鮮明な月

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間章 ちょっと合間の話3

間話59.『哀』を感じる

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トントンと弾むような足取りで、見覚えの無い街並みを跳ねるように歩く。この街は普段暮らす街ではなく少しだけ電車に乗って東に移動しているのだけれど、少し都心に近いせいか普段いる街より賑やかかもしれない。

「…………後悔、かぁ。」

何気なく冷えきった夜風の中で一人そう呟くが、後から悔いるなんてのはとても贅沢な思考回路だと思う。何しろそれには後悔できるような記憶がちゃんと頭の中に刻み込まれていて、あの時こうしたら良かったとかこうするべきだったと後々に悔いることが出来るということなのだ。それは本当に羨ましいことだと思うけれど、その感情は多分理解して貰えない。後悔が出来ない立場なんてきっと普通に生きていたら想像もできないのだろうけれど、それなら一度こう考えてもみて欲しい。

「後、悔…………ねぇ…………。」

例えばテレビのニュースに海外で起きた全く知らない土地で知らない人種、しかも別段世界的に有名でもなんでもない人物の事件が起きたとしよう。あなたはそれに対して後悔できるだろうか?自分がこうしていたら、この事件は起きなかった筈だと後悔できる?出来る訳がない。そんなの自分が関わらなかったから、全く関係ないだろうって?じゃあ、もし旅行に行って旅先の旅館で出逢った客が、翌日自分と同じ時間に旅館を出てその後事故に遭ったら?もしかしたら出掛けの一瞬に一言でもその人と話していただけで、相手の運命が変わったかもなんて後悔する?

記憶がないってことはそう言うことだ。

都会で生きていくには大して問題はないのだけれど、生まれて育った記憶がないことは自分という存在を確立することも難しい。何しろ人と交流することがないから、感情は平坦で波も無いまま過ぎていく。何しろ他人との交流は『喜怒哀楽』に満ちていて、喜怒哀楽って言うのは多かれ少なかれ人間の生きるための基準。どれもあることにはこしたことがないが、ある程度は平均を保つのが正しい。そしてその中でも特に『哀』ほど、生じるための条件にバランスの悪いものはないと思う。

記憶がなきゃ、哀しめない……記憶がないことを哀しむには材料が少な過ぎる。

案外他の『喜怒』に関しては記憶のある無しにか変わらず相手が他者でも生じることは多いし、『楽』は他者がなくとも感じることが出来る。だけど『哀』に関しては他者に興味があって、なおかつそれを記憶してないと十分に哀しむことすら出来ないと来ているのだ。

哀しむにも、…………先ずは、人の顔が分かんないとなぁ…………

地図、地形、住所。そんなものは簡単に記憶できても、人の顔が記憶できないとなるとコミュニケーションは格段に質が下がる。確かに誰にしても知らない相手とのコミュニケーションというものはとりにくいものだし、しかも何度会っても忘れる部類の相手のことは記憶できずに忘れてしまう。例えば自分を元々知っていたりすると相手はその記憶で自分に『知っている』とアピールをしてくれるのだが、そんな人間はこの近郊では既に早人数がいないのも自分は知っていた。そうなる全く知らない方の人間とコミュニケーションをとる方が容易く、何故かとある一定の感情を持っているタイプの人間は自分に興味を持つ。その上そうでない大概の人間は、奇妙なことに自分に気がつかずに視線を向けることすらなくなるのだ。

「んー、名前聞いとけば良かったか、なぁ…………、まあまあだったしなぁ。」

そう思わず呟いたのは今日出逢った柔らかな茶色の髪をした青年の表情が、ここいら近郊に住んでいる筈のお気に入りの女子高生に似ていたからだった。人の顔の記憶に障害のある自分の数少ない記憶される相手、それは少ないが実は何人かいて地道にそう言う人間を増やしてみようと努力はしている。

「似てる、だと、覚えてるかも?」

記憶の琴線に触れる理由は、それぞれに特殊な一面があるからだと最近は自分でも思うようになった。とは言えお気に入りのあの女子高生でも、流石に長期間会わないでいると名前は離れていると忘れてしまうのだけど。

「そう言えば、今は入試中、だったっけー?クオッカ。」

暫く前に久々に傍に行って気がつかれないように眺めていたら、そろそろ入試だと同級生らしい同じ学生服達の一団とクオッカはキャアキャアしていた。今日出逢った青年はクオッカの親戚ではないと言っていたが、クリンとした目でパチクリしながら人の事を見つめるあの仕草は可愛い。

