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第一部
第二幕 山間部
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西側の重機が地面を掘り起こしていた最中に最初の異変が起きた。重機が掘り起こした先が、土を掻いた筈なのにボコンと空間を掻くような音をたてたのだ。あまりにも異様な音に重機の操縦者が、困惑に窓から乗り出して掻いた土の先を見下ろす。他の者も何を掘ったんだと不審気な顔でそちらを見やった瞬間、重機が破裂するようにひしゃげて操縦者ごと吹っ飛んだ。てっきり重機が、ガス管をぶち抜いたんだと皆が思った。しかし、山林のど真ん中にガス管が埋まっている筈がない事に気がついた時にはもう遅かった。次々と地面から凄まじい火柱が上がり、逃げ出そうにも火柱が繋がって火の壁に変わり逃げ道を奪っていく。
数時間なのか数分なのか分からないが、ゴウゴウと音をたてて禍々しい紅蓮の火柱が風に巻き上げられる。火の壁が周囲を焙り、何処までも広がり続けていた。木立どころか立木が炎に飲まれ、勢いは増すばかりで次第に少ない逃げ場が更に狭まっていく。やがて工事現場の四方が越えようのない巨大な炎の壁に変わり、ジリジリとその場にいる者を一ヶ所に追い込み炙り出していた。炎に近づき過ぎた者が、不意に舐める様な黒い炎の舌に絡みつかれ悲鳴をあげる間も無く一瞬で丸呑みされ消えていく。それなのに周囲の者は自分のことで精一杯で誰も気がつかず、必死に外周を取り囲む炎に残り少なくなりつつある僅かな水をかけ続けている。
人の目にも捉えられぬほどの速度で白炎をまとう巨大な体長三メートルもある白銀に光る虎が、深い森の木々に落ちる深い闇を切り裂き音もたてずに疾走していた。しかし、白虎は何かを思う様に急に音もたてず土煙もあげず立ち止まり、遠く木々の合間に外縁の炎の壁に向けて放水を続ける人影を見やる。消防活動をしている人々を遠目に眺めながら、虎は微かに顔をあげ周囲に吹き付ける風をかいだ。
もし風もなく上空から見下ろすように炎を見る事が出来たとしたら、その異様な光景に驚いた事だろう。外縁の炎の壁の中には太極図のように炎に包まれる場所とポッカリくり抜いた漆黒。漆黒は、まるで穴の様に深淵の縁を形作っていた。激しく燃え盛り広がり続ける火柱の中心には、まだ燃えずに残る人々が逃げ場を失っている。山のように高い火柱を見上げて、人間は絶望的な顔で残り僅かな消火器と水で消化を続けていた。
ピクリと風に何をかぎつけたのか白虎は、消防活動から更に少し距離をとり離れた。かと思うとグンッと一度大きく体を沈め、次の瞬間強く地表を蹴り上空へ跳躍する。巨大な白虎は人々の遥か頭上を彗星の如く一瞬にして飛び越し、人の目に触れる隙も与えずに炎の柱の上を飛び越し太極図の陰である漆黒の場所へと躍り込んだ。白虎は音もたてず土を舞い上げることもなく、黒い大地に四肢から微かに白い妖炎を放ち降り立った。
『…………っ!』
そこは暗いのではなく燃え尽きたわけでもない、黒一色の大地だった。赤と黒の太極図の黒。焼き尽くされた消し墨のような黒の世界なのに、一つも焦げた臭いすらしない死の世界。無音の黒の世界は風も音も無く炎の熱さすらも無く、歪な周囲をただ紅色の揺れる壁で囲まれているだけだった。まるで、そこにあった存在の全てを何かが奪い尽くしたかのようだ。
『これは……………。』
白虎は油断ない視線で辺りを見回す。
草も木も、人の形も工事をしていたはずの気配すらも全く残っていない。そこは全くの無なのだ。白虎が身を低くして辺りを見回した時、凄まじい轟音を立てて玄武が地表を揺らして降り立った。その頭上には宙に四肢をうねらせる鱗を煌めかせる青龍、そして空を舞う燐を放つ朱雀が姿を現している。しかし、頭上の二人ともが、その空気の異様さに思わず息をのんだ。
『何がどうなってんだよ?これ?』
真紅の紅玉の瞳で辺りを見回した朱雀が困惑の言葉を呟く。同じように周囲の様子に困惑した青水晶の瞳で宙に姿態をくねらせながら青龍も辺りを見下ろしている。
その場所は未だに、全くチリとも風も音も臭いも熱も無い。ただ禍々しく赤く揺れる紅蓮の壁の中で、黒の世界はシンと静まり返っている。まるであの世の景色の様な、虚無の世界と化したその場で四人は困惑しながら辺りを見回していた。
『いったい…これは……。』
呻くように頭上の青龍が小さく呟いた瞬間、突然白虎が低い威嚇の唸り声をあげた。一番黒の世界が膨らんだ中央めがけて白虎は激しく威嚇の唸り声を発して体を低く屈め、今にも飛びかかろうという体勢で身構える。ゾワゾワと白虎の毛並みが逆立ち白銀と黒の体が膨れ上がるように見えるのに、共鳴するように横の玄武の黒曜の蛇鱗がギチギチと軋む音をたてた。
『白虎!』
『来るぞ!玄武!』
白虎のその険しい声音に、咄嗟に玄武も身構え両端の蛇の鎌首が鋭い威嚇の音を上げて牙を向く。そして玄武と同時に他の二人も一緒に、白虎が睨みつける虚無の世界の中心に当たる視線の先を振り返った。
