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間章 アンノウン
間話17.真名かおる
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真名かおる
闇夜に妖艶に微笑む赤い唇に蠱惑的な姿態を強調する服装で、凍りつく冬の街を歩く足取りは夢の中のように軽い。まるで何もかも生まれて初めて経験するとでも言いたげにキラキラとした悪戯っ子のような視線で笑みを浮かべているのに、どんなに熱心に男に誘われても靡かない孤高の肉食獣のような奇妙な女。
宏太がその女に興味を持ったのは退廃的で刹那的な思考と不釣り合いに、何かをがむしゃらに奪い取ろうとする貪欲な瞳の光の強さだった。
《random face》にフラリと姿を表した時には既に、あの女はあの店の奥で何が行われているのかを察していたのだ。そして調教師は既に引退していて場所貸しでしかない宏太に、当然のように高嶺の花をへし折る手伝いをしないかと問いかけたのだった。
向こうでお楽しみの方が儲かるの?
※※※
その女は今まで店に来た女とは違っていた。大概は女を連れてくる男がいて、男はこの店の奥の部屋の事を知っている。そして大概は奥の部屋に女を連れ込むのが男の目的なのだが、その女は誰かに連れられてきた訳ではなかった。ある時独りでフラリと店に現れて、カウンターの端の暗がりに座ると店主でバーテンダーの宏太に妖艶に微笑みかける。最初は何杯か飲んで帰るだけだったが、何処か退廃的な匂いを漂わせた彼女に話しかける男は途切れることを知らなかった。そんな彼女から不意に話しかけてきたのは、宏太がすっかり彼女の顔と名前を覚えた頃だ。
「向こうでお楽しみの方が儲かるの?」
ヒヤリと背筋が冷たくなるのを感じながら、宏太はそれを悟られないようにと業務用の微笑みを浮かべたままシェイカーをふりカクテルを差し出す。彼女は目を細めて値踏みするかのように、宏太に再びに話しかけた。
「高嶺の花を眺めるのが趣味?」
再びヒヤリと背筋が冷えるが平静を装い、さあと宏太は答える。自分のことをどこまで知っているかは分からないが、調教師の宏太のことは既に年単位で過去の話。今でも宏太に仕事を依頼してくるのは、財力を有り余らせた政治家位のものだったのだ。
「あたしは踏みにじりたい方よ?今度見せてあげたいわ。無惨に惨めに踏みにじって地を這わせたいの。」
女が艶やかに笑いながらグラスを空け、真っ赤な唇を舐めながら妖艶に微笑む。予想外の発言に獰猛な瞳の光を見つけて、まるでこの女は自分のようだと思う。人間として何かが欠けているのに、何かを求めて止まない人間擬きのような存在。そして似ていると感じてしまった宏太のことを、彼女は理解した上で獰猛な獣のような瞳で外崎を見た。
「でも、あたし踏みにじってる間、身を隠していたいの。我が儘でしょう?」
それはつまりは女が非情で計算高く、何事にも下準備をするための方法を宏太が知っていると考えているということ。
「そうですねぇ。」
宏太の返答など気にもしない様子で、彼女は楽しげにすら見える仕草でグラスの縁をなぞりながら唇をチロリと舐める。その姿は完全な捕食者を思わせて、外崎の背中を更に氷が落とされたような感覚を感じさせた。
「何処なら店長さんがあたしの踏みにじってるのを堪能できて、あたしが顔を隠せる?」
