362 / 693
第十六章 FlashBack2
206.
しおりを挟む
他愛のない意見の相違
実際にはその程度の事なのだと思うのに、恭平には分からないの一言で二人の間の空気は酷く気まずいものに一瞬で変わってしまっていた。そして何時ものように素直に謝ることも手を繋ぐこともできないままに、夕暮れ過ぎの道を黙ったまま二人並んで歩き続けていく。
自分が悪いと分かっているのに、何故か素直になれない…………
今までとは異なって「ごめんね」と一言言えば良いだけなのに、その一言がどうしても仁聖には言えなくなっている。そしてそれに恭平の方も何も言葉を口にしなくて、何が不満なんだと問いかけてくることもない。結局そのまま互いに言葉を発することもなく自宅マンションまで辿り着いたけれど、そこでもまだ普段とは違って言葉を交わさないままでいる。恭平は何か言いたげな様子をうかがわせてはいて、エレベーターの中でも玄関のドアを潜ってもジッと仁聖の横顔を見つめているのが視線の熱で分かっていた。仁聖はその視線を肌に感じて再び立ち尽くしかけたけれど、何故かそれでも言葉にすることが出来なくてやがていたたまれなくて俯き肌に触れる視線から顔をそらしてしまう。そんな態度はしたことがなかったから、恭平は少し戸惑いながら口を開く。
「じん…………せ…………。」
恭平がそれ以上何か言葉を繋ぐ前に、その場の空気を気まずく感じて真っ先に逃げたしたのは仁聖の方だった。普段の仁聖なら直ぐ様ごめんねと謝って、その後はリビングで恭平にじゃれるようにしてベッタリと甘えて過ごす筈だと自分でも思う。それなのに今日の仁聖は恭平の視線から脱兎の如く逃れて、そのまま自室に飛び込むようにして扉を閉じると自室に籠ってしまったのだった。
「仁聖…………。」
扉越しの微かな戸惑いに満ちた恭平の声が、胸に刺さるように聞こえて仁聖は俯く。自室にこんな風に意図もなく籠るなんて実はここで暮らし初めてからも初めての事、何しろ課題が山積みで自室に籠った以外は常に恭平の傍にいるのが仁聖の最近の日常だったから。そのまま部屋の電気すらつけずにベットの上で膝を抱えてしまってから、自分でもこれが何なのか、何と言う行動なのかと仁聖だって疑問には思う。
俺…………何やってんの…………?
ただ同じ年代の知人と立ち話していた恭平の姿に勝手に一人で拗ねて、しかも一人で周囲の人間に嫉妬して、その上心配してくれる恭平に八つ当たりまでして。その後にも恭平に謝ることも出来なくて拗ねたまま部屋に閉じ籠ってしまうなんて、自分でも自分がよくわからない状態で仁聖は感情のコントロールも出来ないでいるのだ。こんな風に不貞腐れて部屋に閉じ籠るなんて事自体が、仁聖には産まれて初めてとった行動でこれをどうやって納めたら良いのかも想像も出来ないでいる。何しろ親と死別して一緒に暮らしてきたわけでもなければ、叔父と四六時中一緒に暮らしたわけでもない。だから拗ねて部屋に籠るなんて行動自体する必要性がなくて、その上仁聖は源川秋晴の家を自分の家とは認識してこなかったし、誰かに対してこんな風に拗ねたこともなければ不貞腐れたことすらなかった。そんなことをするような対象がいなかったし、そんなことをする必要もなく生きてきたのだから当然。それなのに今になってこんな行動をとっている自分が、仁聖には全く分からない。最近の自分は自分の扱いに不満を持ったり、恭平の事でこんな風に我儘に不貞腐れたり、本当に訳が分からないことばかりしている。以前の自分だったら人に対して不貞腐れたりなんかしたことはないし、誰かに対して態度を変えるなんて事もなかった。誰にでもニコニコして接していたし、誰からも嫌われずに過ごすことなんか簡単で
俺…………こんな、行動とってて、…………恭平に嫌われたら……どうすんだよ…………?