そこには未だ全く風も音も臭いも熱も無いまま、ただ禍々しく紅蓮に揺れる壁の中でシンと静まり返っているだけ。なのにその中心には何かが、確かにこちらを見ている。一心にそこを見ていると黒一色の世界に視界の全てが飲み込まれて、視界を奪われてしまう錯覚に呑まれそうになってしまう。
と、その時、四人の目の前に変化が起きた。
地に立つ二人は自分の見た者に驚愕の視線を向け、他の二人は一瞬自分達が何を見ているのか理解が出来ない。そこには、一人の幼い少年が心細げにポツンと立っていた。
無音の虚無の世界に似つかわしくない幼い童子。
童子と呼んだのは、酷く古風な昔話の稚児のような着物をその身に付けているからだ。幼い童子は、モミジの様な両手で毬の様なものを抱えて立ち俯いている。童子が顔をあげて柔らかなあどけない笑みを浮かべた。ユックリと四人に見えるようにあげた顔に手にした黒い毬のようなモノを大事そうに両手で抱えた人間と同じ姿。糸のように目を細め酷く楽しげに笑っている童子の姿に、驚愕した玄武が呻く。
『まさか……。』
玄武が呻くように小さく呟いた次の瞬間、童子は軽々とその手にしていた毬を四人に向けて無造作に放った。ゴロゴロと歪な形の毬は、音もたてずに黒い大地を転がる。玄武の足元の目の前で止まったのは手鞠ではなく、苦痛と驚愕に避けんばかりに目を見開き悲鳴を上げたまま凍りついた口を開いた中年男性の半分焦げた生首だった。
『なっ!!』
それを目にした瞬間宙に浮かぶ青龍の体内の血がカッとざわめき、ブルリと青水晶の瞳が怒りに染まりザワザワと音を上げて蒼い鱗が震える。宙にうねる長い体が更に激しくうねり肢体から鋭い旋風が刃物の様に、童子に向かって矢のように突然放たれた。
『よせ!青龍!!』
白虎の制止の声が届く前に旋風が、同時に躍りかかる様に襲いかかる。しかし、童子は動揺するでもなく笑いながら、自分に向かってくる旋風を見つめて微動だにしない。次の瞬間、童子の体は音をたてて、四方から皮一枚でつながる程度に切り裂かれた。
『クク…。』
切り裂かれたままの体が不気味な笑い声をたてるのを、青龍が呆然と見下ろす。切り裂かれて首の逆さまにぶら下がった姿なのに、首から噴き出すかと思われたモノは何一つ溢れださない。血一滴も流れ出ない傷口をさらしたまま、童子は半分千切れた手を放った生首の方にかざした。途端に玄武の目の前の生首が水分を吸われる様に黒く変色して見る間に縮む。やがてそれは黒いただの塊となり、やがてサラサラと砂になって崩れ落ち黒の地面に同化した。それと童子に切断された皮膚が結び付いていく。童子は笑いながら不意に四人から視線をはずし、西側の炎の壁を眺める。と炎の中から煤で汚れた工事現場のヘルメットを被った中年男性が、童子と四人の間に転げ落ちた。
「な、なん?!ひ、ひぇえ!!?」
目の前には巨大な三メートルを越す巨大な虎と巨大な蛇を伴う亀の姿。それに対しての当然の反応だろう、中年男性が気の抜けた悲鳴を上げて地面を這いずるように後退る。その後退った先には笑顔の童子が待ち構えているが、普通の人間には童子の方がまともに見えるに違いない。
『よせ!行くな!!』
咄嗟に放たれた玄武の低い制止の声が届いた時には、既に中年の背中は童子の足元にあった。目の前の異形の獣の姿に震える男が次の言葉を発する前に、背後に立つ童子の口が音もたてずに真横に裂ける。男が振り返る間もなく童子の顔が瞬時に牙をだらけの口に変わって、背後から覆い被さる様にバクンと男の頭からかぶりつくのは悪夢としか言えない。血飛沫一つあげずに、一瞬で男の体の上半分が消え去り傷口が黒く煤ける。それと同時に童子の切り裂かれた体の傷は、完全にくっつき塞がってクツクツとあどけなく邪悪な笑いが唇から溢れた。
『貴様!!……何者だ!!』
玄武の激しい怒声に、童子は今やっと彼らに気がついたとでも言いたげな様子で彼らに視線を向けた。あどけない笑顔を貼り付けた顔に浮かぶ瞳は、唯一ぽっかりと暗く深淵の闇を思わせる黒眼だけの異形の瞳だった。その童子の唇が、邪悪な笑みをニタリと浮かべた。
『我が名は…トウテツ…。』
ザリッと音を立てて童子が体を動かした一瞬の隙を逃さず、弾丸のような動きで白虎が童子の喉笛をめがけて鋭い牙をむいた。白銀に光る陰影を残し、鋭い牙が童子の喉笛から肩口を袈裟懸けに切り裂きパクリと口を開く。しかし、童子はまるで何も感じていないかのように斜めに傾いだ顔で笑い、その片手をゆるりとあげた。ハッとした様にその腕を爪で真っ二つに切り裂きながら白虎は飛び退る。童子の手先から離れると再び体勢を低くして、唸り声をあげながら白金色の瞳で童子を睨みつける。
『貴様……。』
何か言いかけた白虎に、一瞬童子の表情が微かに変わる。童子の表情に同じく気がついた玄武が眉をひそめた瞬間、周囲の炎が一瞬青白く輝き火柱が再び一人の中年男性をその空間の中の童子の目の前に投げ込んできた。何度も繰り返される手品のような情景に、唖然とした朱雀と青龍の目の前で投げ込まれる男は再び白虎の姿に悲鳴をあげる。
