鮮明な月

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間章 ソノサキの合間の話

間話102.眺めて見て

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本音を言えば、あの時されたことを忘れたわけではないし許せるわけでもない。

それでも相手が結果的には自分自身も薬の副作用で記憶障害を引き起こし、言葉も自由にならず手も足も自由に動かせない身体になってしまったのは、外崎了も榊仁聖経由だけでなく他の情報源から聞いて知ってはいる。その義理の弟に当たる邑上悠生が1人で邑上誠の世話をすると言い出したのを聞いて、これまで何も家事をしたこともないような歳の近い青年が障害を持つ邑上誠を世話するのだと言うのに少し同情の気持ちを抱いたのも事実だ。

まぁ結城晴並みのコミュ力お化けの仁聖が仲良くなるのは想定内だけど…………

こうして『茶樹』にまで連れてくる状態迄回復していると聞いて、少しだけ複雑な心境になったのは言うまでもない。外崎宏太が調教師として初めて他人の前で調教した相手で、しかもその後も宏太に何らかの感情を持っていたのはあの時の言動を聞けば誰だって分かる。後から宏太から聞いたけれど、宏太の技術的な師匠に当たる邑上祐市という男の…………これまた義理の弟という辺りが、邑上家の複雑な関係というやつのようだけれど……義弟だというからなんとも言いがたい。でも宏太が二番煎じと言い捨てていた誠から言わせれば、師匠の方が上と言いたいのだろうとは思う。

それなら、何で宏太だよ。

一番の兄が死んでしまったから宏太に執着していたんじゃないかと久保田惣一がこそっと教えてくれたけれども、宏太が知らなかったのか気にもかけていなかったのか、かなり邑上誠は宏太に対して敵対するような行動をとり続けていたらしい。あの事件の時に現場として使われていた店自体が宏太の経営していた《random face》に対抗していたらしいし、事実宏太があの怪我をおった後了自身がその店を知らずに利用していた訳だ。しかも了が一度警察に捕まったのは言うまでもなく邑上誠の店だったわけであって……もし宏太と交際していたらあの店に行くことなんか無かったのはさておき……どこまで宏太の交友関係を把握していたのか疑問はある。何故そんなことを言い出すのかって、それはあの店であの薬を了が余りにも簡単に入手できたからだ。

他の奴らは簡単には買えなかった…………

何度もあの店に通い売人と交流しないと買えない筈の『薬』を簡単に手に入れられたのは、あの時は自分が『成田了』だったからだと簡単に考えていた。それがもし宏太の知人だったからだとしたら?そうなるとあの薬の出本だった筈の進藤隆平と邑上誠は、どこまで計画の内にしていたんだろう。

気持ち悪い奴だよな…………死んだ筈なのに…………いつまでこんな…………

まるで進藤隆平が、今も闇の底からこっちを嘲笑しながら眺めている気がしてしまう。実際には了はあの男をみたのは、たった一度。宏太が進藤と独り直接対決をしたあの直後だけなのに、それでも鮮明にあの顔は闇の中に人の悪意を影のように身に纏い侮蔑の笑みを浮かべているような気がする。
まぁ、そんなことは今はさておきとして、『茶樹』にやってきた邑上誠は正直別人だった。勿論身体は憐れな程にげっそりと痩せてしまい、自分を羽交い締めにした時とは半分以下にしか見えない体格になっていたのは言うまでもない。それにげっそりと頬もこけてしまっていて人相も変わり、顔のパーツが同じだけの全く別人に見えてしまう。しかもその顔に浮かぶ戸惑い不安げな表情なんてものを浮かべるから、全くの他人としか思えない。そんな邑上誠が邑上悠生が押す車椅子に乗せられ、子供みたいな細く折れてしまいそうな身体を大層な防寒具にくるみ、時折不安そうに肩越しに悠生を見上げている。

「ゆぅき。」
「誠が好きなの選んでいいんだよ?どれがいい?」

これまで退院してから療養と保護のためという名目で自宅から一歩も出ることがなく、これが退院後初めての外出なのだという。手足の障害があり外には出られない療養生活なのは言うまでもない。ところが実際にはそれ以上に記憶をなくしているとは言え邑上誠の持つ筈の情報が、彼自身だけでなく世話をする悠生のことも危険にさらしているのだというのだ。だからこそ警察は責任能力もないと判断され公判を終えた邑上誠を、今でも第一級の保護対象として扱っているのだけど、流石に永遠に軟禁するわけにはいかなかったと苦い顔で風間祥太が不満を溢していた。