そう思うのに何故かこの後どう行動したらいいのか、どんなに思案してもまるで頭に答えが浮かばない。壁越しには恭平がキッチンでなにかしているのが微かな音で今もちゃんと分かるのに、オズオズとでもリビングに顔をだすことも出来ないでいるし、何しろ今はモヤモヤとした感情が胸に広がって身動ぎすら辛くて何も出来ないのだ。実際にはこんな行動は普通の家庭で育っていれば幼い時点で何度も経験する筈の行動なのろうが、これがそうなのだとすら仁聖には分からなくて泣き出したくなるほど戸惑う。
なんで?何でだ?俺って、本当はこんな奴なの?何なの?これ
我儘で恭平に甘えてばかりで。大人になりたいなんて言っていても、まるでその価値すら持たない自分のこの行動。恭平がこれをどう感じたか聞くのすら怖いくらいなのに、謝罪を行動にすら移せないまま仁聖はボンヤリと黙り込んでいる。自分が可笑しな事をしているのはよく分かっていて、自分が感情を納めれば良いだけなのに心と体が伴わない。これは誰かに相談できるようなものなのかどうかすら、今の仁聖には理解が出来ないでいる。
恭平が好きすぎて、自分だけの人でいてほしいだけ
…………なんて我儘をもう言わなくても、恭平が何よりも自分を一番に大事にしてくれているのは分かっている。それなのに最近の自分が事あるごとに恭平の変化に嫉妬ばかりして、子供のように駄々をこねているのだ。思わずボスッと勢いよくベットに大の字に寝転んで天井を見つめていたが、いたたまれなくて腕で顔を覆うと仁聖は唇をキツく噛んでいた。
端と気が付くとそのまま転た寝していたらしくて、夜の闇の中で着替えもしないままベットの上で仁聖は目覚めていた。既に壁越しのリビングの気配は静まり返っていて、躊躇いがちに体を起こした仁聖は音をたてないようにそっとドアを開く。電気の消えたままの廊下の先には玄関が薄闇に見えていて、その手前の恭平の仕事場でもある書斎のドアの下から仄かに光が溢れている。音をたてないようにリビングに足を踏み入れると、リビングの電気も消えていて人の気配は感じ取れない。
…………二時間くらい……寝てたのか…………
キッチンカウンターには恭平が作った夕飯が準備されていて、仁聖はそれを見つめる。仁聖が転た寝している間に夕食を作っておいてくれた恭平は、やはり書斎で仕事をしている様子でリビングにも寝室にも居ない。そっと足音を忍ばせて書斎の前まで歩くが、自分が何故こんなにコッソリ動き回っているかすらよく分からないでいる。
…………ごめん、恭平…………。
扉の向こうから規則的にパソコンのキーを打つ音か聞こえてくるが、確かまだそれほど仕事の締め切りの期日は近くではなかった筈なのは仁聖も知っている。恐らくは自分が部屋に籠ってしまったのを、恭平は仕事をしながら起きて待っていてくれるのだろう。
…………ごめん、ね。
扉越しに心の中で呟いても何もならないのに、それでもそうするしか出来ないでいる。このままじゃいけないとは思うけれど、今はこのドアを開けて中に入って恭平に声をかけ、謝るなんて意気地がなくて出来ない。そう思ったら自分でもおかしいよなと溜め息が溢れて、これはこのままじゃ駄目だとプルプルと頭を振って仁聖は徐にその場から動き出していた。
※※※
呆れ果てる程大笑いした宏太の雰囲気がさっき迄とは打って変わって、張り詰めていた顔つきが緩んだのに久保田惣一は安堵もしていた。大怪我をして命の危機を乗り越えてからの外崎宏太は、時折何かの拍子に琴線に触れる事があると発作的を起こすようになっている。
あれって、トラウマ…………PTSDって奴よ、惣一君。