人気のない店内で宏太のグラスを磨く手が止まる。目の前の女はまだ一度も《random face》の奥の部屋には入ったこともないのに、既に奥に何があるのかを完全に把握していた。奥の部屋で秘密裏に行われる酒池肉林の饗宴の存在と、それを覗き見る宏太の性癖まで。そして、女の言う言葉を反芻したように暫く宏太は考え込む。
背筋が凍る思いをしているのに、女が何を覗かせてくれる気なのか酷く興味がある。
誰にも靡かないで外崎に声をかけてきた目の前の女の残忍に輝く瞳に、宏太は無言で答えになるように新しいカクテルを作り始めた。
差し出された白濁のグラスの中に、真紅のチェリーが踊るカクテルの名前を彼女は面白そうに呟く。カジノというカクテルの名前を知っている上にカクテルの意味も女は知っていたが、興奮してると暗にカクテルで告げた宏太の表情は未だに能面のように変化がない。そして宏太は顔に変化を出さぬまま、思いきったように口を開く。
※※※
あの獰猛な獣の瞳をした女に関わったせいで、その後何人もの人生が破滅の一途を辿った。その内の一人が三浦和希で、あの女の手で完全に破滅させられただけでなく精神まで破滅させられたのだ。精神的におかしくなった三浦和希が、仲間の二人を《random face》の奥にあったプライベートルームで惨殺した。その後で宏太を襲いの喉をかっさばいて目と性器を切り取った後、トドメをささないでくれたのはほんの偶然なのだろう。何しろ三浦和希はその後自分の仲間二人と行きずりの男一人を惨殺しているし、残りの行きずりの男は外崎とほぼ同じ目にあって、向こうは残念ながら一生車椅子とチューブでの栄養材との生活だ。そういう意味では宏太は運が良かったし視力失い五体満足ではない体にはなったが、原因を作ったのは自分だと宏太も知っている。
だけど今は死ねない、もう、死ねない。
ここで三浦に報復として殺されると、了を独りぼっちにしてしまう。たとえ記憶がなくても、自分のことを覚えていなくても、了を一人残していくことは出来ない。そう考えると尚更太刀をひくことも出来ず、宏太は触れている太刀から感じとる僅かな相手の体の反応を感じとることに集中する。
そして心に残っていた破片のような儚い記憶を繋ぎあわせて、三浦和希はその名前を口の中で声に出さずに何度か躊躇い勝ちに繰り返す。その名前はまるで砂糖菓子のように甘く、同時に毒のように苦い。
聞いたことがある……いや、知っている……
そう和希は感じていた。同時に口にした外崎宏太にとっては天使のようなあどけない一面と悪魔のような残忍さを持ち合わせて、フラリと一時姿を見せて、泡のように霞のように消え去った奇妙な女。あの時彼女は何かの目的のために、先ずは三浦和希を事件に巻き込み次いで宏太も渦中に巻き込んだ。そして彼女はひたすらに何かを求めて夜の闇の中に蠢いていた。だが実のところ彼女が消えたのは、もう三年以上も前のことになる。
真名かおる………………、かおる…………?
それでも数年もたって病院から逃げて自由に動き回ることができるようになった三浦が、記憶障害の中でもひたすらに探し歩いた女の名前。だが無情な事に和希の脳には彼女のことは何も記憶されていないし、顔を覚えている方の男は盲目でこんな顔だとも教えられない。
可哀想ね…………