保護者になっている邑上の弟に噛みつかれた

そう苦い顔で風間は宏太に話していたが、邑上誠の店の常連客には政界やら警察幹部までいて、その情報を欲しがる人間は世の中には山程いるのだ。当人は記憶がなく全く気にもしていないのだろうが、記憶をなくしたまま死んでもらいたいと願う人間の方も山程いるというのが真実でもある。その保護対象がこんな風にノホホンと街中を出歩くのを、そう簡単に許可したくない風間の気持ちも分からないでもない。

「えらぶ……でも……たくさん、だから。」

こうしてみたら分かるけれど、あの事件の時の邪悪で腹黒そうな男は煙のように消えていて。ここに残ったのはまるで子供みたいな様子で、自分を世話する青年に頼りきりの弱い男にしか見えない。そんな子供のような邑上誠を見つめる邑上悠生の視線は、どうみても家族に向けているというよりは自分が宏太に向ける視線や仁聖が榊恭平を見つめる熱の籠った視線に見える。そしてそれに視線を返している邑上誠の視線も同様。

つまりはそういう仲だったか、なったかってことなんだろうな……

邑上誠は宏太の調教を受けた側の人間だから、恐らくは男女関係なく受け入れることが出来る身体の可能性はある。というよりはどちらかと言えば、男とする方が多いんじゃないかと了としては思う。方や悠生の方は余りそういう点では奔放には見えないが、今の熱の籠った視線は誠以上に熱を宿していて。

こうして世話していて惚れちゃったとか……、かね。

なんて事を勝手に想像するが、了としてはその判断は強ち間違ってはいないように思える。何しろ以前の腹黒の性悪な男に、あの若い純粋そうな悠生が添い遂げる気になるかと言われると即断で拒絶して添えな気もするから。

「1つじゃなくてもいいですよー?あ、果物系が好きなら今日のオススメはル・レクチェとリンゴのタルト。特製ル・レクチェコンポートのチーズスフレ。後、旬になり初めの早摘み苺まみれのフレーズ。葡萄と柿のオータムフルーツのアラモード。それに…………。」
「良二さん、それ普通に全部言ってるだけだし。」
「うちのは全部オススメなんでー。今回は少し小ぶりに作ってあるから、3個や4個は平気でしょ?」

巧みにセールストークを繰り広げる鈴徳良二の背中を眺めながら了はカウンターに頬杖をつき、店に入ってきた最初は戸惑いに青ざめていた邑上誠がキラキラした顔でケーキを眺めるのを見つめる。店内の奥に引っ込んだ自分のことを誠が見たかどうかは分からないが、少なくとも今目に見えている邑上誠は悪意の無い無垢な子供のようにしか見えない。そして現実的に障害をもつ誠は、その印象通りに変わってしまったのだ。

それを怒ってるとか…………無意味なんだろうな

そんな風に人を変えてしまう薬というのは、何なんだろうとは思う。自分だって興奮剤とか催淫剤とか言われて服用したけれど、服用してもそれほどの高揚感は無かった気がする。当時自分がやさぐれていたとはいえ、仁聖や恭平にはかえすがえすも申し訳ないことをした。それは勿論分かっているが、それでも後から恭平達にあの薬を飲んだ後どうだったのか、あえて了は聞いてもみている。これからの事もあるし、同時に自分が宏太と居続けると、どうしても進藤隆平の件は問題として浮き上がってくるからだ。
確かにあの薬には催淫剤のような効果があったようだが、恭平は余りその時の事を良く記憶していないという。仁聖の方も恭平はその後直ぐに眠って少し微熱っぽかったけれどと言葉を濁しはしたものの、それ程目立って欲情し続けた訳ではないようだ。

