391 / 693
第十六章 FlashBack2
235.
しおりを挟む
不思議なものでつい一年前まで『茶樹』に来ていた辺りには、この店に来ても外崎宏太は一人きりで誰とも接することなくカウンターに腰かけて味を確認するためだけに珈琲を飲んでいたものだった。味を確認するためにというのも、嗜好品として味を確かめていたわけではない。他の食べ物の味が分からない中で宏太が、久保田惣一が入れてくれる珈琲だけは、幾分だが珈琲の苦味やほんの僅かな酸味や甘味を口に含んだ時に微かにだが感じられたのだ。
他のものには味がしない……でも惣一の珈琲は少し分かる…………
あの時の宏太に味が分かったのは唯一それだけだったから、時折それが失われていないかを確認するために宏太はこの店に来ていなようなものだった。少なくとも完全に何もかも味が分からないのではないと確認することで、糸のように細い希望の光に縋りついていたのだともいえる。お陰でその時分に鈴徳良二が宏太の味覚異常を知って、何とか味が分かるものを食べさせると料理人魂に火がつき躍起になっていたのだが。
多分…………
今になって理解できるようになったのだが、恐らく宏太の味覚障害の原因は医者の言う通り機能的なものではなくて心の問題だったのだと思う。昔何事も問題なく暮らせていたのは、きっと少しは味は分かっていたんじゃないだろうかと今は思うのだ。確かに食に対しては意欲はなかったし旨いと感じたこともないが、少なくとも幼馴染み達と口にしたもの位には味は感じていたと思いたい。それにこうして了が教えてくれる味は最初から問題なく味として感じたのと、惣一がいれてくれた珈琲だけは僅かにとはいえ味が分かったのも多分同じ理由なのだ。あの時何も口にしようとせず、宏太は勧められても一向に何も口にしようとしない状態だった。そんな宏太を見かねて先ずは少しでも口に含んでみなさいと手をとって珈琲を勧めてくれた惣一は、当時の宏太にとっては最も身近で家族よりも身近な存在だった。言い替えれば、惣一が気を許していられる相手だったということなのだろう。
それが今では珈琲だけでなく他の食べ物や飲み物の味が、了がいるお陰でこんなにもハッキリと分かり始めて世界まで変わり始めていて。しかも高校生やら何やら年の離れた奴らにまで、こんな風に親しげに話しかけてくる人間が一気に増えてもいる。
不思議なもんだな…………
こんなことになるなんて考えもしていないし、この関係性の広がりは宏太にしてみても実は苦痛でもなければ不快でもない。遂には昔に断ち切った筈の弟との関係までまた繋がり初めもしていて、先日はどうやって知ったのか弟から大量の海産物が送りつけられてきたのには流石に驚いた。これにはどうやら外崎綾と了が、宏太と外崎秀隆兄弟の知らないところで密かに交流関係を構築していたらしい。思わず嫁同士仲がいいのはなによりと皮肉を言ってしまったら、後ろから了に脛を蹴られたのはここだけの話し。
「宏太、先方はどうだった?」
「ん、まぁ見込みはありそうだな。」
和やかに惣一に聞かれた宏太が珍しくスーツ姿なのは表のコンサルティングの仕事の関係で、金子物流の担当者に改めて仕事を申し込まれたからでもある。今迄会長の名前で君臨していた前社長が急遽退陣して全権が完全に今の社長に移り、改めて培った物流を活用して近隣の飲食店向けの新たな販路に繋ごうというところらしい。そう言う意味では惣一や近郊の飲食店の経営者とも関わりのある宏太のような、腕のいいコンサルタントを導入したかったというところだったのだろう。流石に顔合わせと企画を確認する初回に結城晴や外崎了では幾ら腕は良くても若過ぎるのもあるし、仕事相手としては大口なのでやむを得ず社長自ら顔を出したというわけだ。
「じゃ、またー。」
「晴君、了さん、外崎さん、マスターさんもまたねー。」
「晴ー、お待たせ!遅くなった。」
「じゃーねー。」
「あ、明良、お疲れー。」
進路関係の質問責めがやっと終わって高校生達がそれぞれに挨拶しながら捌けていく。それと一緒にここで待ち合わせていたのか、狭山明良と結城晴も連れだって呑気そうに「しゃちょー、じゃ直帰ねー」と店を出ていく。それに答えてこちらも呑気にヒラヒラと手を振る宏太の隣に、イソイソと解放された了がやってきてスツールに腰かける音が静まり返った店内に微かに響く。