不意に頭の中にそう慰めるような倉橋亜希子の声が響く。断片的だが過去、亜希子に真名かおるの話をしたのは、確かに自分の筈だった。覚えていないが何か理由があって探しださないとならないと亜希子には告げて、それなら探し歩くのに人様の迷惑にならないように日常生活をこなすようになりなさいとガツンと説教されたのだ。確かに和希は過去に真名かおるを探していたはずたが、何故彼女を探さないとならないのかそれは完全に抹消された記憶なのだ。だがその名前を外崎宏太が思わず口にした時三浦が一瞬だが明らかにその場で凍りついたのを、宏太は見逃さない。
「外崎さん!!」
竹林の闇の中から叫ぶ信哉の声を聞きながら宏太は三浦の左肩に叩きつけていた太刀を一気に振り抜き、そして再び足元から左肩に抜けるように太刀は闇の中で閃光を放つ軌跡を描き出していた。
※※※
夕闇に誰かの泣く声がする。
そう朧気に考えていたのは、夢の中で泣いている彼女を久々に見たからかもしれない。あの孤独な闇の中で独りぼっちで寂しく堪えていた彼女は、ある時それから逃れようと自分を支配しようとした。だけど結局はそうならず、結末は人魚姫のように彼女は泡になって溶けて消えてしまう。何を望んで何のためにあんなことをしたのかを知ってしまったら、彼女を憎むことも出来ない。何故なら自分が彼女だった可能性は、実際のところ紙一重の差だったかもしれないからだ。
「まーま、かおたん、泣いてるー!まーま!」
突然自分を揺さぶりかけられる声にソファーに腰掛けていた自分は、ほんの僅かな時間だがボンヤリしていた自分に気がつく。こんな風にボンヤリする自分は最近ではかなり珍しいが、三歳になった息子と生後二ヶ月ちょっとになる娘の日々の世話で寝不足気味でもあるからだろう。
「あ、ごめんね、奏多。」
「ううん、かおたん、いまおきたの。」
それでも一時妹の出産に幼児返りしていた息子は出産して連れ帰った妹の顔を見た途端、人が変わったようにお兄ちゃんになった。自分より弱く幼い妹を守るのに三歳児なりに一生懸命で、しかも父親と子供達が生まれる前からの自分の友人の一人を完全にライバル視しているのが実は少し可笑しい。
「ありがと、奏多。いいお兄ちゃんねぇ。」
そう言うと長男・奏多は嬉しそうに笑って傍のスイング式のベビーベットの上で愚図る妹を覗き込みながら、最近急激に辿々しさの抜け始めた言葉で話し掛ける。
「かおたーん、ママおきたからねー?エンエンしないでいいんだよー?ねー?」
揺らされながら必死に話し掛ける兄にベットの上の妹がアブアブと何事かを話し始めるのを、彼女は微笑みながら眺めている。
時折あの頃の事を夢の中で見ることがあるが、それはまるでドラマか何かのように画面越しの俯瞰映像のように見えた。それが自分の過去に起こった出来事だというのは自分でもわかっているのに、まるで今では偶像の世界のように感じる。勿論友人や夫がそれに触れず自分とは切り離して考えて接してくれているのが一番の理由なのと、同時に子供達がこうして産まれて自分とは別の存在としてあるからだ。
奏多、それに薫風。
二人の子供にそれぞれその名前をつけたいと口にした自分に、夫は何も言わず同意してくれたし、友人達はいい名前だと祝福もしてくれたのだった。そして今も穏やかな日々を暮らし、子供達は健やかに成長していく。愚図る妹を抱き上げると兄は飛び上がりながら、自分の腕の中を覗きこむ。
「ほら、薫風?おむつかなー?おなかへったかなー?」
「かおたん、おなかへったってー。」
その兄の通訳に思わず笑いながら、娘を抱き上げた自分はソファーに再度腰かける。不思議なことに大概奏多の言う薫風の欲求は当たっていて、今のところ奏多は有能な薫風の通訳係なのだった。まだ乳幼児の関係でコミュニケーションがとれるのか、はたまた兄が妹を好き過ぎてなのかは分からないが。