そう妻の松理は言う。何にも動じず何にも感情を動かさないと宏太は思われ勝ちなのだが、実際にはそうではなくて表に出さないだけだし表現方法を知らないだけ。おまけに宏太が元々要領が良い人間なので、基本的に衝撃を受けるような事態の場数が少ない。だから時にとんでもないものに首を突っ込んで、とんでもない痛い目をみるのだと松理は言う。久保田松理という人間はそういう視点では、かなり的確だから惣一はその評価は正しいと思う。多賀亜希子……倉橋でも矢根尾でもいいが、彼女の件でも宏太は実は密かに傷つきはしていて、当時まだ調教師の宏太は一人の女性の調教時に普段ならしない行動をとったことがある。
如月栞を完全に調教せず、主になる人間に密かに抵抗する術を教えたのだ。
本来ならそれは仕事としては契約違反なのだが、宏太は矢根尾俊一に虐待されている彼女とまだ少し交流が持てていて、密かに矢根尾のすることに腹をたててもいたのだろう。まぁ、この件に関しては惣一もつい最近まで気が付きもしなかったくらいで、今だからこそ結び付きもしたのだが。そしてその後直ぐに宏太は同時にしていた片倉右京の調教を最後に調教師自体を辞めて、あのバーの経営者になった。そしてそれから何年間ののちに三浦の事件に関わってしまったのは、後から聞けば片倉右京の件で何もかも嫌になっていたというのだ。
そんな風に感じてるなんて思ってもみなかった…………
そう思わず松理に惣一が呟いたら、宏太だってただ表に見えないだけで人並みに感じていることがあるのよと松理は言うのだ。惣一だってそういう感覚にはかなり疎いが松理が色々と教えてくれて、駄目なことは駄目とお仕置き混じりに伝えてくれる分、かなり以前に比べて丸くなったと仲間達はいう。それでも育ちのせいか感情面では疎いから、この間みたいな電気ショック紛いの一撃はあるものの、松理にしか教えて貰えないことは日々山のように存在する。それを宏太に教えてくれる存在がやっと傍に現れた訳で、そういう意味では外崎了の存在は稀有で大きいのだ。
「もーっ!笑ってんなよ!!人が怒ってんのに!!」
「はは、分かった、分かった。俺の変わりに怒ってくれんだよな?ん?」
未だに抱き締めながら和んだ口調でそんなことをいう宏太に、宏太が触れられたくないことを問い詰めようとしていた庇護は呆然としたまま。庇護にしてみれば恐らくは宏太は、進藤隆平と同等の悪の権化に見えていたに違いない。ニュースには大きく取り上げられなかったが、進藤隆平は庇護の兄の起こしたとされる船舶事故以外にもホテル火災や、近郊の喫茶店での放火や槇山事件。数えきれない程の事件を引き起こして、たった数人のために大勢の人間を殺してきた悪魔のような存在(と言われると悪魔と呼ばれるモノ達の方が、ずっと平和的で建設的で人間を大切にしていると惣一は思う。何せ悪魔は人間に依存もしているから、対象である人間を減らす…………つまり殺したら無意味なのだ。)と呼ばれている訳だ。それに運命とは言え散々踊らされて関わってしまった宏太は、少し見る角度を変えてしまうと進藤の分身みたいに見えなくもない。
でも、実際には本当にそのつもりがなかったのに巻き込まれて、足掻いていただけ
元々の態度があれだから誤解されてしまうが、宏太は本当に最初は妻の自死に傷つき自暴自棄になって自分のもとを訪れ調教師になった。そしてその後に気にかけていた多賀亜希子が苦しんでいたのに気が付いて、自分が矢根尾と同じ事をしていると感じて如月栞を変わりに助けたのだ。そして片倉右京が死んで自暴自棄になっていたところで真名かおるに会い、三浦に関わって大怪我を負い死にかけてトラウマに苦しんでいた。トラウマから逃げられないから、何とかするために可能なことをした結果が進藤隆平の事件に巻き込まれて上原杏奈の死で更に追い込まれもしたのだ。
器用に見えて不器用で世渡りが下手なだけ
