組み換えて、使ったのは分かるか?」
ああと納得したように忠志が、あの時童子の口元に火炎弾が引き込まれたのを思い浮かべた。確かに自分のように何もないところから火炎を生じさせたのではなく、あるものを利用したという感じだ。
「お前が気を失うはめになったのも、奴が眼から火気でお前ごと飲み込もうとしたんだろうが、本体ではない分お前を飲み込むまでの力がなかったんだろう。」
「もし、本体だったら俺ごと呑まれたってこと?」
可能性はあったと正直に信哉に告げられ、忠志の顔色が見ているものに分かるほど青ざめる。固い顔のままの悌順に、信哉が改めて謝罪を込めるように視線を向けた。
「今回はいわば鏡に攻撃した様なものだ。俺達の見極めが悪かったよ、ヤス。」
「わ―ってるよ、それくらい。」
いらつく様にガリガリと頭を掻いていた悌順は、突然耐え切れなくなった様につかつか歩み寄る。紙の様に白い顔色の信哉が不思議そうに見上げるのに、その左肩には触れないようにスルリと体をすくいあげた。まるで羽でも持つように肩に担ぎあげられた信哉が、悌順の行動に面食らった声をあげる
「?!なっ!!ヤス?!!おいっ!!」
「いい加減にしろっ!お前、もう限界だろうがっ!!」
普段ならあり得ない光景に唖然とする二人をリビングに残し、じたばたと肩の上で暴れる信哉をものともせず悌順は勝手知ったるなんとやらでズカズカと寝室に入る。信哉の身長のためか一人で寝るには大分広すぎるベットにドサッと体を落として無理やり布団をかぶせると、子供の様な困惑した信哉の顔が見上げた。
「お…お前な……。」
「しんどいくせに我慢すんなって言ってんだろうがよ。何時も何時も。」
グッと言葉につまる信哉の表情で、自分の考えが痛い処を突いていた事を確信する。その左肩の傷は思ったより酷く信哉の体力を大幅に削っていたのだ。昔とは違い相手の気の質を読み取りながら、悌順は大きな手の平を当てる。フワリとその手が透き通った光に包まれたかと思うと水が滴り落ちていくように光が信哉の肩に沁み込んでいく。
「ヤス…。」
無言のまま彼はその手から光を放ち続け、やがて放たれる水気の力にあてられたのか、うと…と信哉の瞼が下がり始める。
相生の関係からしても水気の自分と金気の信哉は相性がいい。それだけではなく水気を持つ玄武には命の泉という意味もあってか、少しだけ傷を癒す能力がある。それでも、それはまだ治癒の手助けであって、完全な治癒ではない。何処までが限界なのか知らないが、完全に治癒するまでには力は至らないのだ。何時かは可能になるのかもしれないとも思うが、悌順には可能になってしまったら自分が人間ではないと証明するようなものだと考える。
それでも治癒出来るだけましだ。今は少しでも手助けになる程度でも構わない、何もできない自分よりはずっとマシだ。
そう眠りに落ちる蒼白な信哉の顔を見下ろしながら、悌順は悲しげに瞳を曇らせ思った。完全に信哉が眠ったのを確認してから、信哉の額に触れる。ジワリと体表に滲むように妖炎の残渣が信哉の体の中にあってその体内を炙るのを感じとり、悌順はもう一度疲労を覚えながらも気を練り始めた。信哉の体内の妖炎を噛み潰し、やがて信哉の体内から熱が引くのを確かめると悌順は小さな溜息をつく。そして、悌順は一気にまた不機嫌そうな表情に戻って、スタスタとリビングに取って返した。
あの信哉を担ぎ上げるというあり得ない光景を見た事で凍り付いたように座ったままの二人の頭をペン・ペンと続けざまに軽く小突く様に叩いた。
「だから、手ェだすなっつったろーが!お前等。」
憮然とした表情の不機嫌な声に、思わず二人は肩を落とし目を伏せる。悌順は不機嫌そうに頭をかきながら、一つ溜め息をついて二人の前に沈む様に腰かけると、義人に信哉が熱を出すだろうから冷やしてやってくれと呟いた。その意味を直ぐくんで動く義人を見る彼の瞳の暗い影に、忠志はふと不安になった。
やがて再び悌順の前に神妙な面持ちで二人が座ると、彼は何かを思うように膝の上で手を組むと目を伏せる。暫く無言のまま悌順の表情は今までになく真剣で暗く重く、何時もの人を食ったような雰囲気は鳴りをひそめていた。その様子に二人は自然と不安を覚え、緊張した顔で彼を見つめた。
「相剋・相生は前に教えたな。」
彼は酷く話しづらそうに思い口を開いた。
彼らの能力の一端でもある、木気や火気・金気・水気は五行思想に基づいている。五行思想とは、万物は5つの元素≪木・火・土・金・水≫で成るとされる説である。五行思想はのちに陰陽説に統合され陰陽五行説が成立した。
その中で五行のお互いの関係には『相生』・『相剋』・『比和』・『相乗』・『相侮』という性質が付与されている。
