鮮明な月

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間章 ちょっと合間の話3

間話35.有り得ない

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暫く前の自分が陥ってしまった一時的な健忘がどれだけ外崎宏太にとっては多大な苦悩と不安だったのかを、当事者でもある外崎了もこうして改めて知らされている。三浦和希を追跡して矢根尾俊一と鉢合わせ、「知っている」とニタニタ歯を剥き出して笑いながら告げられた瞬間の絶望。それは今にして考えればだからどうしたと言う類いの言葉なんだろうが、あの時は何故か酷く絶望してこの世から消えてしまいたいとすら思った。それに風間祥太に後日聞いたら矢根尾がマトモに発する言葉はそれだけだと言うから、実際にはあの言葉に了に向けられた意図はなにひとつないのだろう。それでもあの時は矢根尾が自分の事をまだ記憶していて、自分には幸せになる権利はないと悪魔にでも囁かれた気分になってしまった。

その結果が、矢根尾との事に関係する全てを忘れたいと言うあの時の願いだったのだけど…………

それを願うと自分の生きてきた半分くらいがアヤフヤになり、結果として宏太の事まで表立っては了の記憶から閉ざされてしまった。まぁ後日結城晴や榊恭平に言わせたら、殆ど忘れていても行動は何時も通りだと見えていたらしいから何なのだろうとは思うけれど。それでも自分の事は何もかも忘れてしまったのに他の友人の事は記憶していた了の姿に、宏太がどれだけ傷ついていたのか。例えその後に元通りに回復したとは言え宏太にとって、自分の事を他人のように呼んだ了は途轍もなく傷ついていたのは理解したつもりだった。

「こぉた………………。」

それが再び起こる危険性を持った男が関係する事だから。だから宏太は了には何も告げずに、風間からの依頼を自分一人で出来ることだから内密にしてしまおうとした。それがこうしてバレたのは依頼をしていた風間の方から宏太宛に電話してきて、先日の伝言の件だが何時なら都合がいいのか宏太に聞いて欲しい、そう伝言を頼んだからだ。どうやら宏太は件の音源の中に何か気がついた様子で、風間と密かに連絡を取ろうとしてタイミングを誤ったのだろう。そこから宏太が密かに風間と何かをしているんだと問い詰められ、結果はさっきの言葉なのだ。

バカだな………………ホントに…………

自分の弱さで了が過去から逃げ出したくなったのは事実だったけれど、逃げてしまっても結果は変わらないし、宏太の存在は自分にとっては何よりも不可欠なものなのに。この間のような矛盾した混沌の中で自分が性的な過去を抹消したいと強く願ったのは確かだったけれど、だからと言って宏太のことを失いたいと願った訳じゃない。宏太も知っいることではあっても自分の心の傷になって心配をかけている事だけを消したかっただけなのだと、それを言葉だけで説明するのは凄く難しい。それでも今の了にしてみたら、宏太が自分がいればもう大丈夫だと言ってくれるのと何も変わりないのに…………

「こぉた。」

他の誰を呼ぶでもなく宏太を呼ぶ時の自分の声は、普段より一際甘えた声になる。そんなことは了自身が等の昔から気がついているし、それは自分だけの特権だとも思う。他の誰にもこんな風に甘えた呼び方はしないし、他の人間が宏太の事を呼ぶのとは訳が違うから。宏太の膝に座り首元に腕を回して抱き締めながら、もう一度耳元で甘い声で名前を呼ぶ。それだけで宏太が、こうして何よりも幸せそうに微笑むのも知っている。

「………………でも、それとこれとは別。」

不意に抱き締められていた首元に回された腕か緩み、スルリと了の体温が宏太の耳元から離れる。それとこれ?一瞬何を言われたか分からない様子の宏太に、了はスゥッと表情を消して目を細めた。

「こぉた、俺は暫くゲストルームで寝るから。」
「は?!」

うん、確かに了にだって宏太の気持ちは良く分かったし、自分には告げずにそうした理由もちゃんと理解はした。理解したけれど了は許すとは一言も言ってないし、大体にして約束は約束だ。どんなにそれが不安材料だろうと了に秘密で危険なことに首を突っ込まない、どうしてもの時は自分には絶対に何をするかを話す事。怒らせるようなことや泣かせるようなことはしないためにも、それは絶対に守るという約束をしてある。理由を言ったから許して貰えると思って気を抜いていた宏太の傷痕のない滑らかな頬を両手で思い切り左右に詰まんで、了は怒りに震えているのを隠しもしないままスゥッと大きく息を吸いながら言い放つ。

