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六十一夜目『天使の記憶』
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これは、私の特別な友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。芳しい珈琲の香りのする店内に客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。
※※※
香坂智春は一風変わった人間だった。
自分が特殊な能力を持っていることに気がついて、それを自分の仕事に活用したと言うと珍しい事ではないように思える。しかし、それがカメラアイなら話は変わる。
カメラアイとは、簡単に言えば『まるでカメラのように、見たものを画像そのものとして覚えることが出来る』能力の事。ただし、この能力は先天性のもので、医学ではサヴァン症候群等ともされる。サヴァンという言葉で分かる通り、この能力を持つ人間は言語的な発達が遅い事があるという。つまり、カメラアイは実は原始的人間の能力の一つで、言語発達の未熟さをカバーして視覚が発達しているというわけだ。勿論言語的な発達には何も問題がない場合もあるし、智春は実際には幼いときは少し発語は遅かったらしいが会話には何の支障もない。
実は記憶する対象はカメラアイでも固有差があって、教科書をまるごと覚えられる者もいれば智春のように画像にだけ特殊な記憶能力を発揮する事の出来るタイプもいると言う。何でも全て記憶できるというわけではなく、画像に特に特化している智春の場合は文字や時刻表等の記憶力は普通と変わらない。
勿論先天性とはいえ、全く気がつかずに過ごせば普通の人間と変わらない能力しか発揮できない場合もある。人間の脳は二歳から十一歳迄に概ね成長するため、成人してからこの能力を持っていると発見したとしてもそこから能力を伸ばすことは難しい。そして、智春がそれに気がつくきっかけになったのは、七歳の時の交通事故だった。
目の前で車に跳ねられたのは香坂美雪、自分の母親。
けたたましい爆音をたてる赤い車体の車高の低く普通と違うマフラーをした車が、智春の母を撥ね飛ばして数メートル離れた場所で急ブレーキで停まった。運転席の黒い窓ガラスが音をたてて下がり、そこから乗り出すように顔を出した若い男の慌てた強ばった顔。母が彼を庇ってその車の前から突き飛ばした後に、路面に呆然と座り込んでいた智春はその顔を真っ直ぐに見つめた。
鼈甲の眼鏡、頬に四つの黒子、黒髪の整髪料で固めた短髪、浅黒い肌の色、顔に散る薄いソバカスの跡とニキビの跡。
智春は迷わずその男の顔と車と風景を、一枚の写真のように隈無く全て記憶した。そしてその車から男が降りてくることもなく、その場を急発進で立ち去るまでの一部始終を脳に記憶し続ける。
最初に智春が母を撥ね飛ばした男を見た覚えている、分かると警察に話した時、彼らは余りに具体的な七歳児の言葉を作り話と考えた。だから一つも智春の言葉を信用しなかったのだ。ところがその中で一人の刑事だけは、何故か智春の訴える言葉を信じてくれた。そして彼の話を事細やかに聞きだし、時には車の写真を取り出し問いかける。
「なぁ、僕、この車か?」
「違う、もっと背の低い車。」
「低いか、じゃこの車は?」
見せられた車とあの男が乗っていた車は全く違う。
「こんなに背が高くない。後ろに羽みたいのがついてるやつ。」
はっきりと言い切った言葉に相手は目を丸くして、智春の言ったように後ろに羽の着いた形の車の写真を何台か見せてくれる。この中にはよく似てる形の車もあるが、あの赤い車ではなかった。そう言うと刑事は車の前を指差す。
「じゃ、後ろにマークついてたか?こんなの?」
「これは違う、こっちのがついてた。」
形が違う車の前についているマークを指差す智春に、刑事は納得したみたいに頷く。そして、そのマークよりも下の白いプレートを指差した。
「ここに数字があったろう?覚えてないか?」
