鮮明な月

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第十七章 鮮明な月

245.

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「ウィル。」

撮影を終えて帰途につこうとした源川仁聖に、和やかな声で声をかけてきたのは江刺家八重子だった。その手には大きな自社ブランドのデザイン紙袋があって、歩みよった仁聖に八重子がにこやかに笑う。

「これさ?試作品で作った商品に出てないパターンのやつ。もう処分するだけのだから、着てくれる?」
「え、いいの?八重子さん。」
「棄てるの勿体ないと思って、あんたのサイズのやつだけだしね。」 

試作品として作られて本来は出回ることがない色のものや製品版とは裁縫が微細だが違うのものなのだと言う。製品の方は売り出されていて、もう必要性がないから廃棄されるだけなのたが、着れない訳でもないし普通に着る分には何も問題ない。棄てようかと整理しながら眺めていて、仁聖にお下がりする気になった物だと言う。

「八重子さんのお陰で、俺のクローゼット潤沢。」
「あら、それは何より。」

以前このバイトをするまで制服と2~3着程度しか私服がなかったと仁聖が八重子に話したら、八重子は目を丸くしてそんな馬鹿なと声をあげたのだ。今時そんなの親が納得しないだろと詰め寄られて自分の既に親のいない身の上を説明した仁聖に、八重子はまるで泣き出しそうな顔をして。そして何故かこのお下がり大量配布の可愛がられる状況になった。

「私のコドモ達だってイケメンに着てもらいたいわよ。」

八重子の言うコドモは言うまでもなく、彼女の作った服の事だ。お陰でここ最近の仁聖の私服は、八重子の若者に大人気ブランドで一段とスタイリッシュになっている。

「そういえば、あんた、あの若造に何もされてない?」
「若造?」

思わず問い返した言葉に、八重子は『三科悠生』と告げる。
三科は仁聖より1つ年上の同じ事務所のモデルだ。とはいえ事務所では半分英語で話すせいか、今まで一度として向こうから話しかけられたこともなければ仁聖から話しかけることもない。その名前が唐突に八重子の口から出てきたのに目を丸くすると、今回の撮影の前に1度仁聖の代わりにカメラテストをしたそうなのだ。

「え?そうなの?カメリハってなんで?」

その問いかけにあら?知らないの?と八重子の方も目を丸くする。というのも仁聖は別に気にしないので余り他人の仕事内容には興味をむけていなかったのだが、元々この仕事のオーディションを受けていたのは三科だったと言うのだ。

「それで、本人が仕事を戻して欲しいって言うから、1度カメラテストをね。」

なるほどと一応は納得するが、確かに最初にオーディションで受かった仕事なのだろうけれど、ブッキングで自分に流れた仕事でもまだ三科の仕事として成り立つのかどうかはわからない。それでも一応はオーディションを通した八重子も藤咲信夫から声をかけられて、使えそうなら仁聖と三科とダブルヘッダーでも良いかなとカメラテストに呼んだのだという。

「でも、イメージが違うのよ。私の服は基本的にモードでもカジュアル方面がおおいでしょ。でもあの子どうもコンサバなセレカジ系なのよね。」

知らないで聞くと呪文のようだが結局は八重子のブランドは流行を取り入れるカジュアルな印象の服が多く、三科が似合いそうなのは少し保守的でもあるコンサバティブでいて少し気取った印象のセレブ的な服装なのだという。八重子の印象ではオーディションの時はまだその系統ではなかったと言うから、ここ1年で三科がそういう系統の印象を他の仕事から身に付けたと言うことなのだろう。

「だから、ごめんって断ったんだけど。その後信夫が頭抱えてたから。」

そんなことが知らないところで起きていたなんて、正直仁聖は知らなかった。別段三科から怒りをぶつけられた事もないし、大体にして会話自体したこともないと仁聖が言うと八重子はなら良いけどという。元々自分も藤咲もモデルで生計を立てていたので、仕事がないと他人を蹴落としてもと考えてしまう人間もいたのを知っている。手が届きそうで届かないようなものが目の前にあれば尚更、しかも自分が1度オーディションで手に入れた筈の物となれば余計。

信夫や彩花や、スタッフも気を付けてるって言うけどね

事務所内のイザコザには口のだしようがないけれど、何事もなればいいのよと八重子はにこやかに笑いながら可愛い弟のような立場になりつつある仁聖の頭を撫でた。



※※※



特別だと思っていた。

そう自分ははっきりと口にしたわけではない。自分の内面が、あからさまに映し出されたその言葉に唇を噛む。誰かのせいにして逃げても、結局は真実は変わらない。そう思ったら、思わず苦悩の呻きと同時に涙が溢れ落ちていた。ハッとした様に見張る瞳から音を立てて溢れ出した涙が、自分の頬を伝うのに戸惑いながら身を硬くする。そこでやっと、自分が嗚咽を零していたのに気がつく。

特別だと思われていると……………心の中で思っていた。

慕われ何年も傍で見てきた彼の行動や言動。それを特別に思う、自分だけでなく彼もそう思ってくれているのではないかと心の何処かで期待していた。誰かに必要とされる事すらなくなってしまった自分を、彼だけは必要としてくれるのだと考えていた。自分は何の事はない、今迄の彼と肌を合わせた他の存在と同じなのだ。それを知ってしまった自分のこの涙を何だと理解したらいいのだろう。

こんなの…………忘れてしまえば良いんだ…………

そう悲鳴じみた心の痛みを感じつつ、よろめきながら立ち上がリ歩き出す。心がバラバラになりそうになりながら、フラつく足元で揺らぐ体を支えようとドアに手を突いた瞬間、言い知れない感覚にぞくりと背中が粟立った。

ここから出て、どこに行けば良い?

自分にはもう何処にも頼れる場所がないし、自分はしては行けないことをしてしまったのだ。ここにはもう彼は帰ってこない。そう気がついて自分は、力尽きたようにヘナヘナとそこに座り込んでしまう。忘れてしまいたくても、それを強く望んだのが自分だったことも心に刻み込まれてしまっていて、逃げだしたくても逃げる場所も何一つなくなってしまった。



※※※
  


硬い音を立てて蛍光灯の下を、歩く靴の立てるコツコツという音。やがて辿り着いたエレベーターから延びる廊下の先の扉の前で、悶々と考え込みながら鍵をバックの中から手探りしていた。

ゴツッ!!

想定外にドアの方が中から開けられてしまって、顔を伏せていた仁聖の頭に開かれたドアかクリーンヒットしたのに正直目から火花が出た。悶絶して頭を押さえるドアの向こう側が、慌てた声で顔を出してくる。

「あ?!仁聖、ごめん!!帰ってきてたんだ?!」
「仁聖?!お帰りって大丈夫か?」

怒りよりも何より痛みに歪んで泣きそうに見える子犬みたいな切ない表情で恨みがましい視線を投げる仁聖に、目の前でごめんとドアを開けた宮内慶太郎がバツの悪そうな顔をする。まさかタイミング良く帰宅した仁聖が頭をこっちに向けているなんて思いもせずに、慶太郎も何気なくドアを開けてしまったのだ。まぁ榊恭平の部屋はマンションの角部屋だから、普段はエレベーターホールまでの廊下を歩く人にドアが当たる可能性はほぼ皆無。仁聖が帰ってくる位しか人が通る可能性もなかったのが、偶々タイミングがあってしまったということだ。

「大丈夫か?あ、瘤。」
「いっ………………たぁ…………。マジで…………。」

あぁあぁ大変と撫でて貰っても瘤は瘤。結構な音を立てて当たっていたので、心配そうに恭平が見つめている。


※※※



あえて仁聖には伝えなかったのは、最初からそうなるだろうと分かっていたからだ。

帰途で事務所に寄った仁聖が八重子から聞いた三科の件を、社長の藤咲信夫に問いかけた答えはそれだった。元々ブッキングの代打として仕事を受けた仁聖なのだから……三科がそう突然言い出してきて、事実信夫はそれを八重子にも伝えて1度カメラテストをさせに向かわせている。それでも結果としてその後も仁聖に仕事が回されているのに、三科も仕事が引き受けられる状況なら自分は終わりにしておけば、そう仁聖は素直に思う。

「そうじゃねぇ。ブッキングを流した時点で、あれはもう三科の仕事じゃねぇ。」

おネエ言葉出なくそう告げた信夫の言葉が思うよりも苦いのは、正論では自分の方が正しいと分かっていても三科の言いたいことも分からなくはないと少しは思っているからだろう。信夫としては社長として事務所側が、オーディション管理までしきれていなかったのは落ち度ではある。が、受かる可能性があるものがあるのにそれを事前報告していなかったのは、勝手に受けた三科の責任でもある。それにモデル達の契約書には、基本事務所を通さない仕事は受けてはいけないと記載されてもいるのだ。それでもそれを容認してやったのは、当時三科は1ヶ月の事務所管理のスケジュールの8割が白紙で、やむを得ず他の業種でもアルバイトをするしかない状況だったからだ。そこに海外の撮影のある仕事をオーディションを勝手に受け仕事を愛でたく貰えたと言われたら、仕方がねぇ先ずは頑張ってこいとしか事務所側としては言ってやるしかない。その上それで向こうの撮影が始まって2日目に、事務所に八重子のブランドの仕事の撮影予定の問い合わせが来たのだ。
慌てて国際電話で確認すると、三科は『知らなかった。南尾にスケジュール調整は頼んでいた。』と言った。
その時には南尾は、もう既に辞めて山奥に引っ込んでいる。お陰で南尾昭義とは連絡が取れなくなっていたから真実は調べようがないし、当人は海外で戻ってくるのにも時間がかかる上に撮影は始まってもいる。そんな状況になったのはスケジュール管理が甘かったのだと、事務所が全て責任を取るしかない状態に追い込まれていた。

事前に言われてりゃ、八重子相手なら調整が出来た筈だ。

少なくともスタジオを押さえ、撮影の予定が組まれる前なら。でもそれすら終わった後では、もうこちらに出来るのは『可能ならこいつを代理で頼めるだろうか?』という苦肉の策。これで当時に仁聖や五十嵐海翔が時間を裂けなかったら、違約金を支払うしかなかったという。三科のランクよりも高い2人が、偶々その日に使えると知っていた社長だから出来たのだ。

「だから、今のこの状況は向こうがお前自身を認めて、使いたいという意向もある。つまりは正真正銘お前の仕事だ。」
「ならどうして、ワザワザ三科さんにカメリハ行かせたの?」
「三科自身が分かってねぇんだよ。自分がしたことの意味が。」

つまり八重子のブランドの仕事は仁聖でないと駄目なのだと信夫は分かっていたけれど、三科が自分の仕事だったと言い続けるから行かせたのだという。そして確かに最初のオーディションでは受かったのだろうが、その後の仕事の積み重ねの結果で相手方は三科では自分達のブランドに合わないと答えを出した。自分達のブランドには合わない三科と、これまでもう何回も仕事をしてきて自分達のブランドにバッチリ合った仁聖。

どちらを選ぶかは、聞かなくても分かる

そして信夫が三科に実感させようとしたのは、それこそ三科が自分で選んだことの結果だからと直に感じさせたかったんだというのだ。



※※※



三科が自分で何を選んだというのかは、正直仁聖にはわからない。とは言え仁聖としてはまぁバイトだし程度の気持ちでやっているのと、三科のように生活基盤がモデルの人間とはどうしても違うと思う。

合わないって八重子さんも言ってたけど、そんなに違うもんなのかなぁ…………

自分がこうしたらどう見えるかなんて、実際のところ仁聖にはまだ感覚的な程度で本職モデルには程遠い。そんな状況で自分の仕事なのにと密かに思われながら仕事をするっていう事を思うと、これには他に良い手はないのだろうかと悶々と考え込んでしまっていたのだ。そしてこんな風に思うこと自体が、自分が彼らとは違って本気で取り組んでいないという証のような気がして悶々と考えてしまう。

「なんか…………。」

自分としては本気でないまま言われたからと何も考えずにやってきてしまったことで、こんなにも知らず知らずに相手を押し退ける結果になってしまった。確かに三科が事前に他の人達と相談して調整していれば問題にはならなかったことだけど、確かに自分がヘラヘラしながら八重子の仕事をしているのを見るのは腹立たしいに違いないとは思う。

このままでイイのか?……………このままで?。

そう迷いながら悶々としていたのだと呟く仁聖の頭を撫でながら、恭平は思わず微笑んでしまう。その微笑みに気がついた仁聖が不思議そうに見上げると、恭平はそんな風に周りを見てたんだなと柔らかな声で言いながら仁聖の額に柔らかな唇を押しあてて口づけていた。
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