鮮明な月

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間章 アンノウン

間話26.些細な幸せ

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既製品で同じメーカーで同じ形、しかも幾つも同じ物が量産されているマグカップ。

何時ものように珈琲を入れて、少しのクリープ。そして何時ものように置いて別段変わりはなかった何時もの行動。それなのにマグカップに手を伸ばし持ち上げようとして宏太は何かに気がついた様子で手を止めて、ふっと僅かに首を傾げ少し考え込む様子でいる。そして暫く手触りを確かめるようにカップの縁に触れて、また少し訝しげに首を傾げた。

やっぱり気がついたか。

宏太との記憶がアヤフヤだったあの時、タイミング悪くマグカップを割ってしまったことを了は実はまだ話していなくて。割ってしまったと言い出しにくくなってしまったのは、少しバタバタしてタイミングを逃しただけだった。でも元々が既製品だし同じものならと思って、予備にとしまってあった物を下ろしたのだけど。どうも宏太には何時もの物が、たかが既製品とは言いきれない物に既になっていたらしい。

「…………宏太?」

躊躇いに物を試すような指先がまだツツッとマグカップの縁を丹念に確かめているのに、了は躊躇いがちにその姿にキッチンから歩み寄っていく。

「ん?」
「…………気になるか?やっぱり…………カップ。」

了がオズオズと問いかけるのに宏太はいやと呟きながらも、そして当然みたいに気がついていたのだろう、これはいつものじゃないんだなとポツリと口にした。



※※※



マンションからここに引っ越して直ぐの頃『耳』に関連した機器の設置をするという建前で、了を一時的に表に出かけさせたことがあった。というのも建前だというのは実はここの機器は六割がたが元々ココに最初からあったもので、前のこの家の持ち主・久保田松理がこの家を手に入れて据え付けた物なのだ。
久保田松理は久保田惣一と同等の技能のある人間で、密かに惣一以上のパソコン操作が可能だという。そんな松理が使いこなしていたそれらの機器の、残りの四割に当たる宏太には不要な物。それを運び出すのに了を一時的に避難させたというのが真実だった。それというのも松理が運びだし持って行くことにした四割は、大概が法にさわる可能性が高いし機密性の高い情報等も含まれるのだ。宏太や了がそれを知ったとしても、そうでなくとも何もしなくとも、下手をすると傍にあるだけで危険な目に遭いかねない代物。つまりは時原爆単並みの情報を保有するのに、こんな邸宅を使うわけで。

「…………何なんだよ、機密って。」
「気にしなくていいわよ、私のライフワークだから。」

実はネットワーク上ではロキと呼ばれる天才ハッカーでもある松理に、ライコウという別名を持つ裏社会の顔役でもあった惣一。夫婦にしてはある意味ダークな面が破格すぎて、ライフワークとか言われてもと宏太も流石に思う。外崎宏太も確かに裏社会側に近い人間ではあるのだが、この二人と比較すればまだまだ可愛いものなのだ。というわけで平然としてデータを移動させココにいた痕跡を完璧に消す松理は、了に見せるには躊躇って当然だったりもする。

「それにしても耳の方続けるの?トノ。」

そう問いかけられて一瞬答えに詰まったのは、実は続けるのか止めるのか宏太自身答えが出かねていたからだった。
最初は片倉右京の復讐の手伝いをするために昔身につけていたものを活用し始めただけだったが案外性にあっていて、次第にそちらに比重がかかり。次いで自分のこの障害で仕事が限局されたのもあって始めた盗聴家業。おまけに三浦へのトラウマ克服のためともう一つ事情もあって、ここ数年は『耳』が本業になりつつあったのだ。

「…………わかんねぇな…………。」

もう一つの理由だったのは、外崎了。この体になって危なっかしい了を見守ることも出来ないから、せめて何か困った時には助けになってやろうなんて馬鹿な考えを持っていた。そう思って了の動向を知るために『耳』は広域になっていったのだ。ところが気がついたら何故か『耳』では殆ど得られなかった了の情報の変わりに、了当人が今では宏太の傍にいる。

