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間章 ソノサキの合間の話
間話4. 第3の男
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人も疎らな住宅地の最中で敵対心も顕に結城晴を意地の悪い視線で睨んでいるのは、狭山明良の幼馴染みでもあり刑事でもある庄司陸斗。つい最近白鞘千佳関係の事件の現場で出逢ったばかりだというのに、突然プライベートで何故か違和感を感じる接触をされていた。そんな晴に、今日も陸斗は不意に近づいてきて、しかもこれ迄のとんでもない真実を話し始めている。
陸斗は以前から明良の恋人になった女性に近付き、明良との交際を牽制…………つまりは明良の交際を邪魔してきたと言い出したのだ。人付き合いの苦手な明良の恋人に幼馴染みだと近寄って、相談に乗るフリで揺さぶり寝とってきたなんて話。
「信じらんない………………。」
どこの世界?ドロドロ系の昼ドラ?小説とか漫画みたいな話だよね?と唖然としている晴に、陸斗は最初に見せていた人懐っこい笑顔の仮面をかなぐり捨てた意地の悪い視線でジロジロと眺め回す。
「なぁ、それで?どうやって明良をその気にさせたわけ?お前、全然普通に男じゃん?」
そりゃそうだ。晴はこうしてみればどう見ても普通の成人男子な訳で、この晴をどんな時でもとんでもなく可愛いと溺愛している明良の恋愛のツボなんて晴にだって分からない。それにしてもここにきて何でこんな風にあからさまに行動に出てきたのかとは思うが、この言動が陸斗の行動の理由なのかもしれないと気がつく。そうはいっても唖然としたままで晴が見つめ返すのに、陸斗は別な意味であきれ返った冷ややかな視線を投げつけてくる。
「早く答えろよ。もしかして明良がネコなの?本気で。」
「あんたに、関係…………なくない?」
晴と明良の夜の閨での立場なんて陸斗には関係ないと呟いた晴に、陸斗はあからさまに大きな舌打ちをしてみせた。いや、恋人同士の事なのに、これで例えば明良が受ける立場だったら何だというのだ。何?もしかして明良がそっちなら、自分が相手になるとでも?明良を組み敷いて抱きたいとか?いやいや、それって陸斗が勝手に決められることじゃないし、明良の気持ちが大事でしょっていうか、大体にして明良は自分の恋人なんですけど?何で寝とられる前提で話をしないとならない訳?ポカーンとしながらそう問いかける晴に、陸斗は不機嫌そうに眉をしかめて見せた。
「お前なんかより、俺の方が明良の事をよく知ってる。」
それはそうだろう、何しろ陸斗は物心付いた頃からの明良の幼馴染みなのだ。だけど本人をただ知っているのと恋愛感情とは別物ではないだろうか。でもこれはどう考えてみても、陸斗も昔から明良の事が『好き』だったのだと言うことなのだろうか。思わずそれを問いかけた晴に、何故か陸斗はあからさまに侮蔑の視線を浮かべて馬鹿にしたように口を開く。
「何言ってんだ?男同士だぞ?お前じゃあるまいし。」
「は?」
好きでもないのに恋人を寝とってきた?逆に寝とった恋人の方を好きだった訳でもないし、その後明良の元恋人達と付き合った訳でもない。ただ明良の邪魔をして明良のモノを奪ってきて、今回は知らぬ間に男の晴と付き合っていたのが想定外だった?女なら寝とってしまえば簡単だけど、男の晴にはそれができないからこんな風にあからさまに敵対行動にでた?と言うか何それ?明良が受けだったら明良と付き合いたいとか言うわけでなくて、ただ単に邪魔しただけって。あんたの性格悪いだけってこと?
