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間章 アンノウン
間話9.音
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苛立ち、そして不快。
外崎宏太がそんなものにこれほどまでに支配されたのは、実は人生でも数えるほどしかない。大概自分の人生は計算ずくでほぼ予定通りに生きることが出来てものだったから、宏太が苛立ち不快感に飲まれたのは数えることのできる程度でしかない。たたしその数回がまともに考えればあり得ないと言われると、人生経験としてはかなりきついのは事実だったりもする。しかも、数えるほどしかないその数回の殆どはここ数年の話だったりもするのだが、それに対処するには今の自分は危うい。何が危ういかと言えば、自分自身の感情のコントロールが以前と比較しても格段に危ういのだ。
一度目の苛立ちと不快感は、幼馴染みが突然行方を眩ました時。
鳥飼澪が行方を眩ました理由が分からず、そして、何も助けてやれなかった自分自身への不快感。それが初めて感じた時だったが、その時はまだ自分は未成年で折り合いをつけることもできた。
次は、妻が死んだ時。鉛のように重苦しく朦朧とした頭で目覚めて、浴室でシャワーを浴びていた妻を言葉もなく犯した自分。ところがシャワーに濡れて少し頭が回るようになって見下ろしたら、妻の顔は無惨な肉塊に変わり果てていて希和は絶命していた。希和に対して苛立ったわけではなく、実際に苛立ちは妻が何故死を選んだのか理解できない自分に対して。そして、自殺という結論に何時までもしっくり来ない現実との齟齬に、宏太は言い知れない不快感を感じていた。
そして三度目は妻の弟・片倉右京が死んだ時。あの時本当の事を言えば、右京が何をしようとして裏で動いているか何を考えているかを、自分は察していると宏太はずっと思っていたのだ。ところが右京が最後に選んだのは、父親に殺され父親を破滅させることだった。それを知って宏太は苛立ちを感じていたのだが、その理由は当時は理解すらできなくて尚更不快感を感じてしまった。
何故父親に殺されなきゃならない?父親を破滅させるんで十分じゃないか。
それは姉だった希和の自殺でも同じで、何故命を絶たないとならないのかが宏太には全く理解できない。自分の中で理解できないこと、自分なら決して選ばないこと。それに宏太は苛立ちを感じてしまうのだし、時にはそれが理解できないことに強い不快感を覚えてきた。一度はいつか経験を重ねれば自分にも分かるのかと思いもしたが、結論としては自分には全く理解できないものなのだとやがて諦めるようになったのだ。だが、それを全て悉く覆してしまったのは、誰でもない了だった。了と過ごすようになってから、宏太はさまざまな感情に晒されて、今までにない自分の感情を自覚させられるようになってしまったから。今なら少しは希和や右京の気持ちが、何故死を選んだのかが分かる気がする。
希和も右京も大事なものを選ぶためには、死ぬしかないと考えたんだろう…………。
自分の尊厳や自分の大事なもの、自分の生きていくための芯のようなもの。それを傷つけられたり奪われたりすることに抵抗して二人は死を選んだのだろうし、幼馴染みの鳥飼澪も大事なものを守るために行方を眩ましていたのだと宏太に教えたのは澪の息子の信哉だ。そして自分も何よりも大事なものを見つけてしまったから、宏太もその気持ちはなおのこと理解できつつある。何しろ今の宏太は産まれてから一度も感じたことのないほど、苦悩して苛立ち不快に飲まれてもいた。
何でだ……何で俺を忘れた……
了が自分のことを忘れてしまうなんて。この事態は酷く腹立たしくて、苛立つし、例えようもなく不快で仕方がない。だけどだからと言って了に思い出させようとして無理矢理なにかをしてしまって、了を傷つけ泣かせるのはこれ以上に腹立たしく不快。それが分かっていたのに、自分が一瞬の油断でしたことのせいで了が泣きじゃくるのを聞いたとき全身が凍った気がした。
了が高校生の時から、一度も触れることを拒絶されたこともない。