そんな人間なのだと理解して一緒にいてくれる存在がやっと出来たのに、一番悪い見方で宏太を調べる人間が現れて宏太がまた自暴自棄になりはしないかと心配したのだが、それは杞憂に過ぎなかったようだ。宝物でも抱きしめているように笑う宏太に、安堵した惣一はファイルを持ち込んで宏太を問い詰めようとしていた比護を改めて眺める。毒気を抜かれたように呆然としているのは、宏太がこんな風にのんきに笑う人間だと思いもしなかったからに違いない。
そういう意味では今だから笑えてるんだけどな……宏太も
ほんの半年一寸前の宏太だったら比護が詰め寄っても冷淡に反応したろうし、進藤の手先と詰られても反論もしなかったかもしれない。そして悪人と決めつけられ身元を暴かれたのに、全力で闇の中で一人抵抗してみせる宏太がいたに違いないと思う。
「比護さんよ、残念だけどよ、あんたの兄貴の疑惑晴らすには船を引き上げないことにゃぁな。外堀から埋めようにも竜胆ファイルは当人があれじゃ真実とは証明出来ねぇんだよ。」
「ほ、かにも…………あるのか?このファイル…………。」
どうやら竜胆ファイルが他にも何十もあって、警察関係者の手にあるのを比護耕作は知らない。まぁ聞くところによると、どれも一種異常な綿密さで事件は調査され纏められているそうだから、各一冊にどれくらいの労力が注ぎ込まれているか考えるのも嫌になる。何しろホテル火災の方のファイルには被害者一覧が作成され、必要な人間は身元まで調べてあるとか。
ただしその内容がどれだけ真実に迫っていても、作成した当人はテロリスト扱い。つまりその信憑性に関しては、過去の裁判を覆す能力には乏しいに違いないのだ。しかも船舶事故に関しては竜胆自身が事件の関係者だから、なおのことだ。
実際にはその程度の事なのだと思うのに、恭平には分からないの一言で二人の間の空気は酷く気まずいものに一瞬で変わってしまっていた。そして何時ものように素直に謝ることも手を繋ぐこともできないままに、夕暮れ過ぎの道を黙ったまま二人並んで歩き続けていく。
自分が悪いと分かっているのに、何故か素直になれない…………
今までとは異なって「ごめんね」と一言言えば良いだけなのに、その一言がどうしても仁聖には言えなくなっている。そしてそれに恭平の方も何も言葉を口にしなくて、何が不満なんだと問いかけてくることもない。結局そのまま互いに言葉を発することもなく自宅マンションまで辿り着いたけれど、そこでもまだ普段とは違って言葉を交わさないままでいる。恭平は何か言いたげな様子をうかがわせてはいて、エレベーターの中でも玄関のドアを潜ってもジッと仁聖の横顔を見つめているのが視線の熱で分かっていた。仁聖はその視線を肌に感じて再び立ち尽くしかけたけれど、何故かそれでも言葉にすることが出来なくてやがていたたまれなくて俯き肌に触れる視線から顔をそらしてしまう。そんな態度はしたことがなかったから、恭平は少し戸惑いながら口を開く。
「じん…………せ…………。」
恭平がそれ以上何か言葉を繋ぐ前に、その場の空気を気まずく感じて真っ先に逃げたしたのは仁聖の方だった。普段の仁聖なら直ぐ様ごめんねと謝って、その後はリビングで恭平にじゃれるようにしてベッタリと甘えて過ごす筈だと自分でも思う。それなのに今日の仁聖は恭平の視線から脱兎の如く逃れて、そのまま自室に飛び込むようにして扉を閉じると自室に籠ってしまったのだった。
「仁聖…………。」
扉越しの微かな戸惑いに満ちた恭平の声が、胸に刺さるように聞こえて仁聖は俯く。自室にこんな風に意図もなく籠るなんて実はここで暮らし初めてからも初めての事、何しろ課題が山積みで自室に籠った以外は常に恭平の傍にいるのが仁聖の最近の日常だったから。そのまま部屋の電気すらつけずにベットの上で膝を抱えてしまってから、自分でもこれが何なのか、何と言う行動なのかと仁聖だって疑問には思う。
俺…………何やってんの…………?