「マスター、明日の準備が終わったら俺、佐倉と一緒に上がりますよ?」
「うん。悪いね、良二。」
店内の若い喧騒が止んで夕飯時の街並みから少し離れた『茶樹』は、これから少しの間は客足が遠退いてアルコール販売の始まる時間帯迄は少し静かになる。と言うかアルコール販売時間帯は決まった客しか来ないことが多いから、その間に最近の惣一は一旦自宅に戻って妻との時間を過ごす事が増えた。
実はホールスタッフに新たに加入した佐倉は鈴徳良二の交際相手で、夕方松尾むつきが上がった後に惣一が自宅に戻ったりする時間を確保するためにスタッフとして雇われたのだ。と言うのも以前は夜の仕事中心で酒類に詳しく女性ながらにバーテンダーもした経験があるのだそうで、アルコール販売の時間帯にも対応できるのだと言う。それでも最近は久保田松理の体調も落ち着いているので、惣一が不在でスタッフが佐倉と鈴徳だけになる時間は今はあまり長くはない。それに以前は定休日がなかった『茶樹』には、ここに来て惣一が愛妻のために過ごす目的で定休日が設けられもしたのだ。何しろ実は既に二十年近く松理にラブコールし続けた惣一は、結婚は想定外だったしそれ以外の事も一気に進展を見せたわけで。何より惣一は、松理が第一優先事項なのは変わらない。
「松理ねぇさんの調子は?惣一さん。」
「順調だよ、了君。最近は体重も元に戻ったしね。」
もう一人宏太の幼馴染みという高齢出産を控えた知人もいるのだが、異様に順調な妊娠期間を過ごす鳥飼梨央に比べると久保田松理の方が実はかなりリスクの高い妊娠ではある。元々久保田松理は不妊症で、自分はセックスしても妊娠しないから惣一とは結婚はしないなんて宣言をしていたくらいなのだ。それにしても悪阻が酷かった松理もその期間がやっと落ち着いて、今は安定期に入って既に6ヶ月の妊婦。胎動が始まって惣一の発揮され始めた親バカぶりに、日々呆れ半分笑い半分と言うところらしい。
方や幼馴染みの鳥飼梨央は双子を腹にいれての7ヶ月目での異常なほどの順調さで、鳥飼信哉曰く梨央は47歳にして本気で自然分娩を狙うらしい。双子だけでもかなりのリスクなのに、そこで自然分娩を狙える事自体既に異例なのだとは思うが、夫の信哉は「まぁ、大丈夫かなと思ってます。」ときた。もし今母親の鳥飼澪が生きていたら、何故かそれに賛同する気がしなくもないのが鳥飼の血筋のような気もする。
そんな風に穏やかにそれぞれの妊娠期間が過ぎていくのに、宏太にしてみても随分と不思議なものだとも思ってしまう部分はあった。
まるで、ここに来て何もかもが動き出したみたいな気がする…………
何か世界のスイッチが一気にONに切り替わったように、突然全てが一気に動き出したような感覚。ここに至るまで何もかもが何処かに密かに塞き止められていて、突然準備期間が終わって動き出したように何もかもが動き出して変わり始めている。それを思うと自分が今迄何も出来ずに見逃して来てしまったことも、今なら違う見方が出来はしないかとも思う。助けたくても助けられなかった幼馴染みや妻や義弟、上原杏奈の事を忘れるわけではないけれど、ただ自分の無力さを嘆くだけではなくて、今に繋がる何かがあったのだと思いたい。
「宏太?どした?」
暫く黙り込んだままでいたらしい宏太に、隣から不思議そうに了が顔を覗き込んで問いかけてくる。あんなにも頑なだった自分の何もかもを変えてしまったのは、了が自分の元に来てくれて自分の何もかもを塗り替えてしまっていくからなのは宏太にだって分かっている。そして自分の見方が今はこんなにも大きく変わったから、自分の周りの全てが動き始めたように感じていることも。
もし、…………せめて了と出逢って直ぐ気がついてたらな
そんな出来もしないことも考えてしまうのが後悔というものなのだと最近になって知った自分に思わず苦笑いしながら、それじゃ俺達もそろそろ帰るかと宏太は珈琲を干してユッタリと腰をあげた。そんな宏太に了は賑やかに頷いて、当然のように宏太の手をとって歩き出している。
既に夜の帳が落ち始めている大通りを男二人が手を繋いで歩くと言うのは正直目立つのだろうけれど、それに関しては宏太の白木の杖と濃いサングラスは非常に役立っていた。何しろ白木の杖だと気がつけば、宏太が目が見えないのだと理解してもらえるから、手を繋ごうと何も違和感にならない筈。それでもそれを差し引いても、だ。