そのうち『相剋』は相手を打ち滅ぼす陰の関係を表す。
それはすなわち以下の事を表す。
木剋土・木は根を土にはって締めつけ、養分を吸い取り土を痩せさせる
土剋水・土は水を濁す、また土は水を吸い取り水を堰き止める
水剋火・水は火を消し止める
火剋金・火は金属を溶かす
金剋木・金属は気を傷つけ切り倒す
何度となく説明された事に二人が頷くと、一瞬躊躇うように口を閉ざしながら悌順は目を伏せた。その視線は暗く口にしたくないことを、脳裏で思い浮かべていると見ているだけで分かる。
「先代朱雀だった五代さんが亡くなったのは、院の者を助けるためと俺の水気の術を人外に逆手に取られたからだ。」
ポツリと呻くように低く悲しい悌順の声音が、室内に冷え冷えと呟いた。
※※※
五年前のあの夜。
追い詰めた人の姿をした人外は、酷く狡猾で強かだった。完全に瑞獣に変化した三人がかりで、必死に後一歩でその力を削ぎきる事が出来る。やっと追い詰めたと思った次の瞬間狡猾な人外は蛇のように攻撃を交わし、しぶとく地表を這い回る。這い回った先にいたのは数人の院の人間だった。
タイミング悪く近郊の穴を封じに来ていた院の人間を、直ぐ殺さず捕らえあげる。そして、あえて殺さずにジワジワとなぶり悲鳴を上げさせ、更にその人間を盾に使い変化した玄武を挑発した。
『くそ!!そいつを離せ!!』
『クハッ!こいつごとわらわを真っ二つにしてみるかえ?!』
同じ蛇の帯を腰辺りからくねらせ人を掲げるモノは、戦闘で片目が潰れてさえいなければ見目麗しい女だ。しかし、その妖艶な口から吐く吐息は毒気を放ち、異形の舌は蛇のもののようにチロチロと蠢く。毒蛇に巻かれた人間が、穴と言う穴から血を吹き出しながら悲鳴をあげる。
「ひいい!!嫌だ!死にたくない!!死にたくないぃい!!」
『くそぉ!離せっていうんだ!!化け物!』
『化け物?お前だって同じようなものじゃないかえ?』
嘲るような相手の声音に、玄武の頭の芯が怒りに満ちていく。その気配に気がついた朱雀がきつい声音を放つが、それすら玄武の耳に入らない。
『玄武!落ち着け!!冷静になれ!』
「助けでぇえええ!死にたくないいいぃい!」
『お前だって何もないところから水を吐き出す化け物の癖に、何を綺麗事で人間を助ける気だえ?』
ブワリと四方に鎌首をあげた蛇の頭が、巻き込んで持ち上げていた内の一人に頭からかぶりつきブッと玄武に向かってそれ吐き飛ばす。目の前で人間の残り半分の体がビクビクと痙攣し、上半身が玄武の目の前で血の泡を吐きながら絶命する。それを見せつけられ捕まったままの院の者達が、絶望に更なる絶叫をあげた。
苛立つ玄武の視線が人外の視線が重なったと感じた瞬間、目の前で上がる人の悲鳴が頭の中に記憶に残る両親の悲鳴に重なった。水に飲まれていく船尾から逃れようと、何度も映像で見せつけられた両親の苦悩に満ちながら自分の名前を最後にと呼ぶ声。頭を埋める深い怒りが、冷静になれと叫ぶ仲間達の声を遠ざけていく。
三年という期間は、まだ玄武に冷静に状況を見る能力を育て上げる事が出来ていなかった。しかも、頭では理解していても相生や比和が、何を生むのかを正直知りもしなかったのだ。
『このおおぉ!!化け物が!!』
『駄目だ!!玄武!』
殺されかけ恐怖の悲鳴をあげる人間を目の前に、白虎の制止も聞かず全力で水気を水の刃に変えて人外に向けて放っていた。
その後は、悪夢としかおもえなかった。
人外は補食したものを身に還元する力すら、実はもう残っていなかったのかもしれない。その女の姿をしたモノはニヤリと残った美しい顔で笑ったかと思うと、巻き込んでいた人間全てを水風船のように握りつぶし血を浴びた。浴びた血潮ごと自分を追うレーザーのような鋭い水の刃を、美しかった唇を奇妙に皺を寄せて押し広げ蛇の様に丸呑みにした。
『なっ!』
まるで玄武の水気を引き込むように吸い上げ、人外の腹を妊婦のように膨らませる。同時に玄武は激しい脱力感に変化を解かれ、人間の姿で地面に倒れこんだ。玄武の目の前で人外の腹が、内側からボコボコと突き上げら激しく蠢く。まるで今にも腹を突き破り何かが出てこようとしているような蠢きに、人外の顔が苦痛に歪みながら邪悪に笑いかける。
やられる。
脱力して身動きの取れない玄武は心の中で、自分の骸がその場に転がるのを覚悟した。玄武の目の前で飲み込んだ清水を、女の形をしたモノは妖力を過分に含ませた黒い濁りきった汚泥に変化させゴバッと吐き出す。
『玄武!!』
白銀の閃光のように白虎が駆け込み、玄武の襟元を咥えあげ跳ねる。汚泥が地面を毒で焼きながら勢いよく流れになり、急激に向きを変えた先にいたのは朱雀だった。
