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間章 ソノサキの合間の話
間話58.件2
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淫らな吐息。真っ白く浮き立つような陶器にも似た肌と誘いかけるように甘く喘ぐ声につられて、無造作に筋を浮き立たせていきり立つ怒張を露にする。組み敷かれて四つん這いにさせられ後ろから一気に逸物を捩じ込まれようとしてるのが、実は女ではなく男だと言うが信じられない。欲望を誘う柔らかく丸みを帯びた珠のような尻の合間に、まるで女性器のようにひくつきながら埋め込まれるのを待ち構える菊華のようなすぼまり。
こんなイヤらしくて、エロい…………
その穴を見ているだけでゴクリと喉が音を立てていて、空気にさらした逸物はまるで鋼のように固く張り詰め先端から涎のように先走りを滲ませる。
何でだ…………
こんな自体になるなんて思っていなかったのだ。何しろ自分は決して同性愛者ではないしこれまで交際したのも全て女性で、しかもこれから結婚を前提に交際を考えてやろうと言う恋人候補だっている。それなのに何故こうして男の尻を前に興奮し、男とやろうなんて思っているのか。
※※※
事の始まりは随分前に知り合いだった男からの、突然の連絡だった。暫くその男とは全く連絡がとれなくなっていて、自分としてはその男とはもう縁が切れたのだと何処かホッとしてすらいたのだ。何しろその男との始まりは、とある殺人犯が切っ掛けだと言える。
自分の性癖というか、男なのだから女を従わせるというものに憧れるのは本能だ。
かといって自分から例えば女を見繕うなんて技があるわけでもないし、金もない。そんな自分がそう言う知識や欲望を満たすのに、ネットワークというやつはとても有効なツールだった。そして同じ様に考える人間は山程いたのだろうから、その嗜好で集まるための場所が産み出され、そこには似たような人間が集まる。そういう中でも特に気が合う輩と群れるようになり、その中にあの男がいた。
矢根尾俊一
最近ではソイツの知り合いだったなんて口が裂けても言えないが、昔はその男の口車に乗せられ酷いことをさせられてしまったとは思う。あの男の飼っていた女子高生を何度も仲間と回したこともあるし、他にもOLを回して写真を撮って脅したこともある。最低最悪だと思われるかもしれないが、あの男が自分の所有する雌奴隷だから平気だと言ったからだ。そうでなかったら、そんなことはしなかった。誓っても言えるが、そうだと言われたから自分は加わっただけの被害者なんだ。
それでも矢根尾が元妻だったという女性を(その元妻ですら矢根尾は雌奴隷として躾たと豪語していて、昔はチャットをしながら足元でフェラチオしているなんて話してすらいたのだ。)執拗にストーカーしていて。その今では他の男と結婚して大金持ちになっていたらしい元妻を街の中追い回し、竹林に追い詰めて殺して埋めた殺人犯として逮捕された。それをニュースで知って、自分はそっちの関係からはその日限りでスッパリ手を切った。
俺はマトモに暮らさないと
だから矢根尾とよくつるんでいた仲間とも縁を切って、それまでは適当にしていた就職先も必死に探した。既に三十過ぎての就職活動はかなり難しかったが、それでも死に物狂いでやってやったから、何とか勤め先も見つかり落ち着き始めたは今年の春になってからの事だ。勤め先は自分としては全く好きでもない仕事ではあったけれど、一見普通に暮らしているように見えるのが何よりも最善であることは矢根尾を見てきたからよく分かっている。
『久しぶり。元気か?』
それなのに連絡を絶った筈の男から、そう連絡がきたのがつい先日の事。去年交通事故で入院した後に暫く自分でもおかしくなっていた時期があって、それから全く連絡を取らず縁を切った筈の貞友晴一からの連絡に自分は戸惑うしかなかった。
「あ、あぁ、久しぶり………。」
電話口の声は酷く遠くて、耳を澄ましてもハッキリしない。それにしてもコイツの声はこんな声だったのだろうかと不安に思うほど、掠れて聞き取りにくい声で。そして電話の向こうで、貞友が低く笑うのが聞こえる。