「覚えてる、最初が…。」
誰も信じなかったのにその刑事は、智春の言葉を一つも疑わずに信じて母を撥ね飛ばした車を見つけだしてくれた。そして、確かにその車の持ち主の家の若い次男の顔は、彼が鮮明に記憶したあの車の窓から覗いた顔の男だったのだ。黒子の位置もニキビの跡も一致する似顔絵を先に出していた刑事がいたことに、誰もが目を丸くしたらしい。
「智春の目はカメラだな。」
刑事は別れる時、智春に向かってそう言った。
「その目のお陰で悪い人が捕まったぞ、母さんに報告しな。」
「何で信じてくれたの?」
父に手を引かれてそう問いかけると、刑事は少し笑いながら同じような事の出来る人間を知ってるんだと言う。智春はその言葉を聞いて、自分以外にも同じようにカメラアイを持つ人間がいることを知った。特別ではないが珍しい能力だとそのあと自分でも調べもしたが、訓練も出来ると分かる。そして、智春はその目をそれから密かにずっと鍛え上げたのだ。智春の瞳は特に画像に関して特化した、完全なカメラアイになった。
鍛えなくても智春のカメラアイは十分発達していた、母の事故の光景は何時まで経っても赤い車の走る速度までナニも記憶の中では変わらない。それを繰り返し見続ける智春には、あの刑事の言葉だけが支えだった。
その目のお陰で悪い人が捕まった
そうして智春は大学を卒業したのち、兼ねてからの目標通り警察官になったのだった。能力を活用すればエリートにもなれたが、智春が選んだのは警視庁勤務ではなく地方警察官になって交番勤務から始めていくことだ。そう、誰かの身近で誰かを守る警察官になりたかった。
※※※
「香坂の記憶力すげえな、また手配犯見つけたんだって?」
同僚の声に智春は曖昧に微笑む。智春にとっては手配書を常時見て歩いているようなものだから、それは大したことではないのだ。それでも毎日のように新しい事件が起こり、新しい手配犯が現れる。世の中にはまるで悪人ばかり蔓延っているような気すらして、智春は次第に気が重くなっていくのを感じた。どんなに悪人を捕まえても、減ることのない毎日の事件。しかも、それを記憶した頭はそいつを捕まえたとしても記憶の消去ができないのだ。うんざりするほどの嫌になる手配犯の顔が、いつまでも記憶の中に積み重なって残っていく。人は忘れることが出来るから、まともに暮らせるのだと気がついた時にはすでに遅かった。
「また、窃盗犯捕まえたんだって?香坂。」
「たまたまです、目の前に居たんですよ。」
取り繕った笑顔でなんともないように言うが、出来ることなら捕まえた時点でこの頭の中の窃盗犯の顔を消去したい。警察官になって必死に今まで何百人と記憶してしまった悪人の顔を全て消せるなら、何でもしたいと正直なところ智春は思う。
あの刑事のように誰かを信じて救えるようになりたいと、刑事を目指したのに。
目標にした彼は警察官になった時には当の昔に殉職して二階級特進していて、自分は刑事になる目前に既に消えない記憶に頭が狂いかけている。休みの日だからと言って、仕事を離れていれば智春の頭の中の記憶が消え去る訳ではない。酒を飲んで酔っても、恐ろしいことに酔った自分の行動として記憶は鮮明に頭に残るのだ。溜め息をつきながら公園のベンチに座って、目を閉じる。
一番最初に頭に浮かぶのは車に撥ね飛ばされた母の姿。何度もそれは繰り返され、あの男が車の窓から強ばった顔を出す瞬間を見る。十七年近く経つと言うのに、頭の中では記憶は色褪せることもなくまるで今起きたことのように鮮明だ。
もう一度溜め息をつきながら頭を抱えている智春の足元に、不意に影が射した。
「具合悪い、ですか?」
その少し普通とイントネーションの違う言葉に、智春はふと大丈夫と言おうと視線をあげた。
目を上げた時そこに立っていたのは比喩でもなんでもなく、澄んだ空と同じ青い瞳をしたブロンドの髪の天使。乳白の象牙色の肌に、長い睫毛は長い髪と同じ色で日に透けて光り、唇は淡い薔薇色に艶やかだ。まるで作り物めいた完璧な造形、なのに目の前の彼女には確かに血が通っている。ポカーンとした智春に向かってその天使は、首を傾げ淡い極上の花のような微笑みを浮かべた。