そういう意味では『耳』の必要性がねぇともいうんだけどな…………。

すっぱりとやめてもいいのだが、今までの交友関係で『耳』を有効活用している店もあったりする。しかもまぁそれもコンサルティング業の仕事の一部でもあるのだ。だから即辞めるとは、宏太にしても言いがたいというのが本当のところなのだった。

「まぁね、これを便りにしてる宮君や相園ちゃんなんかもいるしねぇ。」

カラオケボックス・エコーの店長宮直行や、ブティックホテルの支配人・相園は、初期からの『耳』の利用者でもあるし、元はと言えばどちらも久保田惣一の知り合いというか部下というか、そんな長く古い関係性でもあるのだ。

「……まぁ少しずつ縮小ってのが一番なんじゃないかね?そう思うけど。」

ケーブルを外してパソコンの本体を一台抱えた惣一が髪についた埃を払いながら言うのに、端末を繋いでデータを移している真っ最中の松理も呑気にそうねと同意する。そうして数時間でこの奥の小部屋は耳主体の宏太が使いやすい機器に変えられて、今後はコンサルタント業を含めて仕事部屋として再活用の予定。
惣一達は宏太はコンサルティングだけでも食っていけると太鼓判を押してはくれているのだが、自分の性格や経歴では幾ら了がココで一緒に暮らすとはいえそれで上手く収まるのか甚だ疑問だと思っているのはここだけの話。

俺は人でなしだからな…………

元妻の苦悩も知らず、ムザムザと自死させて、それに何一つ心も痛めない人でなし。しかもその上その弟まで死に追いやって、自分が録でもない人間擬きなのは理解している。理解していても、それでも了を手に入れたかった利己的な自分の本性が、まともな幸せを得られるのかもわからない。そんなことを口にするのも自分らしくはないと考えて黙り込んだ宏太を、松理が何も言わずに眺めていたのはここだけの話。
必要な大移動がやっと終わって埃みれの室内から解放された宏太が二人を送り出し、リビングの横を通りすぎようとして足を止めていた。リビングの奥に人の気配があって、それがキッチンの中を忙しなく動く気配だと気がつく。

…………希和……?

そんな筈はない。だけどキッチンで動き回る足音は何処か過去を揺り動かして、だけど次第にそれが全く違う質感の足音だと気がつく。

……了、か?

キッチンで動くという状況に思わず希和を思い浮かべたが、動き回って棚に食器を置いたりしているのは実際には了なのだ。そして廊下から様子を伺っていた宏太に気がついた了が、奥から元気な声をあげてきた。

「こぉた、珈琲いれる?」

柔らかな了の自分を呼ぶ声に、何故か足がリビングに向かう。そして戸惑いながらもキッチンの傍に自然と向かっている自分に、宏太自身も気がついていた。
シンクの水の音にIHの電気を入れる音、それにカチャンという幾つかの食器の音。こんな風にキッチンの音をマジマジと聞いているのは、生まれて初めてかもしれない。何しろ希和と一緒にマンションで暮らしていた時には、宏太は何一つ希和のすることに対して気を向けたことがなかったのだ。

「こぉた?どうかしたか?久保田さん達は?帰ったの。」

無言のまま音を聴いている宏太に、了がアイランドキッチン越しに問いかけてきて。こんな風にキッチンの相手に近づくことも今まではなかったなと、心の中で苦く呟く自分の声を聞いていた。湯の沸いたケトルの音の後それを注ぎ込まれるカップの音がして、その後に了が自分に歩み寄ると手をとって歩き出す。まだ慣れない家の中だからと了が気を使ってくれたのだと分かって、宏太は大人しく手を引かれてリビングに向かっている。

「…………いつの間に戻ってたんだ?ん?」
「んー、三十分くらい前かな。食器買ってさ、一度洗っとこうかなって。」

好きなものを買ってこいと追い出したのに、買ってきたのが二人で使う食器とはと思わず笑ってしまう。服でも買ってくればいいのにと呟くと、宏太に似合いそうなのは買ってきたなんて嬉しそうに了が言うのだ。

「俺の?なんで?お前のものを買ってこいって……。」
「買いたかったんだよ、悪いか。」

手を引いてソファーに座らされた宏太の手を、そっとマグカップに触れさせここなら熱くないからと丁寧に教えられる。それが新しく買ってきた食器で、宏太に安全に使いやすそうなものを選んできたのだと気がついてしまう。