『なぁ、矢根尾さんのこと覚えているか?』
ゾワリと背筋が寒くなるのは仕方がない。何しろ自分は矢根尾のことを意図して忘れておこうと必死なのに、まるで忘れるのが罪のように今更貞友は矢根尾の名前を出してくる。何故か貞友は矢根尾のことを師匠のように慕い続けていて、矢根尾がする事なす事リスペクトしまくりだった。矢根尾が奴隷だと言えば疑いもしなかったし、矢根尾がこれを喜ぶように躾ていると言えば疑いもなく女を虐待したものだ。そして矢根尾が殺人犯として逮捕されても、それはどことなく変わらなかった気がする。
「あ、えっと、悪い……電話……聞き取れなくって…………。」
電話口が遠いのを幸いと貞友の問いかけを聞こえなかったふりをして答えを濁し、そのまま電話を切ってしまおうと耳元から遠退ける。そしてそのまま電話を切ろうとした瞬間、これまで遠かった筈の電話口の声がまるで耳元で怒鳴り付けたように大きく響き渡っていた。
『よって!!!件の如しぃ!!!』
切ろうとした瞬間の罵声に思わず指が凍りつき、そのまま狂ったように笑い続ける貞友の声が耳に突き刺さっていた。延々と狂気のように笑い続ける貞友の声だけが、夜の闇の帳に響き渡っていく。こんな男ではなかった筈なのに、自分の知らぬ間に相手は全く別な生き物にでもなってしまったかのようだ。そう、それこそ次第に落ちぶれ変容していった矢根尾俊一みたいに。
最初はわりと顔の整った痩せぎすの男だったのに、交流のあった最後の数年の内に矢根尾は別人のように醜く変容した。その辺かは実は中年太りとか言う変化では表現が足りないのだというのに、最近になって気が付いたのだ。と言うのも矢根尾が逮捕されて社会にニュースとして出された写真は高校生の頃のもので、実は出会ったばかりの矢根尾と大差がなかったと思う。ところが記憶の中の最近の矢根尾は一回りでは済まない程に肥え、しかも顔も崩れんばかりに膨らんでいて。
まるで風船みたいに膨らんでいて
何かの卵のように丸い男だった。しかも何度も聞いていたし、公衆浴場なんかでも一緒に過ごしたこともあるから体重までも知っている。矢根尾は高校の時から体重は変わらないと話していたし、重さだけは確かに増えていない。そしてあの独特の奥歯を噛みしめ歯を剥き出して笑う仕草。まるで牛のように歯を剥き出し笑う矢根尾の笑いが、闇の中に浮かんでいる気がするくらいだ。そして、貞友が放った言葉が何の意味なのか自分には全く分からないのに、背筋が凍ったままなのも変わらない。それでも何故か聞いてはいけないものを聞いてしまった気がして、自分は何時までも立ち尽くしていたのだった。
それからだ。
自分の周りで変化が起きたのは。これまでは何とか上手く回っていた筈のものが、何かがずれて噛み合わなくなっていく。上手く馴染めていた筈の仕事で大きなミスをして始末書では済まないと怒鳴り散らされ、告白された筈の女には愛想笑いでその話しは無かったことにと逃げられた。
そして、何かが臭う
時に鼻につくような異臭がして振り返る。それでもその異臭の元は探せなくて、戸惑いながら何度も辺りを見渡す。それが一体何の臭いなのか分からないが、何処かで嗅いだ記憶があって不安感が増していく。そして次第にそれが近づいて来ていて、ジリジリと自分を追い詰めていく気がするのだ。そして気が付けば、何もかもが悪い方向に向かい始めていた。
※※※
シトシトと突然の雨が振りだしていて、仕事帰りの茂木公太の肩を冷たく濡らし始めていた。夏が終わり雨降りのせいで気温は軒並み下がり始め、濡れていく身体が冷えていく。普段なら雨宿りでもして酒でも飲む勢いだろうが、ここ数日の自分の不運続きではそんな気分にすらなれない。
間違ってなんかなかった筈なのに……
発注した商品飲桁が違うと連絡が来たのは一昨日のことで、何をやっているんだと上司から叱責されたのは昨日だ。でも元々その発注は自分が書いたのは事実だけれど、その後上司を経由する筈のものだった。経由する筈と言ったのは現実にはその上司を経由しないで発注になってしまったからであって、上司はこちらが渡してこなかったから見なかったのだと自分がちゃんと確認しなかったのを棚にあげてこちらを責め立てる。