「勝手なことしないってもう何回約束した?!あ?!危ないこともだ!!言ってみろ!!」

ううっ!と痛みに呻きながら言葉に詰まる宏太に、了はお前だけが心配だと思ってんじゃねぇ!!と不機嫌を隠しもしない声で言い放つと、跨がっていた宏太の膝からスルリと立ち上がり踵を返したのだった。



※※※



忌の際の音源なんてものを繰り返し聞き続けるなんて、正直言えば自分でも悪趣味だなとは思う。

ある意味セックスのクライマックスの部分である盛大な喘ぎ声だけを、延々とエンドレスで聞いているのにも似ている。そうじゃなきゃホラースプラッタ映画の惨殺シーンだけを何時までもエンドレスで聞き続けるとか、まぁとことん不快でマトモではない行動であるのは言うまでもない。

風間が疑問だったのは、矢根尾が刺殺されようとする最中に一度も叫ばなかったことだ

矢根尾俊一と言う男をよく知っている自分だって、この音源を聞いていて正直疑問には感じる。何しろこの矢根尾と言う男は自己中心的で自己陶酔型、しかも強度の自己顕示欲の塊みたいな男だった。それは実は離婚の後に次第に社会性を失って人間らしく生活が出来なくなっていっても変わらず、常に自分が良ければ全て良し、自分の不遇や不満は全て他者のせいだった。
そんな矢根尾俊一と言う男が今から殺される、しかも一撃ではなく何時までも嬲り殺しにされるのに、相手を批難する言葉を一度も吐かない。宏太も風間も病院に隔離された矢根尾が今では完璧に頭がイカれていて、おうむ返しすら出来なくなっていたのは知っているのだけれど。

『そうなんだよ……うん…………、知ってるんなら…………そうだよな、俺もそう思う。』

ところが音源の中の矢根尾はスラスラと、誰かと会話を交わすように言葉を溢しているのが聞こえる。風間が言うには隔離された病室では矢根尾はこんな風に壁に向かい何時までも話続けていたと言うのだが、人間に対峙すると途端に『知ってる』の他の幾つかの言葉を繰り返すしか出来なくなるのだ。

何を知っているんだ?

あと数分で死を迎えるというその時も矢根尾は平然として何かと話しを続けていて、唐突にその時が訪れるのだ。不意に訪れるほんの数秒の空白。その後に耳にした音源の中には奇妙な音が始まっていて、矢根尾がゴボゴボと口から血を吹き出しながら何かを呟くのだけに変わる。

このほんの数分の空白が大きな問題なのだ。

矢根尾がいたのは病院の隔離病室で、矢根尾以外にはその時誰もいなかったのは言うまでもない。一人きりで鍵のかかったままの隔離された部屋の中にはスポンジの壁なのは言うまでもなく、当然刃物に類するものは何一つ置かれていないのだ。
誰もいない筈の空間に、誰かが出現するほんの数秒。しかもこれに音源しかないのは、矢根尾が監視されていた筈の映像媒体の方は完全に記録の媒体事態が破損していて、原因は24時間の監視を寝ん単位で続けてきた経年劣化なのかすら分からないが復元すら不可能な状態だったからだ。

まるで殺される為に壊れたみたいなもんだ…………

それでもそれが意図した破損であるかどうか分からないのは、記録媒体の破損はその日の何時間か前からのことで誰もが気がついてもいなかった。風間の手元に来たのが音源だけになってしまったのは、そのせいのようだった。
因みに何故風間の手元に音源がと思うだろうが、勿論矢根尾の事件を風間が担当していたと言うだけの事で別に他意はなかった筈だ。
偶然なのか何なのかこうして表立っては隠されて殺された矢根尾は、何とか聞くことの出来る音源では奇妙な事に悲鳴すら上げていない。宏太が三浦和希にされたように喉を潰された訳でもないのに、殺されようとしていて悲鳴の1つも上げないまま殺されるなんて。