こんなに大好きじゃ薫風が好きな人ができたら大変ね。
そう頭の中で囁くと何故か心の中で『当然でしょ』とハスッパに答える彼女の声が聞こえる気がして、自分は微笑みながら乳を娘に含ませる。
あの事件の時最後に重傷をおって死にかけた自分は、全てが終わって自由に歩き回れるようになってから一度だけあの店のあった路地を彼女の記憶に沿って歩いてみた事があった。でも路地の先のあの店舗は薄暗い暗闇に沈んでいて、真っ昼間だと言うのに静まり返って別世界のようだから、それ以上は詮索することを止めてしまったのだ。そしてその後に失われた筈の片割れ達は新たな命としてこの世に産まれて、それに巻き込まれた人間の中で自分を彼女として記憶しているのは数える程。同時に事件の闇の部分に関わった青年は記憶障害を起こして自分のことは何一つ覚えていないし、闇側の唯一の目撃者は盲目になり何故か声を聞いても自分が彼女だとわからなかった。
多分、言葉のイントネーションが違うんだよ、かおるとは。
そう彼女も自分のどちらもを知っている夫と友人は言った。それが何故なのかは自分でも分からないし、本当かどうかも分からない。それでも自分としては関わりのない人ではあったが、その盲目の目撃者があえて知らない・別人だとしてくれたような気がしてならない。それが真実かどうかを今さら確かめる気もないのは事実で。そして最近になって青年が病院から脱走したというのはニュースで聞いていたが、同時にとある情報源から彼が真名かおるの顔すら記憶にないのも聞いている。
彼が顔を覚えていたら、自分と出会ったらかおると同じ体を持つ人間だと思い出すかもしれない……。
でも、それはあり得ないと知ってもいるし、彼が何を望むかも自分は薄々知っているのだ。もし出逢って彼がかおるを思い出して、それを願うのだとすれば自分はそれを叶えてやるしかないとも思う。
「ただいま~、遥。奏多、薫風~。」
「おかえりなさい、あなた。」
物思いに耽っていたのを我に返らせるように夫の帰宅に素直に声を返したのは妻だけで、何故か息子はムッとした顔で父親を見上げるばかり。最近の息子は何故か父親こそが一番のライバルといわんばかりで、常にこんな風に塩対応なのだ。
「かーなーた!おかえりなさいは?!」
「うっさーい!なおとのばーか!!」
「直人じゃないだろ!お父さん!」
帰宅して基本となりつつあるそのやり合いに、菊池遥になって数年が経つ瀬戸遥は思わず微笑む。こんな風に幸せな時間を奏多と薫風と過ごせるようになる日が来るとは、遥は思いもしていなかったのだった。
闇夜に妖艶に微笑む赤い唇に蠱惑的な姿態を強調する服装で、凍りつく冬の街を歩く足取りは夢の中のように軽い。まるで何もかも生まれて初めて経験するとでも言いたげにキラキラとした悪戯っ子のような視線で笑みを浮かべているのに、どんなに熱心に男に誘われても靡かない孤高の肉食獣のような奇妙な女。
宏太がその女に興味を持ったのは退廃的で刹那的な思考と不釣り合いに、何かをがむしゃらに奪い取ろうとする貪欲な瞳の光の強さだった。
《random face》にフラリと姿を表した時には既に、あの女はあの店の奥で何が行われているのかを察していたのだ。そして調教師は既に引退していて場所貸しでしかない宏太に、当然のように高嶺の花をへし折る手伝いをしないかと問いかけたのだった。
向こうでお楽しみの方が儲かるの?