子猫?子犬?んー…………でも、笑うとヤッパリ、クオッカだよなー…………。

そんなことを考えていると、不意にグゥと空腹に腹がなったのに気がついてしまう。こちらに戻ってきてからというものの、探しても探しても自分は大事な人に会えなくている。その人に会えないから、ご飯を食べさせて貰えない。だから、過剰に糖分や栄養補給をどんなにしても、どうにも燃費が悪くて直ぐに飢餓感に苛まれる。仕方ないから空腹を紛らわそうと、さっき気にかかったものに無理に意識を向けていた。

自分が甘いもので、哀しそうな匂いを消してやったのに…………。

実は付かず離れずこんな知らない場所にまで来たのは、クオッカに似た青年にもう一度それを思い出させた相手を密かに尾行してきたからだった。歩きながらその背中を見つめて微かに舌舐りをするのは、その男からも同じ様ではあるけれど少し別種だとは思うものの『哀』の湿った匂いが漂うからだ。

…………感情には匂いがある

そんなことはないと思うだろうか?なら、ためしにネットでいいから調べてみるといい。『恐怖の匂い』と言うものは学説として、既に研究されてもいるのだと簡単に出てくる。生き物が恐怖感に反抗して身体から出てくる『恐怖の匂い』を、ラットは嗅ぎとることが出来ると言う論文を見つけることが出来る筈だ。恐怖に臭いがあるのだとこうして分かっているのだったら、他の感情にも匂いがあることを否定する要素はないと思うだろう。
コツコツと足音をさせて近づくのに、やがて相手は何気なく振り返り視線を向けてくる。もし、その後相手が自分に何か感じるのなら………………自分とこの男の話しはそこから始めるのだから。



※※※



翌日。早朝というよりは少し遅いといった方が正しいのだろうけれど、基本フレックスタイムな《t.corporation》というコンサルティング社は打刻のタイムカードは個人のパソコン内にあるプログラムだったりもする。一応勤務のタイムカードはパソコン起動と同時に打刻される設定なので、外崎宏太がまだ仕事場にいなくても勝手に結城晴や外崎了は仕事を始めていたりするのだ。そんな裏話は兎も角、仕事場に宏太達が来ていなくても先に晴は仕事場に入って自分の仕事を先に進めたりしているのが通常営業だったりするのだが、今日に限っては晴は仕事を始めるようパソコンを起動してからリビングに顔を出す。

「昨日はごめんなさい!!すみませんでした!!」

出勤してきて真っ先にそう大きな声で宣言して頭を深々と下げた晴に、今朝は寝坊でもしてしまったのか遅めの朝食後の珈琲を宏太はノンビリと楽しんでいる。片付けをしている了の様子を直ぐ傍で伺いながら、珈琲を飲んでいた宏太が晴の言葉に何の事だと言いたげに変わらない傷痕だらけの顔を向ける。
最近では慣れてしまったのか宏太は自宅の中ではサングラスはあまりかけなくなったし、周囲の人間も傷痕どころか歪んだ義眼ですら慣れてしまって驚く要素もないのは言うまでもない。

「昨日?」
「八つ当たりで、酷い事言いました!!すみませんでした!!」

ああ……と今更のように昨日の事を思い出したのか宏太は再びノンビリと珈琲を啜り、別に気にしてないなんてことを穏やかな口調で言う。そんな想定外の穏やかさで対応されたものだから、晴は薄気味悪そうに下げた頭を傾げて宏太の顔を覗き込む。

「それで…………いいの?しゃちょー…………。」
「あ?」
「減給とか、なんか言われるかな~って……。」

流石に昨日のあれで減給なんて、どんなブラック企業だと怒鳴ってやろうかと一瞬思うが、この憎まれ口をみると少なくともここ数日の気鬱から晴のメンタルも何とか復旧した様子だ。そんな何時も通りの晴に宏太は内心では安堵しながら、ボスッと晴の頭に手を落とすようにして乗せる。ワシャワシャと撫でてから肘掛けに乗せるみたいに力を抜いてやると、手が重いとピイピイ雛鳥みたいに泣いている。パタパタしている晴に笑いながら、了が朝食の食器を片付け終えたのを確認すると宏太は迷いの無い動きで仕事をするかと立ち上がっていた。その姿にやっと手が外れて頭の軽くなった晴が、昨夜明良と再三気持ち良くなった後の夢の中で思い出した事を口にする。