やっばり、カッコいい…………よな
片足を少し引きずる歩き方と白木の杖を片手に濃いサングラスをかけているとは言え、背筋の延びたスーツ姿に思わず了が見惚れてしまうのは惚れた欲目なのか。空いた片手を了に繋がれて横を歩いている姿に白木の杖だからと盲目なのだと気がつく人もいれば、気がつかずに通り過ぎてから奇妙な組み合わせの二人をマジマジと振り返ってみる人間もいる。別に宏太が気にしている訳でもないし見られたから何だと言うわけではないのだけれど、やっぱり以前より宏太が人目を惹くようになっている気がして少しだけ気にかかってしまう。
金子の娘の事だってあるし…………
宏太は自分の男、なんて大っぴらに叫んだらいいのかなんて妙なことを考えてしまう。でもこんな風にスーツ姿で歩かれると余計人目を惹くからあんまり着させない方がいいのか、でもこの近郊では宏太は割合良く見かける人物だろうから服装は関係ないのか。馬鹿げたことを考えているよなと自分でも思うけれど、ついそんなことを考えてしまう。
「…………どうした?了。」
繋がれている了の手から微かに違和感でも感じたのか、不思議そうに覗き込むように顔を寄せる宏太に思わず了は微笑んでしまう。触れた肌から自分の変化に気がつくけれど、それが何なのか迄は分からない宏太。それでも自分を何よりも大事にしてくれているのは、ちゃんと了にだって理解できるようになった。
「何でもない、宏太は格好いいなって思っただけ。」
「あ?何…………言ってんだ…………。」
問いかける言葉が突然途切れたのに視線を向けると、言われた言葉の理解が後から追い付いて恥ずかしくなったらしくて今更頬を染めている宏太がいる。元々男前だったんだから言われなれてるだろと了が笑いながら言うと、そんなのお前から言われたら別もんだなんてボソボソと呟く宏太が何だか可愛い。了に思うように言い返すことが出来なくて不満そうな宏太が、無造作に了の手を引き寄せて身を寄せてくる。街中だろうと人前だろうと、結局目の見えない宏太にしてみれば何も関係ない。ただ宏太は了だけを傍に引き寄せたいだけで、同時にそれを躊躇うことももうないのだ。
「くそ、ずりぃな……。」
予想外の宏太の言葉に、了は眉を潜めて何が狡いんだよと問いかける。狡いことなんか何かあるのかと戸惑うし、今の会話に自分が狡いと思われる面なんかあったろうかと首をかしげてしまう。それに少し子供のように不貞腐れた声で、宏太がポソッと了にだけ聞こえる掠れた声で呟く。
「俺だって言ってみたいのに、…………俺にゃ見えねぇだろうが。」
了の事を見て自分もそう言うことを言いたいだなんて、思わず了は笑いそうになりながら繋いだ手をグイと引き寄せて更に顔を寄せる。
「ばぁか、格好いいって褒めてんだから、そこだけ受けとれよ。」
宏太の目がもう見えないことは、どうしたって変えられない。眼球だけでなく視神経も少し傷ついてしまっている宏太の顔の傷は、どんなに医療で力を尽くしてもこれ以上の改善はないのだ。顔の傷痕の酷さは幼馴染みの鳥飼梨央が昔と比較すればマイナス百点と断言する程で、どんなに自分が酷い御面相なのかは宏太にも理解できる。
それでも了は、宏太は宏太であって、傷があっても何も左右されない。
それを知っているから以前よりずっと穏やかにこの現実に向き合うことが出来て、しかもちゃんとその気持ちを理解して答えてくれる了が傍にいてくれる。それだけで十分に幸せなのに、了はこの傷跡だらけの男を何でか格好いいなんて言う。こうして一緒にいる幸せに満たされて、了は自分のものになっていて
「そうだ、今晩の夕飯何食べたい?」
「ん?今晩…………そうだな。」
幸せそうに並んで手を繋ぎながら、そんな会話を交わして二人は夜道をユックリと再び歩き始めていた。
他のものには味がしない……でも惣一の珈琲は少し分かる…………
あの時の宏太に味が分かったのは唯一それだけだったから、時折それが失われていないかを確認するために宏太はこの店に来ていなようなものだった。少なくとも完全に何もかも味が分からないのではないと確認することで、糸のように細い希望の光に縋りついていたのだともいえる。お陰でその時分に鈴徳良二が宏太の味覚異常を知って、何とか味が分かるものを食べさせると料理人魂に火がつき躍起になっていたのだが。