そうなのだ、出会ってから今まで一度も了は宏太が触れる事に、あんな風に手を払いのけて拒否の反応を見せたこともなかった。勿論この怪我をして直ぐの時に遠慮がちになったことはあったが、手を触れさせないなんて事はなかった。それに何よりも、今まで了が宏太を名前で呼ばなかったことなんか全くなかったのに。思わず拳を握り思い切り机を殴り付けているが、そんなもので宏太の感じている苛立ちや不快感が収まるはずもなかった。
何でだ…………
帰宅した時に宏太が抱き締めた時、記憶がなくとも了はそれほどの拒否はなかった。だが一緒のベットで寝て欲しいと了から請われて油断した宏太は、了が恐らくは記憶していないだろう弱い部分をあからさまに刺激して啼かせようとしてしまった。それが大きな失敗だったのだ。どんなに体は反応して受け入れてくれても、心が伴わない今の了には宏太のすることは決して受容できない。
分かっていたのに…………ちゃんと分かっていた筈なのに…………
最初にキスを拒まれた時にそれは分かっていた筈なのに、それなのにあんな間違いを犯して、子供が怯えて泣きじゃくるように了を泣かせてしまったのだ。そしてその後了は目が覚めても宏太がいると思ってか部屋から簡単には出てこようとはしないし、宏太に対して完全に怯えているようにも感じる。だから宏太は了に手を伸ばすことも出来ずに、最終的に半分混乱したまま榊恭平を呼び出した。結城晴や他の人間より今の了を理解できそうなのは、正直いうと宏太には榊恭平しか浮かばなかったのだ。
※※※
朝一番の電話で呼び出された恭平は、混乱しているとしか思えない顔色の宏太に頼まれて躊躇いがちに二階のドアの前に立った。宏太は了が理由はハッキリしないが街中で倒れていて、目が覚めたら自分の事を覚えていないのだと言う。そんなドラマみたいなこととは内心思うが、宏太の顔色は嘘を行っているとは思えないし、大体にして外崎宏太がそんな嘘を恭平につく理由もない。
「了?」
ドア越しに恭平が声をかけて暫く。やがて了は戸惑いながらも、ドアをそっと開けて顔を覗かせた。何時もとはまるで別人のように青ざめて戸惑いに震える瞳ではあるが、話を聞いて予測したのとは違って了は恭平の顔を見て相手が誰か直ぐに分かったようなのだ。
「恭平…………。」
「外崎さんから電話もらって、…………大丈夫か?了。」
奇妙なことに了は恭平のことは顔を見ただけでちゃんと恭平だと認識したし、恭平のことは記憶にあって素直に頷くとドアの中に恭平を通したのだった。そして了が籠城していた寝室に入った恭平が部屋のカウチに腰かけてユックリと問いかけると、少しずつ記憶の糸を寄り合わせて結びつけていくように答えていく。
「頭は痛まないか?」
「平気。」
「俺のことは分かるんだな?」
「分かる。」
「篠は?」
「わ、かる…………。」
もう一人の友人である村瀬篠のことも、了は恭平の言葉に素直に返答できて記憶を失っていないのだ。質問で記憶を少しずつ寄り合わせていくのに、恭平はやがて奇妙なことだが大学時代の交遊関係の一部は了の記憶から欠落しているのに気がついていた。数年の交流がある恭平だからこそその結果から判断がついたのは、了が以前自分から宣言していたセクシャリティーに関する部分に欠落が大きいということだ。つまりサークルの飲み会でバイセクシャルだと堂々と宣言した自分のことは何一つ記憶になくて、同時に奔放だと話した性行為に関しても今の了の中からは完全に欠落しているようなのだ。大学時代それに関与せずに戯れていた面では、友人だった恭平や篠の事は割合鮮明に記憶しているのに。
「松下……?」
「そう、暫くよくつるんでた、覚えてないか?」
ところが大学時代に了が付き合ったと噂されていた男友達の一人・松下の事は綺麗サッパリと欠落していて、その男がどんな人間だったかも全く思い出せない。残念なことに恭平も松下という人間に関しては、下の名前が思い出せない程度からも分かる通り名前を知っている位でしかないからそれ以上のことは話すことも出来ないのだ。
「分からない…………文学部だった奴なのか?」
「一年留年して卒業したけどな、一緒のサークルだった。」