ただ同じ年代の知人と立ち話していた恭平の姿に勝手に一人で拗ねて、しかも一人で周囲の人間に嫉妬して、その上心配してくれる恭平に八つ当たりまでして。その後にも恭平に謝ることも出来なくて拗ねたまま部屋に閉じ籠ってしまうなんて、自分でも自分がよくわからない状態で仁聖は感情のコントロールも出来ないでいるのだ。こんな風に不貞腐れて部屋に閉じ籠るなんて事自体が、仁聖には産まれて初めてとった行動でこれをどうやって納めたら良いのかも想像も出来ないでいる。何しろ親と死別して一緒に暮らしてきたわけでもなければ、叔父と四六時中一緒に暮らしたわけでもない。だから拗ねて部屋に籠るなんて行動自体する必要性がなくて、その上仁聖は源川秋晴の家を自分の家とは認識してこなかったし、誰かに対してこんな風に拗ねたこともなければ不貞腐れたことすらなかった。そんなことをするような対象がいなかったし、そんなことをする必要もなく生きてきたのだから当然。それなのに今になってこんな行動をとっている自分が、仁聖には全く分からない。最近の自分は自分の扱いに不満を持ったり、恭平の事でこんな風に我儘に不貞腐れたり、本当に訳が分からないことばかりしている。以前の自分だったら人に対して不貞腐れたりなんかしたことはないし、誰かに対して態度を変えるなんて事もなかった。誰にでもニコニコして接していたし、誰からも嫌われずに過ごすことなんか簡単で
俺…………こんな、行動とってて、…………恭平に嫌われたら……どうすんだよ…………?
そう思うのに何故かこの後どう行動したらいいのか、どんなに思案してもまるで頭に答えが浮かばない。壁越しには恭平がキッチンでなにかしているのが微かな音で今もちゃんと分かるのに、オズオズとでもリビングに顔をだすことも出来ないでいるし、何しろ今はモヤモヤとした感情が胸に広がって身動ぎすら辛くて何も出来ないのだ。実際にはこんな行動は普通の家庭で育っていれば幼い時点で何度も経験する筈の行動なのろうが、これがそうなのだとすら仁聖には分からなくて泣き出したくなるほど戸惑う。
なんで?何でだ?俺って、本当はこんな奴なの?何なの?これ
我儘で恭平に甘えてばかりで。大人になりたいなんて言っていても、まるでその価値すら持たない自分のこの行動。恭平がこれをどう感じたか聞くのすら怖いくらいなのに、謝罪を行動にすら移せないまま仁聖はボンヤリと黙り込んでいる。自分が可笑しな事をしているのはよく分かっていて、自分が感情を納めれば良いだけなのに心と体が伴わない。これは誰かに相談できるようなものなのかどうかすら、今の仁聖には理解が出来ないでいる。
恭平が好きすぎて、自分だけの人でいてほしいだけ
…………なんて我儘をもう言わなくても、恭平が何よりも自分を一番に大事にしてくれているのは分かっている。それなのに最近の自分が事あるごとに恭平の変化に嫉妬ばかりして、子供のように駄々をこねているのだ。思わずボスッと勢いよくベットに大の字に寝転んで天井を見つめていたが、いたたまれなくて腕で顔を覆うと仁聖は唇をキツく噛んでいた。
端と気が付くとそのまま転た寝していたらしくて、夜の闇の中で着替えもしないままベットの上で仁聖は目覚めていた。既に壁越しのリビングの気配は静まり返っていて、躊躇いがちに体を起こした仁聖は音をたてないようにそっとドアを開く。電気の消えたままの廊下の先には玄関が薄闇に見えていて、その手前の恭平の仕事場でもある書斎のドアの下から仄かに光が溢れている。音をたてないようにリビングに足を踏み入れると、リビングの電気も消えていて人の気配は感じ取れない。
…………二時間くらい……寝てたのか…………
キッチンカウンターには恭平が作った夕飯が準備されていて、仁聖はそれを見つめる。仁聖が転た寝している間に夕食を作っておいてくれた恭平は、やはり書斎で仕事をしている様子でリビングにも寝室にも居ない。そっと足音を忍ばせて書斎の前まで歩くが、自分が何故こんなにコッソリ動き回っているかすらよく分からないでいる。
