鮮明な月

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間章 アンノウン

間話15.大切な人

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ドクンと自分自身の心臓の音が、大きく耳の奥で響く。肌に感じる湿度、竹林のたてるザワメキ。それすら遠く、耳に届くのは独特の歩き方をする足音。そしてそれに気がついた瞬間、全身の肌が勝手に鳥肌たてていて額には汗が滲み出している。

『宏太?聞いてるのか?こおた!』

耳元で怒鳴る惣一の声がはるか遠くに聞こえて、一瞬自分がこのままこの男の前で意識を失うのではと思っているのに気がつく。だが意識を失ったら恐らく最後なのだと握りしめる手の中にあるものが、ヒヤリと存在感を増した。

「…………あれ?あんた…………、どっかで会ったことある?」

凍りつくような声は聞き覚えがあるもので、自分につけられた集音機越しに惣一が驚愕に息を飲むのが聞こえた。惣一の読み通り竹林の傍に姿を見せたのは確かだが、ほぼ同時にイヤーホンの向こうで矢根尾らしき男を見つけたと槙山が声をあげる。最悪のタイミングで先に見つけて警鐘を鳴らすべき相手が、宏太の一番傍にいて一番危険な状況にまんまと落ち込んでしまっているのだ。イヤーホンの向こうで同時に信哉と忠志が矢根尾を追い込みにはいるという声が聞こえているのを感じながら、宏太はあえてそれを耳から外して遠くに放り投げた。雑音になる音が多すぎて、三浦の呼吸すら聞き取れないのだ。

「三浦和希。」
「やっぱり、俺のことしってんだ?…………じゃぁさ?俺の質問に答えてよ。」

冷静な口調。でも三浦は宏太のことは覚えていないのが分かるのは、宏太がどれだけ三浦と関わったか自分でも分かっているからだ。そして三浦が先を続けようとする前に宏太は手にしていた物を持ちかえて、フゥとあえて大きく深く息をつく。その手にあるのは白木の杖ではなく、鳥飼信哉が別れて動く前に護身用にと手渡した一振りの純白の拵え、手には確かな重み。相手迄の距離は音からすると約三メートル弱、踏み込み刀身の届く距離としては充分だった。

澪。

勿論澪の刀を三浦の血で汚すつもりはないが、骨をへし折り戦意を失わせる程度の傷を負わせてやれる可能性はあった。柄を握りしめた瞬間、街中だというのに真見塚の道場で太刀を振るった時のようにピンッと空気が張り詰めて、ピリピリと場の気配が凍りつく。

「……なに?なんか、する気?」

その気配を感じ取って三浦和希が微かに気配を変えるのに、宏太は隙を与える間を自ら断ち切った。カツンッと足元で小石が弾け飛ぶ音を聞き、同時に耳の奥でなり続ける心臓の音を聴き、そして空を断つ刀身の立てる音を聞き分ける。素で振るえば完全に相手の首を落とす勢いで、白太刀の刀身は真一文字に闇夜に光の線を描く。

キンッ

硬質の錫の音のような音が竹林の奥に向かって木霊するのに、迷わず宏太は次の太刀筋を振るう。相手の位置は相手の呼吸と足音で、次に動く方向まで完全に読み取れて、まるで直に目で追うように迷いもなく踏み込む。二の太刀の刀身がその男の腕に叩き付けられる感触、そして勢い数歩たたらを踏み後退るのが分かる。

「ちっ、なに、それ。」

痛みに舌打ちする相手を逃すつもりはなく、宏太は更に太刀筋を三の太刀に切り替えていた。相手の足元に振り下ろされていた太刀が今度は左の足元から右肩に向けて切り上げてくるのに、三浦が体を仰け反らせ寸でのところで切っ先を避ける。
鳥飼の抜刀術自体かなり人間場馴れした技能だが、相手は人間というには異様過ぎる化け物の類い。弧閃を描く闇夜の太刀を三の太刀までかわして、更に真一文字に横薙ぎにする四の太刀を腕に受けても相手は骨が折れるどころかビクともしない。

くそ、あり得ねぇな、峰打ちだぞ?