※※※
その女は今まで店に来た女とは違っていた。大概は女を連れてくる男がいて、男はこの店の奥の部屋の事を知っている。そして大概は奥の部屋に女を連れ込むのが男の目的なのだが、その女は誰かに連れられてきた訳ではなかった。ある時独りでフラリと店に現れて、カウンターの端の暗がりに座ると店主でバーテンダーの宏太に妖艶に微笑みかける。最初は何杯か飲んで帰るだけだったが、何処か退廃的な匂いを漂わせた彼女に話しかける男は途切れることを知らなかった。そんな彼女から不意に話しかけてきたのは、宏太がすっかり彼女の顔と名前を覚えた頃だ。
「向こうでお楽しみの方が儲かるの?」
ヒヤリと背筋が冷たくなるのを感じながら、宏太はそれを悟られないようにと業務用の微笑みを浮かべたままシェイカーをふりカクテルを差し出す。彼女は目を細めて値踏みするかのように、宏太に再びに話しかけた。
「高嶺の花を眺めるのが趣味?」
再びヒヤリと背筋が冷えるが平静を装い、さあと宏太は答える。自分のことをどこまで知っているかは分からないが、調教師の宏太のことは既に年単位で過去の話。今でも宏太に仕事を依頼してくるのは、財力を有り余らせた政治家位のものだったのだ。
「あたしは踏みにじりたい方よ?今度見せてあげたいわ。無惨に惨めに踏みにじって地を這わせたいの。」
女が艶やかに笑いながらグラスを空け、真っ赤な唇を舐めながら妖艶に微笑む。予想外の発言に獰猛な瞳の光を見つけて、まるでこの女は自分のようだと思う。人間として何かが欠けているのに、何かを求めて止まない人間擬きのような存在。そして似ていると感じてしまった宏太のことを、彼女は理解した上で獰猛な獣のような瞳で外崎を見た。
「でも、あたし踏みにじってる間、身を隠していたいの。我が儘でしょう?」
それはつまりは女が非情で計算高く、何事にも下準備をするための方法を宏太が知っていると考えているということ。
「そうですねぇ。」
宏太の返答など気にもしない様子で、彼女は楽しげにすら見える仕草でグラスの縁をなぞりながら唇をチロリと舐める。その姿は完全な捕食者を思わせて、外崎の背中を更に氷が落とされたような感覚を感じさせた。
「何処なら店長さんがあたしの踏みにじってるのを堪能できて、あたしが顔を隠せる?」
人気のない店内で宏太のグラスを磨く手が止まる。目の前の女はまだ一度も《random face》の奥の部屋には入ったこともないのに、既に奥に何があるのかを完全に把握していた。奥の部屋で秘密裏に行われる酒池肉林の饗宴の存在と、それを覗き見る宏太の性癖まで。そして、女の言う言葉を反芻したように暫く宏太は考え込む。
背筋が凍る思いをしているのに、女が何を覗かせてくれる気なのか酷く興味がある。
誰にも靡かないで外崎に声をかけてきた目の前の女の残忍に輝く瞳に、宏太は無言で答えになるように新しいカクテルを作り始めた。
差し出された白濁のグラスの中に、真紅のチェリーが踊るカクテルの名前を彼女は面白そうに呟く。カジノというカクテルの名前を知っている上にカクテルの意味も女は知っていたが、興奮してると暗にカクテルで告げた宏太の表情は未だに能面のように変化がない。そして宏太は顔に変化を出さぬまま、思いきったように口を開く。
※※※
あの獰猛な獣の瞳をした女に関わったせいで、その後何人もの人生が破滅の一途を辿った。その内の一人が三浦和希で、あの女の手で完全に破滅させられただけでなく精神まで破滅させられたのだ。精神的におかしくなった三浦和希が、仲間の二人を《random face》の奥にあったプライベートルームで惨殺した。その後で宏太を襲いの喉をかっさばいて目と性器を切り取った後、トドメをささないでくれたのはほんの偶然なのだろう。何しろ三浦和希はその後自分の仲間二人と行きずりの男一人を惨殺しているし、残りの行きずりの男は外崎とほぼ同じ目にあって、向こうは残念ながら一生車椅子とチューブでの栄養材との生活だ。そういう意味では宏太は運が良かったし視力失い五体満足ではない体にはなったが、原因を作ったのは自分だと宏太も知っている。
だけど今は死ねない、もう、死ねない。
ここで三浦に報復として殺されると、了を独りぼっちにしてしまう。たとえ記憶がなくても、自分のことを覚えていなくても、了を一人残していくことは出来ない。そう考えると尚更太刀をひくことも出来ず、宏太は触れている太刀から感じとる僅かな相手の体の反応を感じとることに集中する。
そして心に残っていた破片のような儚い記憶を繋ぎあわせて、三浦和希はその名前を口の中で声に出さずに何度か躊躇い勝ちに繰り返す。その名前はまるで砂糖菓子のように甘く、同時に毒のように苦い。
聞いたことがある……いや、知っている……
そう和希は感じていた。同時に口にした外崎宏太にとっては天使のようなあどけない一面と悪魔のような残忍さを持ち合わせて、フラリと一時姿を見せて、泡のように霞のように消え去った奇妙な女。あの時彼女は何かの目的のために、先ずは三浦和希を事件に巻き込み次いで宏太も渦中に巻き込んだ。そして彼女はひたすらに何かを求めて夜の闇の中に蠢いていた。だが実のところ彼女が消えたのは、もう三年以上も前のことになる。
真名かおる………………、かおる…………?