…………ごめん、恭平…………。
扉の向こうから規則的にパソコンのキーを打つ音か聞こえてくるが、確かまだそれほど仕事の締め切りの期日は近くではなかった筈なのは仁聖も知っている。恐らくは自分が部屋に籠ってしまったのを、恭平は仕事をしながら起きて待っていてくれるのだろう。
…………ごめん、ね。
扉越しに心の中で呟いても何もならないのに、それでもそうするしか出来ないでいる。このままじゃいけないとは思うけれど、今はこのドアを開けて中に入って恭平に声をかけ、謝るなんて意気地がなくて出来ない。そう思ったら自分でもおかしいよなと溜め息が溢れて、これはこのままじゃ駄目だとプルプルと頭を振って仁聖は徐にその場から動き出していた。
※※※
呆れ果てる程大笑いした宏太の雰囲気がさっき迄とは打って変わって、張り詰めていた顔つきが緩んだのに久保田惣一は安堵もしていた。大怪我をして命の危機を乗り越えてからの外崎宏太は、時折何かの拍子に琴線に触れる事があると発作的を起こすようになっている。
あれって、トラウマ…………PTSDって奴よ、惣一君。
そう妻の松理は言う。何にも動じず何にも感情を動かさないと宏太は思われ勝ちなのだが、実際にはそうではなくて表に出さないだけだし表現方法を知らないだけ。おまけに宏太が元々要領が良い人間なので、基本的に衝撃を受けるような事態の場数が少ない。だから時にとんでもないものに首を突っ込んで、とんでもない痛い目をみるのだと松理は言う。久保田松理という人間はそういう視点では、かなり的確だから惣一はその評価は正しいと思う。多賀亜希子……倉橋でも矢根尾でもいいが、彼女の件でも宏太は実は密かに傷つきはしていて、当時まだ調教師の宏太は一人の女性の調教時に普段ならしない行動をとったことがある。
如月栞を完全に調教せず、主になる人間に密かに抵抗する術を教えたのだ。
本来ならそれは仕事としては契約違反なのだが、宏太は矢根尾俊一に虐待されている彼女とまだ少し交流が持てていて、密かに矢根尾のすることに腹をたててもいたのだろう。まぁ、この件に関しては惣一もつい最近まで気が付きもしなかったくらいで、今だからこそ結び付きもしたのだが。そしてその後直ぐに宏太は同時にしていた片倉右京の調教を最後に調教師自体を辞めて、あのバーの経営者になった。そしてそれから何年間ののちに三浦の事件に関わってしまったのは、後から聞けば片倉右京の件で何もかも嫌になっていたというのだ。
そんな風に感じてるなんて思ってもみなかった…………
そう思わず松理に惣一が呟いたら、宏太だってただ表に見えないだけで人並みに感じていることがあるのよと松理は言うのだ。惣一だってそういう感覚にはかなり疎いが松理が色々と教えてくれて、駄目なことは駄目とお仕置き混じりに伝えてくれる分、かなり以前に比べて丸くなったと仲間達はいう。それでも育ちのせいか感情面では疎いから、この間みたいな電気ショック紛いの一撃はあるものの、松理にしか教えて貰えないことは日々山のように存在する。それを宏太に教えてくれる存在がやっと傍に現れた訳で、そういう意味では外崎了の存在は稀有で大きいのだ。
「もーっ!笑ってんなよ!!人が怒ってんのに!!」
「はは、分かった、分かった。俺の変わりに怒ってくれんだよな?ん?」