それにあの薬の殆どは、砂糖みたいな嵩増しだったらしい

あの薬には第一世代やら第二世代やらだけでなく分かっているだけで様々な種類があって、流通していた物によっては殆どが添加物だけだというモノもあるらしい。自分や恭平が服用したのが第何世代なのかは分からないし、実はあの奇妙な副作用を引き起こした成分が何なのかも未だに分かっていないという。どんなに発見された薬本体を分析して添加物であるものは成分が分かっても、何パーセントか不明の成分が検出されてしまう。それは有機物のようで蛋白質に近いとかなんとか言う話だが、そこら辺は薬理にも科学にも詳しくない了にはチンプンカンプンだ。
その最も濃い薬効を持つとされている試作品…………その訳の分からない成分が殆どを占めた可能性のあるプロトタイプを服用したのは三浦和希だけであって、それ以外の物は何百分の1とか何千分の1とか、もっと濃度が低いものすらあるらしいが、結局は模造品みたいなものなんだとか。そういう意味ではその程度のものだから、了達の障害はこれで済んだのかもしれない。ただ以前簡単に一時的な記憶障害を了が引き起こしたのは、あの薬が引き金の可能性は否定されていないのはここだけの話だ。そういう意味では年単位の記憶を失い障害の大きい邑上誠が服用していたものは、他のものよりはプロトタイプに近い可能性が高いのだろう。そして邑上誠の障害は似た状況になった被害者達より遥かに深刻で、三浦和希のように薬への適応力が低かった為だと風間は考えているようだ。

入院してから邑上は、どの時点かでプロトタイプに近いものを密かに飲んだ

邑上誠はプロトタイプに近いものを飲むと死ぬ可能性が高いと知っていて、あえてそれを病院に入院してから服用したのではないかと風間は考えている。確かに他の被害者が入院して1日かそこらで副反応を生じたのは、店で服用したり香として嗅いでいた薬が切れてしまったからだろう。そして邑上誠だけが一週間ずれて症状を表した理由は、それだと判断していて、しかもそれを持ち込み誠に渡した人間かいるとも考えているのだ。だとすれば誠が生き残ってしまったのは大きな誤算で、誠を殺そうとしている人間がいる可能性は捨てきれない。何しろ邑上誠の動かしていた販売ルートは潰せたが、製造の大元は結局みつからないままで、それらは未だに完全に確保されたわけではなく闇に消えたままなのだ。

「…………後はぁ、濃厚チョコレートのガトーフレーズ。キャラメルとオレンジの風味が漂うムース・オ・キャラメルオランジュ。後雪のように白いチーズクリームのロールケーキ。」
「いや、本当に全部言ってますよね?」

どうやらショーケースの中を全てオススメされているらしく悠生が苦笑いして言うのに、良二は胸を張って全部一個ずつでもいいよなんて事を言い出す。そして見た目では分からないが大食漢の良二であれば
確かに全種類一個ずつ10種類程度の制覇は可能だったりもする。その10種全てを作っているのが自分だと言うことはさておきだ。

「そして最近人気の『茶樹』シェフ特製プリン!昼過ぎには売れ切れる可能性高い一品でーす。他のケーキは兎も角、このプリンはちょっと手間がかかっちゃうから追加では作んないんでー。」
「あ、超絶おもてなしプリン!!俺も買って帰る!良二さん、4個お願いしまーす!」
「ちょ…………?プリン?」
「誠さん、ケーキと一緒に買って帰りなよ!凄いんだから、このプリン。」

途轍もなく生まれてこの方比べようがないくらい旨いプリンだよ!と仁聖から説明された邑上誠が、ファア!!と興味津々の子供の顔をしている。それを眺めて了は1つだけ深い溜め息をつきながら、事件の時の邑上誠はもうこの世にはいないと思うべきなのだろうなと物憂げに思う。気になることは山のようにあって、以前の邑上誠だけが知っていたことも山のようにあるけれど、もうそれを聞き出せる相手ではない。風間が宏太に話していたのを聞いたけれど、特に自分の店に関する記憶は集中したように完璧に失われてしまっているらしく、邑上誠がハッキリと記憶しているのは20年前迄のまだ悪事に手を染める前の自分の事とこれまで育ててきたという邑上悠生の事だけ。実質血の繋がりもない物心もつかない年の義弟を引き取り、何故か十何年も邑上誠は育ててきていたのらしい。

でもまぁ育ててきた子供の事は思い出したのは、何よりだよな…………

自分の世話をする人間を他人と誤認したままだなんて、自分も相手も不幸だと了は思う。少なくとも邑上誠が悠生を大切にしていたらしいのは話だけでも何となく分かるし、だからこそ悠生の方も誠を1人で世話すなんて無謀な宣言をしたのだろうし。それならあの誠の視線に変わった意味も分からなくないと、物憂げな顔で了は独り子供のようにケーキを眺める男の姿を眺めていたのだった。
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