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第十六章 FlashBack2
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花街の夜の喧騒の真っ只中から、また言葉もなく家に向かって並んで歩き出していた。でも、夕方と違うのは恭平から差し出された手で仁聖の手が繋がれていて、二人は当然のように夜道を手を繋いで並んで歩いているということ。普段なら繁華街から手を繋いで歩くなんて、そうないことなのは言う迄もない。それでも確りと繋がれた手は仁聖の手を離す素振りもなく、優しい手つきで繋がれたままでいる。
仁聖はフッと横を歩く恭平の、綺麗な横顔に視線を向けていた。
視線の先の恭平の横顔は怒っている風でも困惑している風でもなく、穏やかに安堵しているようにも見えるのに気がついて仁聖は少しだけ戸惑う。同時に仁聖の方といえば確りと握られた手の暖かさに安堵していて、同時に恭平があの場所まで探して来てくれたのに驚きもしていた。仁聖が何も言わずに家を出てきてしまったのは事実だけれど、仁聖はもう昔のように家を記憶出来ないで泣きながら迷子になる幼い子供ではないのだ。
「…………驚いた。」
「え?」
「話をしようと思ってノックしたら、部屋がもぬけの殻で。…………家の中の何処にもいないし。」
ポツリと前を見たまま小さな声でそう告げた恭平に、夕方から不貞腐れて部屋に籠ってしまっていた仁聖と恭平がちゃんと話をしようとしたのだと気がつく。仕事を中断した恭平は仁聖が部屋どころか家の中からいなくなっているのを知って、こうして外まで探しに出てくれていたのだ。それに先ずは謝ろうとした仁聖の言葉を紡ぐ前に、恭平は更に呟く。
「家出じゃないかって、秋晴さんは笑うし。」
「え?叔父さんとこにも…………行ったの?」
「行った。…………その後、狭山君のとこも佐久間君のとこも。」
「ええ?」
「外崎さんのとこにも行ったけど留守だった。でも『茶樹』で外崎さん達にあったから。」
「えええ?…………そ、そんなに?」
そこから更に藤咲信夫のところかもと思った恭平は、花街界隈は今は人が多い時間だからと了と一緒に仁聖を探しながら歩いていたのだと言う。探しててと恭平は、独り言めいた口調でポツポツと口にする。仁聖が家を抜け出してから実際にはまだ一時間も経っていない筈なのに、恭平がそれ程の距離を廻ると言うことは殆どを走って廻ったとしか思えない。そんなに?!と驚くと同時に恭平がそんな風に自分を心配してくれたのに気がついて、仁聖はもう一度恭平の横顔を見つめる。
どうして、そこまで心配して探してくれたの?
思わずそう問いかけたくなるのだけれど、実は答えは聞かなくても仁聖にだって分かっているのだ。そしてそれを考えると、ジンッと胸の奥が熱くなって泣きたくなる。恭平が自分のことをとても大事にしてくれているから、勝手な我儘で拗ねて籠ってしまった上に姿を消した自分のことを心配して探してくれて、こうしてちゃんと見つけてくれた。それに見つけた後も恭平は一つも怒りもしないで、手を繋いで仁聖を二人の家に連れ帰ってくれようとしているのだ。
「俺…………恭平と仲直りするのに…………どうしたらいいか……誰かに…………相談したくて……。」
「ん、そうか…………。」
何も声もかけずに家を抜け出した理由を、言い訳だと分かっていて弱々しい声で話す。言い訳を仁聖が口にしても、恭平は全く怒りもしないし穏やかにそうかと言うだけ。穏やかなままの恭平の綺麗な横顔に、何故か余計に泣き出しそうになる仁聖は繋がれたままの手に視線を落としていた。子供染みている自分への後悔で胸が苦しい程なのに、探してくれたのも見つけてくれたのもとても嬉しい。それにこうして手をひいて連れて帰ってくれるのだって、本当は嬉しくて泣きそうなのだ。
「ご…………めんなさい…………、心配かけて…………。」
「いい。」
そう言うだけの恭平の手が暖かくて優しくて、思わずボロと瞳から涙がこぼれ落ちる。謝らなくちゃならないことは他にもあるのに涙で言葉に出来なくなった仁聖に、恭平は少しだけ驚いたように視線を向けると子供にするみたいにヨシヨシと頭を撫でてソッと手を引いた。引かれるままにすると恭平の腕が自分の体を抱き寄せてくれて、仁聖は大人しくなすがままになる。