人外は朽ち果てようとする最後の力で、玄武の清廉な水気を呑み全てを汚泥に変えた。しかも、最後に狙ったのは玄武ではなかったのだ。最初から自分の相剋であり、その時三人の要であった朱雀を狙っていた。
必死にその人外の放った最後の汚泥を消滅させた時、白虎と玄武はボロボロになった姿で立ち尽くした。累々と転がる屍の中で、右半身を血みどろにした朱雀は辛うじて立てている。毒に焼かれた足は黒く焦げて肉が削げ落ちていくのに、白虎がよろめきながら駆け寄った。
「武兄!」
普段ならけしてゲートキーパーの時には呼ばない名前を、白虎が叫びながら倒れていく朱雀の体を抱き止める。喉を焼かれたのか、朱雀が血の塊を吐き出しながら白虎の腕の中で大空を見上げた。倒れた反動で既に彼の足は骨が砕け、どうみても生きているのか不思議な状態だ。よろめき駆け寄りながら彼とは相剋ではあっても、せめて治癒をと気を練ろうとする玄武の腕に朱雀の左の手が弱く触れる。既に朱雀は覚悟を決めているのだろう、残された最後の時を見つめる穏やかな顔だった。
「……いい、もう。」
「武兄!そんなっ!」
白虎の声にやっと崩れ落ちた足を感じ取ったのか、苦痛に眉をしかめながら朱雀は深く息をついた。一番年下だった自分が朱雀になって、いつの間にか代が変わり、自分が最年長に変わった時から覚悟はできていたと朱雀は笑う。
「……仕方ねェよ、…後は…任せるな。」
彼は穏やかにそう最後に呟き、白虎の腕の中で玄武の目の前で死んだ。炎の体を汚泥の毒の流れに洗われ、彼の炎ごと消し飛ばされてしまった。
彼は信哉がほんの幼い頃から、信哉の母と共にいて戦ってきた信哉にとって実の兄に等しい大事な存在。信哉が兄と慕い、仲間になってからは無二の師のように信哉にも悌順にも精神的な支えになり続けた。多くの無意味に潰され屍となった人間と共に、二人は大事な人間を失ってしまったのだ。
だから、院の者も本当は穴を封じるために動いて欲しくなかった。それが玄武の本心の苦い思いだ。嫌いだが死んで欲しくない。もう誰も死なせたくはない。
※※※
静かに表情も変えず悌順の話した内容に、息をのんだ二人が驚きで目を見張っていた。自分達以外の能力を受けついだ者がどうなるのか、今までどうして来たのか、何故受け継がれるのか。詳しい話を信哉と悌順が、二人にしたのは初めてだった。二人とも疑問に感じてはいたが、不思議なことに改めて信哉達に聞いた事がなかったのである。何処かで心が知っていて真実を聞くのを拒否していたのかもしれないと、義人は悌順の顔を見て感じた。先代の名前すら知ろうとしない自分達の歪さに、今更のように気がついた忠志が唇を噛む。
信哉がゲートキーパーになったのは十二年前、その時に自分達ではない玄武や朱雀や青龍であった者がいた筈なのだ。つまりは、自分達も戦いの中で果てる可能性があるという事を悌順は暗に語っているのだ。
「今日は奴が本来の力を出せなかった、それにお前もまだ力を上手く使いこなせていないから、あれですんだ。」
ちらりと寝室の方を見やり、再び真剣な目で二人を見つめると重い口調で話す。炎を上手く操れない忠志でなく先代朱雀五代武の火炎だったら、恐らく信哉はあの場で消し飛んでしまっただろう。だが、それは一歩間違っていたら今の朱雀の火気でも、白虎の金気を殺してしまった事を言っている事に他ならなかった。それが、理解できた心に刺さり忠志が表情を曇らせる。
「いいか、俺等の能力は五行に限定され格段に強い。強いからこそ相剋や相生に硬く縛られるんだ。」
悌順の言葉は低く、水が流れるように室内に響く。
「だから、尚更冷静に見極めろ。」
忠志を慰める事はせず、あえて彼は言葉を繋ぐ。悌順自身語っておかなければ、何時か同じ過ちが繰り返される可能性があるからだと知っているからだ。二人は無言のままその言葉の主の顔にくぎ付けになる。そう語る悌順の瞳はまるで泣いているかのように微かにキラリと光った。
「じゃないと、俺のように後悔してもしきれないことになる。」
静かにそう言い切ると、悌順は目を伏せたまま黙り込んだ。重く苦しい雰囲気がそこには漂い、二人も今夜を思い返して思わず黙り込む。自分達は確かに強い異能の能力を持つが、それはお互いを傷つける諸刃の剣の様だと義人はふと感じた。この感覚はどうにかすれば消えるのだろうか、そう彼の心の中で言葉が逡巡する。暫くして、不意に悌順はその重苦しい記憶を振り払う様に、勢いよく立ちあがりその雰囲気を打ち消した。
「ヤス?」
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