鮮明な月

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間章 ソノサキの合間の話

間話19.悲しいことに

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悲しいことに一度何らかの事情で人工呼吸器を装着してしまうと、現行の日本の医療では自由にそれを取り外す事はできない。当然の事だが疾患の快癒と自発的な呼吸が確認することが出来るのであれば、呼吸状態の観察をしながらとは言え機械を離脱する可能性は勿論ある。だが、外すと生命維持が出来ないと分かっていて、敢えて外すという選択肢はとることが出来ない。
一部海外に聞かれるような個人や家族の意思尊重を意図する尊厳死の選択というものには、先進医療なんて言われている筈の日本では未だに対応できていないのだ。現行の日本の法律下で人工呼吸器を止めたり点滴への薬剤の混入等による生命維持への阻害は、どんなに本人がそれを望んでいたとしても実行したものは殺人犯とされる。つまりはどんなに本人が苦しんで死にたいと願っていたとしても、意図した呼吸の阻害は出来ない。そして大概人工呼吸器を装着している場合において、特定の状況が満たされれている(例えば疾患としては脳にほぼ傷害がなく、パソコンや文字盤などの意志疎通手段が確立しているような場合を除く)装着者の意図は完全には汲み取れないものでもある。

………ここに座り何度も、機械の操作している看護師を見ていた

目の前にある人工呼吸器は、機械から本人の喉に開けられた接続用の気管チューブという部分まで一方通行のチューブが繋がっている。そのチューブは何処かが外れて空気が漏れたり穴が空いたりして空気が漏れたり、何処か一部でも適切に動いていないと病棟に響く甲高い警報音が鳴る。その警報音は操作盤を操作して簡単に消音することが出来るのだが、問題が解消されないと1分程で再び警報音を鳴らす。そして慣れてくると分かるのだが、この警報音は事前に消音することも出来る。というのも鳴ると分かっている行為(例えば接続を外して人工呼吸器までのチューブの中の水滴を払うとか、喉の穴から痰をとるとか)をする時に、看護師は事前にソコを押して警報が鳴らないようにして処置をすることがあるのを見ていた。しかし、手順を間違うと警報音が病室内に響き渡るだけでなく、他の看護師を呼び出すナースコールというものにも警報音は連動しているのだ。自発的な呼吸が出来ないからこそ、人工的な呼吸を機械で管理しているからこその危機管理のための装置なのだと思う。

何度も何度も………その手順を繰り返し見ていた、これ迄の一年

最初のうちは呼吸の状態が安定しなくて、痰が溜まったりすると頻回に警報音が鳴って看護師がどこにいても病棟の何処からかダッシュで駆けつけてきていた。聞けば人工呼吸器と本人の呼吸が合わないと、呼吸が喧嘩をしてチューブの内圧が上がったりすることもあるそうだ。ただし、庄司陸詞の自発的な呼吸は、脳内の出血による脳の腫れのせいで起きた状態の悪化と共に、次第に弱まっていったようでもあるが。そうして時が経ち呼吸が完全に機械に依存し初めて、病棟が急性期から慢性期に移動して定期的に痰をチューブで吸いとるようになってくると対応が変わるのに気がついた。時に警報音が1度なったくらいでは、看護師が目の色を変えて駆けつける事が減っていく。時には5度程鳴ってからヤレヤレと姿を表した年配の看護師が、陸斗が居るのに慌てたように『さっきも痰をとったばかりなんですよ?』と愛想笑いをしたことだってある。さっきがどれくらい前の事なのかは分からないが、少なくともその日庄司陸斗が来た2時間よりは前の事だろうとは思う。勿論それがどうこうという訳ではないし、看護してもらって感謝している。恐らくは患者の状態が安定しているから日々の状況から警報音の危険度を想定して、慌てなくても良いと判断されているのではないだろうかと陸斗は考えている。

それに……もう親父の頭は当に死んでいる…………

1年前のあの日、路地裏で発見された時には頭の中の出血は取り返しがつかない状態だった。CTスキャニングというやつで最初に撮影された父の脳の中は、多量の血液が溜まっているからだと説明されたが真っ白に見えていた。でも後々に再度撮影した画像では、圧縮され縮まっただけでなく組織が壊死しているという黒々とした脳が頭の中にポツンと小さく浮かぶだけになっていく。