「大丈夫?具合悪い、ですか?」
そう心配そうに話しかけた鈴のような声の天使。
今まで刑事になることだけを必死に考えて生きてきて、一度も恋をしたことのない智春は一目で恋に落ちていた。
カメラアイのメリットは何度でも写真を見るように細部まで物事を記憶しておけることだ。勿論それが智春のようにデメリットにもなりうるのだが、恋をした智春にはメリットにもなった。何時でも天使の花のような微笑みを見ることが出来る。彼女が持っていた紙袋にかかれていたのは、確か近郊の国際大学の名前だ。きっとあの辺りに住み始めたばかりの天使。繰り返し繰り返し天使の微笑みの事を思い浮かべると、背中に羽がついていないのが嘘のようだ。彼女は智春が大丈夫と告げると、そうですかと安堵したようにもう一度微笑んで立ち去っていた。あの時名前を聞けばよかった。
もう一度彼女に会えないだろうか、彼女の名前はなんだろうか
頭の中でそればかりを考える自分に苦笑する。あんなにも頭のなかが犯罪者の顔ばかりで一杯になっていたのに、今はたった一度の彼女の事ばかり考えて頭が一杯になっているのだ。
そんな天使と智春の二度目の出会いは、まさに仕事中の事だった。ひったくり犯を捕まえた智春の目の前に、バックを引ったくられた当人として現れたのがあの天使だったのだ。
「アリシア・クラークです。」
安堵したように天使は智春にそう告げて、智春に再び花のように微笑んだのだ。名前を知ってからというものの次第に天使と智春は仲良く話せるようになり、やがて一緒に休みには出掛けるようにまでなった。
アリシアという天使に出会った智春は、次第に彼女の容姿だけでなく人柄にも惹かれ始める。日本文化に興味をもって留学してきたアリシアは、勤勉で真面目な学生で色々な事に興味を持っていた。休みの日には智春は天使と一緒に浅草や日本庭園を歩く、その時に脳裏に残すのはアリシアの嬉しそうな顔ばかりだ。
「智春、あれはなんですか?」
「あれ?えーっと縁日って何て言うの?」
「えん、にち?」
浅草の寺の横に何時もいる縁日のような出店にアリシアは、青い瞳をキラキラさせて駆け寄っていく。慌てて彼女を追いかけると、露店商の七味を混ぜる見事な手際に吸い寄せられている。他の食べ物の露店商ではなく、七味の露店商に近寄る辺りがアリシアらしい。
「どれ、混ぜると一番辛い、です?」
「一味だけの方が辛いかもしんないね、混ぜると違う風味が変わるんだよ、別嬪さん。」
予想と違う露店商の説明にアリシアは目を丸くする。
「混ぜた方、辛くないですか?」
「混ぜかたもあるかね、生唐辛子に焼き唐辛子、芥子の実、粉山椒、黒胡麻、陳皮、麻の実何てのがここいらの基本だ。」
やげん堀の七味と言えば確かにその七つだが、最近は違う物も混ぜることがあるらしい。
「後はね紫蘇、海苔、生姜、これが基本の九つね、この内七つを混ぜるのが七味さ。最近は若いおねぇちゃんに受けるように柚やら蜜柑の皮、ニンニクなんちゅうのも人気だ。」
「入れ物、かわいいです、これ。」
「買ってやるよ、アリー。」
「ええ?ハル、悪いです。」
露店商が笑いながら男前の兄さんに買ってもらいなと、気っ風のいい声で七味を混ぜる。七味を何で食べるかは疑問だが、日本料理にも興味があるアリシアなら使いこなしそうだ。気に入った容器で買ってやった和紙のような模様に彼女はご機嫌で、智春の腕をとる。
「ハル、カメラアイ羨ましいです、こんな綺麗な世界ずっと見れる。」
彼女は自分の目のことを聞くと、そう告げた。
警察になってから忌まわしく感じていたはずの自分の能力を、そんな風に前向きに捕らえられるのはアリシアが天使だからだ。そんな風にして彼女と智春が恋人同士になるまでは、そう時間はかからなかった。
やがて二人は結婚を視野に二人で暮らすようになり、アリシアの国籍も帰化する手続きを始める。帰化してからの結婚の準備を粛々と進めていた矢先、アリシアと智春が二人で暮らすアパートにその手紙が届いたのだ。
『許さない。』
その言葉だけの手紙には消印も何もない。誰宛ともない手紙にかかれた文字に、アリシアは不安そうに智春の顔を見た。
