鮮明な月

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間章 アンノウン

間話19.我慢なんか

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『茶樹』の奥にある秘密の部屋の中に響いた声に、気がつけば青ざめ過ぎというほどに了は青ざめていて恭平はそのまま倒れこんでしまいそうになっている了を咄嗟に背後から抱える。しかも恭平に抱えられている方の了は未だに何が起きているか分かっていないし、同時に機械の向こうの喧騒が微かに雑音を巻き込みながら響いてくる。

信哉さんに………………この声、土志田先輩と……風間先輩?

微かだが怒鳴る声が別な場所にいるらしき聞き慣れた声を流すのに、恭平はあの人達揃って何やってるんだと目を丸くしてしまう。都立第三の教師・土志田悌順に刑事一課の刑事・風間祥太、どちらも鳥飼信哉の同級生で、恭平にとっては先輩だが、流石にここに宇野は参加していないのには安堵する。というか宇野の代わりに風間、という話なのか。

『悌!!あいつ何なの?!竹登ったぞ!!?』
『矢根尾!』

竹?竹林があるのは街の西側の外れだけだが、今は再開発で一部は工事中だし一部は立ち入りを禁止されている筈だ。矢根尾という珍しい苗字の人物には恭平もニュースで聞き覚えがあるが、数ヵ月前に元妻を殺したとか言う容疑で逮捕された筈。久保田松理が言うには何でかその男を探し出そうとしていると言うが、それはつまり逮捕された後に逃げ出したということなのかと呆れもする。

この街の殺人犯はどいつもこいつも、漫画みたいな奴ばかりなのか?

暫く前に連続殺人鬼も隔離場所である病院から脱走したとか言うニュースが流れて、それに関与した警察官が死んだとか言うニュースもあったばかりだ。それもその後どうなったかは不明なままな筈だが、刑事の風間祥太までいると言うことは機器の向こうの喧騒は嘘ではないにちがいない。しかもどうやら喧騒の中の一つは、その男を発見しているらしくて何とか取り押さえようと騒いでもいる様子なのだ。障害物の多い場所で逃げ回る様子の矢根尾を追い詰めようとしている風なのだが、何故か上だの横だの土竜叩きめいて聞こえるのは甚だ疑問。

『何なんだ!あいつ!!』
『風間!そっちに降りるかもしれん!』

聞こえてくる喧騒が、まるで作り物めいて聞こえていた。それに呆然とする恭平の横で、当然みたいに久保田惣一を押し退けて松理がマイクらしきものを掴む。松理のスタンガン三連撃で目下言葉もでない惣一は、それを止める術もない。

「宏太ぁ!!あんた何やってんの!!大事な了ちゃんまた記憶なくすわよ?!」

激怒に張り上げた松理の声は、キーンという凄まじいハウリングを起こしていた。



※※※



背後の竹林の中からこちらに向かって駆け降りてくる足音は耳に入っていたが、それを待つほどの余裕もない。何しろ肩口に太刀を叩きつけるほんの数十センチに三浦和希がいて、全身は冷たい汗にまみれているし、抜刀術で叩きつけられた峰打ちに三浦はビクともしないのだ。
それでも一瞬の隙をついて左の肩口から振り抜いた太刀の先を返す動きは、それこそ目にも止まらない速度。過去に身に付けた動作は、最近の至難のせいもあってか無意識で行えるほどに完全に体に馴染んでいた。しかしそれでも僅かにだが微細な違和感を感じるのは、これが元々澪のもので自分の太刀ではないからだと思う。これはそれぞれにあわせて拵えた一点物の太刀だし、なにしろ何年もの鍛練で染み付いた澪なりの癖もある。

澪は太刀筋が走るからな、少し軽く感じるのかもな…………

過去に道場で正反対で足して割ると丁度いいと、澪の父でもあり師範だった鳥飼千羽哉には呆れられていた。澪は太刀の持つ金気に飲まれるのに怯えているから太刀捌きで足が遅くなると言われ、宏太の方は金気に飲まれているのか命というものに全く頓着がないのか太刀が速いのだという。そんなことを頭の中で思い浮かべている自分に奇妙なほど、周囲の世界の音が鮮明に聞こえていた。見えないからこそ、聞こえるとはわかっているが

ヒョウ…………

その声が突然耳元で聞こえた瞬間、何故か見えない筈の闇だけの世界に一条の光が射し込んだ気がした。見えない闇だけの世界に立ち尽くしているのは、記憶の中そのままの白袴姿の澪。そしてそれよりは年数を重ねた年頃の姿をした、幼馴染みの遠坂喜一がいる。それだけでなくその背後には傷のない普段の綺麗な顔をした外崎希和と弟の片倉右京が穏やかな顔をして立っていて、その更に向こうには直に見たことがないから自信はないが上原杏奈らしき人影もある。それは闇の中からさ迷い歩き、ここまで戻ってきたように立ち尽くして自分を見ていた。

こ、れは?