多分…………
今になって理解できるようになったのだが、恐らく宏太の味覚障害の原因は医者の言う通り機能的なものではなくて心の問題だったのだと思う。昔何事も問題なく暮らせていたのは、きっと少しは味は分かっていたんじゃないだろうかと今は思うのだ。確かに食に対しては意欲はなかったし旨いと感じたこともないが、少なくとも幼馴染み達と口にしたもの位には味は感じていたと思いたい。それにこうして了が教えてくれる味は最初から問題なく味として感じたのと、惣一がいれてくれた珈琲だけは僅かにとはいえ味が分かったのも多分同じ理由なのだ。あの時何も口にしようとせず、宏太は勧められても一向に何も口にしようとしない状態だった。そんな宏太を見かねて先ずは少しでも口に含んでみなさいと手をとって珈琲を勧めてくれた惣一は、当時の宏太にとっては最も身近で家族よりも身近な存在だった。言い替えれば、惣一が気を許していられる相手だったということなのだろう。
それが今では珈琲だけでなく他の食べ物や飲み物の味が、了がいるお陰でこんなにもハッキリと分かり始めて世界まで変わり始めていて。しかも高校生やら何やら年の離れた奴らにまで、こんな風に親しげに話しかけてくる人間が一気に増えてもいる。
不思議なもんだな…………
こんなことになるなんて考えもしていないし、この関係性の広がりは宏太にしてみても実は苦痛でもなければ不快でもない。遂には昔に断ち切った筈の弟との関係までまた繋がり初めもしていて、先日はどうやって知ったのか弟から大量の海産物が送りつけられてきたのには流石に驚いた。これにはどうやら外崎綾と了が、宏太と外崎秀隆兄弟の知らないところで密かに交流関係を構築していたらしい。思わず嫁同士仲がいいのはなによりと皮肉を言ってしまったら、後ろから了に脛を蹴られたのはここだけの話し。
「宏太、先方はどうだった?」
「ん、まぁ見込みはありそうだな。」
和やかに惣一に聞かれた宏太が珍しくスーツ姿なのは表のコンサルティングの仕事の関係で、金子物流の担当者に改めて仕事を申し込まれたからでもある。今迄会長の名前で君臨していた前社長が急遽退陣して全権が完全に今の社長に移り、改めて培った物流を活用して近隣の飲食店向けの新たな販路に繋ごうというところらしい。そう言う意味では惣一や近郊の飲食店の経営者とも関わりのある宏太のような、腕のいいコンサルタントを導入したかったというところだったのだろう。流石に顔合わせと企画を確認する初回に結城晴や外崎了では幾ら腕は良くても若過ぎるのもあるし、仕事相手としては大口なのでやむを得ず社長自ら顔を出したというわけだ。
「じゃ、またー。」
「晴君、了さん、外崎さん、マスターさんもまたねー。」
「晴ー、お待たせ!遅くなった。」
「じゃーねー。」
「あ、明良、お疲れー。」
進路関係の質問責めがやっと終わって高校生達がそれぞれに挨拶しながら捌けていく。それと一緒にここで待ち合わせていたのか、狭山明良と結城晴も連れだって呑気そうに「しゃちょー、じゃ直帰ねー」と店を出ていく。それに答えてこちらも呑気にヒラヒラと手を振る宏太の隣に、イソイソと解放された了がやってきてスツールに腰かける音が静まり返った店内に微かに響く。
「マスター、明日の準備が終わったら俺、佐倉と一緒に上がりますよ?」
「うん。悪いね、良二。」
店内の若い喧騒が止んで夕飯時の街並みから少し離れた『茶樹』は、これから少しの間は客足が遠退いてアルコール販売の始まる時間帯迄は少し静かになる。と言うかアルコール販売時間帯は決まった客しか来ないことが多いから、その間に最近の惣一は一旦自宅に戻って妻との時間を過ごす事が増えた。
実はホールスタッフに新たに加入した佐倉は鈴徳良二の交際相手で、夕方松尾むつきが上がった後に惣一が自宅に戻ったりする時間を確保するためにスタッフとして雇われたのだ。と言うのも以前は夜の仕事中心で酒類に詳しく女性ながらにバーテンダーもした経験があるのだそうで、アルコール販売の時間帯にも対応できるのだと言う。それでも最近は久保田松理の体調も落ち着いているので、惣一が不在でスタッフが佐倉と鈴徳だけになる時間は今はあまり長くはない。それに以前は定休日がなかった『茶樹』には、ここに来て惣一が愛妻のために過ごす目的で定休日が設けられもしたのだ。何しろ実は既に二十年近く松理にラブコールし続けた惣一は、結婚は想定外だったしそれ以外の事も一気に進展を見せたわけで。何より惣一は、松理が第一優先事項なのは変わらない。