心の中で焦りが滲むのは、峰打ちでも簡単に骨くらい粉砕できると知っていてやっていて、それが予想通りにならないからだ。一太刀では無理でも既に二度峰は当てているのに、相手は殆ど痛みも感じていない様子で立っている。流石にそんな現実に、宏太の方が舌打ちしたくなってしまう。走って逃げるには相手は近すぎるし、既に渾身の一撃から四の太刀まで振るい尽くしている。

了……っ

頭の中でそう自分が囁くのを聞きながら、宏太は相手の左肩から足元に向けて振り下ろす最後の五の太刀を渾身の一撃で振るい下ろそうとしていた。



※※※



不意にその手元から滑り落ちたマグカップが、足元で盛大な音をたてて粉々に砕け散った。それに驚いたようにリビングにいた恭平がかけよってきて、キッチンで一人で立ち尽くして蒼白になっている了に声をかける。

「了?どうした?大丈夫か?」

宴は仕事終わりに晴を捕獲に来た明良の出現で、残念ながらお開きになっていた。途中から飲み始め酔いが回りつつある晴は、人前で酔ったら駄目でしょと明良に子猫のように明良に首根っこを捕まえられ早々に帰途についていた。明良曰く「晴は酔うと甘えたになって駄目なんです。」とのことだが、甘えたになると何故駄目なのかは怖い微笑みを浮かべられてしまったので誰にも聞けない。

明良って部分的に外崎さんに似てるよね?晴に関するとこなんか特に。

そう言う仁聖に、お前もだろと言いたくなったのはさておき。宏太に了を頼まれた恭平は、外崎が戻るまでは迷惑かもしれないが外崎邸に居るつもりだ。既に夜半近くなりつつあって今夜はゲストルームを拝借となりそうな状況に、仁聖は目下自宅からお泊まりセットを持参するからと一旦帰宅している。そんなわけで一端終宴となったわけで、二人で後片付けを始めた最中にこの突然の出来事。

「怪我してないか?破片踏むなよ?」

その言葉にもまだ了は恭平のほうに意識を向けないまま、まるで意識がないのではと思うような了の気配に恭平は思わず顔を覗きこむ。それにやっと了は意識を向けて、何が起きたかを把握しようとしている。

「あ…………、俺…………。」
「真っ青だ、片付けるからリビングで座ってろ。」

貧血でも起こしたみたいに蒼白の了の手を恭平が掴むが、了の血の気のない手は氷のように冷たい。さっきまで長閑に騒いでいた時はなんともなかったのにと恭平が心配そうに見ると、我に帰ったように了は足元で粉々に砕けたマグカップを見下ろす。それは昼間に間違って準備をしてしまった三つ目のマグカップで、恭平は知らなくてもこのマグカップを使うのは誰なのかちゃんと決まっている。

…………あいつが使いやすいって…………。

そのあいつが誰のことなのかは、言われなくても分かっていた。元々味覚障害の中でも珈琲だけは味が分かっていたし、白砂糖を入れるのは好まなくて、入れるなら『茶樹』で取り扱っている珈琲用のブラウンシュガーしか駄目で。でも最近はクリープを入れるのが好みで、自分のように最初からいれておくのではなくて。

何でこんなことばかり思い出して、大事なことは戻らないんだ?

昔から味覚障害があって食べ物の味が分からずに育ち、了の作ったものでないと味が分からないとごねた男。最近になって味が分かるようになって、目下子供舌の時期らしくハッキリした味のものが最近の好みで、基本的には甘党ではないらしく白砂糖の味はあんまり好まない。了が作れるなら洋菓子も食べるのかもしれないが、了が作るのは基本的に男料理だから今のところ甘いものは『茶樹』でしか食べないし。

「了?」

自分が頼むことなら何でも叶えてやると平然という男で、あのマンションは正直言うと嫌だと言ったら直ぐにこの家を買ってしまった。それに…………。
泣き出したくなってしまうのは、こんなに日常の姿を溢れるほど思い出してきているのに、今ここに外崎がいなくて何故か了は言い知れない不安に飲まれているから。何も言わずに出ていってしまって、何時ものように自分の意見なんか聞きもしないあの男。了はあの男の下の名前すらもまだマトモに思い出せていないのに、何故か酷く鮮明にこの家での日常のあの男との暮らしを思い出しつつあるのだ。

甘えるみたいに、寄り添って、俺の事ばかり………………

了の中に浮かび上がった記憶の中の自分とあの男は、何時も傍にいて寄り添っていて。

何で…………ここにいないんだよ…………?



※※※



渾身の力で五の太刀を振り下ろしていた。それほどまでに真剣に相手を殺すつもりで太刀を振るった事もなければ、そんな状況に陥ったこともない。これは元はそういう目的で過去に生まれた技術だと鳥飼千羽哉は澪と宏太に教えはしたが、現代ではそんな用途でこの技を使うことはあり得ないのだとも言った。もしそれでこの男を殺したとしても、この男が殺人鬼で人間場馴れしたモンスターになってしまった原因の一端は自分でもある。そんなことを苦く考えながら、外崎宏太は渾身の力の一撃を振り下ろしていた。

