鮮明な月

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第十六章 FlashBack2

213.

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夢を見ないで眠れるようになる薬があれば、どれだけ気が楽だろう。

そんな無意味なことを今もつい考えてしまうのは最近の自分には夢を見ない眠りが少し増えてきていて、その代償なのか稀に見る夢の鮮明さが増した気がするからかもしれない。自分の事はもう放っておいてくれと慶太郎にも宮内慶周にも恭平は宣言することが出来たのだから、もうこの夢なんか見なくてもいいのにとすら思う。
それでもこの時期がくると母の最後の姿と、宮内の老女の詰る声や周囲の妾の子供という好奇の視線が心に刺さる。でも以前とは少し違うのは子供の自分としてこの夢を見るのではなくなって、こうして子供の自分を今の自分が離れて眺めている事が増えたことかもしれない。場面転換もなにもかも同じでも子供の自分をこうして離れてみるというのは、どこか第三者的な視線で見ているような気もする。
悲しげな母の表情を知っていて背を向け、そして次の瞬間には白いシーツをかけられた母の前に立ち尽くす自分の姿。そして、宮内の老女の鬼女のような顔を睨み付けながら、頬に熱く流れ落ちる血を感じている自分。そして周囲の視線の色を伺いながら、それから逃れようとする弱い自分の姿が流れていく。

…………どれだけこの夢に魘され、何もかもから逃げ出したいと考えてきただろう。

自分が選んだ道が大きな過ちで、母を傷つけ続けてきてしまった恭平。最後に母のためだと思ってしたつもりでも、結局は自己満足に過ぎなかった宮内の老女との会合。それに多くの人間が自分が正妻の子供でないことを知っていて、自分のことを嘲笑っているのだと思い込んでもいた。

何でだろうな…………

母の事は確かに自分が過ちを犯してきたのを認めるしかない。母・美弥子と自分は互いに心に秘めた本心を伝えようとしなかったし、そういうことを何故かひたすらに隠してしまう一面は互いに親子としても似てしまったのだと思う。でも、もし母と本心から思うことを話し合えていたら、そう繰り返し思うようになったのは今の自分の変化があるからこそなのだ。
宮内の老女とのことも、こうして端から眺めると実際にはたいしたことではなかったのかもしれない。確かに自分のことを拒絶されたのは多感な時期の恭平の苦悩にはなったけれど、自分には母がいたのだと考えられていれば無理に接しなくてもよかったのだ。あの時宮内に行ってしまったのは今にして思えば母のためだと自分では思ってしていたけれど、結局は全て自分の存在を確立するためだったのだと思う。

…………ただ、自分を受け入れて欲しかっただけだったんだ…………

都合よく自分を受け入れて貰いたかっただけで、母親のことだけで宮内に行ったのではないのだと今になって気がついてしまった。それが満たされなくて、拒絶された自分を恭平自身が受け止められなかっただけのことなのだ。それに周囲が自分を正妻の子でないと知っていたからといって、何が問題だったのだろうかとも思ってしまう。同じようにして暮らしていた筈の鳥飼信哉と話をするようになって、尚更それは痛感してしまうのだ。

もういいんだ…………

目の前には一人膝を抱え踞る自分がいる。多くのことを捻じ曲がった感情で見つめて、受け入れることの出来ない自分の未熟さ。そんなまだ精神的に幼い自分を見下ろしながら、同時にこれはもう過ぎたことなんだと自分から恭平は呟く。
そういう風に考えられるようになって、この夢をこんな風に見るようになったのは恭平の大きな変化でもあるし、次第にこうして冷静に過去の全てを見つめられるようになっていくのかも知れない。

もう過去の夢で怯えて飛び起きなくてもいいんだ…………

自分がした過ちはもうどうしたって変えようがないが、それを繰り返さないよう考えて何か動くことは出来る筈だ。だからフラッシュバックのように夢から逃げようと飛び起きる事は、もう十分なのだ。そう考えながら振り返ると、心配そうに自分を待ちながら立ち尽くしている青年の姿に気がつく。
柔らかそうな栗色の髪、それに少し青みがかった瞳で、自分が声をかけるのをじっと待っている姿はどこか『待て』をかけられた大型犬みたいに見えて恭平は思わず笑ってしまう。

仁聖。

微笑みが浮かんだ顔で恭平が名前を呼び掛けると、ふっと顔を上げた仁聖が幸せそうに柔らかな表情で微笑んでくれる。それが自分にとってどれだけ大きな支えになってくれているかと考えると胸が熱い。思わず歩み始めた自分に、仁聖は穏やかな笑顔で両手を広げて……



※※※



ふと夢から目を覚ますと、仄かな光源がホンノリと室内を照らしているのに気がついて恭平は視線だけを動かしていた。ベットの上で半分俯せるようにして横向きになって眠っていた恭平の視線の先には、ベットのヘッドレストに枕をクッションかわりに寄りかかって座りながら膝の上でノートパソコンを操作している仁聖がいる。だて眼鏡に普段は使っている眼鏡はブルーライトカットのレンズで、それをかけて画面を真剣に覗き込んだ大人びた横顔が仄かにモニターの光に照らされていた。

…………綺麗な……顔してるな。

モデルをするようになって、なおのこと磨きのかかったシャープな顎のラインに、クッキリとした目鼻立ち。恭平が眠っているうちにシャワーでも浴びたのか、少しまだ濡れたままの髪を撫で付け眼鏡をかけた横顔はまだ恭平が眺めているのには気がついていない。そっと見上げると長い睫毛が薄く茶色に透けていて、眼鏡越しの瞬きに青く光る瞳が見えていて。あどけなかった顔は次第に大人に変わって、しかも以前はこんな風に真剣な顔をしているのなんてあまり見なかった気がする。いつも子供みたいにニコニコしていて甘えたり拗ねたりしていた顔が、今は別人のように大人びていて不意にドキンと胸の奥が高鳴るのを恭平は感じてしまう。じっと見つめていた視線を肌に感じたのか仁聖の視線が何気なく横にそれて、寝ていると思い込んでいた恭平の視線に気がついたのが分かる。

「…………ごめん、起こしちゃった?明るかった?」

覗き込むように額の髪を指でそっと払う仁聖の大人びた仕草に見とれながら、恭平はふと思わず微笑んでしまう。恭平の微笑みの意味が分からない仁聖が少しだけ不思議そうに首を傾げて更に覗き込むのに、恭平は驚き視線を外して少しだけ頬を染め枕に顔を埋めてしまった。

「…………恭平?」
「…………ん、いや…………その。」

思わず視線をそらして口ごもる恭平に仁聖はなおのこと不思議そうに顔を近づけてきて、恭平の赤くなった頬に気がついた様子だ。

「どうかしたの?恭平。」

どうかしたかといわれると眺めていて綺麗だなと思った仁聖が無造作に顔を寄せてきたのに、少しだけ恥ずかしくなってしまっただけで。綺麗で大人びた顔立ちに変わりつつある仁聖に、今更のようにドキドキと胸が騒ぐなんて恭平としても何だか恥ずかしい。とはいえそれを上手く説明も出来なくて、枕に顔を埋めたままの恭平に仁聖は戸惑う。

「…………恭平?」

カタンとベットのサイドテーブルにパソコンを置いた音がして、ギシと軋む音と一緒に枕に顔を埋めた恭平の身体に一際高い体温が重なってくる。仁聖が覆い被さるようにして耳元に顔を寄せていて、振り落ちてくる柔らかな低い声に耳朶がカァッと熱をもっていくのが分かっていた。

「恭平…………具合、悪い?平気?」

何でもないとフルフルと枕に顔を埋めたまま恭平が首を振っても、仁聖は恭平の意図がつかめないから戸惑いながら耳元で更にそっと囁きかけてくる。

「ね、何ともないなら顔みせて?」

心配そうに囁く声に何故か夢の中で仁聖が自分を佇んで待っていてくれて、しかも微笑みながら両手を広げて抱き締めてくれたのを思い浮かべてしまう。今まであの夢は必ず不快感と共に飛び起きて、自分が今どうするべきなのか分からなくて泣き出したくなるのがいつもの事だった。それなのに最近あの夢の最後には必ず仁聖が自分を待っていてくれて、安堵しながらその腕の中に抱き止められ目が覚める。それを思い浮かべたら今見た仁聖の横顔に疼くような胸の鼓動が重なって、尚更顔が熱くなってしまって視線を上げられなくなってしまう。

現金すぎる…………、何でいきなり…………

正直いうと恭平だってそう自分に言いたいのだが、そんなこととは知らない仁聖はそっと恭平の髪に振れて心配そうに口を開く。

「……ごめんね、最近よく眠れてなかったんだよね?恭平…………。」
「え?」

何で分かると思わず顔を上げてしまった恭平の視界には酷く真剣な顔をした仁聖の顔があって思わず言葉につまってしまうが、仁聖の方はそれにまだ気がつかず目を伏せてごめんと繰り返す。一緒に眠っていて自分は恭平の体温の心地よさに熟睡していて、恭平が落ち着かない気持ちでいるのにも気がつかなかったのだと仁聖は落ち込んでもいるのだ。

「俺、恭平が落ち着かないでいるの、気がつかなくて…………。」
「え、……は?何?」
「だから……よく眠れてないのかなって…………この時期って夢見、悪いんだよね?何時も。」

確かにそれはその通りなのだけど、最近のよく眠れないはどちらかといえば夢見が悪いというよりは……目が覚めた後つい仁聖の寝顔を眺めてしまうからで。それでなくとも夢見が悪いというのに対して、仁聖が落ち込む必要なんか何一つ無い。恭平が意味が分からずにキョトンとしたのに、それでも仁聖は申し訳なさそうにごめんと繰り返す。

「何で…………俺の夢で、仁聖が謝るんだ?」
「だって……気がついて当然なのに…………。」
「……いや、それに謝られても。それにそんなに、最近は魘されてない……と思う。」

というか最近の恭平は魘されて仁聖に抱き締められあやされる事自体かなり減っているのは、仁聖だって分かっている筈。それなのにそこに謝られてもと唖然としてしまいながら恭平がいった言葉に、仁聖の方も何故か少し驚いた様子だ。確かにこの時期は今までだったら魘されて眠れなくなるのが普通だったけれど、今は仁聖が傍にいれば不安感は酷くならないからとスッカリ恭平が安心しているのを仁聖は気がついていないのだ。

「お前が…………一緒にいてくれるから、今はそれほど魘されてない…………。」

少し頬を染めてそう答えた恭平に、仁聖は驚きながらも嬉しそうに微笑む。恭平の支えになれているのが恭平の答えから伝わって、仁聖の存在が必要と教えられている気がするのに嬉しそうにしているのは正直恭平には可愛くていじらしいのだけれど。

「あれ?じゃ…………何で眠れてないの?」

端とそれに気がついてしまった様子で仁聖に問いかけられて、恭平の方も何と答えたらいいのか戸惑ってしまう。何しろ夢の中で抱き締められて目が覚めると、その相手の顔が目の前にあるものだから、つい暫く眺めてしまうだけなんて説明しにくい。睫毛が長いなとか寝顔は子供みたいにだなぁなんて、恭平が密かに眺めているとは恥ずかしくて言いにくいわけだ。

「恭平?何か俺に隠してる?」

隠してると言うか何と言うか。

「いや、その……なんとなく?」
「なんとなくって…………倒れちゃうくらいのなんとなくって……。」

その言葉で仁聖がこんなに神妙に自分に謝る理由が分かって、恭平は思わず上半身を起こして違うと声を上げてしまっていた。仁聖がこんなに落ち込んでいるのは恭平が夕方気を失ったからで、その原因が不眠にあるのだと仁聖は考えてしまったのだと気がつく。

「違わないでしょ?また痩せちゃったみたいだし。」
「痩せてない。体重は減ってない。」
「でも、抱き上げたら軽くなった気がした。」

いや、それは仁聖の体感であって仁聖が最近モデルの仕事のためにジムでトレーニングをしていて、筋力がついているだけで実際に本当に自分の体重は減ってない。信じられないなら今すぐ体重計に乗るからと、恭平が断固として言い切るのに仁聖は眉を潜める。体重は減ってないとしたら、食事は?と問いかけると、確かに今朝は起きれなくて食べなかったけれど昼は大学に行っていて勅使河原の教授室で食べたからとハッキリ答えてくる。

「何で叡センセ?呼び出されたの?」
「勅使河原教授の論文英訳をして欲しいって信哉さんと一緒に呼び出されてやらされたんだ。しかも何時もの事だけど、今日締め切りだなんて言われて延々五時間半カンヅメだ。」

苦々しく言う言葉にはまるで躊躇いもなく、しかも店屋物ではあったが昼を食べたのが夕方近くだったので正直いうと夕飯は食べられなかったのだと答える。しかも、あまりにも一度に大量の英訳を突貫でやらされたから、家で仕事をしようにも頭が痛くてまるで進まなかったのだという。その直後に仁聖を探しに駆け回って安堵して気が抜けたら立ち眩みがしただけ、本当にそれだけだと恭平が言い切る。

「約束しただろ?ちゃんと健康にも気を付けるし…………太れないのは体質なんだ……し。」

恭平がそうハッキリと言う言葉に、仁聖は深いハァーという吐息を吐いて何故か脱力している。
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