「許さないは、It cannot be forgiven?」
「うん、そういう意味。」
周囲にそんな怒りに満ちた視線で二人を見る人間は、記憶の中にはいなかった筈だ。記憶を辿っても誰も二人を見ている視線が思い浮かばないのに、智春は溜め息混じりに嫌な悪戯だと呟く。
「悪戯?何故?」
「何でだろうね、アリーと仲良くしてるのに嫉妬したかな。」
手紙を握り捨てて、そう言いながら彼女を抱き締めると天使は擽ったそうに声をあげて笑った。智春は警察官としても人間としても、アリシアという天使のお陰で狂うこともなく穏やかに暮らしていけるのだと感じていた。幸せな記憶も積み重なっていけば、嫌な悪い記憶を消すことはできなくても遠ざけることはできると知ったのだ。これは、あの時アリシアと出会わなければ智春には知ることもできなかった事実。早くアリシアが帰化して結婚することだけが、彼にとっての楽しみで恐らくクリスマスが来る頃にはアリシアは彼の妻になる筈。
「アリー、今日は遅くなる?」
「いいえ、ハルが帰ってくるの待ってます。」
いってきますと微笑みかけると彼女は天使の微笑みで自分を見送り手をふってくれる。その姿を智春は鮮やかな一枚の写真のように記憶していた。
巡視を終えて夜空を見上げると、ほんのりと白いものが舞い降りて来るのが見える。今年初めての雪に智春は白い息を吐きながら、空を見上げた。アリシアは雪が降らない場所の生まれだから、きっと雪を見たら喜ぶに違いない。そんなことを考えながら夜空を見上げていた智春は不意に背後から人にぶつかられ思わず路面に倒れこんだ。戸惑いながら立ち上がろうとするのに、何故か足に力が入らない。しかも、何かがヌルヌルと腹の辺りを濡らしていく。
「許さない、お前が幸せになるなんて。」
思わずその言葉に智春は視線をあげ、その顔を見つめる。その顔は年を重ねていたが、見覚えのある顔だった。
「覚えてないだろうけどな…。」
「覚えてるさ、母さんを車で跳ねて逃げた男だ。赤い車でブレーキも踏まずに母さんを跳ねた。」
智春の言葉に男はぎょっとしたように目を見開いた。男はこうして話しかけたくせに、智春の方は自分を忘れていると決めつけていたのだ。
「忘れるもんか、赤信号で突っ込んできたくせに、俺を庇った母さんを跳ねて、スモークガラスの窓を下げて顔を出しただけで逃げてった。」
「嘘だ…。」
「嘘なもんか、一度だって忘れたことがない、鼈甲の眼鏡で頬に四つの黒子、黒髪、整髪料で押さえた短髪、浅黒い肌に顔に散ったソバカスとニキビの跡があった。」
記憶は鮮明すぎて嘘のつきようがない。なのに、それを目の前で告げられた男は戸惑うように後退り、智春の顔を恐ろしいものでも見るように見つめた。
「何で二十年も経ってて、そんなに覚えてんだよ、気持ち悪い。」
自分が言い出したくせに、あからさまに告げられて気持ち悪いとは酷い言い方じゃないか。しかも、二十年は経ってない、十七年だ。お前がしたことを相手が鮮明に覚えていたら、驚くだなんておかしな話だ。そういうお前だって今になって復讐のつもりかよと言うと、男は戸惑いながらお前が悪いんだと呟いた。
俺が悪いのは記憶したら忘れられないことくらいだ、犯罪はしていないと呟く智春をその場に置き去りにして男は再び駆け去っていく。
道路に倒れたまま空を見上げる智春の視界には、真綿のような白い雪が音もなく降り落ちてくる。先天性の力だと言われていたけど、綺麗なものだけ見ていられたら自分の生活は違っただろうか。アリシアみたいな綺麗な天使だけを見ていられたら、もっと穏やかで幸せな日々を遅れるのだろうか。白い雪は酷く綺麗で智春はそれを無意識の内に幾つも幾つも記憶に残していく。いつしか頭の中が真っ白な雪で埋め尽くされ、最初に記憶した汚いものを全て埋め尽くしてくれるような気がしていた。
※※※
カメラアイですか。
時々いるようですねと久保田が微笑む。自分の周りには見たことがないが、そんな特殊な能力がある人間にはそれなりの苦悩もありそうな気がする。それにしても嫌な記憶が消せないのは辛いことだ。
その人が綺麗なもので記憶を埋めたいと思う気持ちが分からなくもないですね。
そういうと久保田はそうですねと穏やかに微笑んでいた。
※※※
香坂智春は一風変わった人間だった。
自分が特殊な能力を持っていることに気がついて、それを自分の仕事に活用したと言うと珍しい事ではないように思える。しかし、それがカメラアイなら話は変わる。
カメラアイとは、簡単に言えば『まるでカメラのように、見たものを画像そのものとして覚えることが出来る』能力の事。ただし、この能力は先天性のもので、医学ではサヴァン症候群等ともされる。サヴァンという言葉で分かる通り、この能力を持つ人間は言語的な発達が遅い事があるという。つまり、カメラアイは実は原始的人間の能力の一つで、言語発達の未熟さをカバーして視覚が発達しているというわけだ。勿論言語的な発達には何も問題がない場合もあるし、智春は実際には幼いときは少し発語は遅かったらしいが会話には何の支障もない。
実は記憶する対象はカメラアイでも固有差があって、教科書をまるごと覚えられる者もいれば智春のように画像にだけ特殊な記憶能力を発揮する事の出来るタイプもいると言う。何でも全て記憶できるというわけではなく、画像に特に特化している智春の場合は文字や時刻表等の記憶力は普通と変わらない。
勿論先天性とはいえ、全く気がつかずに過ごせば普通の人間と変わらない能力しか発揮できない場合もある。人間の脳は二歳から十一歳迄に概ね成長するため、成人してからこの能力を持っていると発見したとしてもそこから能力を伸ばすことは難しい。そして、智春がそれに気がつくきっかけになったのは、七歳の時の交通事故だった。
目の前で車に跳ねられたのは香坂美雪、自分の母親。
けたたましい爆音をたてる赤い車体の車高の低く普通と違うマフラーをした車が、智春の母を撥ね飛ばして数メートル離れた場所で急ブレーキで停まった。運転席の黒い窓ガラスが音をたてて下がり、そこから乗り出すように顔を出した若い男の慌てた強ばった顔。母が彼を庇ってその車の前から突き飛ばした後に、路面に呆然と座り込んでいた智春はその顔を真っ直ぐに見つめた。
鼈甲の眼鏡、頬に四つの黒子、黒髪の整髪料で固めた短髪、浅黒い肌の色、顔に散る薄いソバカスの跡とニキビの跡。
智春は迷わずその男の顔と車と風景を、一枚の写真のように隈無く全て記憶した。そしてその車から男が降りてくることもなく、その場を急発進で立ち去るまでの一部始終を脳に記憶し続ける。
最初に智春が母を撥ね飛ばした男を見た覚えている、分かると警察に話した時、彼らは余りに具体的な七歳児の言葉を作り話と考えた。だから一つも智春の言葉を信用しなかったのだ。ところがその中で一人の刑事だけは、何故か智春の訴える言葉を信じてくれた。そして彼の話を事細やかに聞きだし、時には車の写真を取り出し問いかける。
「なぁ、僕、この車か?」
「違う、もっと背の低い車。」
「低いか、じゃこの車は?」
見せられた車とあの男が乗っていた車は全く違う。
「こんなに背が高くない。後ろに羽みたいのがついてるやつ。」
はっきりと言い切った言葉に相手は目を丸くして、智春の言ったように後ろに羽の着いた形の車の写真を何台か見せてくれる。この中にはよく似てる形の車もあるが、あの赤い車ではなかった。そう言うと刑事は車の前を指差す。
「じゃ、後ろにマークついてたか?こんなの?」
「これは違う、こっちのがついてた。」
形が違う車の前についているマークを指差す智春に、刑事は納得したみたいに頷く。そして、そのマークよりも下の白いプレートを指差した。
「ここに数字があったろう?覚えてないか?」
「覚えてる、最初が…。」
誰も信じなかったのにその刑事は、智春の言葉を一つも疑わずに信じて母を撥ね飛ばした車を見つけだしてくれた。そして、確かにその車の持ち主の家の若い次男の顔は、彼が鮮明に記憶したあの車の窓から覗いた顔の男だったのだ。黒子の位置もニキビの跡も一致する似顔絵を先に出していた刑事がいたことに、誰もが目を丸くしたらしい。
「智春の目はカメラだな。」
刑事は別れる時、智春に向かってそう言った。