「………………泣かなくていいから、嫌なことあったら…………話せる時にちゃんと話してくれるか?」
「…………う……ん、……ごめ…………なさい…………。」
覗き込まれるように見上げて来る黒曜石の瞳に、もう謝らなくていいからと囁かれて抱き寄せられるまま腕の中に包み込まれる。こんな風にベソベソと泣くのは男としてはとっても情けないけれど、恭平に許して貰えて、ちゃんと自分のことを理解もして貰えるのに仁聖は心底安堵してしまう。無理に話せとは言われず話せる時にと逃げ道迄与えられて甘やかされて。そんな暖かな腕の中に体を押し付けているだけで、自分の気が緩んで来るのに気がついてしまう。
「帰って……ごはん食べて、……風呂はいって、寝よう。…………な?」
そう優しく囁くように言われて、仁聖は素直にうんと頷いていた。大事にして貰えて家に帰ろうと言って貰える、それがどんなに幸せなことなのかと思う。普通の人ならこれは当然のことなのかもしれないけれど、仁聖にとっては恭平だけがこれを惜しみ無く与えてくれて仁聖だけの居場所を与えてくれるのだ。これがどれだけ幸せなことなのか、そう思うと余計に泣けてきて止まらなくなる。
「恭平…………好き、……ありがと…………、大好き…………。」
そんな風に繰り返す仁聖の様子に恭平も再び安堵の吐息を溢しながら、もう一度仁聖の柔らかな髪の毛を優しく手ですき撫でて柔らかな声で帰ろうと囁く。
※※※
「喧嘩ねぇ…………。」
そう呟くように『茶樹』のカウンターに座って言う外崎宏太に、久保田惣一は苦笑いしながら先程飛び込んできた榊恭平の血相を変えた顔を思い浮かべる。それ程惣一としては恭平との付き合いが長いわけでもないが、普段の淡々とした様相の恭平と比較すれば先程の恭平がどれだけ慌てていたかは言う迄もない。源川仁聖の性格や行動を思えば居なくなったとはいえ家出擬き程度のことだろうとは内心では思っても、当人である恭平にしてみれば知らぬ間に家を抜け出されたのは焦ったに違いないと思う。
「まぁ、一緒に暮らしたら色々あるってことだよ。」
「だろうけどな。」
と言う宏太も惣一も、完全な同居の相手がいるという点で言うと恭平達と実は大差がない。何せ宏太は以前の結婚の時は相手のことなんか殆ど気にしたことがない暮らしぶりだったのだし、相手のことを気遣う暮らしという意味では了との同居が初めてのようなものだ。方や惣一の方は何しろ松理が定住しないタイプの女だったから、妊娠して嫁にして初めてちゃんと同居に辿り着けたと言う有り様。なので経験値から言うと決して偉そうな口は聞けないと思うわけで、もし相手が家を飛び出したらどうしたものかと考えてしまったりする。
「そう言う時は力貸すから、協力ってことで。ね?宏太。」
思わずそう言う惣一に宏太は苦笑いするしかない。何しろ久保田松理という女は、惣一より遥かに切れ者のハッカーの一面を持つ女なのだ。そう言う意味では自分達の捜索方法なんて、あっという間に看破して裏をかいてきそうな気がする。
「松理が家出は、探しようがなさそうだな……。」
「止めてくれよ、本当にそうなりそうだから。」
慌てふためく惣一に、苦笑いのままで宏太はその時は仕方がねぇから手伝うと宣言する。それにしても手伝うと言えば比護耕作の調査に手伝うなんて言ってしまった宏太に、惣一は思い出して呆れたようにいいの?と問いかけた。
「了君に怒られない程度にしとかないと、了君に家出されるよ?宏太。」
「あー…………一応気を付けとく。」
何よりも了が傍にいないのが一番辛いのは分かっているから、それは避けないとと呟く宏太に溜め息混じりに惣一も笑う。宏太が比護に協力する気になったのは恐らく比護が兄弟のために真実を明らかにしたいと必死なのが分かったからだろうが、それでも宏太が協力する必要性は殆どないに等しい。
「そう言うのに首を突っ込むから比護みたいに疑う奴もでてくると思うけどね。」
「…………しかたねぇだろ、性分なんだからよ。」