『くそ!何処かに囲ってるのか!』
炎の壁の何処かに童子は周到に餌として、火災に巻き込まれ消息不明とニュースで告げた工事現場の人間を生かしてまだ囲っている。それに気がついて思わず舌打ちした白虎の姿に、童子はチラリと白虎に視線を投げたかと思うとニヤリと笑う。次の瞬間白虎の姿に後退り自分に近寄った男性の頭に、半分千切れた片手を置いていた。それは、ほんの一瞬の出来事だ。
「う…うわ……うぎゃあぁあああぁぁあっ!!!!」
無音の世界に、耳を塞ぎたくなる様な絶叫が響き渡る。悲鳴をあげた童子の小さな手の下で、一度に水分が吸われていくように男の顔が萎れ眼球が音をたてて弾けた。見る間に男性の体が、先ほどの生首と同じく音をたてて縮んで行く。四人の目の前で絶叫をあげた表情のまま工事現場の男性が、黒く変色し萎みあがって絶命したのが分かる。見る間にその着ている服諸共にサラサラと黒い砂へと変わり足元から崩れ落ち、黒い虚無の大地に同化した。
それを見た瞬間、宙を羽ばたき舞っていた朱雀の口から激しい怒りの鳴動が放たれる。紅玉の瞳が激しく怒りに震え、周囲よりもはるかに紅く燃え上がった。周囲を焙るほどの熱を一瞬にして体から放ち、朱雀はその双翼を大きく広げたかと思うと口から巨大な炎の塊を吐きだした。
『やめろ!!朱雀!』
玄武の激しい怒声も耳に入らぬほどの激しい怒りに身を震わせた朱雀は、その火球を双翼で童子に向かって投げつけた。童子の体よりも二回りも大きな巨大な火球が、ゴウッと風を切る音を立てて童子を正面から襲う。一球目の火球弾が童子を飲み込み、辺りが白熱灯のように発火して視界を奪う。しかし、消しずみの様に灰になった人間の体を見た瞬間、すっかり逆上してしまった朱雀はその先も確認しないまま立て続けに巨大な火球弾を幾つも放つ。
『ちぃっ!よせ!!朱雀!!』
激しい白熱灯の炸裂に、最前にいた逆に白虎が視界を奪われ僅かに怯んだのが玄武には見える。中空に浮かぶ青龍も同様に視界を奪われている中、白虎のほんの数歩前の地面が熱で溶けていく。舌打ちしながら玄武が黒色の羽衣の様な蛇の口から立て続けに水球を放つが、逆上した朱雀の放つ強すぎる火勢は全くおさまらない。思わず視界を奪われながら白虎は、その激しい火勢に狭い空間を後退る。童子の小さなその体は既にブスブスと嫌な音をあげて焦げ付き、半分体を失っていた肉の焼ける嫌な臭いが周囲に初めての臭いとして満ちていた。
『てめェなんか燃えちまえ!!』
激しい火球が更に童子の黒焦げの体を包み込み、それでも尚芯まで燃やしつくそうと火勢が強まる。しかし、幾つもの火球をその身に受けていながらも童子の体は、朽ち果てることなく変わらず未だそこに二本の足で立っていた。やっとの事で視界を取り戻し童子の姿を視認した白虎の口から、明かな舌打ちが零れる。
『よせ!朱雀!そいつは!!』
更に追い討ちをかける朱雀の火球弾を飛び退きよけた白虎が、咄嗟に朱雀を振り仰いだ。瞬間カッと消しずみの黒の体の中で童子の瞳が、深淵の闇の色を放ち白虎を見据えた。同時に童子の口が再びガハリと横に裂け、漆黒の闇の縁のような異様な穴がそこに開く。一瞬、朱雀が放ち続けた深紅の炎が揺らめき、朱雀が幾つも放った炎球弾が一つに収縮した。ギュルリと渦を巻いて炎が一点に収束され童子の口の中に向かって飲み込まれていく。
『なっ!』
朱雀の驚愕の声を横に童子の体を焙っていた火球弾が、童子の口で全て凝縮されていく。それは一つの密度の高い紅蓮の火球となって、凄まじい勢いで砲弾のように弾けた。それは、迷いもなく真っ直ぐに紅蓮の彗星のようになって、朱雀ではなく白虎に向かって襲いかかった。
『っ?!…うああぁっ!!』
ドンッと巨大で彗星のように尾を引いた火球弾が、目に止まらぬ速度でまともに白虎の左の肩口を貫通する。まるでトラックにでも撥ねられたかのように反動で、白虎の体が炎の壁間近まで音をたてて撥ね飛ばされるのを咄嗟に玄武が体で庇う。紅蓮の火炎弾に身を焙られ地面に叩きつけられた白虎の巨体が、その場所でフッと掻き消した。
『白虎!』
白虎が炎の壁に呑まれるのを庇った玄武が、柔らかい水球を幾つも放ち白煙を飲み込む。その帯のような両端の黒蛇の口で、白虎の体を今も燃やしている炎を咬みつぶし消し去る。全身から青い水の雫の様な光を放ちながら、その光を腕のように使い白虎の体を抱き起こす。火炎弾が肩を貫通した衝撃で気を失ったのか白虎は異形の変化は解け去り、白衣を纏う人間の姿に戻った白虎はグッタリとして身じろぎ一つしない。
ほんの数秒の出来事に怒りに我を忘れて火炎を吐いた朱雀が、目の前の出来事に呆然と紅玉の目を見張った。
自分の火炎が。
童子の引き起こした事態への驚きが、彼の中の絶望という過去を引きずり出し凍りつくような心の痛みに震えた。それを知っているように童子の深淵の縁のような瞳が、朱雀を真正面に捉え闇の中に彼の意識を引きずり込む。
※※※
闇の中で炎が全てを飲み込んでいく。
