鮮明な月

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間章 ソノサキの合間の話

間話82.悲しい恋の行方6

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祐市が食事を作っている姿を安堵の気分で眺めながら、いつの間にか邑上誠はウトウトと微睡みに落ちていた。こんな風に微睡み眠り込んでも何ともない、市玄はここに自分を躾に来ることがないと、誠自身が信じ始めていて祐市の傍にいる暮らしに安心しきっている証拠でもある。嫌な夢も見ないし、嫌なことは何も起こらない。そんな安堵にふと瞼の裏側に人影がたったのが、室内の光を遮る明暗で感じる。コトコトと何かを引き寄せる影の体温と柑橘のような香りがして、祐市がいつの間にか傍に来ていたのだと気がつく。フゥワリとした出汁の香りもしているから、食欲がないと断ったけれど何か一口でもと食事を作って持ってきたのかもしれない。

…………目を覚ますタイミングを逃した…………

よくあることかもしれないが、来た瞬間に目を開けば良かったのだけどそのタイミングを逃してしまったのだ。そっと物音をたてないよう傍に腰かけた祐市が、じっと自分を見つめているのを肌に感じて尚更困ったことに身動きが取れなくなる。今の祐市なら目を覚ましても何も言わないだろうし、以前のように寝ている(そのうち半分以上が意識を失っていたという辺りが、誠がこれ迄にどんな境遇にあったか分かりやすいだろうとは思う。)からと冷水を頭から被せられることもない筈だ。だから直ぐ目を開けばいいのに、何故か緊張しているみたいにガッチリと身体が凍りついて身動きが出来ない。
スルリと柔らかな感触が額に触れ、髪の毛をすき、頬に触れていく。
その暖かな柔らかな感触が、瞼の向こうの祐市の指だと気がついてしまったら誠は尚更不思議な気分になってしまう。まるで恋人とか我が子とか…………大事な人にするような優しく柔らかな仕草。そんな風にして自分に触れる祐市に、またチリチリと頭の中で違和感が膨れ上がってしまう。祐市は自分を物のように扱うことはあっても、こんな風に優しく労るように撫でたりしない。駄目だ、考えるなと頭の中で必死に呟くけれど、その指の動きの意味を問いかけたくなってしまう。

自分のことをどう思っているの?祐市

誠の記憶の中の祐市は、どんなに自分が想いを寄せても決して振り向く筈のないことがハッキリ分かっている相手だった。何しろ誠は祐市の劣化版にすらなれなかった出来損ないの失敗作。手解きをされて技術だけはなんとか身に付けたけれども、カリスマ性もなければ魅惑するものもない愚物。そしてもし祐市と同じく調教師として誠が過去にスタートできたとしても、自分は結局は祐市を惹き付けることは永遠にない。

あぁ何故こんなことを思い出そうとしているんだろう。

過去は確かにそうだった。誠は何も出来ないお荷物でしかなかったが、祐市が同じ境遇で市玄に買われた誠を哀れに思ってくれたから助けて貰えたのだ。他にも何人も市玄が壊した人間はいるのに、誠だけが市玄に助けて貰えたのは境遇と記述を教えたのが祐市で少しだけ他の人間より祐市との関係性が埋まれていたからに過ぎない。

分かってる、そんなことは

でも助けてくれた相手に誠が惚れてもおかしくない。誰も助けれくれなかったのだし、傷つけられるのが役割になってしまった自分は壊れてしまえばそこまで。壊れてしまった別な同胞達が、その後どうなったか知らない筈がないだろう?自分がああなりたくなかったら、祐市に調教されてそれを快楽なのだと覚え込むしかない。そして見世物になる自分を市玄が、もう少し飼ってやってもいいと思わせるしかないのだ。この狂った世界の中で、助けれくれるのは祐市だけと刷り込まれて、誠には逃げ道がないのだから依存してもおかしくない。

調教師になれれば誠玄と名付けてやったがな

そう笑いながら首に縄をかけられ引き摺られ、真っ赤に鬱血した顔のままいたぶられるしかない世界。その中で光明になったのは祐市唯一人で誠がペットに成り下がっても、祐市との肉体の関係は重ねられていたし更に深い快楽も教え込まれていた。そわな相手を欲しくなっても、誰も誠を引き留めない。何しろ引き留める筈の立場が存在しないし、お互いに闇に引きずり込まれた存在なのも変えようがないのだから。そして、そのせいで密かに誠の傍にはあの悪魔がやってきて、計画は実行されてしまった。そうして望まない結果を悪魔はほくそ笑みながら誠に突きつけてきたのだ。

嫌だ、もう思い出したくない…………っ

その記憶を無意識に闇の底か引き出そうとしてしまう前に、誠は思考を無理矢理断ち切り手を伸ばしてくる闇を振り払う。今の祐市は疑うことなく自分のためだけに、ここにいてくれる。他には誰も来ないこの場所で自分にだけ優しく微笑んでくれて、甲斐甲斐しく愛する人にするみたいに誠の世話をしてくれているのに。

それを密かにアイツが他の女にしてたのを、お前が知ってるからだ

唐突に頭の中の冷淡な自分の声が自分に告げたのに、心がギシリと嫌な軋みをあげたのが聞こえている。
大きな大脳の障害、頭に何か問題があって記憶を失くし、手足も上手く動かない。そう目覚めた時に医者は誠に向かって言った。
大脳の前方から広がり、かなり広範囲に及ぶ誠の障害。
今の誠の大脳の記憶領域は、部分的にしか機能していないから機能している部分にある記憶が断片的に再生されてしまう状態なのだ。記憶と記憶の脱落で時系列が繋げないから期間的に失っている記憶の部分に回路は繋がらないし、その陸の孤島になっている辺りの記憶がもし無事でも再生することも出来ない。そして手足の運動を指示する領域も部分的に機能しないから、手足が思うように動かせない。脊髄とかではなく大脳、動かす回路が壊れているわけではなく、電気信号を送るための司令塔が壊れている。しかも被害の範囲が広すぎて、他にどんな障害が潜んでいるかはまだ全てハッキリ分からない。たぶん今の誠がどんなに計算しようとしても、数字というものが上手く理解できないのもその障害の一つだ。過去に計算関係は得意で店舗を経営していた筈なのに(これは警察がそう自分に問い掛けたことなので、誠自身に何か店舗を経営した記憶があるわけではないけれど)、今の誠はそれに関したことが何一つ自由に出来ない。

だから、どれくらい時間が経っているとか、今が何時なのかとか

まだ祐市は気がついていないことだけれど、どんなにテレビや新聞を読んで日付を見ていても、今が何年の何月何日あるのか分からない。自分にどこまで期間の記憶があって、どれくらいの期間の意識がなかったのかを逆算することが出来ないでいる。これでもし街中とかに出歩けるようだったら、周囲の服装や何かでも少しは歳月を判別できそうだけれど、足が不自由でまだ外を出歩かない誠にはそれも無理だ。

そして、この声…………この声が問題

ここで過ごしている内に気がついたが、時折この頭の中の冷ややかな声が勝手に話し出すのを経験している。でもこの声が聞こえるのは自分の頭の中だけだし、どう聞いても自分自身の声だ。つまりこれは障害と言う闇に分断された大脳にある、今の自分よりもずっと先を生きていた自分…………そんな気がしてしまう。警察が欲しがっているものを知っている、もう一人の自分。何かスイッチが入れば勝手に話し出してしまいそうな、底知れない暗い深い悪意のあるもう一人の自分の存在。そんなものがいるのを祐市に気がつかれたら、祐市は怖がって自分を捨ててしまうかもしれない。そしてその悪意の声は、自分が今は知りたくないことを残酷に告げてくるのだ。

祐市が…………他の女に…………甲斐甲斐しく世話を…………

していたと冷ややかな悪意の声が呟く。何故それを知っているのかと思うけれど、それを追求するのは今は酷く不安で仕方がない。何しろそこはブラックボックスの底の底にあるから、底にたどり着くまでに他に何を思い出すか分からないのだ。
そんなことを閉じた瞼の裏で考えていた誠は、不意に瞼の向こうの影の体温が更に傍に寄ったのに気がつく。とても近くて熱が触れそうな感覚で近寄る。

………………祐市?

フワリと強く香る涼やかな柑橘の匂い。そんな香りを普段からつけていたのかと驚くくらい、ハッキリとした匂いが誠の直ぐ傍にいて。頬に触れたままの指先のうち拇指一本がなぞるようにそっと誠の唇を擦り、その直後に更に一際柔らかく滑らかな感触が唇に押し当てられていた。
一瞬何が押し付けられたのか分からずに、思わず混乱で震え上がりそうになる。
これ迄に何度も祐市に奉仕を強いられ唇を抉じ開けられ怒張を喉まで捩じ込まれるのが、これ迄の祐市と誠の普通だったから。だから眠っているとはいえ、その昔のルールが突然に再開されたのかと震え上がりそうになったのだ。でもその触れたものは、怒張のような火傷するような嫌な熱さを持たない。柔らかくホンノリと暖かく、そして微かに緊張で震えていたのに気づいて、それが祐市の唇なのだと閉じた瞼の裏で誠は知った。

口で奉仕するために押し付けられる……怒張ではなく…………キス……?

跪かされて無理矢理に捩じ込まれ口で奉仕することを教え込まれた時の、最初に唇に押し付けられた祐市の怒張の先端の滑らかさや灼熱のような熱さは忘れられない。それでもそれが祐市のもので、それ以外も最初の全ては祐市がしてくれたのだけは感謝している。口も手も、肛門を開かれるのですら、全て祐市が調教師として手慣れた仕事としてやってくれた。お陰でその後に市玄にどんなに酷いことを重ねられても、最初に経験した怒張の肉感や熱を質量……全て祐市のものだけが誠の中には鮮明に刻み込まれたままだからだ。

でも、これは違う…………でも、なんで?

どうしようと思わず頭の中で呟いたのは、誠は祐市とはこれ迄に一度も唇を重ねたことがないからだ。誠自身が他の誰かとは散々キスをしても、祐市とは一度もしたことがないし、祐市は調教師だから性奴隷とはキスをしない。躾る対象の相手とは絶対にキスはしないし、そこを線引きにする職業調教師はわりと多いものだ。相手に口で奉仕をさせるのは当然でも、自らの口は命令や躾以外には使わないのだとか。だから調教師になれないと判断された誠は、調教師になるためのテストが終わって失敗作と判定された途端に真っ先に口から犯された。

祐市……が、僕に…………

お陰でまた激しく混乱してしまう。こんなことを何でするの?と目開けて聞けばいいだけなのだろうけれど、寝たふりをしてしまった誠は目を開くことも出来ない。それに同時にこんな事が起きる筈がないとどうしても思うし、ここまで自分のために尽くしてくれるようになった祐市の変容にも何が起きたのだろうかと考えてしまう。祐市があれほどまでハッキリと父親が来ないと断言できる理由が、祐市のこの変化の原因なのだろうか。

そうさ、お前が殺したんだから……

不意に冷淡な声が呟くのが、カチリと頭に嵌まった。無くしていたパズルのピースが嵌まるように、記憶の欠落部分が埋まる感覚。医者は脱落し使えなくなっている場所を迂回して使いたい場所に血流が流れることが出来たら、もしかしたら失った機能が使える可能性もあると言っていた。脳梗塞や脳出血の患者がリハビリで再度歩けるようになるのは、元々の機能が回復したのではなく脳が迂回路を作り出せた結果なのだと言う。病気で使えなくなったAの回路ではなく、そこを迂回するBの回路を使って機能を司る場所を動かす。それがリハビリということなのだそうだ。だから、そのための回路を作るため、他動的でも自力でもいいから身体を動かそうと意識することが必要なのだと言う。

殺した…………殺した?…………殺した

あぁ、自分はやっと市玄を殺したのかと、至極真っ当な感覚でストンと納得した。それなら病院に警察が来たのも納得できたし、祐市がこんなにも自分に優しいのも疑問もなく理解できる。しかも義理の父親を殺して殺人犯になったのだといわれても、誠自身が微塵も後悔すら感じない。それで今こうしてこの穏やかな空気の中で、2人で過ごせているのかと逆に納得して安堵したくらいだ。それよりも誠が混乱して困惑しているこの祐市のキスの意味が、まるで分からないことの方がよっぽど問題だ。流石に市玄を殺してくれたから感謝して、その感謝でこんなキスをする程なんて事、祐市にはあり得ない。

全部…………思い出したら……分かる?

でも、出来たら今の誠は手足は流石に元に戻したいけれど、記憶は何一つ戻って欲しくないと思っている。勝手なことだけれど記憶が戻ってしまったら、何かこれ以上は思い出したくないモノまで戻ってきてしまいそうな気がしてしまうのだ。
やがて触れていた柔らかな唇が離れて、暫く自分を見つめている視線を感じる。

「…………誠…………。」

微かな低い囁き。何か自分に問い掛けたいのか、何かを伝えたいのだろうか。今寝ていると思っているまま、祐市が言葉にしてくれたらいい。それが少しでも理解できたらと誠だって思うけれど、祐市はそれ以上は何も今は口にしない。そっと優しく髪をすいて頬を撫ででいるだけで、本当に何も言おうとしないままなのだった。
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