いや、自分が書き足したんじゃないのか?自分のところを通らなかったことにして
そんな風にすら思ってしまった有り様だが、その思いが態度に出てしまったのか上司の怒りは中々収まらなかった。そしてその余剰分を他の業者に委託できたのは、自分の働きのお陰だから感謝しろという有り様だ。そんなの、誰だって余剰分を買い取れる場所を探せばいいだけの事だろ。何を偉そうに……その感情が少しでも顔に出てしまったのか、お前は何時もそうだと更なる八つ当たりが始まって。取引先の相手の担当者・狭山なんとかと、もう1つの相手先の村瀬なんとかが上手く回してくれた事に感謝しろとかなんとか。
だからなんだってんだ
たかが余剰分文房具の買い取り程度だろ。そうなんだ、家具とか食品とかならどうかと思うだろうが、たかが文房具なのだからそんなに目くじら立てるようなことじゃないと思わないか。こっちは慣れない仕事に必死になってきたのに、こんな風に叱責されてばかりじゃやりきれない。ただでさえ他の新卒者より一回り近く歳が上で疎外感があるのに、歳が近い方の上司がこれではと苛立ちを感じてしまう。
それにしてもシトシトと降り続ける雨のせいでスッカリ身体は濡れてしまい、冷えきった身体を温めるにはどうしたものかと思う。ふと視線の先に自販機が目に入ったけれど実は去年の交通事故の理由は自販機で、自分はトラウマで自販機に近寄ることができないのだった。
温かいものでも買えりゃ……
そう眺めるけれど目の前の人工灯に、どうしても近づくことができない。コンビニでもあればいいのだろうが、ここから暫くコンビニも存在しないのは分かりきっているから自分は深い溜め息をつく。
「お金細かいの無いの?」
不意に背後からかけられた掠れるハスキーな声に、自分は一瞬それが誰にかけられたか分からない。言うまでもなく自販機を眺めて立ち尽くしていた自分の背中に向かってかけられた言葉で、そしてスルッと自分の横を僅かに背の低い華奢な身体が自分と同じに濡れそぼって通りすぎたのを見つめていた。
チャリンチャリン・ガションというあの定番の音を立てて、自販機から何かが排出されたのを遠目に聞く。そしてその華奢な身体をした人物は排出されたものを片手に歩み寄ると、自分に向かって温かなココアを差し出した。
「はい。あげる。」
子供じゃあるまいしココアなんてとは思うけれど、それは完璧に相手の好意であって思わず暗がりの中その相手の事をじっと見つめてしまう。一目で男だと分かる相手なのに、何故か視線が引き寄せられて穴が空く程に見つめてしまうのだ。
自分のことを僅かに見上げた相手の水滴が乗る程長い睫毛に濡れた瞳。整った女と見間違えてしまうほど綺麗な顔立ちをして、柔らかく色気のある唇、ホッソリとした首筋に差し出された折れてしまいそうな手首。こちらが戸惑っていると、相手はその手を伸ばしてきて自分の手をとると熱いほどのココアの缶を掌に乗せる。
「はい。」
そうしてさっさと自分から離れようとした相手の細い手首を、何故かつかんで引き留めたのはこちらの方だった。
これが運命だなんてとは思うが、相手はどう見ても男だ。男なのに雨に濡れたその姿には、ムラムラと本能を刺激する何かがあって無意識にその身体を舐め回すように見つめてしまう。その視線の意味を相手は最初から知っているように、自分の目の前でスウッと色っぽく目を細めて見せる。ゴクリと暗闇の中で喉が音を立てているのを聞いて相手は手首を掴まれたまま、目の前に立ち尽くし身動ぎもしない。
「…………ぬ、濡れたままじゃ…………風邪引く…………。」
そんな陳腐なセリフしか出てこないのは情けないが、動き出すための理由が必要で足を動かそうとしながら顔を巡らせたその瞬間、何故か酷く鼻を突く臭いに自分は顔をしかめてしまった。溝のようなすえた悪臭が鼻をついて、それがどこから臭うのか闇の中に沈む周囲を見渡す。
どこで嗅いだんだっけ……この臭い……何度か……
頭の中がそう呟くのを聞きながら、何故か闇の奥底にここにはいない筈のあの独特の笑い方をする男が立ち尽くしているのを想像してしまっていた。こちらからは見えない暗く陰った場所に、奥歯を噛みしめ歯を剥き出して笑う男が立ち尽くしている。その時フッとそうだと頭の奥が呟く。