他人が起こした火のせいで、自分の大事なものが全て燃やし尽くされる。家だけでなく、自分の幼い時からの思い出の詰まった全て。それだけでなく、残酷な炎は無惨に彼の全てを奪う。その時偶然家に集まっていた祖父母、伯父伯母、従兄弟、そして両親と唯一の妹。
全てを炎に奪い去られた中で一際激しく燃え上がる自分の体。唯一骨すらも残さず燃えつきた双子の妹は、現場検証で疑惑の一つにあげられた。家屋の鉄筋の骨組みを飴のように溶かし、人間の骨を硝子のような物質にするほどの、高温は何処から現れたものか。他人がまいたガソリンや何かでは説明がつかなかった、それが実は自分の体が朱雀を宿し放った深紅の火炎なのだという残酷な真実。
※※※
『あ!あああああああっ!!』
二度と見たくないと思った。
大切な人が松明のようになる姿。その上守りたい筈の人間や仲間にまで、自分の生み出す炎が傷つける。何時もは心の内に秘めていた心の傷が、無理矢理指を突き刺され押し広げられる痛み。開かれた傷から滲みだす苦痛に満ちた過去の記憶という本流が、朱雀の体から周囲に放たれる筈の熱を飲み込んでいく。朱雀の紅玉の目が絶望に曇るのを、黒焦げの童子はあざとくニヤリと笑いながら見上げた。童子はわざと聞えよがしに楽しげにクツクツと笑い声をあげる。
その笑いに呑まれたように朱雀の体から炎が四散し、宙に緋色の衣の青年が投げ出された。咄嗟に青龍がその体を背で受け止めるが、頭を抱えたままの朱雀は意識を失っているようにピクリとも反応がない。青龍はあっという間の光景に、絶望に満ちた視線を童子に向けた。
何てことだ、こんな簡単に手玉にとられて、しかも二人ももう戦えない。
宙に舞う青龍の思念が感じ取れたのか、眼下の童子はニヤリと口を歪ませる。
『まだ…足りぬ。』
黒焦げの筈なのにその舌は、血のように赤く異様に巨大で長い。蛞蝓のように口の端から垂れ下がり、ヌルンと舌が濡れて蠢いた。
『貴様らと遊ぶには血が足りぬなァ。』
未だ消し炭の姿のまま童子はその場でふらつく事もなく二本足で立ち、クツクツと何時までも邪悪に笑っている。童子の姿は悪夢の中のように、青水晶の瞳に焼き付いて宙に身をうねらせる青龍は背筋に走る悪感にその蒼い鱗をジャラジャラと音を立てる様に震わせた。
『白虎!おい!白虎!!』
立て続けに滴る様に人間の姿の白虎の肩口に水をかけながら、玄武が彼を黒蛇の羽衣で抱きかかえるようにして声をあげる。
「………うっ。」
微かに呻き声をあげた白虎の姿を、童子はさも面白いと言いたげに眺める。童子の深淵の闇の黒眼だけの瞳で見つめ、更にクツクツと笑いながら意味ありげに彼らを見渡した。
『また遊ぼう、御方神。次はもっと楽しませておくれ。』
古き呼び名で四人の名を言ったかと思うと童子は突然口が裂けた様な大口を開き、消し炭の体を仰け反らせてゲタゲタと邪悪な声をあげて笑いだした。嘲る様な視線でグルリと四人を見たかと思うと、ズブリと黒い地表に足が沈みこんだ。彼らの見ている目の前でズブズブと泥の沼に沈むように黒い体が黒い地表に沈んでいく。トプンッと童子の体と気配が完全に消失した次の瞬間、不意に周囲の炎の壁が崩れ一気に暴風が吹き込み木々や油の焦げた臭いが立ち上る。
焙る様な吹き込む風に勢いを増す火勢が、ジリジリと地表の玄武達ににじり寄り始めた。小さく舌打ちした玄武は、人の姿のままの白虎を庇う様に激しく大量の水球を吐きながら、その体を背に担ぎあげると青龍に向けて怒鳴る。
『青龍!雲を呼べ!!朱雀は駄目か?!』
『意識がないみたいです!』
『くそ!稀に見る大黒星だな!先ずは火を消すぞ!』
ハッとした様に我に返った青龍が、夜の闇に風を呼び雷雲を呼ぶ。宙に向かって一筋の隙間が走り、その一瞬をつく様に青龍は一直線に雲の上まで天空に駆けあがった。青龍が青い鱗を煌めかせながら雷雲を育て上げると、その中心に玄武の水気が渦を巻く。やがて激しい雷鳴と共に一寸先も見えないような滝のような雨が、地表の炎に叩きつけられ始めた。炎が見る間に激しい湯気をあげて弱っていく。立ち上る湯気が大気で再び雲に変わり、雨足は更に激しく木々の燻りを冷やし始める。そんな雲上に身を踊らせる青龍の背中では、朱雀が微かな呻き声をあげていた。
火の手が落ち着いた地上で蛇の帯を揺らした玄武は、舌打ち混じりに火勢に巻かれた人々の姿を見やる。意識がない者も多いが、まだ辛うじて生きている者もほんの数人残っていた。重い亀の口を開くと、そこからホンノリと青い水球が生まれ落ちる。辛うじて繋いでいるものを引き留められるかは、残された体力次第だが、玄武の口から癒しの雫が放たれると呻き声に力が灯った。それを横目に一旦燃え付きかけた木の根元に下ろしていた白虎に、玄武は音もなく歩み寄ると異形の変化を解き黒衣の姿に変わる。
「白虎、どうだ?」
「完全にこちらの手を読まれたな。手酷くやられた、くそ。」
霊衣でもあり自分達の異能で生まれる筈の衣が、焼け焦げて肩口が露になっている。金気の白虎にとって火気は相剋であるが故に苦痛は倍増しているのだろう、歪む顔に玄武がしゃがみこみその体に腕を回す。
