鮮明な月

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第十六章 FlashBack2

197.

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大学生になって上京したはいいが、関東圏は物価が高い。高いとは聞いていたが想定より遥かに高くて、実家からの仕送りでは日々の生活すら厳しかった。でも、それを言うには折角合格した大学での勉強を不意にしかねないのは、両親はあまり上京に賛成ではなかったからだ。地元に残って進学して就職を希望する両親に良い大学に受かったの一点張りを突き通したのは、誰でもない久世浩久自身だった。

だから、仕送りは最低限しか望めない…………

バイトも様々あるのだが一番安定した給料が得られて、しかも学力重視であるが故に入学した大学の名前が威力を発揮したのは、この塾講師と言うバイトだった。進学希望の年下相手に自分が大学に入れた学力で指導する訳だから、まあ理解できなくもないバイト先だとは思う。思うけれど実際には高校生でも学力が高い奴も結構いて、たまの質問にはヒヤヒヤしてしまうことも多い。
そんなバイト先の塾の室長・小早川圭に頼まれて、何個か離れた駅(とはいえ沿線の線路は大きく湾曲しているから、間に駅が幾つかあっても距離としては徒歩圏内。それに、その駅前には最近、金子美乃利の我儘に振り回されて何度か来てもいるのだが。)の北側にある系列塾までお届けもののお使いを久世がしたのは、本当に偶々の巡り合わせだった。

「いやぁ、久世君だったよね、助かったよ。もう一回メール送信してもらおうにも、何か今日うちのパソコンストライキしててねぇ。コバ、忙しいしねー。」
「いえ、俺は授業終わりだったんで。」
「でも、自宅から二駅でしょ?悪かったねー。ほんと助かったよ、今晩中に本部に提出でねー。」

そうなのだ、小早川の方も忘れていたわけではなくてメールでは送信していたようなのだが、相手の受け取る側のパソコンの不調で受け取れなかったと言うのが本音。しかも今晩中に塾の経営本部に提出しなければならないのは、実際には講師の流動性とか経営面での統計なのだとか。なので書類をプリントアウトして持参すると言う話しにしていたようなのだが、小早川が締め切り時間を真夜中の日付が変わるまでと明日の朝までとを見謝ったということのようだ。本来なら経営内部の書類になるから幾ら封筒にいれて綴じてある状態で手渡しするのだとしても自分みたいなペーペーに持たせたらいけないのかも知れなかったが、時間制限がのこり数時間ではそこは目を瞑るしかなかったという。何せ統括はこれからこれらの書類をまとめて、メールが駄目なら本部まで持っていくなんて事になるかも知れない状況らしい。

「今直してもらってるんだけどねー。間に合うかなぁ。」

見れば事務所のパソコンの前にはスーツ姿ではない女性が座って黙々とキーを叩いているが、顔色を見るからにはあまり状況ははかばかしくはないようだ。地区統括だと言う八幡征爾にワザワザ書類を手渡しに来てここで助けになれたらかなり久世の株が上がるとは思うけれど、残念ながら久世はパソコンにも明るくないから手伝うことも出来ずに素直に帰途につくしかない。大人しく退去の挨拶をして、階段を降りていく。

パソコンかぁ…………今時スマホで全部すむもんなぁ…………

そんなことを溜め息混じりに考えながら階段を降りきると、塾の立地としてはこちらは繁華街の真ん中にあって周囲は美乃利の普段取り巻きになっているよりもずっと大人で派手な人々の流れを眺める。ファーストフードやファミレスみたいな飲食店だけでなく、裏路地には洒落たバーや居酒屋なんかも多くて、辺りを歩く年代層も自分よりも僅かに上になるのだろう。会社帰りのスーツ姿の中で同じスーツなのに何故か自分は擬物みたいな気分になってしまうのは、久世がまだ学生バイトの塾講師にすぎないと自分も何処かで思うからか。

小早川室長や八幡統括みたいに、安定感も存在感もないんだもんなぁ…………

そんなことを人混みを眺めて歩き出しながら鬱々と考えつつ、遅くなったが今夜の夕飯をどうするか何て事もボンヤリと頭で巡らせている。繁華街には中華も牛丼チェーンもあるし電車に乗る前にここで食べて帰るのもありかとは思うが、少し気分が落ち込んでもいるから何か元気が出るものでもと思いながら辺りを見渡す。途切れることのない人混みには本当に様々な人が溢れていて、夜遅いというのにスーツ姿の女性もいるのに気がつく。黒髪で赤い縁の眼鏡かけてすれ違う女性に一瞬目を取られて振り返った久世は、その視線の先で思わぬ姿を見つけていた。

あれ?