依然として呆気にとられたままの晴の事を不躾に眺め回していた陸斗が、不意に目を細めて晴の顔をマジマジと眺めてくる。
「何が良いのかなぁ…………お前。」
人の顔を眺めてそんなことを言う?可能なら1発殴り付けてやりたい気分だけど、明良と一緒に空手をしていたという陸斗に下手に手を出さない方がいいのは言われなくても分かる。でもどうするべきなの?これって。唖然としていた晴の顎を突然陸斗が手を伸ばしてきて捕らえて来たのに、晴は目を丸くして逃れようともがく。
「ちょっ、離してよっ!」
嫌悪して逃げようとする晴の顎を、ガッチリと掴んだ指が食い込むのに思わず痛みに顔をしかめる。人の顔だって言うのに容赦なく指に力をいれてきて、しかも掴み方が目茶苦茶痛い。痕になりそうな力で容赦なく眺めやすいように引き付けられ苦痛に歪む顔を、陸斗はマジマジと改めて眺めている。
「離せよっ!」
「…………ふぅん、一応整った顔はしてんだ?お前。」
武術を身に付けた握力で顔を掴まれるのは、ギリギリと万力で挟まれたみたいだ。どんなに晴が苦痛に呻いても何も気にするわけもない相手に手が緩むわけでもないし、明良はまだ仕事から帰ってくるには時間が有りすぎる。
「結城君に何やってるんですか?あなた。」
不意にその間に入り込むような声に、一瞬陸斗の意識が削がれて少しだけ万力の力が緩む。それでもまだ手に顎を囚われたままの晴が視線を向けると、そこには怪訝そうな色を浮かべた涼やかな視線を向けてくる黒曜石の瞳があった。
※※※
合気道と古武術の鍛練を再開して早くも半年程、鍛練の相手が鳥飼信哉を初めとした面々だというせいなのか榊恭平の熟練度の上がりかたは異様に早い。信哉は恭平が習っていた頃の勘を取り戻したってことだろと当たり前みたいに笑うけれども、実際には子供の頃にはこんな感覚を得た記憶はなかった。
教えてるのが信哉さんとか、外崎さんとか…………相手が普通じゃないもんな…………
と1人密かに思うのだけれど、そこは自分としてもありがたい先生陣。その上同列で一緒に鍛練をするのも異常な運動神経の良さを誇る槙山忠志とかなので、これ以上深くは追求はしないでおく。(何しろ槙山ときたら先日は出来上がったばかりの道場の屋根に足場もなしで登り、その頭に双子の片割れ鳥飼仁を乗せていたものだから信哉に折檻という方が相応しい対応をされていた。どうやって普通の建築の2階に相当する屋根に上がったのかと聞いたら、『えー?ジャンプ?』とか訳の分からないことを言われた恭平はどんなジャンプだと突っ込みたかったのは言うまでもない。因みに降りる時は降りる時でそのまま目の前で飛び降りてきて、子供が頭に!!!と悲鳴を上げたのが恭平だけだったのは何故なんだと密かに思っている。何で母親の鳥飼梨央まで怪我はない前提で、登りかたかったら事前に言えという程度で済むのか?事前に言えば登っても良いのか?と思う。)
それはさておき偶々駅前の出版社に翻訳の仕事の関係で足を運んでいた恭平が、夏の暮れ始めた陽射しを感じながら帰途についていた矢先。住宅地の真ん中で不意に、なんとなくだが肌に刺さる嫌な気配を感じた気がした。所謂『殺気』というか、何というか。少なくとも長閑な住宅地の中で感じたいタイプの気配ではないので、何気なく気になって足を向けていたのだ。そうでなければ、普段は帰途には使わない方向性の道の角を曲がった途端、そこに喧嘩寸前に見える男性2人が立っていて。
「結城君に何やってるんですか?あなた。」
そう、その片割れ。もう1人の青年に不躾に顎を掴まれ苦痛に顔を歪めているのが、どう見ても自分の友人の結城晴なのだ。そしてその片割れも何処と無く見覚えがあって、相手の方も自分の顔に見覚えがある様子なのに恭平も気がつく。
「…………僕は…………。」