「つぅっ!」
「一先ず、火はこれ以上広がらない。俺らも戻って手当てしないと。朱雀もやられてる。」
「怪我か?すまん、見えなかった。」
「いや、目を合わせて呑まれた。」
その言葉に苦痛に顔を歪めながら、白虎が舌打ちする。しかし、一先ずはこの場を離れるのが先決だ。雲上の青龍も二人の気配を察知して、東へ移動を始めているのが感じられていた。
数時間なのか数分なのか分からないが、ゴウゴウと音をたてて禍々しい紅蓮の火柱が風に巻き上げられる。火の壁が周囲を焙り、何処までも広がり続けていた。木立どころか立木が炎に飲まれ、勢いは増すばかりで次第に少ない逃げ場が更に狭まっていく。やがて工事現場の四方が越えようのない巨大な炎の壁に変わり、ジリジリとその場にいる者を一ヶ所に追い込み炙り出していた。炎に近づき過ぎた者が、不意に舐める様な黒い炎の舌に絡みつかれ悲鳴をあげる間も無く一瞬で丸呑みされ消えていく。それなのに周囲の者は自分のことで精一杯で誰も気がつかず、必死に外周を取り囲む炎に残り少なくなりつつある僅かな水をかけ続けている。
人の目にも捉えられぬほどの速度で白炎をまとう巨大な体長三メートルもある白銀に光る虎が、深い森の木々に落ちる深い闇を切り裂き音もたてずに疾走していた。しかし、白虎は何かを思う様に急に音もたてず土煙もあげず立ち止まり、遠く木々の合間に外縁の炎の壁に向けて放水を続ける人影を見やる。消防活動をしている人々を遠目に眺めながら、虎は微かに顔をあげ周囲に吹き付ける風をかいだ。
もし風もなく上空から見下ろすように炎を見る事が出来たとしたら、その異様な光景に驚いた事だろう。外縁の炎の壁の中には太極図のように炎に包まれる場所とポッカリくり抜いた漆黒。漆黒は、まるで穴の様に深淵の縁を形作っていた。激しく燃え盛り広がり続ける火柱の中心には、まだ燃えずに残る人々が逃げ場を失っている。山のように高い火柱を見上げて、人間は絶望的な顔で残り僅かな消火器と水で消化を続けていた。
ピクリと風に何をかぎつけたのか白虎は、消防活動から更に少し距離をとり離れた。かと思うとグンッと一度大きく体を沈め、次の瞬間強く地表を蹴り上空へ跳躍する。巨大な白虎は人々の遥か頭上を彗星の如く一瞬にして飛び越し、人の目に触れる隙も与えずに炎の柱の上を飛び越し太極図の陰である漆黒の場所へと躍り込んだ。白虎は音もたてず土を舞い上げることもなく、黒い大地に四肢から微かに白い妖炎を放ち降り立った。
『…………っ!』
そこは暗いのではなく燃え尽きたわけでもない、黒一色の大地だった。赤と黒の太極図の黒。焼き尽くされた消し墨のような黒の世界なのに、一つも焦げた臭いすらしない死の世界。無音の黒の世界は風も音も無く炎の熱さすらも無く、歪な周囲をただ紅色の揺れる壁で囲まれているだけだった。まるで、そこにあった存在の全てを何かが奪い尽くしたかのようだ。
『これは……………。』
白虎は油断ない視線で辺りを見回す。
草も木も、人の形も工事をしていたはずの気配すらも全く残っていない。そこは全くの無なのだ。白虎が身を低くして辺りを見回した時、凄まじい轟音を立てて玄武が地表を揺らして降り立った。その頭上には宙に四肢をうねらせる鱗を煌めかせる青龍、そして空を舞う燐を放つ朱雀が姿を現している。しかし、頭上の二人ともが、その空気の異様さに思わず息をのんだ。
『何がどうなってんだよ?これ?』
真紅の紅玉の瞳で辺りを見回した朱雀が困惑の言葉を呟く。同じように周囲の様子に困惑した青水晶の瞳で宙に姿態をくねらせながら青龍も辺りを見下ろしている。
その場所は未だに、全くチリとも風も音も臭いも熱も無い。ただ禍々しく赤く揺れる紅蓮の壁の中で、黒の世界はシンと静まり返っている。まるであの世の景色の様な、虚無の世界と化したその場で四人は困惑しながら辺りを見回していた。
『いったい…これは……。』
呻くように頭上の青龍が小さく呟いた瞬間、突然白虎が低い威嚇の唸り声をあげた。一番黒の世界が膨らんだ中央めがけて白虎は激しく威嚇の唸り声を発して体を低く屈め、今にも飛びかかろうという体勢で身構える。ゾワゾワと白虎の毛並みが逆立ち白銀と黒の体が膨れ上がるように見えるのに、共鳴するように横の玄武の黒曜の蛇鱗がギチギチと軋む音をたてた。
『白虎!』
『来るぞ!玄武!』
白虎のその険しい声音に、咄嗟に玄武も身構え両端の蛇の鎌首が鋭い威嚇の音を上げて牙を向く。そして玄武と同時に他の二人も一緒に、白虎が睨みつける虚無の世界の中心に当たる視線の先を振り返った。
そこには未だ全く風も音も臭いも熱も無いまま、ただ禍々しく紅蓮に揺れる壁の中でシンと静まり返っているだけ。なのにその中心には何かが、確かにこちらを見ている。一心にそこを見ていると黒一色の世界に視界の全てが飲み込まれて、視界を奪われてしまう錯覚に呑まれそうになってしまう。
と、その時、四人の目の前に変化が起きた。
地に立つ二人は自分の見た者に驚愕の視線を向け、他の二人は一瞬自分達が何を見ているのか理解が出来ない。そこには、一人の幼い少年が心細げにポツンと立っていた。
