鮮明な月

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間章 ちょっと合間の話3

間話77.胡蝶の夢3

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カチャカチャと調理器具と食器の立てる音が、穏やかに朝日の射し込むキッチンの中で軽やかに響いている。もうすっかり手慣れた動きで手際よく朝食の支度をしている外崎了の姿を見つけて、リビングにヒョッコリと顔を出したのは結城晴だ。

「おっはよー、了ー。今日天気いいねー。」
「あ、おはよう、晴。」

今日は早いなと晴に言おうとして、実際には時間としてもそれほど早くはないのに気がつく。時計は既に朝の9時を過ぎていて、普段ならとっくに起きてきていて食後にキッチンの定位置に腰掛け珈琲を飲んでいる筈の外崎宏太の姿がまだ無い。今朝は宏太がまだ起きて来ていなかったので、了の方も時間が過ぎているのに気がつかなかったのだ。

「あれ珍しいね、しゃちょー寝坊?」

雇用主は宏太なので仕事開始の時間が云々(というか従業員の了や晴も割合フレックスで自由業な感じと言えなくもないが、そこら辺はさておき)というわけではないのだけれど、確かに宏太が起きてこないというのは実は珍しいことだったりする。今朝も普段通りに了は宏太と一緒に寝ていたから、了が降りてくる時に起こしてもよかったのだけれど。一緒に眠っていて勿論その時々一緒に起きてくることもあるけれど、最近はよく眠っている宏太を眺めてから頬にちょっとキスをしたくらいにして先にキッチンに了が降りてくることも多い。とは言え了がキッチンで活動し始めて、食事が出来上がる頃には必ず宏太は起きてくるのが普通だ。

「んー?」

昨夜も寝る時は特別変わったこともなかったのだけれど、夜中に宏太は夢見が悪かったと目を覚ましていた。その夢のせいで起きた後、少し情緒的にも不安定になってしまっていたのだ。昨夜宏太が了に見せたのは、不意に夢で目覚めてから目元を片手で押さえ弱い声で呟く姿が脳裏に浮かぶ。

お前が……俺をこう変えた……、こんな風に。

そう囁いたと思ったら、不意に目元を覆っていた手ともう片方の手を了の身体に回してきて。縋りつくように了を抱き締めた宏太が、更に弱々しく了の耳元に囁きかけてくる。今までの宏太の普通とは異なって激しくて強い感情に、自分が戸惑い怯えたりするようになってしまった。その事を了に向けて吐露する宏太の声。

こんな…………訳の分からん…………こんな風に……。

その強い感情を知っても普通の人がするように、宏太は涙にすることも出来ない。それなのに今になってこんなにも強い感情に心が揺れて、泣きたくなることが増えてしまったのだと訴える声。

溢れて…………苦しくて…………。

それを聞いて了は宏太の事を強く抱き締め返して、その震える身体ごと腕の中に引き寄せ頭を抱き締めていた。ずっと了は宏太から昔を後悔してるとは聞いてきたのだけれど、本当は宏太自身が未だにとても傷ついていて傷を癒すことも出来ないでいたのだと改めて知った。それでもこれまではずっと宏太は、これは自分勝手な感傷なのだと自分で言い訳をしてきた。それなのに傍に了がいることで逆に感情の抑えが利かないと、宏太は怯えているのだ。

宏太。

悲しいのに泣けない。泣きたくても泣けない。抱き締めている鬼畜で非情だと言われた男は本当は泣きたくても泣けないだけだし、鬼畜でも非情でもない優しくて不器用なだけ。それを認めて受け入れるのに、宏太には抱き締め変わりに泣く了がどうしても必要なのだと了に胸の内を吐露した。その吐露をしたことで宏太もやっと落ち着いたのか、了を抱き締めたまま子供みたいに宏太はストンと眠りに落ちていて。それからは朝まで魘されることもなく、気持ち良さそうにスヤスヤと眠っていた。だから今朝はなおのこと起こさないように、了はソッと宏太の腕を抜け出してキッチンに降りてきたのだ。
考え込んでいても仕方がない、了はフルッと頭を振って考えを切り替える。