一瞬現れた恭平のせいで戸惑いに表情が奇妙に掻き消えた晴の顎を掴む青年の顔に、恭平は何処で彼をみたのか思い出したように眉を潜めた。
「風間先輩の同僚の方でしたよね?あなた。」
丁度1年程前の花街周辺に始まり全国的に起きたとある薬の副作用とされる騒乱。その最中発作を起こした恭平は、偶々居合わせた高校時代の先輩でもあった風間祥太の手首を錯乱して素手で砕いてしまった。そして直後にそれを制止しようとした風間の同僚の若い刑事を投げ飛ばしそうになったのだが、それが目の前の青年だと気がついたのだ。確か恭平と同じ歳のその青年は、後々に風間と一緒に恭平の病室に顔を見せて人の良さそうな顔で笑っていた記憶がある。
「…………えっと…………先輩の…………?」
「後輩の榊です。…………庄司さんでしたよね?」
庄司陸斗の方も恭平と出逢っていることを思い出したように『こんにちは』と躊躇いがちに口を開くが、それでもまだ晴の顎を捕らえたまま立ち尽くしている。喧嘩というには随分と一方的だし、風間と一緒にやって来て恭平と話した時に『自分は空手を習得してます』と呑気に笑っていた筈だ。どう見ても優しくはない顎の掴み方にツカツカと歩み寄って、その手首を取りギリと力が込められて陸斗はやっと晴の顎を諦めて離していた。そんな以前とは印象の違う陸斗に、恭平が冷静な視線を向ける。
「結城君は何も武術を嗜んでませんよ?…………庄司さん。」
やり過ぎですよね?と恭平がいつになく低く威嚇するような声を放ったのに、何故か陸斗は晴の方に視線を落としてほんの微かだが舌打ちをしたような気がした。流石に恭平も捲き込んで何かをするには、以前街中で錯乱していて投げ飛ばされそうになった記憶もあるから部が悪いことは気がついているようだ。それにしても随分あの時と印象が違うと心中で恭平が呟いたのが聞こえていたように、突然愛想の良い笑顔が陸斗の顔に浮かび上がって人懐っこそうな雰囲気が溢れる。
「すみません、幼馴染みの話してて少しヒートアップしちゃってました。…………彼が僕の幼馴染みを悪く言うものでつい。」
え?と晴が呆気にとられた顔をして、目の前の陸斗のことを見つめている。何が起きたのか分かっていない晴の様子と呑気な笑顔を浮かべて素直に『カッとしちゃった、ごめんね』と当然みたいな申し訳なさそうな顔をして見せて謝っている陸斗を眺めてから、恭平はスルリと陸斗の手首から手を離す。離した途端そのまま晴を連れだって帰りそうな気配を見せた陸斗に、やんわりと晴は自分と帰ると間に入った恭平にまた微かに剣呑な視線が瞳の奥に浮かぶのを感じる。
「もう喧嘩はしませんよ?榊さんですっけ?」
喧嘩。確かにそう言えなくもない状況に見えたけれど、恭平としては結城晴が取っ組み合いの喧嘩をするタイプだとは思えない。外崎宏太と日々仕事場で口喧嘩はしているとは聞くけれど、宏太と晴は喧嘩というよりジャレあっているという感じだ。大体にして晴自身がそれほど喧嘩をするタイプじゃないのは、交流がある恭平だって分かっている。そして目の前の以前とまるで印象の違う庄司陸斗には、以前は感じ取れなかっただろうが今は良く分かる気配が滲み出ているのだ。そう、抵抗する術のない晴に対する明確な『殺意』というか『害意』が感じられてしまう。
「そうでしょうね、それなら俺が一緒でも何も問題ないですよね。」
「確かに。」
これは一体何と言う事態なのかと恭平も内心で思うけれど、見れば陸斗に掴まれジワジワと赤く鬱血し始めた晴の顎を見て素直にハイそうですねと答えろと言うのは無理だ。恭平が見ているそれが自分の目にも入ったのか陸斗は流石に納得した気配を匂わせて、それなら自分はここでと簡単に引き下がって『またね』と1人背を向けて歩き出す。そうして暫く陸斗が離れていった背中の消えた方向を眺めていた恭平が、安全確認が出来たみたいに晴を振り返って心配そうに覗き込む。