そう呟いたのと殆ど同時に背後の深碧のドアがカランと音をたてて開いて、花街から戻ってきた了と鈴徳良二が揃って顔を見せていたのだった。
※※※
子供のように泣きじゃくって目元を赤くした仁聖は、少し落ち着くのを待ってまた手を引かれて家まで帰ってきていた。泣きじゃくったなんて正直気恥ずかしくて恭平の顔をろくに見られないまま、それでも帰って準備されていた夕飯を促されるまま食卓に向かって大人しくいただきますと手を合わせる。その後食事を食べ始めた仁聖を確認するようにしてから、恭平は風呂支度をしに動き廻っている。
ご飯…………食べないのかな…………
パタパタしていた恭平がやがて食事をしている仁聖の向かいに座ってきたのに、思わず茶碗を片手に視線を向けた仁聖を眺めて恭平は柔らかに微笑む。それに少しだけ頬を染めながら仁聖は、躊躇い勝ちに恭平にそっと問いかける。
「…………きょうへ、…………ご飯は?」
「…………先に…………食べたから、気にしなくていい。」
少しだけ間をあけながら言う恭平に優しく頭を撫でられた仁聖がまだ気まずそうにしているのに、恭平は微笑みながらもう一度頭を撫でて食べ終わったら風呂に入るか?と少しだけ悪戯な瞳で覗き込む。それに迷いもなく素直にうんと頷いてしまってから、恭平は一緒に入ってくれるのかと仁聖は少しだけ期待もしてしまう自分に気がついてしまう。
「一緒に…………はいって、くれる?」
仕方ないなと恭平が答えたのに思わず笑顔になってしまう仁聖に、恭平は笑いながら仕事のバックアップとってくるからと立ち上がって書斎に向かうのを見送る。こんな風に迎えにきてくれて優しくされて、しかも一緒に風呂にまでと思うと、仁聖は自然と頬が緩んでしまうのを押さえきれない。イソイソと食事を終えて、食器を洗い始めた仁聖はそこで初めて僅かな違和感を感じていた。
あれ?
恭平は先に食べたと口にしたけれど、食器は一つもシンクにも籠にも置いていない。勿論洗った後に直ぐに拭いて片付けたのかもしれないけれど、基本的には恭平も仁聖も洗った後の食器を即拭く事はないから食器拭きは置いていないのだ。その証拠に朝のマグカップがまだシンク脇の籠には一つ残っていて、それを片付けないで後から使った食器だけを片付けるのは辻褄があわない。
えっと…………?
自分の食事の分の食器だけしかないシンク。洗いながらこれってどういう事と考えていくと答は実は一つしかなくて、しかもそれを考えると仁聖は少し戸惑いもする。
食べてない?もしかして…………
食が細い恭平だけど仁聖が準備するようになって、一緒にする食事は割合キチンとしている筈だと思う。だけど以前に比べても大学の時間の関係やバイトで遅くなったりもする事が仁聖には増えていて、三食全てを共にするのは難しくなっている。昼は仁聖は学食だし、恭平は仕事の合間に食事はしてるから気にするなと言う。基本的には朝と夕はなるべく一緒にとは思うが朝は前夜少し無理をさせたりした後だったりして、最近は恭平が起きれなかったりする事もあって一緒に食べないこともあるのだ。つまり最近では確実に一緒なのは夕食だけの日もあって、他の食事は大学にいっている間は仁聖にはハッキリした事が言えないのだと気がついてしまう。
ちゃんと食べるようにするって、…………体調管理するって……約束してるけど…………
約束はちゃんと守ってくれる筈だけど何か引っ掛かりがあるのは何故だろうと、シンクから水切り籠に食器を並べながら仁聖は考え込む。以前と違って恭平は自分との約束を守ろうとしてくれているし、自分の事を大事にもしている筈なのに、何故今こんな違和感がと考えてしまう。
「恭平?」
何気なく書斎へ向かって歩きながら声をかける仁聖は、そこでまた違和感を感じてもいた。パソコンのデータのバックアップって言ってたのに、随分時間がかかってるし静か過ぎないか?そう思いながら書斎のドアに手をかけた仁聖は室内を見た瞬間自分の背筋が一瞬で凍りつくのを感じていた。
「きょうへ……?」
書斎のデスクの前の椅子に手をかけるようにして、床に座り込んでいる恭平の背中が見えて仁聖は青ざめながら咄嗟に恭平に駆け寄る。肩に手をかけて揺らしても蒼白な顔をした恭平の反応は帰ってこなくて、仁聖は思わず力の抜けきっている冷たい頬に手を伸ばしていた。
「恭平?!!恭平!!」
肩を揺さぶるようにして大きな声で呼び掛けても、崩れ落ちたまま青ざめた恭平はグッタリして仁聖の声にも反応しない。自分の全身が完全に凍りついて激しく恐怖しているのに気がつきながら、仁聖は咄嗟に恭平の体を抱き寄せていた。
仁聖はフッと横を歩く恭平の、綺麗な横顔に視線を向けていた。
視線の先の恭平の横顔は怒っている風でも困惑している風でもなく、穏やかに安堵しているようにも見えるのに気がついて仁聖は少しだけ戸惑う。同時に仁聖の方といえば確りと握られた手の暖かさに安堵していて、同時に恭平があの場所まで探して来てくれたのに驚きもしていた。仁聖が何も言わずに家を出てきてしまったのは事実だけれど、仁聖はもう昔のように家を記憶出来ないで泣きながら迷子になる幼い子供ではないのだ。
「…………驚いた。」
「え?」
「話をしようと思ってノックしたら、部屋がもぬけの殻で。…………家の中の何処にもいないし。」
ポツリと前を見たまま小さな声でそう告げた恭平に、夕方から不貞腐れて部屋に籠ってしまっていた仁聖と恭平がちゃんと話をしようとしたのだと気がつく。仕事を中断した恭平は仁聖が部屋どころか家の中からいなくなっているのを知って、こうして外まで探しに出てくれていたのだ。それに先ずは謝ろうとした仁聖の言葉を紡ぐ前に、恭平は更に呟く。
「家出じゃないかって、秋晴さんは笑うし。」
「え?叔父さんとこにも…………行ったの?」
「行った。…………その後、狭山君のとこも佐久間君のとこも。」
「ええ?」
「外崎さんのとこにも行ったけど留守だった。でも『茶樹』で外崎さん達にあったから。」
「えええ?…………そ、そんなに?」
そこから更に藤咲信夫のところかもと思った恭平は、花街界隈は今は人が多い時間だからと了と一緒に仁聖を探しながら歩いていたのだと言う。探しててと恭平は、独り言めいた口調でポツポツと口にする。仁聖が家を抜け出してから実際にはまだ一時間も経っていない筈なのに、恭平がそれ程の距離を廻ると言うことは殆どを走って廻ったとしか思えない。そんなに?!と驚くと同時に恭平がそんな風に自分を心配してくれたのに気がついて、仁聖はもう一度恭平の横顔を見つめる。
どうして、そこまで心配して探してくれたの?
思わずそう問いかけたくなるのだけれど、実は答えは聞かなくても仁聖にだって分かっているのだ。そしてそれを考えると、ジンッと胸の奥が熱くなって泣きたくなる。恭平が自分のことをとても大事にしてくれているから、勝手な我儘で拗ねて籠ってしまった上に姿を消した自分のことを心配して探してくれて、こうしてちゃんと見つけてくれた。それに見つけた後も恭平は一つも怒りもしないで、手を繋いで仁聖を二人の家に連れ帰ってくれようとしているのだ。
「俺…………恭平と仲直りするのに…………どうしたらいいか……誰かに…………相談したくて……。」
「ん、そうか…………。」
何も声もかけずに家を抜け出した理由を、言い訳だと分かっていて弱々しい声で話す。言い訳を仁聖が口にしても、恭平は全く怒りもしないし穏やかにそうかと言うだけ。穏やかなままの恭平の綺麗な横顔に、何故か余計に泣き出しそうになる仁聖は繋がれたままの手に視線を落としていた。子供染みている自分への後悔で胸が苦しい程なのに、探してくれたのも見つけてくれたのもとても嬉しい。それにこうして手をひいて連れて帰ってくれるのだって、本当は嬉しくて泣きそうなのだ。
「ご…………めんなさい…………、心配かけて…………。」
「いい。」
そう言うだけの恭平の手が暖かくて優しくて、思わずボロと瞳から涙がこぼれ落ちる。謝らなくちゃならないことは他にもあるのに涙で言葉に出来なくなった仁聖に、恭平は少しだけ驚いたように視線を向けると子供にするみたいにヨシヨシと頭を撫でてソッと手を引いた。引かれるままにすると恭平の腕が自分の体を抱き寄せてくれて、仁聖は大人しくなすがままになる。
「………………泣かなくていいから、嫌なことあったら…………話せる時にちゃんと話してくれるか?」
「…………う……ん、……ごめ…………なさい…………。」
覗き込まれるように見上げて来る黒曜石の瞳に、もう謝らなくていいからと囁かれて抱き寄せられるまま腕の中に包み込まれる。こんな風にベソベソと泣くのは男としてはとっても情けないけれど、恭平に許して貰えて、ちゃんと自分のことを理解もして貰えるのに仁聖は心底安堵してしまう。無理に話せとは言われず話せる時にと逃げ道迄与えられて甘やかされて。そんな暖かな腕の中に体を押し付けているだけで、自分の気が緩んで来るのに気がついてしまう。
「帰って……ごはん食べて、……風呂はいって、寝よう。…………な?」
そう優しく囁くように言われて、仁聖は素直にうんと頷いていた。大事にして貰えて家に帰ろうと言って貰える、それがどんなに幸せなことなのかと思う。普通の人ならこれは当然のことなのかもしれないけれど、仁聖にとっては恭平だけがこれを惜しみ無く与えてくれて仁聖だけの居場所を与えてくれるのだ。これがどれだけ幸せなことなのか、そう思うと余計に泣けてきて止まらなくなる。
「恭平…………好き、……ありがと…………、大好き…………。」
そんな風に繰り返す仁聖の様子に恭平も再び安堵の吐息を溢しながら、もう一度仁聖の柔らかな髪の毛を優しく手ですき撫でて柔らかな声で帰ろうと囁く。
※※※
「喧嘩ねぇ…………。」
そう呟くように『茶樹』のカウンターに座って言う外崎宏太に、久保田惣一は苦笑いしながら先程飛び込んできた榊恭平の血相を変えた顔を思い浮かべる。それ程惣一としては恭平との付き合いが長いわけでもないが、普段の淡々とした様相の恭平と比較すれば先程の恭平がどれだけ慌てていたかは言う迄もない。源川仁聖の性格や行動を思えば居なくなったとはいえ家出擬き程度のことだろうとは内心では思っても、当人である恭平にしてみれば知らぬ間に家を抜け出されたのは焦ったに違いないと思う。
「まぁ、一緒に暮らしたら色々あるってことだよ。」
「だろうけどな。」
と言う宏太も惣一も、完全な同居の相手がいるという点で言うと恭平達と実は大差がない。何せ宏太は以前の結婚の時は相手のことなんか殆ど気にしたことがない暮らしぶりだったのだし、相手のことを気遣う暮らしという意味では了との同居が初めてのようなものだ。方や惣一の方は何しろ松理が定住しないタイプの女だったから、妊娠して嫁にして初めてちゃんと同居に辿り着けたと言う有り様。なので経験値から言うと決して偉そうな口は聞けないと思うわけで、もし相手が家を飛び出したらどうしたものかと考えてしまったりする。
「そう言う時は力貸すから、協力ってことで。ね?宏太。」
思わずそう言う惣一に宏太は苦笑いするしかない。何しろ久保田松理という女は、惣一より遥かに切れ者のハッカーの一面を持つ女なのだ。そう言う意味では自分達の捜索方法なんて、あっという間に看破して裏をかいてきそうな気がする。
「松理が家出は、探しようがなさそうだな……。」
「止めてくれよ、本当にそうなりそうだから。」
慌てふためく惣一に、苦笑いのままで宏太はその時は仕方がねぇから手伝うと宣言する。それにしても手伝うと言えば比護耕作の調査に手伝うなんて言ってしまった宏太に、惣一は思い出して呆れたようにいいの?と問いかけた。
「了君に怒られない程度にしとかないと、了君に家出されるよ?宏太。」
「あー…………一応気を付けとく。」
何よりも了が傍にいないのが一番辛いのは分かっているから、それは避けないとと呟く宏太に溜め息混じりに惣一も笑う。宏太が比護に協力する気になったのは恐らく比護が兄弟のために真実を明らかにしたいと必死なのが分かったからだろうが、それでも宏太が協力する必要性は殆どないに等しい。
「そう言うのに首を突っ込むから比護みたいに疑う奴もでてくると思うけどね。」
「…………しかたねぇだろ、性分なんだからよ。」
そう呟いたのと殆ど同時に背後の深碧のドアがカランと音をたてて開いて、花街から戻ってきた了と鈴徳良二が揃って顔を見せていたのだった。
※※※
子供のように泣きじゃくって目元を赤くした仁聖は、少し落ち着くのを待ってまた手を引かれて家まで帰ってきていた。泣きじゃくったなんて正直気恥ずかしくて恭平の顔をろくに見られないまま、それでも帰って準備されていた夕飯を促されるまま食卓に向かって大人しくいただきますと手を合わせる。その後食事を食べ始めた仁聖を確認するようにしてから、恭平は風呂支度をしに動き廻っている。
ご飯…………食べないのかな…………
パタパタしていた恭平がやがて食事をしている仁聖の向かいに座ってきたのに、思わず茶碗を片手に視線を向けた仁聖を眺めて恭平は柔らかに微笑む。それに少しだけ頬を染めながら仁聖は、躊躇い勝ちに恭平にそっと問いかける。
「…………きょうへ、…………ご飯は?」
「…………先に…………食べたから、気にしなくていい。」
少しだけ間をあけながら言う恭平に優しく頭を撫でられた仁聖がまだ気まずそうにしているのに、恭平は微笑みながらもう一度頭を撫でて食べ終わったら風呂に入るか?と少しだけ悪戯な瞳で覗き込む。それに迷いもなく素直にうんと頷いてしまってから、恭平は一緒に入ってくれるのかと仁聖は少しだけ期待もしてしまう自分に気がついてしまう。
「一緒に…………はいって、くれる?」
仕方ないなと恭平が答えたのに思わず笑顔になってしまう仁聖に、恭平は笑いながら仕事のバックアップとってくるからと立ち上がって書斎に向かうのを見送る。こんな風に迎えにきてくれて優しくされて、しかも一緒に風呂にまでと思うと、仁聖は自然と頬が緩んでしまうのを押さえきれない。イソイソと食事を終えて、食器を洗い始めた仁聖はそこで初めて僅かな違和感を感じていた。
あれ?
恭平は先に食べたと口にしたけれど、食器は一つもシンクにも籠にも置いていない。勿論洗った後に直ぐに拭いて片付けたのかもしれないけれど、基本的には恭平も仁聖も洗った後の食器を即拭く事はないから食器拭きは置いていないのだ。その証拠に朝のマグカップがまだシンク脇の籠には一つ残っていて、それを片付けないで後から使った食器だけを片付けるのは辻褄があわない。
えっと…………?
自分の食事の分の食器だけしかないシンク。洗いながらこれってどういう事と考えていくと答は実は一つしかなくて、しかもそれを考えると仁聖は少し戸惑いもする。
食べてない?もしかして…………
食が細い恭平だけど仁聖が準備するようになって、一緒にする食事は割合キチンとしている筈だと思う。だけど以前に比べても大学の時間の関係やバイトで遅くなったりもする事が仁聖には増えていて、三食全てを共にするのは難しくなっている。昼は仁聖は学食だし、恭平は仕事の合間に食事はしてるから気にするなと言う。基本的には朝と夕はなるべく一緒にとは思うが朝は前夜少し無理をさせたりした後だったりして、最近は恭平が起きれなかったりする事もあって一緒に食べないこともあるのだ。つまり最近では確実に一緒なのは夕食だけの日もあって、他の食事は大学にいっている間は仁聖にはハッキリした事が言えないのだと気がついてしまう。
ちゃんと食べるようにするって、…………体調管理するって……約束してるけど…………
約束はちゃんと守ってくれる筈だけど何か引っ掛かりがあるのは何故だろうと、シンクから水切り籠に食器を並べながら仁聖は考え込む。以前と違って恭平は自分との約束を守ろうとしてくれているし、自分の事を大事にもしている筈なのに、何故今こんな違和感がと考えてしまう。
「恭平?」
何気なく書斎へ向かって歩きながら声をかける仁聖は、そこでまた違和感を感じてもいた。パソコンのデータのバックアップって言ってたのに、随分時間がかかってるし静か過ぎないか?そう思いながら書斎のドアに手をかけた仁聖は室内を見た瞬間自分の背筋が一瞬で凍りつくのを感じていた。
「きょうへ……?」
書斎のデスクの前の椅子に手をかけるようにして、床に座り込んでいる恭平の背中が見えて仁聖は青ざめながら咄嗟に恭平に駆け寄る。肩に手をかけて揺らしても蒼白な顔をした恭平の反応は帰ってこなくて、仁聖は思わず力の抜けきっている冷たい頬に手を伸ばしていた。
「恭平?!!恭平!!」
肩を揺さぶるようにして大きな声で呼び掛けても、崩れ落ちたまま青ざめた恭平はグッタリして仁聖の声にも反応しない。自分の全身が完全に凍りついて激しく恐怖しているのに気がつきながら、仁聖は咄嗟に恭平の体を抱き寄せていた。
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