それでも数年もたって病院から逃げて自由に動き回ることができるようになった三浦が、記憶障害の中でもひたすらに探し歩いた女の名前。だが無情な事に和希の脳には彼女のことは何も記憶されていないし、顔を覚えている方の男は盲目でこんな顔だとも教えられない。
可哀想ね…………
不意に頭の中にそう慰めるような倉橋亜希子の声が響く。断片的だが過去、亜希子に真名かおるの話をしたのは、確かに自分の筈だった。覚えていないが何か理由があって探しださないとならないと亜希子には告げて、それなら探し歩くのに人様の迷惑にならないように日常生活をこなすようになりなさいとガツンと説教されたのだ。確かに和希は過去に真名かおるを探していたはずたが、何故彼女を探さないとならないのかそれは完全に抹消された記憶なのだ。だがその名前を外崎宏太が思わず口にした時三浦が一瞬だが明らかにその場で凍りついたのを、宏太は見逃さない。
「外崎さん!!」
竹林の闇の中から叫ぶ信哉の声を聞きながら宏太は三浦の左肩に叩きつけていた太刀を一気に振り抜き、そして再び足元から左肩に抜けるように太刀は闇の中で閃光を放つ軌跡を描き出していた。
※※※
夕闇に誰かの泣く声がする。
そう朧気に考えていたのは、夢の中で泣いている彼女を久々に見たからかもしれない。あの孤独な闇の中で独りぼっちで寂しく堪えていた彼女は、ある時それから逃れようと自分を支配しようとした。だけど結局はそうならず、結末は人魚姫のように彼女は泡になって溶けて消えてしまう。何を望んで何のためにあんなことをしたのかを知ってしまったら、彼女を憎むことも出来ない。何故なら自分が彼女だった可能性は、実際のところ紙一重の差だったかもしれないからだ。
「まーま、かおたん、泣いてるー!まーま!」
突然自分を揺さぶりかけられる声にソファーに腰掛けていた自分は、ほんの僅かな時間だがボンヤリしていた自分に気がつく。こんな風にボンヤリする自分は最近ではかなり珍しいが、三歳になった息子と生後二ヶ月ちょっとになる娘の日々の世話で寝不足気味でもあるからだろう。
「あ、ごめんね、奏多。」
「ううん、かおたん、いまおきたの。」
それでも一時妹の出産に幼児返りしていた息子は出産して連れ帰った妹の顔を見た途端、人が変わったようにお兄ちゃんになった。自分より弱く幼い妹を守るのに三歳児なりに一生懸命で、しかも父親と子供達が生まれる前からの自分の友人の一人を完全にライバル視しているのが実は少し可笑しい。
「ありがと、奏多。いいお兄ちゃんねぇ。」
そう言うと長男・奏多は嬉しそうに笑って傍のスイング式のベビーベットの上で愚図る妹を覗き込みながら、最近急激に辿々しさの抜け始めた言葉で話し掛ける。
「かおたーん、ママおきたからねー?エンエンしないでいいんだよー?ねー?」
揺らされながら必死に話し掛ける兄にベットの上の妹がアブアブと何事かを話し始めるのを、彼女は微笑みながら眺めている。
時折あの頃の事を夢の中で見ることがあるが、それはまるでドラマか何かのように画面越しの俯瞰映像のように見えた。それが自分の過去に起こった出来事だというのは自分でもわかっているのに、まるで今では偶像の世界のように感じる。勿論友人や夫がそれに触れず自分とは切り離して考えて接してくれているのが一番の理由なのと、同時に子供達がこうして産まれて自分とは別の存在としてあるからだ。
奏多、それに薫風。