死者との会合に自分が怯えるべきなのか喜ぶべきなのかが、正直なところまるで判断ができない。外界と接した体は無意識に抜刀十術の型をとり動いているのを知覚するが、意識は全て見えない筈の闇の世界に立ち並ぶ人間を見つめているのだ。そしてその姿は死んだ筈の千羽哉夫妻や、過去に関わりのあった筈の人間が連なっている気がする。

太刀を振るっていると思っているのは自分だけで、もしかして死んだか?俺は。

思わずそんな間の抜けた事を考えてしまう程。だが目の見えない筈の自分が見ているここにいるのが、少なくとも自分の知る死者だけなのは確かだった。

ヒョウ…………

掠れて甲高く物悲しく響く鳴き声は赤子のようにも、同時に年よりのようにも聞こえる。それが何の声なのか全く分からないのに、宏太はこの鳴き声を何処かで聞いた気がするのだ。
ビルの合間に吹き抜ける弱い風鳴りのように、低く尾を低く鳴き声。
それに飲まれると全ては悪い方向に進んでいってしまうような、そんな感覚が全身を飲み込んでいく。そしてその声が何度も繰り返して足音を聞いたあの動画の中に、確かに鳴き声として録音されていたのに今更に気がついてしまう。

同じ目に…………あわせて……

唐突にその言葉が頭を過り全身が強ばるのを感じながら、刀はそのまま三浦の体を下から上への軌線で撥ね飛ばしていた筈だった。ところがガチンッと硬い感触でその刃が振り抜く前に止まり、腕にはその反動で大きな過重がかけられギシギシと軋む。

「外崎さん!!!」

竹林の中を駆け出した鳥飼信哉の大きな声にガチガチと歯を噛む音が重なり、恐らく信哉の目には異様な情景が広がっているんだろうと宏太は冷や汗をかきながら考える。跳ね上げた筈の太刀の刃を己の両手と口で受け止めて押さえ込んだ三浦の目が、下から自分の顔をギラギラと光る視線で射ぬいていた。勢いを手だけでは相殺出来ないから、歯で噛んで受け止めるなんてマトモな人間なら考える筈もない。下手したら口から真一文字に顔が裂けるだけでなく、上と下が分離したって可笑しくないのだ。

駄目だ、こいつにはどうしようもない……っ

あの死人を見て鳴き声を聞いた瞬間から、心が折れようとしているのがわかる。何とか生きて帰らなくてはと振り絞った気力すら萎える程、人間じゃあり得ない事をして見せる人外の存在にこの男を変えたのは自分自身だ。しかもこの男は男を喰う化け物なのだし、どんなに澪の刀でも叩き伏せることすら

『宏太ぁ!!あんた何やってんの!!大事な了ちゃんまた記憶なくすわよ?!』

キィンとその声は耳に嵌めていない筈の投げ捨ててしまったイヤーホンから放たれていて、その余りの音量に宏太に駆け寄ろうとした信哉が悶絶するほど。恐らく耳につけていたらとんでもない音量で宏太も悶絶したに違いないが、それが松理の声なのは言われなくても分かった。どうやら松理に内密に活動していたのに、何処かから漏れて松理に惣一は襲撃されたに違いない。恐らく今頃惣一は何らかの方法で人畜無害な猫のように丸くなっているか、首輪に繋がれた子犬になっているか。だが、そんなことよりも

また

松理が口にした言葉に息を飲む。恐らく松理に連絡をとったのは了で、同時に了が自分が何をするか想定したからなのかと気がついてしまう。そしてそれをするには了が自分の事をちゃんと思い出して、宏太がどんな思考過程で活動する傾向にあるかを分かっていて。



そして同時に何もかも打ち消すように、自分に笑い駆けてくる存在が鮮明に頭を過る。帰らなくてはと考えていたのに折れ駆けていた筈の心の弱さを忘れさせるような了の声を思い浮かべて、瞬時に宏太はこれでは駄目だと頭が回るのを感じていた。そしてググッと軋む太刀の音が高まって抜けかけていた力が盛り返したのに、太刀を抑え込んでいた相手の視線が僅かに驚きに揺れるのが分かる。