「結城君、大丈夫?」
その自分を心底心配してくれる恭平の声に、晴は気が緩んだみたいにその場にヘナヘナと脱力してヘタり込んでいた。
※※※
「何それ?!」
そのまま家に帰すにも心配で恭平の自宅に連れられてきた晴の顎の痣を見て、一体何事と先に帰宅していた仁聖に詰め寄られてしまったのは仕方がない。しかもあの顎を掴まれ呻いていた姿もみられているから恭平にも誤魔化しが効かない晴は、ポカンとしたような反応のまま庄司陸斗に纏わる話をしてしまっていた。流石に今日のあの訳の分からない話は、全部話せなくてかいつまんでだが。それでも酔って3人で寝てた話に、仁聖が予想より嫌悪感を示したのは少し意外だ。
「俺まだ、そんなに酔ったことないけど、そんな簡単に一緒に寝れるものなの?俺だったら恭平と2人のベットに他人はヤダ。」
「じ、仁聖。」
頬を染めながら仁聖の断固とした口調に慌ててしまう恭平の方は、昔は友人と宅飲みしていてベロベロになってリビングが死屍累々はあるけどベットはないなぁと晴の顎の手当てをしながら呟く。確かに晴だって白鞘千佳と飲んでベロベロになってラブホテルに入ったけど、昔友人関係だった時は晴だけベットに延びていて白鞘はソファーで寝ていた。友人との宅飲みで撃沈して…………了を襲ったなんて過去も一応あるけど、一緒に寝た記憶はない。
「それに明良が知ってたら、まず許さないでしょ?それ。」
当然みたいに仁聖が言うのに、確かに目が覚めて即気がついた明良は陸斗をベットから蹴落としていたのだと思い出す。流石にそれを仁聖達に話して聞かせるには恥ずかしいが、やはりあの違和感を感じたのは普通なのだと改めて思う。
「それにしても…………酷いことする。」
顎の痣は打ち身とにた状況だからと、消炎鎮痛の軟膏を塗りガーゼを当てながら恭平が溜め息をつく。どう見ても顎を掴まれた指の痕がついてしまっていて、これを明良に説明なしでスルーするのはかなり至難の技だと恭平はいう。
「それに、話しておいた方が良いと思う。」
何しろ晴には陸斗が実力行使に出ると抵抗する術がない。こんな風に危険が起こるのだとしたら、明良にも事態を理解して貰っておかないと対処しようがないのだ。
陸斗は以前から明良の恋人になった女性に近付き、明良との交際を牽制…………つまりは明良の交際を邪魔してきたと言い出したのだ。人付き合いの苦手な明良の恋人に幼馴染みだと近寄って、相談に乗るフリで揺さぶり寝とってきたなんて話。
「信じらんない………………。」
どこの世界?ドロドロ系の昼ドラ?小説とか漫画みたいな話だよね?と唖然としている晴に、陸斗は最初に見せていた人懐っこい笑顔の仮面をかなぐり捨てた意地の悪い視線でジロジロと眺め回す。
「なぁ、それで?どうやって明良をその気にさせたわけ?お前、全然普通に男じゃん?」
そりゃそうだ。晴はこうしてみればどう見ても普通の成人男子な訳で、この晴をどんな時でもとんでもなく可愛いと溺愛している明良の恋愛のツボなんて晴にだって分からない。それにしてもここにきて何でこんな風にあからさまに行動に出てきたのかとは思うが、この言動が陸斗の行動の理由なのかもしれないと気がつく。そうはいっても唖然としたままで晴が見つめ返すのに、陸斗は別な意味であきれ返った冷ややかな視線を投げつけてくる。
「早く答えろよ。もしかして明良がネコなの?本気で。」
「あんたに、関係…………なくない?」