無音の虚無の世界に似つかわしくない幼い童子。
童子と呼んだのは、酷く古風な昔話の稚児のような着物をその身に付けているからだ。幼い童子は、モミジの様な両手で毬の様なものを抱えて立ち俯いている。童子が顔をあげて柔らかなあどけない笑みを浮かべた。ユックリと四人に見えるようにあげた顔に手にした黒い毬のようなモノを大事そうに両手で抱えた人間と同じ姿。糸のように目を細め酷く楽しげに笑っている童子の姿に、驚愕した玄武が呻く。
『まさか……。』
玄武が呻くように小さく呟いた次の瞬間、童子は軽々とその手にしていた毬を四人に向けて無造作に放った。ゴロゴロと歪な形の毬は、音もたてずに黒い大地を転がる。玄武の足元の目の前で止まったのは手鞠ではなく、苦痛と驚愕に避けんばかりに目を見開き悲鳴を上げたまま凍りついた口を開いた中年男性の半分焦げた生首だった。
『なっ!!』
それを目にした瞬間宙に浮かぶ青龍の体内の血がカッとざわめき、ブルリと青水晶の瞳が怒りに染まりザワザワと音を上げて蒼い鱗が震える。宙にうねる長い体が更に激しくうねり肢体から鋭い旋風が刃物の様に、童子に向かって矢のように突然放たれた。
『よせ!青龍!!』
白虎の制止の声が届く前に旋風が、同時に躍りかかる様に襲いかかる。しかし、童子は動揺するでもなく笑いながら、自分に向かってくる旋風を見つめて微動だにしない。次の瞬間、童子の体は音をたてて、四方から皮一枚でつながる程度に切り裂かれた。
『クク…。』
切り裂かれたままの体が不気味な笑い声をたてるのを、青龍が呆然と見下ろす。切り裂かれて首の逆さまにぶら下がった姿なのに、首から噴き出すかと思われたモノは何一つ溢れださない。血一滴も流れ出ない傷口をさらしたまま、童子は半分千切れた手を放った生首の方にかざした。途端に玄武の目の前の生首が水分を吸われる様に黒く変色して見る間に縮む。やがてそれは黒いただの塊となり、やがてサラサラと砂になって崩れ落ち黒の地面に同化した。それと童子に切断された皮膚が結び付いていく。童子は笑いながら不意に四人から視線をはずし、西側の炎の壁を眺める。と炎の中から煤で汚れた工事現場のヘルメットを被った中年男性が、童子と四人の間に転げ落ちた。
「な、なん?!ひ、ひぇえ!!?」
目の前には巨大な三メートルを越す巨大な虎と巨大な蛇を伴う亀の姿。それに対しての当然の反応だろう、中年男性が気の抜けた悲鳴を上げて地面を這いずるように後退る。その後退った先には笑顔の童子が待ち構えているが、普通の人間には童子の方がまともに見えるに違いない。
『よせ!行くな!!』
咄嗟に放たれた玄武の低い制止の声が届いた時には、既に中年の背中は童子の足元にあった。目の前の異形の獣の姿に震える男が次の言葉を発する前に、背後に立つ童子の口が音もたてずに真横に裂ける。男が振り返る間もなく童子の顔が瞬時に牙をだらけの口に変わって、背後から覆い被さる様にバクンと男の頭からかぶりつくのは悪夢としか言えない。血飛沫一つあげずに、一瞬で男の体の上半分が消え去り傷口が黒く煤ける。それと同時に童子の切り裂かれた体の傷は、完全にくっつき塞がってクツクツとあどけなく邪悪な笑いが唇から溢れた。
『貴様!!……何者だ!!』
玄武の激しい怒声に、童子は今やっと彼らに気がついたとでも言いたげな様子で彼らに視線を向けた。あどけない笑顔を貼り付けた顔に浮かぶ瞳は、唯一ぽっかりと暗く深淵の闇を思わせる黒眼だけの異形の瞳だった。その童子の唇が、邪悪な笑みをニタリと浮かべた。
『我が名は…トウテツ…。』
ザリッと音を立てて童子が体を動かした一瞬の隙を逃さず、弾丸のような動きで白虎が童子の喉笛をめがけて鋭い牙をむいた。白銀に光る陰影を残し、鋭い牙が童子の喉笛から肩口を袈裟懸けに切り裂きパクリと口を開く。しかし、童子はまるで何も感じていないかのように斜めに傾いだ顔で笑い、その片手をゆるりとあげた。ハッとした様にその腕を爪で真っ二つに切り裂きながら白虎は飛び退る。童子の手先から離れると再び体勢を低くして、唸り声をあげながら白金色の瞳で童子を睨みつける。
『貴様……。』
何か言いかけた白虎に、一瞬童子の表情が微かに変わる。童子の表情に同じく気がついた玄武が眉をひそめた瞬間、周囲の炎が一瞬青白く輝き火柱が再び一人の中年男性をその空間の中の童子の目の前に投げ込んできた。何度も繰り返される手品のような情景に、唖然とした朱雀と青龍の目の前で投げ込まれる男は再び白虎の姿に悲鳴をあげる。
『くそ!何処かに囲ってるのか!』
炎の壁の何処かに童子は周到に餌として、火災に巻き込まれ消息不明とニュースで告げた工事現場の人間を生かしてまだ囲っている。それに気がついて思わず舌打ちした白虎の姿に、童子はチラリと白虎に視線を投げたかと思うとニヤリと笑う。次の瞬間白虎の姿に後退り自分に近寄った男性の頭に、半分千切れた片手を置いていた。それは、ほんの一瞬の出来事だ。
「う…うわ……うぎゃあぁあああぁぁあっ!!!!」