「…………ちょっと宏太のこと、見てくるな。」
「りょーかーい、俺ぇ先に仕事してるからー。」

暢気に笑って一緒にリビングを出て晴が奥の仕事場に向かうのを見送り、了は2階の寝室に向かって軽やかにトントンと階段を駆け上がっていく。大きな家の広いリビング。その吹き抜けになっている側面は外に向かって作りつけられた大きな窓。そのガラス窓の向こうに今は爽やかな朝の気配が漂っていて、陽射しの目映さに目を細めながら了は寝室の扉に手を伸ばしていた。
ソッと開いた扉の向こうはまだカーテンで遮光されて薄暗い、そこに滑り込むようにして足を踏み入れる。宏太が起きているのなら、このくらいの物音でも十分聞こえてしまうだろう。けれど広々としたベットの上の膨らみは、まだピクリとも動かないまま。布団の中に動きがないのに珍しく本当に寝坊なのかな?とソロソロとベットに近寄り、了は息を殺して宏太の顔を覗き込んでみる。

寝てる…………かなぁ?

とは言え宏太は今は目元の傷痕の乾燥防止のためだという何時ものアイマスクもかけているから、覗き込んでも寝ているか起きているのか判別のつけようがない。

んー………………

流石にアイマスクごしの顔を見ていても規則正しい呼吸と、何も身動ぎ一つもないままなのに判断に困る。というかここまで寄っても反応がないなら、寝てるんだと思うのが正解なのだろうけれど。

んんー…………?

それでもふと説明の出来ない何かが琴線に触れる気がして、了は覗き込んでいた宏太に顔を更に近づけてみる。暫し何もせずにただひたすらに宏太の事を見つめていたのだけれど、それでも全く反応がないところは一見すると確かに寝ているような気もするのだが。

………………んー…………と?

不意に了は思い立ったように更に顔を寄せて、眠っている宏太の唇に音を立てて軽く口付ける。途端に寝ている筈だったのに、ブワッと宏太の顔が一気に目の前で真っ赤に染まっていた。

「…………ほら、起きてんじゃないかよ。」

突然に了から目覚めのキスをされて、あからさまに真っ赤に頬を染めてしまった宏太が思わず手で口元を覆う。というか実際には宏太は寝ていなかったのだから、予想もしていない了の不意打ちのキスをされて思わす真っ赤になってしまったのだけれど。

「もぉ、なんで寝たふりだよ?バレてんだからな?」

何故か寝ていないと察した了が、機転を利かせた訳だ。何で分かったのかと聞かれても説明はできないのだけど、やっぱりなと思う何かがあるようだ。まぁ強いて言うなら穏やか過ぎるとか規則的過ぎる…………なのかもしれないと、1年も毎晩一緒に眠っている了としては内心で思うけれど。これからは宏太が寝たふりしてても、俺なら気がつくんだなと思うと少しおかしい。
まさかこうくるとは思わなかったとプチプチと何事かを呟いている宏太に、してやったりと了がニヤニヤと笑いながら少し乱れた宏太の髪を撫でる。それでも了に撫でられるのが心地いいのか大人しく撫でられる宏太の様子は、少し普段とは違う気がして心配そうな視線で了が問いかけた。

「な、…………今日はもう少し寝てる?」
「ん?」

昨夜は夢で余り眠れなかったんだろ?と了がベットの端に顎をのせて問いかけるのに、宏太は少しだけ眉を上げてからそんなこと無いと小さな声で呟く。確かに夜中に一度昔の夢を見て目を覚ましたのは事実だし、夢の内容に少しだけ感傷的な気分にもなった。だから寝不足で起きてこなかったのだと了に思われていたのだと宏太も気がつく。

「いや、そんなことない。あの後寝た。」

了が抱き締めてくれて本当にその後は心地よく眠っていたのだし、それを知っていて了は起こさずにいてくれたのは言われなくても分かっている。今こうしてここで愚図愚図としていたのは、その昨夜の夢のせいじゃない。それは宏太自身よく分かっていることなので、素直に了に撫でられながらそう告げる。

「ならどした?なんで寝たふりだったんだ?」

不思議そうに問いかけてくる了の声に、別に寝たふりなんかしてないと宏太は半身を起こして了を手招く。もう寝ないというから遮光カーテンを開けて陽射しを寝室に取り込み、呼ばれるままベットに上がってきた了を宏太が当たり前みたいにひょいと膝の上に抱き上げる。ところが抱き上げられ脚に跨がるように座らされた了から、もう晴が来てるから変なことするなよと真っ先に釘を刺されてしまう。