了を泣かせたら……

また泣かせて不安がらせるのは駄目だ。そのためにはなんとしてもここを切り抜けて生きて帰らないとと、太刀が力を乗せてガチガチと震える。

「ッ…………!?」

歯で太刀を押さえたままの三浦が呻きをあげて勢い足をジリジリと下げていくが、宏太もそれを見逃すわけがなかった。



※※※



「ねぇ明良。」

不意にかけられた声に腕の中に晴を納めていた明良は、闇の中で春の顔を覗きこむ。
酔いの回った晴は引きずるようにして外崎邸からさっさと連れ帰られ、甘えたのままに勢い散々に抱き潰されてグッタリして眠っていると思っていたのだ。何しろ今の声もまだ掠れて、どれだけ喘いでいたかと反省もしてしまうほど。

「なに?晴。」
「もし、さ?」

撫で撫でと晴の頭を撫でると心地好さそうに晴は目を細めて、腕の中でうっとりとしていて可愛くて仕方がない。それに気がついているのかいないのか、晴は裸の明良の胸にじゃれるように頭をすり寄せる。

「もし、俺が了みたいになったらさ?」

了みたいに。正直なところそんなの御免被りたいが、相手が自分のことだけ忘れてしまう何て現実を経験したら。晴は了と話していて了が何で外崎宏太だけ完全に記憶からなくなってしまったのか、何となくだが理解できたのだという。
多分了が忘れたかったのは、了が自分のセクシャリティが歪になった原因。その先で了が恋をしたのが外崎宏太で、宏太は他の榊恭平や結城晴のようにセクシャリティに関係しない関係性を持たない唯一の人間なのだ。つまり了にとって宏太は唯一損得勘定なしに恋をした相手で、同時にそれが同性愛だったから社会的な常識と齟齬を生んでいるということ。でも結局了は外崎宏太への気持ちを否定出来るわけではないし、無意識に普段と同じ行動を選んでしているのだから

社長がイチャイチャしたら、思い出すと思うけど

と思っているのはここだけの話しで、晴からそれを宏太に言うつもりはないという。何故と聞いたら言わなくてもするだろうからと言うのが晴の見解で、どうせ数日我慢するのが宏太の限界だと思うからだ。何せ今は兎も角以前は宏太は晴に二人きり禁止令も出しているし、日常的に了の行動は全て把握していて過保護すぎる程過保護に管理している。

「もし、だよ?俺が了みたいになったらさ?」
「なんないって前提にして?俺、そんなの…………。」

明良がいつになく真剣にそういうけれど、晴は裸の胸に更に頬をすり寄せてうんと頷きながら明良に呟く。あんな奇妙な記憶喪失は御免被りたいけれど絶対ないとは言えないし、でも同時に自分だったらと思う一面もある。

「なんないけど、もしなったらだよ?なったら。」
「なったら、俺晴のこと監禁すると思う。」

平然とそういう明良に晴はおかしそうに声たてて笑う。それに少しだけ明良がムッとした様子だけど、正直言うと晴が出した答えも大差がないのだ。どうせこんなに体は明良にだけ反応して、明良だけが欲しいんだから、いやがっても肌を重ねたら思い出しそう。だったら我慢なんかしないで明良に乱暴にでもエッチして貰った方がアッサリ思い出しそう、なんて暢気に考えてしまったのが晴の答えだ。
晴がベットに肘をついて体を起こし明良の顔を覗き込むようにして笑顔を浮かべたのに、明良は少し困ったような微笑みで見上げる。

「もしなったら、いいよ?監禁して一杯エッチして、明良のものにして。」
「なんないって前提。」
「うん、なんないけど、俺は明良のものにされたいなぁって思うからさ。」

忘れてても大丈夫だからと、ニコニコ笑いながらそんなことを晴は言いながら口付けてきた。奇妙な出逢いかたで繋がった気持ちだけど、この気持ちは本当で明良は晴に真剣さをちゃんと伝えてもくれる。だから晴もキチンと気持ちを言葉や態度にして明良に伝えていかないとと思うのは、了と宏太や仁聖達のことを見てきたからでもあった。

「ね、明良?」
「うん?」
「今度は家に行こうね、でさ俺の両親に息子さんをくださいって言って見せてよ。」

は?と明良が目を見開いて、ジワジワとその先で意味を理解して頬を染めていく。明良の実家には挨拶はしたけど、晴の実家にはまだ晴が男と付き合って同棲しているとも言っていないし挨拶もしているわけもない。きっと明良が行ったら晴の両親は面食らうだろうが、正直頭を下げて息子さんを下さいなんて正式な挨拶をする姿は正直見てみたいのだ。

「は、はる?」
「格好いいだろうなぁ……って。俺、楽しみ。」

ヘロンと微笑んで見せる可愛い晴に、明良は思わず分かったと答えるしかなかったのだった。
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