頭の中の出血が多すぎて、脳だけでなく脳幹という生命維持の器官も傷害されている。

後ほんの1時間見つからなければ、恐らく命はなかっただろうと医師から説明された。最初はそれを幸いと思ったけれど、本音を言うと今は真逆。
頭の出血の原因は誰かと揉み合いでもして転倒し、後頭部を強くアスファルトに打ち付けたことなのだろうとされ、その犯人は未だに見つかっていない。

……見つかる筈がない………

邑上誠の経営していた、あの地獄絵図のような場所。勿論行方不明者が残忍な行為を強いられる場所もあったが、高級クラブのような部屋も存在していて警察官僚だけでなく政府の高官も通っていた。その中は庄司陸詞が含まれていて、話が父親が如何わしい店の常連で、あの店で流通していたあのとんでもない薬を常用していたのだ。
あの日も恐らくはその店に向かうか帰る途中に、他の錯乱した人間と同じく独り錯乱したとかで、あの場所でたまたま倒れこんたのだとしたら。もし誰かと共にいたとしても、その相手が父親との性的な関係を何とか隠したくてあの場を独り立ち去ったのだとしたら。その性的な相手が邑上誠の店にいた多くの行方不明者のように、何らかの形で残忍な方法で虐げられていた人間だとしたら。

見つけても………証言なんかする筈がない……

既に何時間も前の事なのに、あの低く地を這うように響く路地裏での声が耳に甦ってくる。知っているか?と冷淡に見据えて問いかけてくる声が、再び頭の中で地響きのように響き渡る。

正義を守る筈の者の中にですら、人を虐げることに暗い喜びを覚える人間が山ほどいる。

だから何なんだと問い返そうにも、あの暗く光のない瞳を見た瞬間言葉がでなくなった。自分の父親がその場所に行っていたからなんなんだと言おうにも、父親が相手の言うその正義を守る者の中の汚点の一人なのは変えようがない。

でもだからと言って………

言い換えそうとして更に言葉を失う。絶望の闇の底から見返すような、暗く漆黒の闇の穴から見つめ返すような、見たことのない光の欠片すらない黒い瞳。そしてその瞳は自分を飲み込むように見据えて、お前は知らないと低い声で呟く。

お前の父親が何人の人間を虐げ、犯したか知っているか?

そんな筈はない・父はそんなことはしないと口を開こうとしたが、それすら出来ないのは相手の言葉が虚構ではないと分かっていたからだ。目の前の相手は悉く自分の父親だけでない様々なことを調べ尽くして、自分に向かって知らないのだろうと指摘している。そして目の前の相手は更に口を開く。
幾つも行動の証拠になるものを自分は持っていると。
つまりは庄司陸詞の蛮行の証拠を手にいれていて、そして相手がそれを公表するのは簡単なことだといっていた。同時にその真実を公表されれば、父だけでなく自分も兄も姉も家族だけでなく一族が破滅に落ちる。それでも真実は覆しようがない。ただそれを未だに公表していないのは、父が既に死んだも同然の状態なだけ。

………別にそれは俺も望んでいない。

家族や一族の破滅ではなく、自分がこの世界から粛清したいのは弱い者を虐げる者だけだからと暗い瞳が低く言う。社会ではなく世界としたその言葉に背筋が冷えるのは、自分達の暮らすこの身近な社会ではなく世界からというからだ。そして暗い瞳は別段に自分に対して追随を求めてもいないのに気がついて、更に背筋が冷えていく。自分にこれを話しているのは陸斗を仲間に引き込むとかではなく、自分の持っている情報に絶対の自信があって、陸斗がこの後逆らうとは一部も考えていない。

何で…………

震える声でそう呟く陸斗に、相手は当然のように真っ直ぐに真正面から見据えてくる。相手は全く自分がしていることが追い込まれるなんて危惧を持っていなくて、事実陸斗は抵抗できないまま更に知らされることに心がへし折れていく。
立派な警察官として尊敬し追いかけてきた筈の父親の裏の顔。
そんなものを知らされるだけでも不快感は激しいのに、身内ごと一族の将来を握られてしまう。そして暗い瞳が反応できない陸斗の様子に『もし俺の言うことが信じられないなら』とトドメとばかりに見せてきた画像で、陸斗はその場にヘタリ込みそうになっていた。

スナッフビデオだが、家族なら分かるだろう?