「…………変なことってなんだ。ん?」
「うん、今お前がしようとしてることとかだよ。こら、ダメ。」

抱き寄せ何時もの如く身体を早速撫で回そうとしていた掌を了につねられて、宏太があからさまに不満そうにしている。とは言え晴には様子を見てくると言っただけだから流石に下手なことは出来ないんだからなと改めて繰り返されると、ムゥと唸った宏太は不満げに了のことをそのままの体勢で抱き締めてきた。

「こぉら、ダメだって。」
「夢の中。」
「ん?夢?」

夢の中では了はあんなに可愛かったのに。なんて突然訳の分からない事を言い出した宏太に、了が呆れたように見下ろしてくる。もしかして夢と寝たふりと関係あんの?と不思議そうに問いかけられて、だから別に寝たふりしていたわけではないと宏太が抱き締めたまま繰り返す。よく話が分からないが、それでも普段と違うことをした理由は実は気になるから、なら何?と腕の中で了が首を傾げてみせていた。

「別に寝たふりしてたんじゃない、お前の可愛い顔を焼き付けてただけだ。」
「は?」
「お前の可愛い顔が夢に出てきた。」

本当に意味が分かんないと呆れた声で了に言われてしまうが、夢の中に了が出てきてたのだと宏太が呟く。

夢に?はい?

いや、夢を見ることがどうこうではないのだが、起きてこなかったのが了が夢に出てきたからって。なんだそりゃ?
どうやら夢の中では宏太は怪我をしてない状態で、視力もあって足も身体も傷がない昔の身体だった夢らしい。しかもその状態で今の暮らしをしていて、それが余りにも鮮明で現実的だったというのだ。もう見られない今の了の顔を見れて幸せな夢だったのに、いいところで目が覚めてしまったのだなんて事を言い出した宏太にポカンとしてしまうのは言うまでもない。

「…………それで?」
「もう少し見てたかった…………。」

まさかそれで不貞寝してたのかと了に呆れられて、違う、不貞寝じゃなくて反芻してただけだと堂々と宣言した宏太に、堪えきれなくなった了は膝の上で吹き出していた。抱き上げられたまま声を上げて笑う了に、宏太は一体何がおかしいのか分からない様子だ。

「…………バカなの?ほんと時々ワケわかんないな、宏太って。子供か。」

子供なら夢の続きを見ようともう一度寝たりもするけどさぁと笑われて、宏太は不貞腐れたように抱き締めた了のことをベットに押し倒しのし掛かっていた。こらと了がもがきながら逃げようとしても、抱き締めた腕を緩める様子もなく確りと包み込んでしまった宏太がピタッと動きを止める。

「こ、こらぁ!離せって、もぉ!」
「知らん、寝てる。」
「寝てる、じゃない!こら!」

俺は寝てるを繰り返して身動ぎすらしない宏太に抱き締められて、了が子供かと繰り返しジタバタともがき続けている。



※※※



流石に外崎邸は広い邸宅なので、1階の奥にある仕事場と2階の主寝室までは扉も何枚かあって扉は閉じられていれば遮音性も高く物音はそれほど漏れはしない。それでも寝室からの微かに楽しげに笑う声が、パソコンを立ち上げたばかりでそれほど機器の音がなかったし仕事場の扉を閉めていなかったので晴の耳にも微かには聞き取れていて、

ほんと人のこと言えないけど、バカップルだよなぁ…………うん

幸せそうなので別に問題はないけど、楽しそうに笑えるような状況なら様子を見に行く必要はなさそうだ。仕事に関してもノンビリ自分のペースでやっていればいいのだし、自分の範疇に関してはそれぞれが問題なくこなしている。何しろあんな感じでも実は社長の外崎宏太がここでは一番沢山の仕事をこなして、多大な業績を上げていたりするのだ。それを知ったら仕事したらなんて言葉は言えないと思うだろう?ある意味段々この人、本当に普通の人間なのかなと思ってしまう有り様だ。そんな完璧人間なので、顔の傷痕とか何かハンディがないと逆に釣り合わない。

もうさ、何か苦手なものがあればいいんだよ、虫が怖いとかさぁ?

そんなことを考えるけど、今のところ宏太の不得手と言っても了に怒られるのが怖い位しか思い付かない。狭山明良もなんかあったら人間味があると思うなんて呆れ混じりに呟いているけど、地味に晴としてはこのまま年を取ったら明良もその口になりそうな気がしなくもなかったりする。
それにしても多分これは午前中は降りてこないだろうなと、既に暢気に晴に考えられているとは、了は気がついていなかったのだった。
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