無音の世界に、耳を塞ぎたくなる様な絶叫が響き渡る。悲鳴をあげた童子の小さな手の下で、一度に水分が吸われていくように男の顔が萎れ眼球が音をたてて弾けた。見る間に男性の体が、先ほどの生首と同じく音をたてて縮んで行く。四人の目の前で絶叫をあげた表情のまま工事現場の男性が、黒く変色し萎みあがって絶命したのが分かる。見る間にその着ている服諸共にサラサラと黒い砂へと変わり足元から崩れ落ち、黒い虚無の大地に同化した。
それを見た瞬間、宙を羽ばたき舞っていた朱雀の口から激しい怒りの鳴動が放たれる。紅玉の瞳が激しく怒りに震え、周囲よりもはるかに紅く燃え上がった。周囲を焙るほどの熱を一瞬にして体から放ち、朱雀はその双翼を大きく広げたかと思うと口から巨大な炎の塊を吐きだした。
『やめろ!!朱雀!』
玄武の激しい怒声も耳に入らぬほどの激しい怒りに身を震わせた朱雀は、その火球を双翼で童子に向かって投げつけた。童子の体よりも二回りも大きな巨大な火球が、ゴウッと風を切る音を立てて童子を正面から襲う。一球目の火球弾が童子を飲み込み、辺りが白熱灯のように発火して視界を奪う。しかし、消しずみの様に灰になった人間の体を見た瞬間、すっかり逆上してしまった朱雀はその先も確認しないまま立て続けに巨大な火球弾を幾つも放つ。
『ちぃっ!よせ!!朱雀!!』
激しい白熱灯の炸裂に、最前にいた逆に白虎が視界を奪われ僅かに怯んだのが玄武には見える。中空に浮かぶ青龍も同様に視界を奪われている中、白虎のほんの数歩前の地面が熱で溶けていく。舌打ちしながら玄武が黒色の羽衣の様な蛇の口から立て続けに水球を放つが、逆上した朱雀の放つ強すぎる火勢は全くおさまらない。思わず視界を奪われながら白虎は、その激しい火勢に狭い空間を後退る。童子の小さなその体は既にブスブスと嫌な音をあげて焦げ付き、半分体を失っていた肉の焼ける嫌な臭いが周囲に初めての臭いとして満ちていた。
『てめェなんか燃えちまえ!!』
激しい火球が更に童子の黒焦げの体を包み込み、それでも尚芯まで燃やしつくそうと火勢が強まる。しかし、幾つもの火球をその身に受けていながらも童子の体は、朽ち果てることなく変わらず未だそこに二本の足で立っていた。やっとの事で視界を取り戻し童子の姿を視認した白虎の口から、明かな舌打ちが零れる。
『よせ!朱雀!そいつは!!』
更に追い討ちをかける朱雀の火球弾を飛び退きよけた白虎が、咄嗟に朱雀を振り仰いだ。瞬間カッと消しずみの黒の体の中で童子の瞳が、深淵の闇の色を放ち白虎を見据えた。同時に童子の口が再びガハリと横に裂け、漆黒の闇の縁のような異様な穴がそこに開く。一瞬、朱雀が放ち続けた深紅の炎が揺らめき、朱雀が幾つも放った炎球弾が一つに収縮した。ギュルリと渦を巻いて炎が一点に収束され童子の口の中に向かって飲み込まれていく。
『なっ!』
朱雀の驚愕の声を横に童子の体を焙っていた火球弾が、童子の口で全て凝縮されていく。それは一つの密度の高い紅蓮の火球となって、凄まじい勢いで砲弾のように弾けた。それは、迷いもなく真っ直ぐに紅蓮の彗星のようになって、朱雀ではなく白虎に向かって襲いかかった。
『っ?!…うああぁっ!!』
ドンッと巨大で彗星のように尾を引いた火球弾が、目に止まらぬ速度でまともに白虎の左の肩口を貫通する。まるでトラックにでも撥ねられたかのように反動で、白虎の体が炎の壁間近まで音をたてて撥ね飛ばされるのを咄嗟に玄武が体で庇う。紅蓮の火炎弾に身を焙られ地面に叩きつけられた白虎の巨体が、その場所でフッと掻き消した。
『白虎!』
白虎が炎の壁に呑まれるのを庇った玄武が、柔らかい水球を幾つも放ち白煙を飲み込む。その帯のような両端の黒蛇の口で、白虎の体を今も燃やしている炎を咬みつぶし消し去る。全身から青い水の雫の様な光を放ちながら、その光を腕のように使い白虎の体を抱き起こす。火炎弾が肩を貫通した衝撃で気を失ったのか白虎は異形の変化は解け去り、白衣を纏う人間の姿に戻った白虎はグッタリとして身じろぎ一つしない。
ほんの数秒の出来事に怒りに我を忘れて火炎を吐いた朱雀が、目の前の出来事に呆然と紅玉の目を見張った。
自分の火炎が。
童子の引き起こした事態への驚きが、彼の中の絶望という過去を引きずり出し凍りつくような心の痛みに震えた。それを知っているように童子の深淵の縁のような瞳が、朱雀を真正面に捉え闇の中に彼の意識を引きずり込む。
※※※
闇の中で炎が全てを飲み込んでいく。
他人が起こした火のせいで、自分の大事なものが全て燃やし尽くされる。家だけでなく、自分の幼い時からの思い出の詰まった全て。それだけでなく、残酷な炎は無惨に彼の全てを奪う。その時偶然家に集まっていた祖父母、伯父伯母、従兄弟、そして両親と唯一の妹。
全てを炎に奪い去られた中で一際激しく燃え上がる自分の体。唯一骨すらも残さず燃えつきた双子の妹は、現場検証で疑惑の一つにあげられた。家屋の鉄筋の骨組みを飴のように溶かし、人間の骨を硝子のような物質にするほどの、高温は何処から現れたものか。他人がまいたガソリンや何かでは説明がつかなかった、それが実は自分の体が朱雀を宿し放った深紅の火炎なのだという残酷な真実。