「松理ねぇさんの調子は?惣一さん。」
「順調だよ、了君。最近は体重も元に戻ったしね。」
もう一人宏太の幼馴染みという高齢出産を控えた知人もいるのだが、異様に順調な妊娠期間を過ごす鳥飼梨央に比べると久保田松理の方が実はかなりリスクの高い妊娠ではある。元々久保田松理は不妊症で、自分はセックスしても妊娠しないから惣一とは結婚はしないなんて宣言をしていたくらいなのだ。それにしても悪阻が酷かった松理もその期間がやっと落ち着いて、今は安定期に入って既に6ヶ月の妊婦。胎動が始まって惣一の発揮され始めた親バカぶりに、日々呆れ半分笑い半分と言うところらしい。
方や幼馴染みの鳥飼梨央は双子を腹にいれての7ヶ月目での異常なほどの順調さで、鳥飼信哉曰く梨央は47歳にして本気で自然分娩を狙うらしい。双子だけでもかなりのリスクなのに、そこで自然分娩を狙える事自体既に異例なのだとは思うが、夫の信哉は「まぁ、大丈夫かなと思ってます。」ときた。もし今母親の鳥飼澪が生きていたら、何故かそれに賛同する気がしなくもないのが鳥飼の血筋のような気もする。
そんな風に穏やかにそれぞれの妊娠期間が過ぎていくのに、宏太にしてみても随分と不思議なものだとも思ってしまう部分はあった。
まるで、ここに来て何もかもが動き出したみたいな気がする…………
何か世界のスイッチが一気にONに切り替わったように、突然全てが一気に動き出したような感覚。ここに至るまで何もかもが何処かに密かに塞き止められていて、突然準備期間が終わって動き出したように何もかもが動き出して変わり始めている。それを思うと自分が今迄何も出来ずに見逃して来てしまったことも、今なら違う見方が出来はしないかとも思う。助けたくても助けられなかった幼馴染みや妻や義弟、上原杏奈の事を忘れるわけではないけれど、ただ自分の無力さを嘆くだけではなくて、今に繋がる何かがあったのだと思いたい。
「宏太?どした?」
暫く黙り込んだままでいたらしい宏太に、隣から不思議そうに了が顔を覗き込んで問いかけてくる。あんなにも頑なだった自分の何もかもを変えてしまったのは、了が自分の元に来てくれて自分の何もかもを塗り替えてしまっていくからなのは宏太にだって分かっている。そして自分の見方が今はこんなにも大きく変わったから、自分の周りの全てが動き始めたように感じていることも。
もし、…………せめて了と出逢って直ぐ気がついてたらな
そんな出来もしないことも考えてしまうのが後悔というものなのだと最近になって知った自分に思わず苦笑いしながら、それじゃ俺達もそろそろ帰るかと宏太は珈琲を干してユッタリと腰をあげた。そんな宏太に了は賑やかに頷いて、当然のように宏太の手をとって歩き出している。
既に夜の帳が落ち始めている大通りを男二人が手を繋いで歩くと言うのは正直目立つのだろうけれど、それに関しては宏太の白木の杖と濃いサングラスは非常に役立っていた。何しろ白木の杖だと気がつけば、宏太が目が見えないのだと理解してもらえるから、手を繋ごうと何も違和感にならない筈。それでもそれを差し引いても、だ。
やっばり、カッコいい…………よな
片足を少し引きずる歩き方と白木の杖を片手に濃いサングラスをかけているとは言え、背筋の延びたスーツ姿に思わず了が見惚れてしまうのは惚れた欲目なのか。空いた片手を了に繋がれて横を歩いている姿に白木の杖だからと盲目なのだと気がつく人もいれば、気がつかずに通り過ぎてから奇妙な組み合わせの二人をマジマジと振り返ってみる人間もいる。別に宏太が気にしている訳でもないし見られたから何だと言うわけではないのだけれど、やっぱり以前より宏太が人目を惹くようになっている気がして少しだけ気にかかってしまう。
金子の娘の事だってあるし…………