ただこうやって思い出させようとしてもドラマのように苦悩や苦痛は了には起こらないが、奇妙なことに柵を張り巡らせているように限局的に記憶が抜け落ちている。何故ならサークルに入っていた事や就職した事はちゃんと記憶しているし、以前同じ職場だった結城晴のことも記憶にはある。
「結城が、今ここで?仕事は?」
「お前の後を追って辞めたと聞いてる。」
結城晴は了の元セフレと自分から自己紹介したのに、了は仕事の後輩という事実は覚えているのに交際していたかどうかという点に関しては記憶がない。そしてそれに伴って今晴が一緒に外崎の部下として働いていることも、記憶から抜け落ちているのだ。
まるで何か基準があって、意図して忘れてるみたいだな…………
そう、それは意図して部分的に忘れようとしたみたいに、了と付き合いが長い恭平には感じてしまう。まるでセクシャリティーに関する記憶だけ選択して消去したように、境目のハッキリした記憶の欠落。そして外崎宏太は最近の了にとっては、最もその面で関わりがある人間だと恭平だって思う。何しろ二人は男同士で共に過ごすことを選択して、二人で寄り添って暮らしているのだ。
「俺…………外崎さん………と、どれくらい一緒に暮らしてるんだ……?」
戸惑いながら問い返された了の言葉に、恭平の方が目を丸くしてしまう。
「三月からだから、…………半年と少しになると思うが。」
三月末から。だけど実際には了がもっと前から宏太とは交流があったのは、話の中で薄々ではあるが理解していた。それを全て忘れてしまっているのだとして、了はよく素直に宏太に従ってここに来たなと思ってしまう。少なくとも恭平や篠の事を記憶しているなら、両親の事を了が記憶しているのは間違いではない筈だ。でも同時に以前それとなくだが、了自身が親との不仲を臭わせたのにも気がついてしまった。
「恭平……からみて、俺と………………外崎さんって…………どんな風?」
二人の関係。どうみて了の事を頭の先から爪の先まで溺愛しまくっている外崎宏太に、恋女房とでも言いたげに甲斐甲斐しく宏太の身の回りのなにからなにまで世話もする了。それがどう見えるかと聞かれれば、素直に非常に仲睦まじい二人としか恭平にも答えられない。
「そ…………なのか…………。」
俯き手元を見つめる了の指には、居心地悪そうに指輪が確りと填められたまま。記憶がなくともそれを外すつもりもないのだろうが、俯き考え込む了の様子に恭平は何が一番正しいのだろうと思い悩んでいた。
※※※
恭平に了のことを任せて宏太はヘッドホンを耳に押し当てて、何か他に聞き出せる音はないかと一心に耳を研ぎ澄ましていた。正直に言えば宏太は記憶にないのに、恭平のことは覚えていたという事実に苛立ちは増すどころではない。それでも了に何が起こったか知って対応を考えることで、この苛立ちから気を紛らわせてしまうしか宏太にはないのだ。
街の雑踏。
人々の他愛のない会話。
どこかから漏れ聞こえるテレビの音声。
店内にかかるBGMの音。
ヒールの高いくつの足音、低い靴底のアスファルトを蹴る音。
幾つも幾つも重なる音を一つずつ拾い、聞き分け、丁寧に判別していく。
その中には革靴ではなく、いつも了の履く靴の歩く音がする。
それとは異なるもう一つの足音。
独特の歩き方に、癖のある足の運び。
それが誰なのかは宏太には既に分かっているが、同時にそいつが了の記憶喪失に関係しているかどうかは分からない。それを確かめる術は間だ見つけられず、それを耳で探すには材料が少な過ぎる。何しろ画像は多くあっても音声まで記録される媒体は、街中には早々ないのだ。この音声記録も偶々記録されていたのを惣一が見つけ出してくれたからで、そうでなければ宏太には手の出しようもない。それに外に出て探そうにも、家を空けるのは実は宏太も怖いのだ。
了が居なくなったら…………
体はなんともないのだし、あんな風に拒絶されていて、了が出ていってしまう可能性がないとは思えない。そう考えてしまう自分にも苛立ちと不快感が強まって宏太は鋭く舌打ちしながら、再度同じ音声を繰り返し聞き直し出している。何時いても同じものは同じ…………そう考えつつも不意に違うものが引っ掛かり、宏太は思わず眉を潜めていた。
外崎宏太がそんなものにこれほどまでに支配されたのは、実は人生でも数えるほどしかない。大概自分の人生は計算ずくでほぼ予定通りに生きることが出来てものだったから、宏太が苛立ち不快感に飲まれたのは数えることのできる程度でしかない。たたしその数回がまともに考えればあり得ないと言われると、人生経験としてはかなりきついのは事実だったりもする。しかも、数えるほどしかないその数回の殆どはここ数年の話だったりもするのだが、それに対処するには今の自分は危うい。何が危ういかと言えば、自分自身の感情のコントロールが以前と比較しても格段に危ういのだ。
一度目の苛立ちと不快感は、幼馴染みが突然行方を眩ました時。
鳥飼澪が行方を眩ました理由が分からず、そして、何も助けてやれなかった自分自身への不快感。それが初めて感じた時だったが、その時はまだ自分は未成年で折り合いをつけることもできた。
次は、妻が死んだ時。鉛のように重苦しく朦朧とした頭で目覚めて、浴室でシャワーを浴びていた妻を言葉もなく犯した自分。ところがシャワーに濡れて少し頭が回るようになって見下ろしたら、妻の顔は無惨な肉塊に変わり果てていて希和は絶命していた。希和に対して苛立ったわけではなく、実際に苛立ちは妻が何故死を選んだのか理解できない自分に対して。そして、自殺という結論に何時までもしっくり来ない現実との齟齬に、宏太は言い知れない不快感を感じていた。
そして三度目は妻の弟・片倉右京が死んだ時。あの時本当の事を言えば、右京が何をしようとして裏で動いているか何を考えているかを、自分は察していると宏太はずっと思っていたのだ。ところが右京が最後に選んだのは、父親に殺され父親を破滅させることだった。それを知って宏太は苛立ちを感じていたのだが、その理由は当時は理解すらできなくて尚更不快感を感じてしまった。
何故父親に殺されなきゃならない?父親を破滅させるんで十分じゃないか。
それは姉だった希和の自殺でも同じで、何故命を絶たないとならないのかが宏太には全く理解できない。自分の中で理解できないこと、自分なら決して選ばないこと。それに宏太は苛立ちを感じてしまうのだし、時にはそれが理解できないことに強い不快感を覚えてきた。一度はいつか経験を重ねれば自分にも分かるのかと思いもしたが、結論としては自分には全く理解できないものなのだとやがて諦めるようになったのだ。だが、それを全て悉く覆してしまったのは、誰でもない了だった。了と過ごすようになってから、宏太はさまざまな感情に晒されて、今までにない自分の感情を自覚させられるようになってしまったから。今なら少しは希和や右京の気持ちが、何故死を選んだのかが分かる気がする。
希和も右京も大事なものを選ぶためには、死ぬしかないと考えたんだろう…………。
自分の尊厳や自分の大事なもの、自分の生きていくための芯のようなもの。それを傷つけられたり奪われたりすることに抵抗して二人は死を選んだのだろうし、幼馴染みの鳥飼澪も大事なものを守るために行方を眩ましていたのだと宏太に教えたのは澪の息子の信哉だ。そして自分も何よりも大事なものを見つけてしまったから、宏太もその気持ちはなおのこと理解できつつある。何しろ今の宏太は産まれてから一度も感じたことのないほど、苦悩して苛立ち不快に飲まれてもいた。
何でだ……何で俺を忘れた……
了が自分のことを忘れてしまうなんて。この事態は酷く腹立たしくて、苛立つし、例えようもなく不快で仕方がない。だけどだからと言って了に思い出させようとして無理矢理なにかをしてしまって、了を傷つけ泣かせるのはこれ以上に腹立たしく不快。それが分かっていたのに、自分が一瞬の油断でしたことのせいで了が泣きじゃくるのを聞いたとき全身が凍った気がした。
了が高校生の時から、一度も触れることを拒絶されたこともない。
そうなのだ、出会ってから今まで一度も了は宏太が触れる事に、あんな風に手を払いのけて拒否の反応を見せたこともなかった。勿論この怪我をして直ぐの時に遠慮がちになったことはあったが、手を触れさせないなんて事はなかった。それに何よりも、今まで了が宏太を名前で呼ばなかったことなんか全くなかったのに。思わず拳を握り思い切り机を殴り付けているが、そんなもので宏太の感じている苛立ちや不快感が収まるはずもなかった。
何でだ…………
帰宅した時に宏太が抱き締めた時、記憶がなくとも了はそれほどの拒否はなかった。だが一緒のベットで寝て欲しいと了から請われて油断した宏太は、了が恐らくは記憶していないだろう弱い部分をあからさまに刺激して啼かせようとしてしまった。それが大きな失敗だったのだ。どんなに体は反応して受け入れてくれても、心が伴わない今の了には宏太のすることは決して受容できない。
分かっていたのに…………ちゃんと分かっていた筈なのに…………
最初にキスを拒まれた時にそれは分かっていた筈なのに、それなのにあんな間違いを犯して、子供が怯えて泣きじゃくるように了を泣かせてしまったのだ。そしてその後了は目が覚めても宏太がいると思ってか部屋から簡単には出てこようとはしないし、宏太に対して完全に怯えているようにも感じる。だから宏太は了に手を伸ばすことも出来ずに、最終的に半分混乱したまま榊恭平を呼び出した。結城晴や他の人間より今の了を理解できそうなのは、正直いうと宏太には榊恭平しか浮かばなかったのだ。
※※※
朝一番の電話で呼び出された恭平は、混乱しているとしか思えない顔色の宏太に頼まれて躊躇いがちに二階のドアの前に立った。宏太は了が理由はハッキリしないが街中で倒れていて、目が覚めたら自分の事を覚えていないのだと言う。そんなドラマみたいなこととは内心思うが、宏太の顔色は嘘を行っているとは思えないし、大体にして外崎宏太がそんな嘘を恭平につく理由もない。
「了?」
ドア越しに恭平が声をかけて暫く。やがて了は戸惑いながらも、ドアをそっと開けて顔を覗かせた。何時もとはまるで別人のように青ざめて戸惑いに震える瞳ではあるが、話を聞いて予測したのとは違って了は恭平の顔を見て相手が誰か直ぐに分かったようなのだ。
「恭平…………。」
「外崎さんから電話もらって、…………大丈夫か?了。」
奇妙なことに了は恭平のことは顔を見ただけでちゃんと恭平だと認識したし、恭平のことは記憶にあって素直に頷くとドアの中に恭平を通したのだった。そして了が籠城していた寝室に入った恭平が部屋のカウチに腰かけてユックリと問いかけると、少しずつ記憶の糸を寄り合わせて結びつけていくように答えていく。
「頭は痛まないか?」
「平気。」
「俺のことは分かるんだな?」
「分かる。」
「篠は?」
「わ、かる…………。」
もう一人の友人である村瀬篠のことも、了は恭平の言葉に素直に返答できて記憶を失っていないのだ。質問で記憶を少しずつ寄り合わせていくのに、恭平はやがて奇妙なことだが大学時代の交遊関係の一部は了の記憶から欠落しているのに気がついていた。数年の交流がある恭平だからこそその結果から判断がついたのは、了が以前自分から宣言していたセクシャリティーに関する部分に欠落が大きいということだ。つまりサークルの飲み会でバイセクシャルだと堂々と宣言した自分のことは何一つ記憶になくて、同時に奔放だと話した性行為に関しても今の了の中からは完全に欠落しているようなのだ。大学時代それに関与せずに戯れていた面では、友人だった恭平や篠の事は割合鮮明に記憶しているのに。
「松下……?」
「そう、暫くよくつるんでた、覚えてないか?」
ところが大学時代に了が付き合ったと噂されていた男友達の一人・松下の事は綺麗サッパリと欠落していて、その男がどんな人間だったかも全く思い出せない。残念なことに恭平も松下という人間に関しては、下の名前が思い出せない程度からも分かる通り名前を知っている位でしかないからそれ以上のことは話すことも出来ないのだ。
「分からない…………文学部だった奴なのか?」
「一年留年して卒業したけどな、一緒のサークルだった。」
ただこうやって思い出させようとしてもドラマのように苦悩や苦痛は了には起こらないが、奇妙なことに柵を張り巡らせているように限局的に記憶が抜け落ちている。何故ならサークルに入っていた事や就職した事はちゃんと記憶しているし、以前同じ職場だった結城晴のことも記憶にはある。