「あ、そーだ、しゃちょー。」
「なんだ?」
「いつだかさ?しゃちょーのハプバーの話したじゃん?」

あすこはハプニングバーじゃねぇと、宏太が呆れたように相変わらずの訂正を口にしてくる。と言うのも過去に宏太が経営していた《random face》という駅の北西の路地裏のバーは、本人はそうするつもりがなかったとは言っているが内情は所謂ハプニングバーだったそうなのだ。表のバーと店舗奥に秘密のパーティールームがあって、奥のパーティールームでは何をやってもいい酒池肉林の無法地帯状態だったのだというのだ(後から聞けば元々そのバーはSMバーとして経営されていて、そこに勤めていた宏太が経営者から居抜きの物件として購入しバーを経営したそうだ。つまりは元々パーティールームではSMショーをやっていたということで、そこの設備の存在はしれわたっていたからバーとして再出発した後も需要があったということらしい)。
ただ現在ではバーは既に閉店していて、そこは『耳』の中継端末や諸々の機材の設置倉庫の一つになっている。奥の部屋云々ではなく扉を開ければ壁ぶち抜きで多量の機材が動いているわけだから、あそこがバーだったと知らない晴は何度か中に入っていても随分立派なキッチンがあるな位にしか思っていなかったりするのだ。そんなわけで時折端末のバージョンアップや保守管理のために宏太だけでなく晴や了も足を向けることがあるが、基本的には余り頻繁には人が向かわない場所になっているのだ。

「そこの前でさ?同じ年くらいの若そうなに~ちゃんに声かけられたって話したの、しゃちょー覚えてる?」

想定外のその言葉に歩きだそうとしていた宏太がピタリと足を止めただけでなく、僅かに様子を変えて振り返ってきたのに晴は目を丸くする。しかも普段とは違って真顔で人をからかう様子もなく真っ直ぐに詰め寄ってきた宏太に、晴は思わず後退りながら驚く。

「何で今更アイツの話だ?」

以前この話をした時にはハプニングバーだったという店舗の話に変わって、それほど話しかけてきた青年に関しては重要視されなかった筈だ。それなのに今の宏太は途轍もなく真剣に晴に詰め寄ってきていて、晴の方が改めてそれに驚いてしまう。それはつまりあの話の後に、宏太があの時晴が誰と出逢っているかをどうにかして確認していたということなのではないかと気がついてしまった。確か店舗の外観には倉庫に近づくのが見れる監視カメラなんかはないが、あそこに行く迄の監視カメラの位置は全て確認してある。それに店舗の中には幾つかカメラがあると、了が何気なく以前話していたのを聞いていた。それは兎も角

「え?あ?いや、昨日偶々…………。」
「会ったのか?どこでだ?!」
「え?あ?なに?あのに~ちゃんって、もしかして社長の知り合い?え、ええ?南口の東側の駅前通りだけど…………。」
「直に何か話したか?何もされなかったか?」
「え、えええ?……俺、ケーキ奢って貰っちゃったけど?」
「は?何?ケーキ?」
「う、うん?凄い気さくにお茶して話して、颯爽と去ってったけど。」
「ああぁ?」

昨日出逢った青年に喫茶店でケーキを奢って貰ってお茶して別れたと晴が説明したら、とんでもなく訳が分からないと言いたげな宏太の反応が帰ってきた。素直に説明した晴の方も戸惑うしかない様子で宏太を見上げていて、キッチンから出てきた了も何事かと首を傾げている。

「なんだそりゃ…………。」

そう何処か脱力して絶句している宏太の様子に、晴と了の二人はどういうこと?と不思議そうに顔を見合わせるしか出来ないでいた。



※※※



頭が痛い。
吐き気がする。
苦しい。
息が出来ない。
頭の中に唐突に沸き上がる思考はメチャクチャで、まるで繋がりもなく脈絡も辻褄も合わない。それ後何を意味するのかすら見えないのに、そこには表現の出来ない苦痛があって。そして同時に説明のしがたい激しい電撃のような快楽も、腹の奥にジリジリと存在していた。
耳鳴りがする。
目が見えない。
暗い。
何も見えないのは何でだろう。これは一体何が起きているのだろうと頭の何処かが冷静に思うのに、その答えを導き出せる要素を見いだすことが出来ない。
誰か…………
そう頭の中で思っても、誰に助けを求めたら助かるのかすら分からないまま。やがて意識は深い暗闇の中に落ち込んでいくのを、自分ではどうやっても止める手立てすら見つけられないでいたけれど。それを自分が『哀』しむには、この暗闇は何もかもが失われているとしか言えないのだった。
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