未だに抱き締めながら和んだ口調でそんなことをいう宏太に、宏太が触れられたくないことを問い詰めようとしていた庇護は呆然としたまま。庇護にしてみれば恐らくは宏太は、進藤隆平と同等の悪の権化に見えていたに違いない。ニュースには大きく取り上げられなかったが、進藤隆平は庇護の兄の起こしたとされる船舶事故以外にもホテル火災や、近郊の喫茶店での放火や槇山事件。数えきれない程の事件を引き起こして、たった数人のために大勢の人間を殺してきた悪魔のような存在(と言われると悪魔と呼ばれるモノ達の方が、ずっと平和的で建設的で人間を大切にしていると惣一は思う。何せ悪魔は人間に依存もしているから、対象である人間を減らす…………つまり殺したら無意味なのだ。)と呼ばれている訳だ。それに運命とは言え散々踊らされて関わってしまった宏太は、少し見る角度を変えてしまうと進藤の分身みたいに見えなくもない。
でも、実際には本当にそのつもりがなかったのに巻き込まれて、足掻いていただけ
元々の態度があれだから誤解されてしまうが、宏太は本当に最初は妻の自死に傷つき自暴自棄になって自分のもとを訪れ調教師になった。そしてその後に気にかけていた多賀亜希子が苦しんでいたのに気が付いて、自分が矢根尾と同じ事をしていると感じて如月栞を変わりに助けたのだ。そして片倉右京が死んで自暴自棄になっていたところで真名かおるに会い、三浦に関わって大怪我を負い死にかけてトラウマに苦しんでいた。トラウマから逃げられないから、何とかするために可能なことをした結果が進藤隆平の事件に巻き込まれて上原杏奈の死で更に追い込まれもしたのだ。
器用に見えて不器用で世渡りが下手なだけ
そんな人間なのだと理解して一緒にいてくれる存在がやっと出来たのに、一番悪い見方で宏太を調べる人間が現れて宏太がまた自暴自棄になりはしないかと心配したのだが、それは杞憂に過ぎなかったようだ。宝物でも抱きしめているように笑う宏太に、安堵した惣一はファイルを持ち込んで宏太を問い詰めようとしていた比護を改めて眺める。毒気を抜かれたように呆然としているのは、宏太がこんな風にのんきに笑う人間だと思いもしなかったからに違いない。
そういう意味では今だから笑えてるんだけどな……宏太も
ほんの半年一寸前の宏太だったら比護が詰め寄っても冷淡に反応したろうし、進藤の手先と詰られても反論もしなかったかもしれない。そして悪人と決めつけられ身元を暴かれたのに、全力で闇の中で一人抵抗してみせる宏太がいたに違いないと思う。
「比護さんよ、残念だけどよ、あんたの兄貴の疑惑晴らすには船を引き上げないことにゃぁな。外堀から埋めようにも竜胆ファイルは当人があれじゃ真実とは証明出来ねぇんだよ。」
「ほ、かにも…………あるのか?このファイル…………。」
どうやら竜胆ファイルが他にも何十もあって、警察関係者の手にあるのを比護耕作は知らない。まぁ聞くところによると、どれも一種異常な綿密さで事件は調査され纏められているそうだから、各一冊にどれくらいの労力が注ぎ込まれているか考えるのも嫌になる。何しろホテル火災の方のファイルには被害者一覧が作成され、必要な人間は身元まで調べてあるとか。
ただしその内容がどれだけ真実に迫っていても、作成した当人はテロリスト扱い。つまりその信憑性に関しては、過去の裁判を覆す能力には乏しいに違いないのだ。しかも船舶事故に関しては竜胆自身が事件の関係者だから、なおのことだ。
0
お気に入りに追加
249
あなたにおすすめの小説



どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


青少年病棟
暖
BL
性に関する診察・治療を行う病院。
小学生から高校生まで、性に関する悩みを抱えた様々な青少年に対して、外来での診察・治療及び、入院での治療を行なっています。
※性的描写あり。
※患者・医師ともに全員男性です。
※主人公の患者は中学一年生設定。
※結末未定。できるだけリクエスト等には対応してい期待と考えているため、ぜひコメントお願いします。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる