鮮明な月

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間章 アンノウン

間話10.哭き声

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都立総合病院にあるその部屋は、以前ある一人の殺人鬼が隔離されていた。24時間の監視下におかれ看護師だけでなく警察からも監視要員が派遣されていて、殺人鬼は二年ほどその部屋で隔離され密かに生かされていたのだ。というのもその殺人鬼は恐らくは逮捕前に五人を惨殺し三人に重傷をおわせていて裁判にかけられれば死刑は確実なのだが、自死を図った後遺症で発声もできず精神遅滞を生じてしまっていた。その為、治療を必要として責任能力を問えなかったのだという。それが何故、警察ではなく都立総合病院の一病院に措置されていたのかは、死んだ前院長にしか分からないこと。ただ奇妙なその動きに、まことしやかに様々な噂が立ちもした。

殺された被害者の誰かが老院長の隠し子だとか、老院長の性的な趣味だとか

不謹慎で奇妙な噂の立ち方だとは思う。殺人鬼はまだ二十代で老院長は八十代、子供というよりは孫の範疇だが、主治医を決して変わらなかったともいう。それに精神遅滞の殺人鬼が何故か男性相手に性的な行為をするなどという噂も経っていて、病院のスタッフや警察の一部がそれの相手をしているなんて噂もあった。

夜な夜な、何人もの男が病室に向かっていく。

なんて噂がまことしやかに噂されている最中、その凄惨な事件が起こったのだ。その殺人鬼は監視の警察官を惨殺して警官の衣類を着用し逃亡、現在もまだ捕まってはいない。真しやかに服を奪ったのではなく性行為の最中だったなんて噂も流れたが、そこいらの真実は結局は明かされないまま。しかも逃亡から一年が経とうとしているのに、殺人鬼の行方はようとして知れないままだった。
そしてその病室は前院長一族郎党の死亡に伴い、経営者も院長も新たに代わったことで廃止されると思われていたのだ。そうならなかったのはほんの二ヶ月前にとある事件の容疑者が、茫然自失の状態で見つかったからだった。偶々その時に西側にある警察病院の受け入れが出来ず、偶々その部屋がまだ残されていて、偶々短期間ならと新院長が一時的な保護を受け入れたため、その男はその部屋に入院することになった。男は会話が成立せず独語を呟き続け、時には壁に頭を打ち付けたり暴れたりもする状態で保護室での管理が必要だったのだ。

元妻を殺した男

元妻は看護師で、しかも金銭面で裕福で、そして実は死んだ元院長の息子の妻という身内。片や男の方はアルバイトで食いつなぎ格安のボロアパートを転々とし、散々方々で暴力事件や性的暴行などの問題を起こしていた。たった一人の人間を殺しただけでその隔離と思うだろうが、実はその元妻の殺人事件の起こったと目される場所の直ぐ傍で大規模な火災が起きていたのだ。その火災では多数の死傷者が出ているが、火災の原因は当時天候が悪く落雷によるものという見方があったが人災の可能性を問う声が上がりだした。そう、その男には密かに殺人の他に、放火の疑いもかかっているのだ。というのも雨に洗われてはいたが、発見時の男は両手の爪に血と繊維の付着だけでなく、タール状のものが見つかっていて火災現場の近くにいた疑いがある。兎も角男は、殺人鬼よりも厳密な対応の中で監視され、その病室に治療を受けながら隔離させられていたのだった。



※※※



その男は病室の中でも明るい蛍光灯の下では、最近は薬の効果なのだろうが行動は緩慢・独語と呼ばれる独り言は稀に聞かれる程度。流石に最初のうちは刑事事件の容疑者だからと警備がついていたが、既に入院から二ヶ月以上が経ちその男は回復の兆しもないまま。恐らくは誰もがこのままに違いないとたかを括っていて、しかも家族からも見放されたその男は扱いに困りつつあり病院でも早々に放棄したい案件だった。

「ここに看護師を回す人件費が無駄なんだよ。」

まともに会話もできない男に検査を行う。採血をするにもレントゲンを撮るにも看護師が複数必要だった初期から見れば、薬の効果で看護師一人でも問題ないくらい男は大人しく従うようになった。愚鈍で緩慢な動きではあるが別段問題行動を起こすわけでもなく、室内を明るくしておけば自傷行為と呼ばれる壁に頭を打ち付ける行動も見られないし暴れることもない。お陰で無意味に別棟で隔離され放置されているようなもので、そこを管理するための看護師が割り振られ別な病棟を見ながら廻ってくる手間。以前の殺人鬼のような緊迫感もないから看護師は溜め息をつく。

「普通の病棟の保護室にしとけばいいのにな、おっさん。」

明らかな病原もないのに男は全身から異臭を放ち、ドブのようなすえた臭いを身に纏うのだった。最初は失禁をしていて泥塗れでそのせいの臭いかと思われていたが、二ヶ月も経ってその臭いは弱まるどころか強くなるばかり。内蔵の疾患でもあるのかと思われたが、検査結果はそれほど悪くはないのだ。既に名前でなく年代の呼び方で呼ばれる男が、看護師の声に愚鈍に頭をあげて視線を向けた。

「うう…………?」
「あー、こっち見て喋んなよ、おっさん。口が臭い。」

その言葉の意味が理解できない男は、ボンヤリと淀んだ目で看護師を眺めるだけ。看護師は溜め息を付きながら無理矢理車椅子を背後に回すと、男の肩を引き男を乱暴にドサリと座らせる。以前はポータブル機械で撮影していたレントゲンもこの状態で男が安定しはじめてからは、看護師が車椅子で搬送しないとならなくなったのだ。つまりこの男は隔離しているほどの害がないと誰しも考えていて、実際に看護師の目から見ても害を生じるような能力はもうない。ボロボロで愚鈍な中年でしかない男は、脅威だとは思えないのだ。

「二十代の殺人鬼なら兎も角、なぁ?」

独り言めいた言葉にボンヤリした男は足元を眺めるだけで、乱暴な動きをする車椅子の座面でユラユラと頭を揺らす。そして既に午後をまわり人気のない放射線科の片隅で車椅子を停めた男性看護師は、男を何時ものようにその場に残して放射線科に声をかける為にその場を離れた。その日偶々放射線科の中でよく一緒に呑みに行く放射線技師がいて、偶々新しく出来たバーや行きつけのワインバーの話をして数分戻らなかったのだ。そして偶々誰もその廊下を放射線技師も見ていなくて、偶々誰一人患者も看護師もその廊下にはいなくて、偶々その車椅子の男は角に置かれていて誰からも見えにくかった。

「よーし、おっさん、レントゲン…………。」

男性看護師が放射線科の中を通り抜け、レントゲン室の内側から扉を開くまで五分。看護師が声をかけながらドアを開き視線を上げた先には、男の姿のない空っぽの車椅子がポツンと廊下に残されたままだった。



※※※



微かにだが、音声の中で何かの鳴き声を聞いた気がした。雑踏と人混みのざわめきの下の下で、足音に紛れてしまうほど重ねられた音。車のブレーキやエンジン音、それ以外の風の音や何もかもに重ねられ、塗り込められた下の下に微かに鳴る僅かな音。
とは言え何度か聞き直しても他の物音に完全にほとんどの紛れ込んでしまって、音声を調整しても流石の外崎宏太にもその鳴き声がなんなのかまでは聞き分けられない。ただ哭き声だと本能的に感じたのは、それが哭く息継ぎのようなものを耳ではなく直感で感じた気がしたのだ。

…………ョ…………ゥ…………

動物なのか、鳥なのかは分からない。微かで掠れた弱い音声が、了の追いかけている足音の先で哭いている。それは恐らくは《random face》に向かう路地の先で哭いている音声なのではないかと思うが、宏太にはそんな音には未だに聞き覚えがない。あの店を経営していた時は、ある意味あそこに住んでいるに等しいほどの時間をあの周辺で過ごしてきた。それこそ店舗の営業時間は惣一の『茶樹』以上に適当で、表側はcloseの札にしていても中では酒池肉林の乱知己騒ぎなんて事は多々あったからだ。勿論自分が参加して居たわけではなく場所貸で、宏太は間違いが起きないよう監視していたりバーテンダーをしていただけだったが。

当時はここまで耳がよかった訳ではないが、それでも記憶力はいい方だから独特の音声なら聞けば気がつくはず…………

人工物のたてる音とは違うようで動物の可能性は高い気もするが、追われる足音は何故かそれに向けて歩いていて、哭き声を追いかけているような気がする。人間の哭き声とするには高く掠れているが、類似していると言えば子供の哭き声かもしれない。

《random face》の辺り…………なんの哭き声だ?

繰り返して聞き返すが何度聞き返してもまるでハッキリしない上に、聞けば聞くほどボヤけていく感じがして宏太は苦々しく溜め息をつく。音を聞き分けるのに根を詰めすぎていて、疲労で判別が効かなくなっているのだと自分でも気がついたのだ。もしかするとこの聞こえたと感じている音も、宏太の希望的観測に過ぎなくて疲労からくる耳鳴りなのかもと思ってしまう。ヘッドホンを外してスマホを片手にした宏太は惣一に何か新しい情報がないか確認するために電話を掛け始めたが、ふと恭平と話している了はどうしていてどうなったろうと見えない視線を上げていた。



※※※



少しお茶でもとキッチンに立った了の様子を眺めて、恭平は改めて首を傾げていた。宏太とのことは記憶にないと話すけれど、基本的な生活の動きは問題がないし、何よりこの家の中で活動するには問題もない。つまり何処に何があるのかはハッキリではないが記憶していて、生活に支障がなくて、かなり限局して了が健忘を起こしているのだとわかる。

普通にしていたら、元に戻るといわれたら確かにそう思うよな…………

記憶障害とか健忘に詳しい訳ではないが、時には日常的な行動も健忘症では失うことかあると聞いたことがある。それにしても了も大変だが宏太の方のストレスを考えると胸が痛いのは、自分がもし仁聖に忘れられたらと思うといてもたってもいられない気がするからだ。手際のいい了の動きを眺めている恭平に、ふと視線に気がついた了は顔上げた。

「何?」
「ん?日常的なことは問題ないんだなと思って。」
「そ、だな。そう言われれば……。」

食器のありかも、珈琲や何かの置場所も、何一つ探しもしなかった自分に今更了も気がついて、思わず視線を手元に落とす。そこには無意識に準備していたマグカップが三つあって、了は言葉もなく目を丸くしてしまっている。自分と恭平と、そして当然のように準備したもう一つ。しかも珈琲自体もキッチリと三人分で、自分のものには砂糖とクリープを事前にいれて、もう一つはブラックで、もう一つには入れ終わってからクリープ。

「了。」

恭平の声に何故か酷く泣きたくなっている自分に気がついてしまう。体も日常の暮らしも自分が一人で暮らしていたのではないとこんなに訴え掛けてくるのに、どうして記憶だけが抜け落ちているのか。こんな歯車の合わない感覚で外崎の傍で暮らしていて、あんな風に傷ついた顔をさせて。そんな風に考えている最中、奥の部屋のドアが開く音がして足音が響く。

「…………恭平、悪いが俺が戻るまで、了と一緒にいてくれないか?…………仁聖を呼んでもいいから。」

リビングに入るわけでもなく外崎が掠れ声で言うのに、思わず二人は廊下の方へ視線を向けていた。少し険しい顔をして外に出る準備をしている外崎の姿に何故か胸が痛くて、了が戸惑う表情を浮かべる。

あんな風に拒否したから?

了が泣いて拒絶したから、それから二人の間には見てわかるほどの距離感が生まれていて。それでも外崎は家から出ようとはしなかったのは、目が見えないからではなくて自分が居なくなるからと心配していたからだと思っていた。それなのに恭平が居るだけでこんなにも簡単に出かけるという外崎の姿に、自分が実は傷ついているのに気がつく。

「分かりました、仁聖も心配してるから、呼びますけど。」
「ああ、悪いな。了のこと頼む。」

しかも自分の意見は何も聞かないで、外崎はさっさと玄関に向かって歩き出してしまう。女々しいし我が儘だと自分を詰りたくもなるが、外崎の行動にショックを受けてしまっている自分がいる。思わずその背中を追って玄関に向かっていたのは、本当に無意識にで意図した動きではなくて。

「あ………………。」

それでも何か言いたいのに言葉にならなくて、玄関を出ていく背中を見送るだけ。外崎にかける言葉をなくしたまま立ち尽くした了の姿に、恭平は困惑と同時に溜め息をつきたい気分になってしまっていた。人のことは言えないが互いに不器用すぎて、どうにもできないでいるのは端から見れば一目瞭然で。こんな風に傷ついた顔をする了を見たのは、正直初めてかもしれない。

「……了。」

再びかけられた恭平の声にも暫く反応できない了の様子に、恭平は今度こそ本当に溜め息をついてしまっていた。
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