「その目のお陰で悪い人が捕まったぞ、母さんに報告しな。」
「何で信じてくれたの?」
父に手を引かれてそう問いかけると、刑事は少し笑いながら同じような事の出来る人間を知ってるんだと言う。智春はその言葉を聞いて、自分以外にも同じようにカメラアイを持つ人間がいることを知った。特別ではないが珍しい能力だとそのあと自分でも調べもしたが、訓練も出来ると分かる。そして、智春はその目をそれから密かにずっと鍛え上げたのだ。智春の瞳は特に画像に関して特化した、完全なカメラアイになった。
鍛えなくても智春のカメラアイは十分発達していた、母の事故の光景は何時まで経っても赤い車の走る速度までナニも記憶の中では変わらない。それを繰り返し見続ける智春には、あの刑事の言葉だけが支えだった。
その目のお陰で悪い人が捕まった
そうして智春は大学を卒業したのち、兼ねてからの目標通り警察官になったのだった。能力を活用すればエリートにもなれたが、智春が選んだのは警視庁勤務ではなく地方警察官になって交番勤務から始めていくことだ。そう、誰かの身近で誰かを守る警察官になりたかった。
※※※
「香坂の記憶力すげえな、また手配犯見つけたんだって?」
同僚の声に智春は曖昧に微笑む。智春にとっては手配書を常時見て歩いているようなものだから、それは大したことではないのだ。それでも毎日のように新しい事件が起こり、新しい手配犯が現れる。世の中にはまるで悪人ばかり蔓延っているような気すらして、智春は次第に気が重くなっていくのを感じた。どんなに悪人を捕まえても、減ることのない毎日の事件。しかも、それを記憶した頭はそいつを捕まえたとしても記憶の消去ができないのだ。うんざりするほどの嫌になる手配犯の顔が、いつまでも記憶の中に積み重なって残っていく。人は忘れることが出来るから、まともに暮らせるのだと気がついた時にはすでに遅かった。
「また、窃盗犯捕まえたんだって?香坂。」
「たまたまです、目の前に居たんですよ。」
取り繕った笑顔でなんともないように言うが、出来ることなら捕まえた時点でこの頭の中の窃盗犯の顔を消去したい。警察官になって必死に今まで何百人と記憶してしまった悪人の顔を全て消せるなら、何でもしたいと正直なところ智春は思う。
あの刑事のように誰かを信じて救えるようになりたいと、刑事を目指したのに。
目標にした彼は警察官になった時には当の昔に殉職して二階級特進していて、自分は刑事になる目前に既に消えない記憶に頭が狂いかけている。休みの日だからと言って、仕事を離れていれば智春の頭の中の記憶が消え去る訳ではない。酒を飲んで酔っても、恐ろしいことに酔った自分の行動として記憶は鮮明に頭に残るのだ。溜め息をつきながら公園のベンチに座って、目を閉じる。
一番最初に頭に浮かぶのは車に撥ね飛ばされた母の姿。何度もそれは繰り返され、あの男が車の窓から強ばった顔を出す瞬間を見る。十七年近く経つと言うのに、頭の中では記憶は色褪せることもなくまるで今起きたことのように鮮明だ。
もう一度溜め息をつきながら頭を抱えている智春の足元に、不意に影が射した。
「具合悪い、ですか?」
その少し普通とイントネーションの違う言葉に、智春はふと大丈夫と言おうと視線をあげた。
目を上げた時そこに立っていたのは比喩でもなんでもなく、澄んだ空と同じ青い瞳をしたブロンドの髪の天使。乳白の象牙色の肌に、長い睫毛は長い髪と同じ色で日に透けて光り、唇は淡い薔薇色に艶やかだ。まるで作り物めいた完璧な造形、なのに目の前の彼女には確かに血が通っている。ポカーンとした智春に向かってその天使は、首を傾げ淡い極上の花のような微笑みを浮かべた。
「大丈夫?具合悪い、ですか?」
そう心配そうに話しかけた鈴のような声の天使。
今まで刑事になることだけを必死に考えて生きてきて、一度も恋をしたことのない智春は一目で恋に落ちていた。