それは本当に偶々の出来事で、そこでまさかその顔を見るとは思いも寄らなかった、そう久世浩久は苦く思う。いや、絶対にないとは言えないのは、美乃利の我儘に振り回されてこの駅前で探したのは、その相手だからで、つまりはここいらに暮らしているということなのだが。兎も角その姿は近くのビルから出てきて当然のようにスルリと人混みに紛れていこうとしていたが、同じくビルの中から駆けてきたもう一人の青年に呼び止められ久世の目の前で足を止めたのだ。

源川?……と、あれって…………

その二人は派手なネオン街の周囲の中でもシンプルな服装だと言うのに一際目立っていて、まるで埋没しない姿は自分とは別物だった。事実自分はこのネオンに埋没するタイプの存在だから、何度か顔を逢わせているのだけれど、普段とは違うスーツ姿の自分に視線は向いたけど何も気がついた様子ではない。

「先輩さ、今度の…………。」

しかも、その話しかけている相手。その相手の顔にも、久世は見覚えがあるのだった。何しろ源川の相手として話していたのは、数ヵ月前まで久世が受験生だと言うのにもろはまりして毎週録画してまで見ていたドラマに出ていた顔なのだ。

二度目の初恋…………の、祥太…………高校時代の…………

そう、ドラマに出ていた芸能人と源川は当然みたいに親しげに話していて、しかもどう見ても源川の方が相手から先輩と呼ばれて慕われている風にも見える。

あれって五十嵐海翔…………だよな?

あのドラマにはまってからというものの、一番気に入っていた祥太の高校時代を演じていた俳優・五十嵐海翔の出ているドラマは全てチェックしてあるのだ。正直駆けよってサインを下さいと言いたいのを久世がグッとこらえたのは、二人が順に出てきたそのビルをなんとはなしに見上げたからだった。



※※※



「あの…………外崎さん、ですよね?」

そう背後から声をかけられて思わず肩越しにその男を見てしまったのは、自分の事をそう呼んで呼び止める人間が出てきたのに密かに内心では驚きもしたからだった。と言うのも確かに了は成田から外崎に変わって既に半年になるが、未だに以前の顔見知り達の殆どは成田と呼ぶものも多いし自分自身余り大っぴらに養子になったと口にするわけでもない。だから、自分を外崎と呼ぶのは外崎になってから知り合った者の方が多くて、同時にそういう相手は自分を知っているのでこんな風に確認するようには呼ばない。

「えっと…………?」

でもそこに立っていたのは見覚えの無いスーツ姿で、華奢と言う表現では少し物足りないようなヒョロリとした男。了が戸惑いを含めた声を出すと、相手は慌てたように手に持ったブリーフケースを名刺でも探すようにガサガサと漁り始める。ところが名刺の持ち合わせがなかったのか何時までたってもそれを見つけられないようで、男はションボリとした様に申し訳ないと呟いた。

「すみません、さっきのとこで名刺切らしてしまったみたいで……、あの金子物流ってご存じですか?」

その会社の名前は勿論だが、ちょっと独特の形をしたビルが違う意味で有名だから了も知っている。基本的には海外からの荷物の積み降ろしとかの荷役とか、小売店への中継が多い中規模の物流会社。その金子物流の営業職なのだろうが、こんな街中で自分に声をかける理由が今一つ読めないのは事実だ。

「それで…………あの?」
「ああ、えっと話が見えないですよね、いやですね、今度社内の流通を活用して飲食物を提供する店舗を展開しようとプロジェクトを立ち上げてましてですね!」