「結城が、今ここで?仕事は?」
「お前の後を追って辞めたと聞いてる。」
結城晴は了の元セフレと自分から自己紹介したのに、了は仕事の後輩という事実は覚えているのに交際していたかどうかという点に関しては記憶がない。そしてそれに伴って今晴が一緒に外崎の部下として働いていることも、記憶から抜け落ちているのだ。
まるで何か基準があって、意図して忘れてるみたいだな…………
そう、それは意図して部分的に忘れようとしたみたいに、了と付き合いが長い恭平には感じてしまう。まるでセクシャリティーに関する記憶だけ選択して消去したように、境目のハッキリした記憶の欠落。そして外崎宏太は最近の了にとっては、最もその面で関わりがある人間だと恭平だって思う。何しろ二人は男同士で共に過ごすことを選択して、二人で寄り添って暮らしているのだ。
「俺…………外崎さん………と、どれくらい一緒に暮らしてるんだ……?」
戸惑いながら問い返された了の言葉に、恭平の方が目を丸くしてしまう。
「三月からだから、…………半年と少しになると思うが。」
三月末から。だけど実際には了がもっと前から宏太とは交流があったのは、話の中で薄々ではあるが理解していた。それを全て忘れてしまっているのだとして、了はよく素直に宏太に従ってここに来たなと思ってしまう。少なくとも恭平や篠の事を記憶しているなら、両親の事を了が記憶しているのは間違いではない筈だ。でも同時に以前それとなくだが、了自身が親との不仲を臭わせたのにも気がついてしまった。
「恭平……からみて、俺と………………外崎さんって…………どんな風?」
二人の関係。どうみて了の事を頭の先から爪の先まで溺愛しまくっている外崎宏太に、恋女房とでも言いたげに甲斐甲斐しく宏太の身の回りのなにからなにまで世話もする了。それがどう見えるかと聞かれれば、素直に非常に仲睦まじい二人としか恭平にも答えられない。
「そ…………なのか…………。」
俯き手元を見つめる了の指には、居心地悪そうに指輪が確りと填められたまま。記憶がなくともそれを外すつもりもないのだろうが、俯き考え込む了の様子に恭平は何が一番正しいのだろうと思い悩んでいた。
※※※
恭平に了のことを任せて宏太はヘッドホンを耳に押し当てて、何か他に聞き出せる音はないかと一心に耳を研ぎ澄ましていた。正直に言えば宏太は記憶にないのに、恭平のことは覚えていたという事実に苛立ちは増すどころではない。それでも了に何が起こったか知って対応を考えることで、この苛立ちから気を紛らわせてしまうしか宏太にはないのだ。
街の雑踏。
人々の他愛のない会話。
どこかから漏れ聞こえるテレビの音声。
店内にかかるBGMの音。
ヒールの高いくつの足音、低い靴底のアスファルトを蹴る音。
幾つも幾つも重なる音を一つずつ拾い、聞き分け、丁寧に判別していく。
その中には革靴ではなく、いつも了の履く靴の歩く音がする。
それとは異なるもう一つの足音。
独特の歩き方に、癖のある足の運び。
それが誰なのかは宏太には既に分かっているが、同時にそいつが了の記憶喪失に関係しているかどうかは分からない。それを確かめる術は間だ見つけられず、それを耳で探すには材料が少な過ぎる。何しろ画像は多くあっても音声まで記録される媒体は、街中には早々ないのだ。この音声記録も偶々記録されていたのを惣一が見つけ出してくれたからで、そうでなければ宏太には手の出しようもない。それに外に出て探そうにも、家を空けるのは実は宏太も怖いのだ。
了が居なくなったら…………
体はなんともないのだし、あんな風に拒絶されていて、了が出ていってしまう可能性がないとは思えない。そう考えてしまう自分にも苛立ちと不快感が強まって宏太は鋭く舌打ちしながら、再度同じ音声を繰り返し聞き直し出している。何時いても同じものは同じ…………そう考えつつも不意に違うものが引っ掛かり、宏太は思わず眉を潜めていた。
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