カメラアイのメリットは何度でも写真を見るように細部まで物事を記憶しておけることだ。勿論それが智春のようにデメリットにもなりうるのだが、恋をした智春にはメリットにもなった。何時でも天使の花のような微笑みを見ることが出来る。彼女が持っていた紙袋にかかれていたのは、確か近郊の国際大学の名前だ。きっとあの辺りに住み始めたばかりの天使。繰り返し繰り返し天使の微笑みの事を思い浮かべると、背中に羽がついていないのが嘘のようだ。彼女は智春が大丈夫と告げると、そうですかと安堵したようにもう一度微笑んで立ち去っていた。あの時名前を聞けばよかった。
もう一度彼女に会えないだろうか、彼女の名前はなんだろうか
頭の中でそればかりを考える自分に苦笑する。あんなにも頭のなかが犯罪者の顔ばかりで一杯になっていたのに、今はたった一度の彼女の事ばかり考えて頭が一杯になっているのだ。
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「アリシア・クラークです。」
安堵したように天使は智春にそう告げて、智春に再び花のように微笑んだのだ。名前を知ってからというものの次第に天使と智春は仲良く話せるようになり、やがて一緒に休みには出掛けるようにまでなった。
アリシアという天使に出会った智春は、次第に彼女の容姿だけでなく人柄にも惹かれ始める。日本文化に興味をもって留学してきたアリシアは、勤勉で真面目な学生で色々な事に興味を持っていた。休みの日には智春は天使と一緒に浅草や日本庭園を歩く、その時に脳裏に残すのはアリシアの嬉しそうな顔ばかりだ。
「智春、あれはなんですか?」
「あれ?えーっと縁日って何て言うの?」
「えん、にち?」
浅草の寺の横に何時もいる縁日のような出店にアリシアは、青い瞳をキラキラさせて駆け寄っていく。慌てて彼女を追いかけると、露店商の七味を混ぜる見事な手際に吸い寄せられている。他の食べ物の露店商ではなく、七味の露店商に近寄る辺りがアリシアらしい。
「どれ、混ぜると一番辛い、です?」
「一味だけの方が辛いかもしんないね、混ぜると違う風味が変わるんだよ、別嬪さん。」
予想と違う露店商の説明にアリシアは目を丸くする。
「混ぜた方、辛くないですか?」
「混ぜかたもあるかね、生唐辛子に焼き唐辛子、芥子の実、粉山椒、黒胡麻、陳皮、麻の実何てのがここいらの基本だ。」
やげん堀の七味と言えば確かにその七つだが、最近は違う物も混ぜることがあるらしい。
「後はね紫蘇、海苔、生姜、これが基本の九つね、この内七つを混ぜるのが七味さ。最近は若いおねぇちゃんに受けるように柚やら蜜柑の皮、ニンニクなんちゅうのも人気だ。」
「入れ物、かわいいです、これ。」
「買ってやるよ、アリー。」
「ええ?ハル、悪いです。」
露店商が笑いながら男前の兄さんに買ってもらいなと、気っ風のいい声で七味を混ぜる。七味を何で食べるかは疑問だが、日本料理にも興味があるアリシアなら使いこなしそうだ。気に入った容器で買ってやった和紙のような模様に彼女はご機嫌で、智春の腕をとる。
「ハル、カメラアイ羨ましいです、こんな綺麗な世界ずっと見れる。」
彼女は自分の目のことを聞くと、そう告げた。
警察になってから忌まわしく感じていたはずの自分の能力を、そんな風に前向きに捕らえられるのはアリシアが天使だからだ。そんな風にして彼女と智春が恋人同士になるまでは、そう時間はかからなかった。
やがて二人は結婚を視野に二人で暮らすようになり、アリシアの国籍も帰化する手続きを始める。帰化してからの結婚の準備を粛々と進めていた矢先、アリシアと智春が二人で暮らすアパートにその手紙が届いたのだ。
『許さない。』
その言葉だけの手紙には消印も何もない。誰宛ともない手紙にかかれた文字に、アリシアは不安そうに智春の顔を見た。
「許さないは、It cannot be forgiven?」
「うん、そういう意味。」
周囲にそんな怒りに満ちた視線で二人を見る人間は、記憶の中にはいなかった筈だ。記憶を辿っても誰も二人を見ている視線が思い浮かばないのに、智春は溜め息混じりに嫌な悪戯だと呟く。
「悪戯?何故?」
「何でだろうね、アリーと仲良くしてるのに嫉妬したかな。」
手紙を握り捨てて、そう言いながら彼女を抱き締めると天使は擽ったそうに声をあげて笑った。智春は警察官としても人間としても、アリシアという天使のお陰で狂うこともなく穏やかに暮らしていけるのだと感じていた。幸せな記憶も積み重なっていけば、嫌な悪い記憶を消すことはできなくても遠ざけることはできると知ったのだ。これは、あの時アリシアと出会わなければ智春には知ることもできなかった事実。早くアリシアが帰化して結婚することだけが、彼にとっての楽しみで恐らくクリスマスが来る頃にはアリシアは彼の妻になる筈。
「アリー、今日は遅くなる?」
「いいえ、ハルが帰ってくるの待ってます。」
いってきますと微笑みかけると彼女は天使の微笑みで自分を見送り手をふってくれる。その姿を智春は鮮やかな一枚の写真のように記憶していた。
巡視を終えて夜空を見上げると、ほんのりと白いものが舞い降りて来るのが見える。今年初めての雪に智春は白い息を吐きながら、空を見上げた。アリシアは雪が降らない場所の生まれだから、きっと雪を見たら喜ぶに違いない。そんなことを考えながら夜空を見上げていた智春は不意に背後から人にぶつかられ思わず路面に倒れこんだ。戸惑いながら立ち上がろうとするのに、何故か足に力が入らない。しかも、何かがヌルヌルと腹の辺りを濡らしていく。
「許さない、お前が幸せになるなんて。」
思わずその言葉に智春は視線をあげ、その顔を見つめる。その顔は年を重ねていたが、見覚えのある顔だった。
「覚えてないだろうけどな…。」
「覚えてるさ、母さんを車で跳ねて逃げた男だ。赤い車でブレーキも踏まずに母さんを跳ねた。」
智春の言葉に男はぎょっとしたように目を見開いた。男はこうして話しかけたくせに、智春の方は自分を忘れていると決めつけていたのだ。
「忘れるもんか、赤信号で突っ込んできたくせに、俺を庇った母さんを跳ねて、スモークガラスの窓を下げて顔を出しただけで逃げてった。」
「嘘だ…。」
「嘘なもんか、一度だって忘れたことがない、鼈甲の眼鏡で頬に四つの黒子、黒髪、整髪料で押さえた短髪、浅黒い肌に顔に散ったソバカスとニキビの跡があった。」
記憶は鮮明すぎて嘘のつきようがない。なのに、それを目の前で告げられた男は戸惑うように後退り、智春の顔を恐ろしいものでも見るように見つめた。
「何で二十年も経ってて、そんなに覚えてんだよ、気持ち悪い。」
自分が言い出したくせに、あからさまに告げられて気持ち悪いとは酷い言い方じゃないか。しかも、二十年は経ってない、十七年だ。お前がしたことを相手が鮮明に覚えていたら、驚くだなんておかしな話だ。そういうお前だって今になって復讐のつもりかよと言うと、男は戸惑いながらお前が悪いんだと呟いた。
俺が悪いのは記憶したら忘れられないことくらいだ、犯罪はしていないと呟く智春をその場に置き去りにして男は再び駆け去っていく。
道路に倒れたまま空を見上げる智春の視界には、真綿のような白い雪が音もなく降り落ちてくる。先天性の力だと言われていたけど、綺麗なものだけ見ていられたら自分の生活は違っただろうか。アリシアみたいな綺麗な天使だけを見ていられたら、もっと穏やかで幸せな日々を遅れるのだろうか。白い雪は酷く綺麗で智春はそれを無意識の内に幾つも幾つも記憶に残していく。いつしか頭の中が真っ白な雪で埋め尽くされ、最初に記憶した汚いものを全て埋め尽くしてくれるような気がしていた。
※※※
カメラアイですか。
時々いるようですねと久保田が微笑む。自分の周りには見たことがないが、そんな特殊な能力がある人間にはそれなりの苦悩もありそうな気がする。それにしても嫌な記憶が消せないのは辛いことだ。
その人が綺麗なもので記憶を埋めたいと思う気持ちが分からなくもないですね。
そういうと久保田はそうですねと穏やかに微笑んでいた。
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トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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