二人の子供にそれぞれその名前をつけたいと口にした自分に、夫は何も言わず同意してくれたし、友人達はいい名前だと祝福もしてくれたのだった。そして今も穏やかな日々を暮らし、子供達は健やかに成長していく。愚図る妹を抱き上げると兄は飛び上がりながら、自分の腕の中を覗きこむ。
「ほら、薫風?おむつかなー?おなかへったかなー?」
「かおたん、おなかへったってー。」
その兄の通訳に思わず笑いながら、娘を抱き上げた自分はソファーに再度腰かける。不思議なことに大概奏多の言う薫風の欲求は当たっていて、今のところ奏多は有能な薫風の通訳係なのだった。まだ乳幼児の関係でコミュニケーションがとれるのか、はたまた兄が妹を好き過ぎてなのかは分からないが。
こんなに大好きじゃ薫風が好きな人ができたら大変ね。
そう頭の中で囁くと何故か心の中で『当然でしょ』とハスッパに答える彼女の声が聞こえる気がして、自分は微笑みながら乳を娘に含ませる。
あの事件の時最後に重傷をおって死にかけた自分は、全てが終わって自由に歩き回れるようになってから一度だけあの店のあった路地を彼女の記憶に沿って歩いてみた事があった。でも路地の先のあの店舗は薄暗い暗闇に沈んでいて、真っ昼間だと言うのに静まり返って別世界のようだから、それ以上は詮索することを止めてしまったのだ。そしてその後に失われた筈の片割れ達は新たな命としてこの世に産まれて、それに巻き込まれた人間の中で自分を彼女として記憶しているのは数える程。同時に事件の闇の部分に関わった青年は記憶障害を起こして自分のことは何一つ覚えていないし、闇側の唯一の目撃者は盲目になり何故か声を聞いても自分が彼女だとわからなかった。
多分、言葉のイントネーションが違うんだよ、かおるとは。
そう彼女も自分のどちらもを知っている夫と友人は言った。それが何故なのかは自分でも分からないし、本当かどうかも分からない。それでも自分としては関わりのない人ではあったが、その盲目の目撃者があえて知らない・別人だとしてくれたような気がしてならない。それが真実かどうかを今さら確かめる気もないのは事実で。そして最近になって青年が病院から脱走したというのはニュースで聞いていたが、同時にとある情報源から彼が真名かおるの顔すら記憶にないのも聞いている。
彼が顔を覚えていたら、自分と出会ったらかおると同じ体を持つ人間だと思い出すかもしれない……。
でも、それはあり得ないと知ってもいるし、彼が何を望むかも自分は薄々知っているのだ。もし出逢って彼がかおるを思い出して、それを願うのだとすれば自分はそれを叶えてやるしかないとも思う。
「ただいま~、遥。奏多、薫風~。」
「おかえりなさい、あなた。」
物思いに耽っていたのを我に返らせるように夫の帰宅に素直に声を返したのは妻だけで、何故か息子はムッとした顔で父親を見上げるばかり。最近の息子は何故か父親こそが一番のライバルといわんばかりで、常にこんな風に塩対応なのだ。
「かーなーた!おかえりなさいは?!」
「うっさーい!なおとのばーか!!」
「直人じゃないだろ!お父さん!」
帰宅して基本となりつつあるそのやり合いに、菊池遥になって数年が経つ瀬戸遥は思わず微笑む。こんな風に幸せな時間を奏多と薫風と過ごせるようになる日が来るとは、遥は思いもしていなかったのだった。
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