それほどの何が覚悟のある男だったなら兎も角、相手はあの矢根尾だ…………

矢根尾のことを表現すれば自尊心は異常なほどに強くプライドの塊の癖に、まるで社会性を伴わない権力には格段に弱い人間。過去には弱者には暴君として君臨することを良しとした男は、多賀亜希子と言う哀れな女を蹂躙し続けた。金を搾取し日々ゲームや女遊びだけ興じて暮らし、彼女が言うことを聞かない時には性的なことを含めて暴力をふるって。ノイローゼになるまで妻を追い込んでいた男に、妻の方が三行半を突きつけたのは十年も前の事になるのだ。
一人きりになった矢根尾は日に日に異常に変わっていく。
何しろ既に一昨年になるが、バイト先の塾の生徒である女子高生をレイプして暴力で支配していた。それから女子高生を助け出すために、宇野智雪から助けを求められて宏太自身が関わったのだ。そうして鳥飼信哉と土志田悌順に踏み込まれて女子高生は助け出され、矢根尾は子供が駄々を捏ねているような状態で警察に捕まった。その後も矢根尾は何度か宏太の仕掛けた罠にかかって、自分が弱者になった時にはあわれな悲鳴を上げ続け泣き叫ぶ。でも矢根尾が以前からそんな人間であることは外崎宏太だけでなく、久保田惣一も松理も、風間祥太ですら十分すぎるほど知り尽くしている。

生まれ持った性根はかわんねぇからな…………フィ…………

多賀亜希子……倉橋亜希子でも構わないが、彼女の方がきっと胆が据わっていた。彼女はどんなに暴力にさらされても悲鳴も上げてこなかったから、周囲は彼女の苦悩に気がつくのが遅すぎたのだ。そして遅すぎたのは自分もだった。元がSMと言う性的嗜好での交流だったからと言うこともあったし、宏太は彼女が連絡を断ってから自分から連絡を取ろうとはしていなかったのだ。

『…………ゴポッブェ……ブバッ……ブホォッゴポポ…………。』

悲鳴ではない、何か言葉を発しようとして口から血が溢れだす濁った音。この程までの血の溢れ方は恐らくは、肺が傷つけられて呼吸もままならない筈だし、それほどの傷を負わされているのだから痛みは計り知れない。

『…………ゴポッ……っブヘェ…………ブだ…………ん……ブォ……ゴポポ…………。』

それなのにその矢根尾俊一が自分を傷つけられてこんな風に何かを呟き続けて悲鳴すら上げないなんて、おかしいにも程があるのだ。
だからこそ空白の数秒の間とゴポゴポと口から溢れだす血の音の向こうで矢根尾が何を呟き続けているのか、その二つを聞き取れないかと風間が宏太に頼んできたのだろう。

謝罪ではない………………、多分何かの言葉…………繰り返されている…………

十文字前後の言葉を繰り返し、繰り返し、事切れる迄。刺殺と言われても刺されている音も聞こえていないのに、発見された矢根尾の遺体には幾つもの深く切り刻まれた傷跡だらけ。しかも死因はその傷からの大量の失血による失血死なのだ。

有り得ない…………


※※※



そんな音源を了に聞かせるわけにはいかない。

そう思って知らせなかったのだと正直に理由を口にしたから了も自分の事を許してくれたような気がしたのに頬をムリムリとつねられて、しかも怒りに踵を返して了がさっさと階段を上がっていったのを聞いてポカーンとしてしまったのは言うまでもない。階上でゲストルームのドアの閉じる音がしてやっと何が起きているか宏太も気がついたくらいで、あれ?これはどうするべきなのかと暫し考え込んでしまう。

こんな怒りかた…………ってあるもんなのか?

叩かれるとか蹴られたことは了だけでなく何人かにはされたことがあるのだが、こんな怒り方っていうものは経験がないから初動が遅れてしまっている。だから、天岩戸よろしくゲストルームの扉を閉ざされたのに気がついたのは、数分後の事だったのだ。

…………誤っても駄目だった…………どうしたもんか…………

ゲストルームのドアの前で立ち尽くしてそんなことを考え込むのもどうかとは思うが、ゲストルームの中では既に物音もしないところを見るとベットに横になったのだろうか。誤るのも駄目で誤魔化して雪崩れ込むも無理だろうし、何か方法を考えようにも上手く頭が回らない。それでもここから離れることも出来なくて立ち尽くしたままどれくらい経っただろうか。唐突にドアが開いて、肌に了の視線を感じとる。

「…………何時まで立ってる気だよ…………。」

不機嫌そうなのを隠しもしない声に、何故か言葉に詰まる。
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