五の太刀がガツンと凄まじい音をたてて、その細い肩にマトモにめり込む。

普通の人間なら居合刀だから峰打ちと同じとは言え、鎖骨が粉砕して当然の一太刀。しかも使い手の宏太は抜刀術を完全に身に付けていて、本来なら模造刀でも容易く肌を切り裂く可能性の方が高かった。それを示すように僅かに太刀の届く範囲に生えていた孟宗竹の数本が、今になって思い出したように太刀筋に沿って割れ始めている。

「い、ってぇ…………。なに?これ、時代劇かよ……?」

ところが破格のモンスターに育っている三浦和希は悲鳴をあげるわけでもなく、余裕すら感じる声音でそういいながら刀身を左手で握っていた。刀身を体で止めて左手で握られビクともしない状況で、和希は下から宏太の顔を見上げ興味深そうにマジマジと見つめてくる。肌に刺さる和希の視線に額の脂汗が頬を伝い、宏太はもう一度太刀を振るえる余力があるかを考えていた。何しろ盲目の宏太は走って逃げようにも、確実に即時背後からこの男に殺られる自信がある。しかし同時に渾身の太刀をもう一度一の太刀から振る余力も、息を切らせている宏太には残されていないだろうというのも事実だった。それは言うまでもなく和希にも、見ただけで分かるのだろう。

「……気がすんだ?ならさ、…………質問していい?」

しかも平然とそう口にする和希の手が白と銀糸で拵えた拵えの太刀の刃をギッチリと握り押さえ込んでいて、宏太はその事実に愕然としている自分に気がつく。今更のように何本も倒れていく孟宗竹が夜の闇の中で雷鳴のような音をたてて、脂汗がまたツゥッと宏太の頬を伝い落ちた。
この男が何を質問しようとしているのか、耳にするのが酷く恐ろしい。もしその問いが自分が過去にしたことに関連していて、もしそれでこの男が自分を殺すと決めたら?了との約束は?自分は了に、了の忌の際に愛してると言うと約束したのだ。

ゾッとする程、死が怖い。

この男に喉を切り裂かれ死にかけた時より遥かに恐ろしくて、絶望しそうになるのに、宏太は同時に何とか生き残る方法を探そうと必死に頭を巡らせている。

「あんた、俺に何にも感じないの?」

しかしその問いかけはとんでもない予想外で、宏太は一瞬凍りついてしまう。恐怖は感じるが、それを意図した言葉でないのは何故か直感的に理解できた。相手は自分に、三浦和希に性的な欲望を感じないか問いかけているのだ。

「……感じねぇな。」
「へぇ?珍しいな。」
「随分と自信家だな、誰もが欲望に飲まれるとでも?」

その宏太の返答が和希には想定外だった様子で、和希はもう一度穴が開きそうな程にマジマジと宏太の顔を覗き込む。まるでその視線が熱風が吹き付けてくるみたいに、肌にビリビリと感じられてしまう。そしてそこまでして闇の中のサングラス越しに、やっと宏太の顔が醜い傷に覆われて視力を失っているのに気がついたように簡単の声をあげたのだ。

「あんた、凄いね?目が見えないのに、こんなこと出来んだ?」
「…………お前に、誉められたかねぇな。」

カチカチと太刀の振るえる音がするのは、振り下ろそうとする宏太の力と押さえ込んでいる和希の力が拮抗しているからだ。予想外の質問だったが逆にそれで冷静になった宏太は、五の太刀を振り切り、もう一度にかけようとしている。そうでないとこの場は切り抜けられないし、了のところに帰られないのに気がついてしまったのだ。

了…………っ

帰らないと了をまた泣かせてしまう。さっきまで自暴自棄に戦線で暴れた方がましとか考えていた筈なのに、今はそれでは了を泣かせると気がつかされてしまったのだ。それは一番したくないし泣かせるのだけは駄目だと心の中で繰り返し太刀を押し込みにかかる宏太に、和希は面白そうに眉をあげていた。

「あんたさ?倉橋亜希子を知ってる?」

ところが更にかけられた問いかけは、真剣に予想外で一瞬宏太は戸惑い刀から力が抜けてしまっていた。それに気がついた和希は宏太の反応に安堵すら滲ませて見せて、しかもそれに続いた言葉は三浦和希が言うとは思えない言葉だったのだ。

「なぁ、亜希子が今、何処にいるか知ってるか?」

まるで恋人か身内か、少なくとも大事な人を探すような声音で、和希は倉橋亜希子の事を問いかける。三浦和希が以前に探していたのは別な女で、その女は三浦を地獄に落とす為に宏太を仲間に引き込んだ女でもあった。そして三浦はずっとその女を探し歩いていた筈だったのに、今こうして口にしたのは倉橋亜希子の名前だったのだ。
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