晴と明良の夜の閨での立場なんて陸斗には関係ないと呟いた晴に、陸斗はあからさまに大きな舌打ちをしてみせた。いや、恋人同士の事なのに、これで例えば明良が受ける立場だったら何だというのだ。何?もしかして明良がそっちなら、自分が相手になるとでも?明良を組み敷いて抱きたいとか?いやいや、それって陸斗が勝手に決められることじゃないし、明良の気持ちが大事でしょっていうか、大体にして明良は自分の恋人なんですけど?何で寝とられる前提で話をしないとならない訳?ポカーンとしながらそう問いかける晴に、陸斗は不機嫌そうに眉をしかめて見せた。
「お前なんかより、俺の方が明良の事をよく知ってる。」
それはそうだろう、何しろ陸斗は物心付いた頃からの明良の幼馴染みなのだ。だけど本人をただ知っているのと恋愛感情とは別物ではないだろうか。でもこれはどう考えてみても、陸斗も昔から明良の事が『好き』だったのだと言うことなのだろうか。思わずそれを問いかけた晴に、何故か陸斗はあからさまに侮蔑の視線を浮かべて馬鹿にしたように口を開く。
「何言ってんだ?男同士だぞ?お前じゃあるまいし。」
「は?」
好きでもないのに恋人を寝とってきた?逆に寝とった恋人の方を好きだった訳でもないし、その後明良の元恋人達と付き合った訳でもない。ただ明良の邪魔をして明良のモノを奪ってきて、今回は知らぬ間に男の晴と付き合っていたのが想定外だった?女なら寝とってしまえば簡単だけど、男の晴にはそれができないからこんな風にあからさまに敵対行動にでた?と言うか何それ?明良が受けだったら明良と付き合いたいとか言うわけでなくて、ただ単に邪魔しただけって。あんたの性格悪いだけってこと?
依然として呆気にとられたままの晴の事を不躾に眺め回していた陸斗が、不意に目を細めて晴の顔をマジマジと眺めてくる。
「何が良いのかなぁ…………お前。」
人の顔を眺めてそんなことを言う?可能なら1発殴り付けてやりたい気分だけど、明良と一緒に空手をしていたという陸斗に下手に手を出さない方がいいのは言われなくても分かる。でもどうするべきなの?これって。唖然としていた晴の顎を突然陸斗が手を伸ばしてきて捕らえて来たのに、晴は目を丸くして逃れようともがく。
「ちょっ、離してよっ!」
嫌悪して逃げようとする晴の顎を、ガッチリと掴んだ指が食い込むのに思わず痛みに顔をしかめる。人の顔だって言うのに容赦なく指に力をいれてきて、しかも掴み方が目茶苦茶痛い。痕になりそうな力で容赦なく眺めやすいように引き付けられ苦痛に歪む顔を、陸斗はマジマジと改めて眺めている。
「離せよっ!」
「…………ふぅん、一応整った顔はしてんだ?お前。」
武術を身に付けた握力で顔を掴まれるのは、ギリギリと万力で挟まれたみたいだ。どんなに晴が苦痛に呻いても何も気にするわけもない相手に手が緩むわけでもないし、明良はまだ仕事から帰ってくるには時間が有りすぎる。
「結城君に何やってるんですか?あなた。」
不意にその間に入り込むような声に、一瞬陸斗の意識が削がれて少しだけ万力の力が緩む。それでもまだ手に顎を囚われたままの晴が視線を向けると、そこには怪訝そうな色を浮かべた涼やかな視線を向けてくる黒曜石の瞳があった。
※※※
合気道と古武術の鍛練を再開して早くも半年程、鍛練の相手が鳥飼信哉を初めとした面々だというせいなのか榊恭平の熟練度の上がりかたは異様に早い。信哉は恭平が習っていた頃の勘を取り戻したってことだろと当たり前みたいに笑うけれども、実際には子供の頃にはこんな感覚を得た記憶はなかった。
教えてるのが信哉さんとか、外崎さんとか…………相手が普通じゃないもんな…………