これは証拠の一部に過ぎないのだろう。コンクリートに囲まれた無機質な室内で、白々とした肌の青年に残忍な行為を強いる顔の見えない弛んだ肌をした中年男性。でも全裸の肌に刻まれた傷跡には、家族として長年共に暮らした自分には見覚えがある。過去に仕事で怪我をした、これは勲章だと父親が酒の席で笑っていたのが甦ると同時に、強い吐き気がして目眩にふらつく。

獣のようだな。

そう、獣だ。息子よりも10近く若そうな青年を家畜のように四つん這いにさせて尻に鞭打ち、道化めいた仮面をつけて腰を猿のようにガツガツとふりたてて。
仮面と肩越しでは父とは言えない。そういいたくても腕の傷跡や、背中にある黶や、見たことがあるものばかり目に飛び込んで、出来るなら今すぐ吐いて気絶したい。尊敬していた父親のそんな真実。そして他にも証拠があるというのなら、庄司陸詞と確認できるものもあるに違いないし、それが世に出たら本当に家族全てが破滅するしかないものだ。
そして、そのあと更に暗く湿った残酷な現実に飲み込まれて、庄司陸斗は相手にこれ以上の追求どころか、言葉を発することすら出来ない。

悲しいことに………あんなことを仕出かした父親でも………

そうして日が昇り穏やかな夏の陽射しの中。疲れた顔で病院を訪れ、独り無言で父親の命を繋ぐ人工呼吸器を見つめている。誰も止めることもないまま病室までこれたのは、大概慢性期の病棟にやってくる家族の顔は同じ様に疲れているからだろう。ただ陸斗の疲労が他の患者の家族と種類が違うのは、その疲労が看病に伴うものではないと言うことだ。

………早く………

何ヵ月も見てきて機械の操作盤のどこを押せば、あの警報音を切ることが出来るかは知っている。人工呼吸器の機械の横に取り付けられているふいごのようなものに、チューブを繋ぎ変えれば呼吸をしていると機械に認識させることが出来るのも分かっている。
急性期の病棟にいた時には、24時間ナースステーションに転送表示される心電図で心拍も管理されていた。しかし、慢性期になったこの病棟に移動してきてからは、心拍の安定しているから心電図は外されていた。勿論酸素飽和度と脈拍の数値を表示するモニターはベットの側に常に設置してあるが、父は状態が安定していて転送されるタイプの機械は別な重篤患者に回されていて、今のこの機械は病室の中だけに表示されていてナースステーションには転送されていない。勿論その機械の警報音も機械の操作盤で切ることが可能で、また転送が出来る機械が空けば変えられてしまう可能性は高かった。つまり今が最大のチャンスなのだ。

……ここでアラームを切って、呼吸の管を外して鞴に繋いで

何度も頭の中で繰り返し動きを確かめ、シュミレーションを繰り返す。先ずは酸素飽和度の機械の警報音を事前に切り、人工呼吸器の警報音を消音に切り替える。そして父親の喉に繋がる人工呼吸器のプラスチックの管を取り外し、直ぐに機械の横に設置してある鞴に繋ぐ。そうすれば人工呼吸器には、患者に呼吸をさせていると誤認識して警報音を立てずに動き続ける。その後は、そのまま待つ。ただここで見守り父親の指に繋がる酸素飽和度と脈拍の数値が、完全にゼロになるまで待つ。そしてゼロになって数分したら、また警報音を切って韛から人工呼吸器のチューブをもう一度繋ぎ直す。酸素飽和度の機械の警報を元に戻してから、改めてナースコールを押して『突然、心拍が止まった』と看護師を呼べば良いのだ。

簡単なことだ、悲しいことだけどそれが家族にとって最善だ

父さえ亡くなってしまえば、あのおぞましい真実は闇に消える。傷跡だろうと黶だろうと、遺体を荼毘に伏されれば誰にもあの画像と庄司陸詞のことを比較して確認できなくなるからだ。昔の写真に傷跡くらいは残っているかもしれないが、それでも直に確認はできない。そう思いながらもこれからすることにガクガクと震える指先を伸ばして、陸斗は何でこんなことになってしまったのだろうと心の中で血の涙を流す自分を感じていた。





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