なんだよ…………なんでそんな…………。

自分のため。何か贈り物とかではなくて、当然のように日常に使うための物。そんな風に他人から何かを与えられて、自分の事だけを思ってしてもらっていることに不意に胸がグッと詰まった気がした。泣けはしないけど口に沸き上がる涙の味は、以前の薬のような苦さとは違ってホンノリと塩辛く同時に微かに甘い。それに気がつかないのか、了はここならさわっても平気なんだと嬉しそうに説明しながら宏太の手をとってマグカップに触れさせ微笑みかけて。

「こぉた?どした?熱い?耐熱性あるっていってたけど、やっぱり……。」

熱い?と心配そうに了に問いかけられるが、それよりも本当は何だか泣きたいように切なく胸のうちが満たされていく。希和と二人で暮らし始めた時は新しい多数の食器が運び込まれたけれど、一人ずつの何かは箸と茶碗位だった筈だ。あれは既にあるものを使ったのだっただろうか。それとも希和は言わずに準備をしてくれたのだろうか。

「宏太?」



※※※



あの時の不思議そうな了の声に、宏太は何でもないと答えはした。けれど本当はあの既製品のマグカップが、実はとても嬉しかったのだと自分でも思うのだ。そして今日こうして差し出されたマグカップは完璧に同じ形で同じ質感だけれど、僅かに指の先で何処かが違っているのに触れた途端に気がついてしまっていた。

「ごめん…………、手が滑って。」

了が間違って落としてしまったと申し訳なさそうに言う。落として割ったと聞いた瞬間に了の手を思わずとって、確認するようにその指先を宏太が自分の指でなぞると了は擽ったそうにして笑う。

「今じゃないって…………ごめんな?気に入ってたんだろ?やっぱり少し違う?」

宏太が指に怪我がないのを確認しているのに直ぐに気がついた了が、申し訳なさそうにごめんと繰り返す。それに怪我をしてないならいいし、割れてしまったなら仕方がないと納得するだけと宏太は言ったのだが。それだけの筈なのに何処と無く、宏太が気落ちした様子にみえるとお互いに感じてしまうのは

「これが、気に入ってた…………ってことなのか…………。」
「…………うん、お気に入りってあるよな?俺も気がつくと同じのばっかり使うし。」

人それぞれ使い心地の良いものという物は必ず存在するらしくて、結城晴ですら普段ここでの仕事中に使うのは同じカップ。大概が同じものを使っているのだというのを始めて知って、思わず宏太は眉をあげてしまう。宏太としてみれば今までは余りそういう考えたことがなかったが、確かにマグカップ一つが同じ型で同じ質感なのに何処かが違うというのはわかる。わかるけれど

なんだろうな……これは。

以前にはそんなものはどうでもいいと思ってた筈なのに、一緒に誰かと暮らしても変わらなかったのに、了が準備してくれたと思うだけでそれほどに違って感じるのだと驚いてしまう。素直にそういうと了は少しだけおかしそうに笑いながらも、じゃ次のお気に入り探さないとなとそっと囁く。

「次?」
「お気に入り、次のもきっとみつかるからさ?」

隣に当然みたいに腰かけて了がそう言うのに、宏太は次?と思わず再び問い返してしまう。唯一無二だけではなくて、日頃使う物だからきっと気に入る物があるよと、了は当然のように朗らかに言って笑う。

「一緒に探さないとな、こぉた。」

コテンと隣に腰かけた了の頭が当然みたいに自分の肩に乗せられて、思わず宏太はそういうものなのかと微笑みながら呟いてしまう。そんな当然の筈のことも今まで知らなかったのかと了が笑うのにつられて、宏太も思わず微笑んでしまうのだ。
そんな風に普通の感覚が次第に増えてくる自分の日常は、過去に比べたら随分と穏やかなものなのだと思える。そうしてこれを積み重ねて暮らしていけるのが、本当に幸せということなのだと今更のように感じてしまうのだ。

「なんだよー、二人していちゃついてんなってー!書類たまってんだぞ!」

そんな二人の空気に仕事部屋から顔を出した晴が不貞腐れたように声をあげて、また何時もの日常が流れていこうとしているのに穏やかに微笑みが浮かぶのだった。


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