と1人密かに思うのだけれど、そこは自分としてもありがたい先生陣。その上同列で一緒に鍛練をするのも異常な運動神経の良さを誇る槙山忠志とかなので、これ以上深くは追求はしないでおく。(何しろ槙山ときたら先日は出来上がったばかりの道場の屋根に足場もなしで登り、その頭に双子の片割れ鳥飼仁を乗せていたものだから信哉に折檻という方が相応しい対応をされていた。どうやって普通の建築の2階に相当する屋根に上がったのかと聞いたら、『えー?ジャンプ?』とか訳の分からないことを言われた恭平はどんなジャンプだと突っ込みたかったのは言うまでもない。因みに降りる時は降りる時でそのまま目の前で飛び降りてきて、子供が頭に!!!と悲鳴を上げたのが恭平だけだったのは何故なんだと密かに思っている。何で母親の鳥飼梨央まで怪我はない前提で、登りかたかったら事前に言えという程度で済むのか?事前に言えば登っても良いのか?と思う。)
それはさておき偶々駅前の出版社に翻訳の仕事の関係で足を運んでいた恭平が、夏の暮れ始めた陽射しを感じながら帰途についていた矢先。住宅地の真ん中で不意に、なんとなくだが肌に刺さる嫌な気配を感じた気がした。所謂『殺気』というか、何というか。少なくとも長閑な住宅地の中で感じたいタイプの気配ではないので、何気なく気になって足を向けていたのだ。そうでなければ、普段は帰途には使わない方向性の道の角を曲がった途端、そこに喧嘩寸前に見える男性2人が立っていて。
「結城君に何やってるんですか?あなた。」
そう、その片割れ。もう1人の青年に不躾に顎を掴まれ苦痛に顔を歪めているのが、どう見ても自分の友人の結城晴なのだ。そしてその片割れも何処と無く見覚えがあって、相手の方も自分の顔に見覚えがある様子なのに恭平も気がつく。
「…………僕は…………。」
一瞬現れた恭平のせいで戸惑いに表情が奇妙に掻き消えた晴の顎を掴む青年の顔に、恭平は何処で彼をみたのか思い出したように眉を潜めた。
「風間先輩の同僚の方でしたよね?あなた。」
丁度1年程前の花街周辺に始まり全国的に起きたとある薬の副作用とされる騒乱。その最中発作を起こした恭平は、偶々居合わせた高校時代の先輩でもあった風間祥太の手首を錯乱して素手で砕いてしまった。そして直後にそれを制止しようとした風間の同僚の若い刑事を投げ飛ばしそうになったのだが、それが目の前の青年だと気がついたのだ。確か恭平と同じ歳のその青年は、後々に風間と一緒に恭平の病室に顔を見せて人の良さそうな顔で笑っていた記憶がある。
「…………えっと…………先輩の…………?」
「後輩の榊です。…………庄司さんでしたよね?」
庄司陸斗の方も恭平と出逢っていることを思い出したように『こんにちは』と躊躇いがちに口を開くが、それでもまだ晴の顎を捕らえたまま立ち尽くしている。喧嘩というには随分と一方的だし、風間と一緒にやって来て恭平と話した時に『自分は空手を習得してます』と呑気に笑っていた筈だ。どう見ても優しくはない顎の掴み方にツカツカと歩み寄って、その手首を取りギリと力が込められて陸斗はやっと晴の顎を諦めて離していた。そんな以前とは印象の違う陸斗に、恭平が冷静な視線を向ける。
「結城君は何も武術を嗜んでませんよ?…………庄司さん。」
やり過ぎですよね?と恭平がいつになく低く威嚇するような声を放ったのに、何故か陸斗は晴の方に視線を落としてほんの微かだが舌打ちをしたような気がした。流石に恭平も捲き込んで何かをするには、以前街中で錯乱していて投げ飛ばされそうになった記憶もあるから部が悪いことは気がついているようだ。それにしても随分あの時と印象が違うと心中で恭平が呟いたのが聞こえていたように、突然愛想の良い笑顔が陸斗の顔に浮かび上がって人懐っこそうな雰囲気が溢れる。
「すみません、幼馴染みの話してて少しヒートアップしちゃってました。…………彼が僕の幼馴染みを悪く言うものでつい。」
え?と晴が呆気にとられた顔をして、目の前の陸斗のことを見つめている。何が起きたのか分かっていない晴の様子と呑気な笑顔を浮かべて素直に『カッとしちゃった、ごめんね』と当然みたいな申し訳なさそうな顔をして見せて謝っている陸斗を眺めてから、恭平はスルリと陸斗の手首から手を離す。離した途端そのまま晴を連れだって帰りそうな気配を見せた陸斗に、やんわりと晴は自分と帰ると間に入った恭平にまた微かに剣呑な視線が瞳の奥に浮かぶのを感じる。