※※※
『あ!あああああああっ!!』
二度と見たくないと思った。
大切な人が松明のようになる姿。その上守りたい筈の人間や仲間にまで、自分の生み出す炎が傷つける。何時もは心の内に秘めていた心の傷が、無理矢理指を突き刺され押し広げられる痛み。開かれた傷から滲みだす苦痛に満ちた過去の記憶という本流が、朱雀の体から周囲に放たれる筈の熱を飲み込んでいく。朱雀の紅玉の目が絶望に曇るのを、黒焦げの童子はあざとくニヤリと笑いながら見上げた。童子はわざと聞えよがしに楽しげにクツクツと笑い声をあげる。
その笑いに呑まれたように朱雀の体から炎が四散し、宙に緋色の衣の青年が投げ出された。咄嗟に青龍がその体を背で受け止めるが、頭を抱えたままの朱雀は意識を失っているようにピクリとも反応がない。青龍はあっという間の光景に、絶望に満ちた視線を童子に向けた。
何てことだ、こんな簡単に手玉にとられて、しかも二人ももう戦えない。
宙に舞う青龍の思念が感じ取れたのか、眼下の童子はニヤリと口を歪ませる。
『まだ…足りぬ。』
黒焦げの筈なのにその舌は、血のように赤く異様に巨大で長い。蛞蝓のように口の端から垂れ下がり、ヌルンと舌が濡れて蠢いた。
『貴様らと遊ぶには血が足りぬなァ。』
未だ消し炭の姿のまま童子はその場でふらつく事もなく二本足で立ち、クツクツと何時までも邪悪に笑っている。童子の姿は悪夢の中のように、青水晶の瞳に焼き付いて宙に身をうねらせる青龍は背筋に走る悪感にその蒼い鱗をジャラジャラと音を立てる様に震わせた。
『白虎!おい!白虎!!』
立て続けに滴る様に人間の姿の白虎の肩口に水をかけながら、玄武が彼を黒蛇の羽衣で抱きかかえるようにして声をあげる。
「………うっ。」
微かに呻き声をあげた白虎の姿を、童子はさも面白いと言いたげに眺める。童子の深淵の闇の黒眼だけの瞳で見つめ、更にクツクツと笑いながら意味ありげに彼らを見渡した。
『また遊ぼう、御方神。次はもっと楽しませておくれ。』
古き呼び名で四人の名を言ったかと思うと童子は突然口が裂けた様な大口を開き、消し炭の体を仰け反らせてゲタゲタと邪悪な声をあげて笑いだした。嘲る様な視線でグルリと四人を見たかと思うと、ズブリと黒い地表に足が沈みこんだ。彼らの見ている目の前でズブズブと泥の沼に沈むように黒い体が黒い地表に沈んでいく。トプンッと童子の体と気配が完全に消失した次の瞬間、不意に周囲の炎の壁が崩れ一気に暴風が吹き込み木々や油の焦げた臭いが立ち上る。
焙る様な吹き込む風に勢いを増す火勢が、ジリジリと地表の玄武達ににじり寄り始めた。小さく舌打ちした玄武は、人の姿のままの白虎を庇う様に激しく大量の水球を吐きながら、その体を背に担ぎあげると青龍に向けて怒鳴る。
『青龍!雲を呼べ!!朱雀は駄目か?!』
『意識がないみたいです!』
『くそ!稀に見る大黒星だな!先ずは火を消すぞ!』
ハッとした様に我に返った青龍が、夜の闇に風を呼び雷雲を呼ぶ。宙に向かって一筋の隙間が走り、その一瞬をつく様に青龍は一直線に雲の上まで天空に駆けあがった。青龍が青い鱗を煌めかせながら雷雲を育て上げると、その中心に玄武の水気が渦を巻く。やがて激しい雷鳴と共に一寸先も見えないような滝のような雨が、地表の炎に叩きつけられ始めた。炎が見る間に激しい湯気をあげて弱っていく。立ち上る湯気が大気で再び雲に変わり、雨足は更に激しく木々の燻りを冷やし始める。そんな雲上に身を踊らせる青龍の背中では、朱雀が微かな呻き声をあげていた。
火の手が落ち着いた地上で蛇の帯を揺らした玄武は、舌打ち混じりに火勢に巻かれた人々の姿を見やる。意識がない者も多いが、まだ辛うじて生きている者もほんの数人残っていた。重い亀の口を開くと、そこからホンノリと青い水球が生まれ落ちる。辛うじて繋いでいるものを引き留められるかは、残された体力次第だが、玄武の口から癒しの雫が放たれると呻き声に力が灯った。それを横目に一旦燃え付きかけた木の根元に下ろしていた白虎に、玄武は音もなく歩み寄ると異形の変化を解き黒衣の姿に変わる。
「白虎、どうだ?」
「完全にこちらの手を読まれたな。手酷くやられた、くそ。」
霊衣でもあり自分達の異能で生まれる筈の衣が、焼け焦げて肩口が露になっている。金気の白虎にとって火気は相剋であるが故に苦痛は倍増しているのだろう、歪む顔に玄武がしゃがみこみその体に腕を回す。
「つぅっ!」
「一先ず、火はこれ以上広がらない。俺らも戻って手当てしないと。朱雀もやられてる。」
「怪我か?すまん、見えなかった。」
「いや、目を合わせて呑まれた。」
その言葉に苦痛に顔を歪めながら、白虎が舌打ちする。しかし、一先ずはこの場を離れるのが先決だ。雲上の青龍も二人の気配を察知して、東へ移動を始めているのが感じられていた。
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