勢い切って話し始めた相手の言うことは、まとめればつまりは物流会社が自分の物流パイプを活用して、飲食店を経営しようかとプロジェクトを立ち上げようとしていると言うことらしい。そこまで聞けば何となく何故自分に声をかけたのかは想定できるが、街中で了をこうして捕まえる理由には実は繋がらないのだ。つまり近郊の飲食店や宿泊等の業種でのコンサルティングで実績をあげている外崎に、飲食店のコンサルタントを請け負って貰いたいのだろう。だが、それなら社長の宏太に打診をかけるのが先で、幾ら伴侶とは言え(この相手が了がどういう立場なのか知っているかどうかは別としてだが)了には意見としては聞くだろうが仕事を受ける最終決定はない。それがある意味では相手への不信感として顔に出たのだろう、相手は慌てて話を更に続けた。

「えっとですね、本当なら久保田さんに紹介をしていただこうとしたんですよ、ですが、最近久保田さんがお忙しいらしくてアポがずっと取れなくてですね!」

成る程。外崎宏太にスムーズに物を頼むのは、基本的にはここいらでは久保田惣一を通すのが一番手っ取り早い。何しろそれ以前から知り合いでもあったとは言えカフェ・ナインスの宮も居酒屋伊呂波の浅木も、こちらは全く知り合いではなかったようだがワインバーの五條も、宏太への紹介者は久保田惣一なのだ。それ以外の仕事は藤咲のように宏太自信の知り合いだったり、知人の知人から伝を辿って来て関係を構築してきたものが多い。

それでここまで成り立つんだもん、しゃちょーって桁外れに破格の能力だよねー、了。

とは結城晴の意見だが、元々コンサルティングをしていたわけでない人間が、表に何一つ広告も出さずに収益黒字で経営しているのだから了も同感ではある。とは言え目の前の金子物流の営業マンは何とか渡りをつけようと久保田にアポをとろうとしているのだが、最近の久保田は妻の妊娠で目下手一杯なのでずっと蹴られているわけだ。宏太にアポを直接取るには基本的には外に出た本人を捕まえるのが早いが、何しろ宏太の方も見ず知らずの人間に話しかけられて「はい、なんでしょう?」と言うタイプでもない。

「そ、それでですねぇ、色々他の飲食店の方々から、外崎さんの話をお聞きしまして。」

それで了のことは知っていたと言いたいわけで、偶々一人でいる了に声をかけたと言う訳らしい。とは言え金子物流の経営状況は了には分からないし、飲食物の物販を起動に乗せるベースが何処までしっかりしているか計画性はどうかとか様々調べないと答えは出せないし、何しろ基本計画を見てみないことにはコンサルタントするかどうかも返事も出来ない。

「…………なので、計画書とかマーケティング調査とか資料を揃えてですね…………。」

サラリと当然のようにそう口にした了のことを相手は何故かマジマジと見つめ返してきて、了は少しだけ落ち着かない気分になる。まあ街中で呼び止められ、ラフな私服で食材を片手に歩いている人間が、突然マーケティング調査やら経営計画を提出してくださいなんて言うと思ってなかったのか?とは思うが、こっちは本職のコンサルティング業なんだからそこらは当然の指摘だと思う訳だ。

「あの………………。」
「あ、ああ、いや、すみません!凄くお若そうだったんで、なんかその。」

やっぱりチャラチャラした若いのが事務仕事をしている位にしか思ってなかったのかと内心では思うが、実質的にカフェ・ナインス等の経営コンサルティングを中心にやったのは宏太ではなくて了と晴な訳で。カフェ・ナインスの周辺の人の流れとか、元々あったカラオケボックス・エコーなんかの客層も念頭に今の経営展開を提案したのは晴だし、カラオケボックスの減室での経営案を提示したのは了なのだ。まぁ冗談なのか元チーマー崩れの店員をあえて雇うことで、逆に店舗周辺を含めて治安維持を図るってどうだと言ったのは宏太ではあるし、それが妙に女性客に受けたのは奥雪路みたいな妙な才能がある人間が含まれていたからでもある。兎も角確かに宏太の能力は比べようもない破格のレベルでも、部下の二人だって年齢としてもかなり高いレベルの仕事が出来るのだ。とは言えそこをここで指摘しても何にもならないのも分かっているから、賑やかに社長の指導が良いのでと微笑む。

「計画書諸々準備が出来たら、この連絡先にご連絡下さい。」

そう言って一応表だっての連絡先と社用名刺を了が差し出すのに、相手はアワアワと泡を食いながら何度もペコペコと頭を下げていたのだった。
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