「もう喧嘩はしませんよ?榊さんですっけ?」
喧嘩。確かにそう言えなくもない状況に見えたけれど、恭平としては結城晴が取っ組み合いの喧嘩をするタイプだとは思えない。外崎宏太と日々仕事場で口喧嘩はしているとは聞くけれど、宏太と晴は喧嘩というよりジャレあっているという感じだ。大体にして晴自身がそれほど喧嘩をするタイプじゃないのは、交流がある恭平だって分かっている。そして目の前の以前とまるで印象の違う庄司陸斗には、以前は感じ取れなかっただろうが今は良く分かる気配が滲み出ているのだ。そう、抵抗する術のない晴に対する明確な『殺意』というか『害意』が感じられてしまう。
「そうでしょうね、それなら俺が一緒でも何も問題ないですよね。」
「確かに。」
これは一体何と言う事態なのかと恭平も内心で思うけれど、見れば陸斗に掴まれジワジワと赤く鬱血し始めた晴の顎を見て素直にハイそうですねと答えろと言うのは無理だ。恭平が見ているそれが自分の目にも入ったのか陸斗は流石に納得した気配を匂わせて、それなら自分はここでと簡単に引き下がって『またね』と1人背を向けて歩き出す。そうして暫く陸斗が離れていった背中の消えた方向を眺めていた恭平が、安全確認が出来たみたいに晴を振り返って心配そうに覗き込む。
「結城君、大丈夫?」
その自分を心底心配してくれる恭平の声に、晴は気が緩んだみたいにその場にヘナヘナと脱力してヘタり込んでいた。
※※※
「何それ?!」
そのまま家に帰すにも心配で恭平の自宅に連れられてきた晴の顎の痣を見て、一体何事と先に帰宅していた仁聖に詰め寄られてしまったのは仕方がない。しかもあの顎を掴まれ呻いていた姿もみられているから恭平にも誤魔化しが効かない晴は、ポカンとしたような反応のまま庄司陸斗に纏わる話をしてしまっていた。流石に今日のあの訳の分からない話は、全部話せなくてかいつまんでだが。それでも酔って3人で寝てた話に、仁聖が予想より嫌悪感を示したのは少し意外だ。
「俺まだ、そんなに酔ったことないけど、そんな簡単に一緒に寝れるものなの?俺だったら恭平と2人のベットに他人はヤダ。」
「じ、仁聖。」
頬を染めながら仁聖の断固とした口調に慌ててしまう恭平の方は、昔は友人と宅飲みしていてベロベロになってリビングが死屍累々はあるけどベットはないなぁと晴の顎の手当てをしながら呟く。確かに晴だって白鞘千佳と飲んでベロベロになってラブホテルに入ったけど、昔友人関係だった時は晴だけベットに延びていて白鞘はソファーで寝ていた。友人との宅飲みで撃沈して…………了を襲ったなんて過去も一応あるけど、一緒に寝た記憶はない。
「それに明良が知ってたら、まず許さないでしょ?それ。」
当然みたいに仁聖が言うのに、確かに目が覚めて即気がついた明良は陸斗をベットから蹴落としていたのだと思い出す。流石にそれを仁聖達に話して聞かせるには恥ずかしいが、やはりあの違和感を感じたのは普通なのだと改めて思う。
「それにしても…………酷いことする。」
顎の痣は打ち身とにた状況だからと、消炎鎮痛の軟膏を塗りガーゼを当てながら恭平が溜め息をつく。どう見ても顎を掴まれた指の痕がついてしまっていて、これを明良に説明なしでスルーするのはかなり至難の技だと恭平はいう。
「それに、話しておいた方が良いと思う。」
何しろ晴には陸斗が実力行使に出ると抵抗する術がない。こんな風に危険が起こるのだとしたら、明良にも事態を理解して貰っておかないと対処しようがないのだ。
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