そうだ……これ、矢根尾さんの…………
最後に崩れかけた身体を引きずるようにして出会った矢根尾が口とは言わず、全身から垂れ流すように放っていた臭い。
こんなイヤらしくて、エロい…………
その穴を見ているだけでゴクリと喉が音を立てていて、空気にさらした逸物はまるで鋼のように固く張り詰め先端から涎のように先走りを滲ませる。
何でだ…………
こんな自体になるなんて思っていなかったのだ。何しろ自分は決して同性愛者ではないしこれまで交際したのも全て女性で、しかもこれから結婚を前提に交際を考えてやろうと言う恋人候補だっている。それなのに何故こうして男の尻を前に興奮し、男とやろうなんて思っているのか。
※※※
事の始まりは随分前に知り合いだった男からの、突然の連絡だった。暫くその男とは全く連絡がとれなくなっていて、自分としてはその男とはもう縁が切れたのだと何処かホッとしてすらいたのだ。何しろその男との始まりは、とある殺人犯が切っ掛けだと言える。
自分の性癖というか、男なのだから女を従わせるというものに憧れるのは本能だ。
かといって自分から例えば女を見繕うなんて技があるわけでもないし、金もない。そんな自分がそう言う知識や欲望を満たすのに、ネットワークというやつはとても有効なツールだった。そして同じ様に考える人間は山程いたのだろうから、その嗜好で集まるための場所が産み出され、そこには似たような人間が集まる。そういう中でも特に気が合う輩と群れるようになり、その中にあの男がいた。
矢根尾俊一
最近ではソイツの知り合いだったなんて口が裂けても言えないが、昔はその男の口車に乗せられ酷いことをさせられてしまったとは思う。あの男の飼っていた女子高生を何度も仲間と回したこともあるし、他にもOLを回して写真を撮って脅したこともある。最低最悪だと思われるかもしれないが、あの男が自分の所有する雌奴隷だから平気だと言ったからだ。そうでなかったら、そんなことはしなかった。誓っても言えるが、そうだと言われたから自分は加わっただけの被害者なんだ。
それでも矢根尾が元妻だったという女性を(その元妻ですら矢根尾は雌奴隷として躾たと豪語していて、昔はチャットをしながら足元でフェラチオしているなんて話してすらいたのだ。)執拗にストーカーしていて。その今では他の男と結婚して大金持ちになっていたらしい元妻を街の中追い回し、竹林に追い詰めて殺して埋めた殺人犯として逮捕された。それをニュースで知って、自分はそっちの関係からはその日限りでスッパリ手を切った。
俺はマトモに暮らさないと
だから矢根尾とよくつるんでいた仲間とも縁を切って、それまでは適当にしていた就職先も必死に探した。既に三十過ぎての就職活動はかなり難しかったが、それでも死に物狂いでやってやったから、何とか勤め先も見つかり落ち着き始めたは今年の春になってからの事だ。勤め先は自分としては全く好きでもない仕事ではあったけれど、一見普通に暮らしているように見えるのが何よりも最善であることは矢根尾を見てきたからよく分かっている。
『久しぶり。元気か?』
それなのに連絡を絶った筈の男から、そう連絡がきたのがつい先日の事。去年交通事故で入院した後に暫く自分でもおかしくなっていた時期があって、それから全く連絡を取らず縁を切った筈の貞友晴一からの連絡に自分は戸惑うしかなかった。
「あ、あぁ、久しぶり………。」
電話口の声は酷く遠くて、耳を澄ましてもハッキリしない。それにしてもコイツの声はこんな声だったのだろうかと不安に思うほど、掠れて聞き取りにくい声で。そして電話の向こうで、貞友が低く笑うのが聞こえる。
『なぁ、矢根尾さんのこと覚えているか?』
ゾワリと背筋が寒くなるのは仕方がない。何しろ自分は矢根尾のことを意図して忘れておこうと必死なのに、まるで忘れるのが罪のように今更貞友は矢根尾の名前を出してくる。何故か貞友は矢根尾のことを師匠のように慕い続けていて、矢根尾がする事なす事リスペクトしまくりだった。矢根尾が奴隷だと言えば疑いもしなかったし、矢根尾がこれを喜ぶように躾ていると言えば疑いもなく女を虐待したものだ。そして矢根尾が殺人犯として逮捕されても、それはどことなく変わらなかった気がする。
「あ、えっと、悪い……電話……聞き取れなくって…………。」
電話口が遠いのを幸いと貞友の問いかけを聞こえなかったふりをして答えを濁し、そのまま電話を切ってしまおうと耳元から遠退ける。そしてそのまま電話を切ろうとした瞬間、これまで遠かった筈の電話口の声がまるで耳元で怒鳴り付けたように大きく響き渡っていた。
『よって!!!件の如しぃ!!!』
切ろうとした瞬間の罵声に思わず指が凍りつき、そのまま狂ったように笑い続ける貞友の声が耳に突き刺さっていた。延々と狂気のように笑い続ける貞友の声だけが、夜の闇の帳に響き渡っていく。こんな男ではなかった筈なのに、自分の知らぬ間に相手は全く別な生き物にでもなってしまったかのようだ。そう、それこそ次第に落ちぶれ変容していった矢根尾俊一みたいに。
最初はわりと顔の整った痩せぎすの男だったのに、交流のあった最後の数年の内に矢根尾は別人のように醜く変容した。その辺かは実は中年太りとか言う変化では表現が足りないのだというのに、最近になって気が付いたのだ。と言うのも矢根尾が逮捕されて社会にニュースとして出された写真は高校生の頃のもので、実は出会ったばかりの矢根尾と大差がなかったと思う。ところが記憶の中の最近の矢根尾は一回りでは済まない程に肥え、しかも顔も崩れんばかりに膨らんでいて。
まるで風船みたいに膨らんでいて
何かの卵のように丸い男だった。しかも何度も聞いていたし、公衆浴場なんかでも一緒に過ごしたこともあるから体重までも知っている。矢根尾は高校の時から体重は変わらないと話していたし、重さだけは確かに増えていない。そしてあの独特の奥歯を噛みしめ歯を剥き出して笑う仕草。まるで牛のように歯を剥き出し笑う矢根尾の笑いが、闇の中に浮かんでいる気がするくらいだ。そして、貞友が放った言葉が何の意味なのか自分には全く分からないのに、背筋が凍ったままなのも変わらない。それでも何故か聞いてはいけないものを聞いてしまった気がして、自分は何時までも立ち尽くしていたのだった。
それからだ。
自分の周りで変化が起きたのは。これまでは何とか上手く回っていた筈のものが、何かがずれて噛み合わなくなっていく。上手く馴染めていた筈の仕事で大きなミスをして始末書では済まないと怒鳴り散らされ、告白された筈の女には愛想笑いでその話しは無かったことにと逃げられた。
そして、何かが臭う
時に鼻につくような異臭がして振り返る。それでもその異臭の元は探せなくて、戸惑いながら何度も辺りを見渡す。それが一体何の臭いなのか分からないが、何処かで嗅いだ記憶があって不安感が増していく。そして次第にそれが近づいて来ていて、ジリジリと自分を追い詰めていく気がするのだ。そして気が付けば、何もかもが悪い方向に向かい始めていた。
※※※
シトシトと突然の雨が振りだしていて、仕事帰りの茂木公太の肩を冷たく濡らし始めていた。夏が終わり雨降りのせいで気温は軒並み下がり始め、濡れていく身体が冷えていく。普段なら雨宿りでもして酒でも飲む勢いだろうが、ここ数日の自分の不運続きではそんな気分にすらなれない。
間違ってなんかなかった筈なのに……
発注した商品飲桁が違うと連絡が来たのは一昨日のことで、何をやっているんだと上司から叱責されたのは昨日だ。でも元々その発注は自分が書いたのは事実だけれど、その後上司を経由する筈のものだった。経由する筈と言ったのは現実にはその上司を経由しないで発注になってしまったからであって、上司はこちらが渡してこなかったから見なかったのだと自分がちゃんと確認しなかったのを棚にあげてこちらを責め立てる。
いや、自分が書き足したんじゃないのか?自分のところを通らなかったことにして
そんな風にすら思ってしまった有り様だが、その思いが態度に出てしまったのか上司の怒りは中々収まらなかった。そしてその余剰分を他の業者に委託できたのは、自分の働きのお陰だから感謝しろという有り様だ。そんなの、誰だって余剰分を買い取れる場所を探せばいいだけの事だろ。何を偉そうに……その感情が少しでも顔に出てしまったのか、お前は何時もそうだと更なる八つ当たりが始まって。取引先の相手の担当者・狭山なんとかと、もう1つの相手先の村瀬なんとかが上手く回してくれた事に感謝しろとかなんとか。
だからなんだってんだ
たかが余剰分文房具の買い取り程度だろ。そうなんだ、家具とか食品とかならどうかと思うだろうが、たかが文房具なのだからそんなに目くじら立てるようなことじゃないと思わないか。こっちは慣れない仕事に必死になってきたのに、こんな風に叱責されてばかりじゃやりきれない。ただでさえ他の新卒者より一回り近く歳が上で疎外感があるのに、歳が近い方の上司がこれではと苛立ちを感じてしまう。
それにしてもシトシトと降り続ける雨のせいでスッカリ身体は濡れてしまい、冷えきった身体を温めるにはどうしたものかと思う。ふと視線の先に自販機が目に入ったけれど実は去年の交通事故の理由は自販機で、自分はトラウマで自販機に近寄ることができないのだった。
温かいものでも買えりゃ……
そう眺めるけれど目の前の人工灯に、どうしても近づくことができない。コンビニでもあればいいのだろうが、ここから暫くコンビニも存在しないのは分かりきっているから自分は深い溜め息をつく。
「お金細かいの無いの?」
不意に背後からかけられた掠れるハスキーな声に、自分は一瞬それが誰にかけられたか分からない。言うまでもなく自販機を眺めて立ち尽くしていた自分の背中に向かってかけられた言葉で、そしてスルッと自分の横を僅かに背の低い華奢な身体が自分と同じに濡れそぼって通りすぎたのを見つめていた。
チャリンチャリン・ガションというあの定番の音を立てて、自販機から何かが排出されたのを遠目に聞く。そしてその華奢な身体をした人物は排出されたものを片手に歩み寄ると、自分に向かって温かなココアを差し出した。
「はい。あげる。」
子供じゃあるまいしココアなんてとは思うけれど、それは完璧に相手の好意であって思わず暗がりの中その相手の事をじっと見つめてしまう。一目で男だと分かる相手なのに、何故か視線が引き寄せられて穴が空く程に見つめてしまうのだ。
自分のことを僅かに見上げた相手の水滴が乗る程長い睫毛に濡れた瞳。整った女と見間違えてしまうほど綺麗な顔立ちをして、柔らかく色気のある唇、ホッソリとした首筋に差し出された折れてしまいそうな手首。こちらが戸惑っていると、相手はその手を伸ばしてきて自分の手をとると熱いほどのココアの缶を掌に乗せる。
「はい。」
そうしてさっさと自分から離れようとした相手の細い手首を、何故かつかんで引き留めたのはこちらの方だった。
これが運命だなんてとは思うが、相手はどう見ても男だ。男なのに雨に濡れたその姿には、ムラムラと本能を刺激する何かがあって無意識にその身体を舐め回すように見つめてしまう。その視線の意味を相手は最初から知っているように、自分の目の前でスウッと色っぽく目を細めて見せる。ゴクリと暗闇の中で喉が音を立てているのを聞いて相手は手首を掴まれたまま、目の前に立ち尽くし身動ぎもしない。
「…………ぬ、濡れたままじゃ…………風邪引く…………。」
そんな陳腐なセリフしか出てこないのは情けないが、動き出すための理由が必要で足を動かそうとしながら顔を巡らせたその瞬間、何故か酷く鼻を突く臭いに自分は顔をしかめてしまった。溝のようなすえた悪臭が鼻をついて、それがどこから臭うのか闇の中に沈む周囲を見渡す。
どこで嗅いだんだっけ……この臭い……何度か……
頭の中がそう呟くのを聞きながら、何故か闇の奥底にここにはいない筈のあの独特の笑い方をする男が立ち尽くしているのを想像してしまっていた。こちらからは見えない暗く陰った場所に、奥歯を噛みしめ歯を剥き出して笑う男が立ち尽くしている。その時フッとそうだと頭の奥が呟く。
そうだ……これ、矢根尾さんの…………
最後に崩れかけた身体を引きずるようにして出会った矢根尾が口とは言わず、全身から垂れ流すように放っていた臭い。
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