宏太は自分の男、なんて大っぴらに叫んだらいいのかなんて妙なことを考えてしまう。でもこんな風にスーツ姿で歩かれると余計人目を惹くからあんまり着させない方がいいのか、でもこの近郊では宏太は割合良く見かける人物だろうから服装は関係ないのか。馬鹿げたことを考えているよなと自分でも思うけれど、ついそんなことを考えてしまう。
「…………どうした?了。」
繋がれている了の手から微かに違和感でも感じたのか、不思議そうに覗き込むように顔を寄せる宏太に思わず了は微笑んでしまう。触れた肌から自分の変化に気がつくけれど、それが何なのか迄は分からない宏太。それでも自分を何よりも大事にしてくれているのは、ちゃんと了にだって理解できるようになった。
「何でもない、宏太は格好いいなって思っただけ。」
「あ?何…………言ってんだ…………。」
問いかける言葉が突然途切れたのに視線を向けると、言われた言葉の理解が後から追い付いて恥ずかしくなったらしくて今更頬を染めている宏太がいる。元々男前だったんだから言われなれてるだろと了が笑いながら言うと、そんなのお前から言われたら別もんだなんてボソボソと呟く宏太が何だか可愛い。了に思うように言い返すことが出来なくて不満そうな宏太が、無造作に了の手を引き寄せて身を寄せてくる。街中だろうと人前だろうと、結局目の見えない宏太にしてみれば何も関係ない。ただ宏太は了だけを傍に引き寄せたいだけで、同時にそれを躊躇うことももうないのだ。
「くそ、ずりぃな……。」
予想外の宏太の言葉に、了は眉を潜めて何が狡いんだよと問いかける。狡いことなんか何かあるのかと戸惑うし、今の会話に自分が狡いと思われる面なんかあったろうかと首をかしげてしまう。それに少し子供のように不貞腐れた声で、宏太がポソッと了にだけ聞こえる掠れた声で呟く。
「俺だって言ってみたいのに、…………俺にゃ見えねぇだろうが。」
了の事を見て自分もそう言うことを言いたいだなんて、思わず了は笑いそうになりながら繋いだ手をグイと引き寄せて更に顔を寄せる。
「ばぁか、格好いいって褒めてんだから、そこだけ受けとれよ。」
宏太の目がもう見えないことは、どうしたって変えられない。眼球だけでなく視神経も少し傷ついてしまっている宏太の顔の傷は、どんなに医療で力を尽くしてもこれ以上の改善はないのだ。顔の傷痕の酷さは幼馴染みの鳥飼梨央が昔と比較すればマイナス百点と断言する程で、どんなに自分が酷い御面相なのかは宏太にも理解できる。
それでも了は、宏太は宏太であって、傷があっても何も左右されない。
それを知っているから以前よりずっと穏やかにこの現実に向き合うことが出来て、しかもちゃんとその気持ちを理解して答えてくれる了が傍にいてくれる。それだけで十分に幸せなのに、了はこの傷跡だらけの男を何でか格好いいなんて言う。こうして一緒にいる幸せに満たされて、了は自分のものになっていて
「そうだ、今晩の夕飯何食べたい?」
「ん?今晩…………そうだな。」
幸せそうに並んで手を繋ぎながら、そんな会話を交わして二人は夜道をユックリと再び歩き始めていた。
0
お気に入りに追加
249
あなたにおすすめの小説
塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
【BL】国民的アイドルグループ内でBLなんて勘弁してください。
白猫
BL
国民的アイドルグループ【kasis】のメンバーである、片桐悠真(18)は悩んでいた。
最近どうも自分がおかしい。まさに悪い夢のようだ。ノーマルだったはずのこの自分が。
(同じグループにいる王子様系アイドルに恋をしてしまったかもしれないなんて……!)
(勘違いだよな? そうに決まってる!)
気のせいであることを確認しようとすればするほどドツボにハマっていき……。
変態高校生♂〜俺、親友やめます!〜
ゆきみまんじゅう
BL
学校中の男子たちから、俺、狙われちゃいます!?
※この小説は『変態村♂〜俺、やられます!〜』の続編です。
いろいろあって、何とか村から脱出できた翔馬。
しかしまだ問題が残っていた。
その問題を解決しようとした結果、学校中の男子たちに身体を狙われてしまう事に。
果たして翔馬は、無事、平穏を取り戻せるのか?
また、恋の行方は如何に。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる