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第十五章 FlashBack
174.
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階下のリビングでの不機嫌な朝食会を兼ねた集会とはかけ離れて、ひっそりとした二階のゲストルームのベットの中。泣きつかれて眠った結城晴を腕の中にそっと抱き寄せて、狭山明良は一人悶々と考え込んでいた。その脇腹にはガーゼの当てられた傷が確かにあり、少しチクチクとはするが痛みはそれほどでもない。そう何度繰り返し言い聞かせるように説明してもショックを受けてしまった晴は泣きじゃくって止まらなくて、終いには上で抱くなりなんなりしてそいつを寝せろと宏太に階下から追い上げられてしまった。
「晴…………。」
こんな風に晴がショックを受けて混乱するなんて、実は明良も一つも思っていなかったのだ。何時も陽気で能天気で甘えたな晴の事だから、この程度の怪我とわかれば「なぁんだ。よかったじゃん。」とヘラッと笑ってくれるものだと考えていた。それなのに見ていて上手く何が起きたか理解できないでいた晴は明良の脇腹を押さえている手から血が滲んだのを見た瞬間、蒼白になってそれこそその場で卒倒しかけたのだ。実はあの時に救急車の担架に横になったのは晴の方で、明良は怪我はしていたものの淡々と座席に座って救急車に乗ったわけで。救急室に運ばれ目が覚めてからの晴は一見落ち着いていて事態を誰かに連絡と冷静に考えた様子だったが、実は何一つパニックから自力回復はしていなかった。
手当てが終わって平然と歩いて救急室から出てきた明良をみた途端、晴はその場で立ち尽くして号泣し始めたのだ。そこに丁度やって来たのが外崎宏太と了で、初めて晴が録に説明が出来ないくらい混乱したままだと明良は気がついたのだった。ごめんと繰り返し泣き続ける晴はそれから一時も明良から離れず、結果として宏太に言われた通り明良が抱き上げてここにつれてきてベットに潜り込むはめになった。それでも晴は確りと明良にしがみついたまま長く泣き続けてやっと明け方に眠り始めたばかりで、目元は痛々しい位赤く晴れてしまっている。それをせめてタオルで冷やしてやろうにも、明良が少しでも離れようとすると晴が起きてしまうのだ。
こんなに、泣くなんて…………
流石に成人男子が泣きじゃくるなんて、早々見るものではない。晴はどちらかと言えば感情の起伏が大きいから時々べそをかいたり泣くことはあるけど、ここまで止めようもなく泣きじゃくるなんて明良だってまだ見たことがなかった。しかも昨夜はアルコールが入っていて甘えたになっていたのは事実だが、晴は案外代謝がいいから既に酔ってはいないはずなのだ。
抱き寄せ涙の跡を指で拭うと晴が身を擦り寄せて、明良の胸に擦り付けるように顔を押し付けてくる。
その仕草があまりに可愛くて思わずムラムラするのは事実だけど、この状況で抱くほど明良も節操なしでもない。そう考えながら、咄嗟にとはいえ晴を庇う事が出来て本当に良かったと思う。もし晴が刺されていたら距離的にも晴の方が高橋に近かったし自分とは筋肉の付きかたも違うから、傘の尖端はもっと深く刺さったかも知れない。そう思うと正直ゾッとするし、でも同時にこんなに晴を泣かせてしまったことを後悔もする。
もう少し早く気がつければ蹴って避けられた。
晴の可愛い笑顔に気をとられて足音にも気配にも気がつけず、明良の方にもかなり隙があった。でも日常こんなことが起こるなんて普通は考えないし、明良は宏太のような全身センサーみたいな人間でもないのだ。深い溜め息が出てしまうのはこんなことが日常化されては困るからだが、こんな形で警察に関わったからには少なくともただでは終わらないだろう。それが分かるから明良は別な意味でも腹を括らないとと、しがみつく晴を抱き締めて考え込んでいるのだった。
※※※
その連絡は予想外の時に、全く予想外の方向から高橋至の元にやって来た。ブランドの中に新しい企画を立ち上げた『multilayered.E』というデザイン系の会社から、自分のプランナーとしての能力を聞き付けて一度顔を会わせて話をしたいと直々に連絡が入ってきたのだ。どうやら出版社勤めの古い友人の口利きで自分の存在を知ったらしく、自分が古巣で起こしている醜聞も殆ど知らない様子なのには高橋至は安堵に胸を撫で下ろした。そして雇ってもらえさえすれば自分は有能で才気を発することが可能なのだと考えると同時に、つい数日前に自分が起こしてしまったことがまだなにも表立ったニュースにならないのに安堵もしている。
もし傷害事件になってれは、ニュースになるはずだ。
傘でとはいえ人を傷つけその場から逃げ出した上に、その凶器の傘を現場に落としても来た。それに狭山明良は自分だとわかっている風に話しをしたから、あっという間に警察が捕まえに来るのではと一人部屋の奥で震え上がってもいたのだ。だが今のところ警察どころかテレビでもニュースにもならず、こんな勧誘までやってきたのには高橋は安堵するしかない。恐らくは狭山明良は顔を見てないし誰か本当は分かってなかったに違いない、それにあの雨で傘の指紋も上手く洗い流されてしまったに違いないのだと考え始めた。
であれば、何とかなるかもしれない。
バレなければ何とでもなると考えられるようになったところで、この勧誘がやって来たのも運命なのかもしれない。久々にパリッとさせたスーツを身に付け、以前仕事の時に常につけていた鬘を丁寧に頭に乗せて違和感の無いよう残っている髪と馴染ませる。普段つけている黒髪はどうしても少し人工的で髪が浮いてしまうのが珠に傷だが、こちらは高い金をかけて作ったものだから違和感は殆どない。そして、以前と同じ華やかな社会生活に戻るため、その会社に颯爽とした足取りで足を踏み入れる。
「高橋様ですね、社長は少し席をはずしておりますので、こちらへ。」
中規模とはいえ洒落た自社ビルを持っていて、受付嬢も艶やかな和風系の高橋好みの美人。スラリとしたモデルのような細い足とスカートのスリットが艶かしく動きながら、事前に連絡が通っている風に高橋を様という敬称をつけて呼び奥に誘う。これは行けるかもしれないと内心で飛び上がりそうになりながら、平静を装ってその後に続くと受付嬢は微笑みながら軽くビルの中を説明し始めた。
「一階はオープンスペースとデザインモデルのショールームになっています。」
被服系のデザイン会社とは調べてきたが製品のショールームまで作る規模だとは知らなかった高橋は、興味深げに室内を眺める。基本的には外部物販のイベントやショールームなどの企画を手掛けてもいたから、自社に販売を意図したわけではないショールームがあることの珍しさは良くわかった。つまりは流通経路が既に確立していて、本社では製品の展示のみで物販を行わないほどの経営基盤というわけだ。製品工場も既存の契約があるのだろうし流通経路も確定していて、そこで新たな自分のような立場の人間を雇い入れる理由はなんだろう。
新しい流通網ができたとか?
あり得なくはない。しかも、このブランドでは今までなかった種類の製品を打ち立て始めていて、そう考えた瞬間ギクリと高橋の足が凍りついた。ショールームの一角にあるポスターの中から向けられた視線に、見覚えがあったのだ。
「な、なん…………。」
「あら、あちらのポスターですか?新製品のメンズランジェリーの販売ポスターです。」
にこやかに微笑みながらそう口にした受付嬢に、高橋はひきつる笑顔を浮かべてぎこちなく笑った。それはただのポスターだったが、どう見ても映っているのはこの間あの事件を起こした直後に夜道でぶつかった男だ。随分ガタイがよく背の高い男だとは思ったけれど、まさかこんなところで誰なのか知る嵌めになるとは思いもよらなかった。しかもあの男には顔を見られていて、物販なんかで顔を会わせようものなら下手するとあの道の先であったことと結びつけられる可能性もある。何しろあの男は自分とは、正反対の道のりを走っていったのだ。
「あのポスターのモデルは…………?」
とはいえ初回だけのモデルであれば、次からは別なモデルになる可能性もあるから、高橋は何気ないふりを決め込んでひきつった笑顔のまま受付嬢に問いかける。すると彼女はポスターの男と同じあどけなくも挑みかかるようにも見える妖艶な微笑みで振り返り、高橋の顔を怯むことなく真っ直ぐに見つめた。
「セクシーで目を惹きますでしょ?専属契約のモデルです。」
それは最悪の返答に、重なるような更に最悪の予感。
「高橋様はプランナー専門でいらっしゃるそうですね、社長から直々にお話をということは、きっとその新しい商品に関連したことてしょうね。それなら彼と顔を会わせることもありますわね。」
新しい企画の分野、そしてその分野の流通網が確立するためのプランナーとしての勧誘、そうなると嫌でも専属契約のモデルだという男とは始終顔を会わせることになる。大丈夫、会ったことはないとしらを切りと押せと自分の中の悪魔の声が囁くが、怪我はしていないかと問いかけられ会話まで交わしてしまっていて。恐らくはあの後にあの男は救急車に乗せられていく狭山を見たかもしれないし、自分がそちらを気にしながら歩いてきたと気がつくかもしれない。
いや、なにも証拠はないのだから、気にしなくてもいいんじゃ?
そう思いたいがあの場所から狭山明良が救急車に乗せられた現場までは、それほど距離がなくて、しかも角一つのほぼ一直線。救急車が来たから気にして歩いていたというには、自分は俯き顔を見られないようにしていて挙動不審な動きだった。
これから大手に成長すると決まっている会社への再就職と、自分の社会的な抹殺の危険性。
天秤に乗るには余りにも大きいが、狭山明良が闇のなかで顔を見てないし、あの男だって…………いや、あの男には腕をとられて立ち上がらせられてしまった。どう考えても高橋の顔を見ているに違いないし、何しろ高橋だってこうして向こうの顔を覚えているくらいだ。
どうする?いや、顔を会わせないように仕事すれば………いや、それは………無理だ。
たかが小規模の物販イベントでもあれだけあの女モデルと頻繁に顔を会わせてきたのに、この大きなプロジェクトのような状況で専属契約のモデルと会わない筈がない。それが充分分かっているからこそ、次第にひきつる笑顔は青ざめ始めていた。
「あら、高橋様、どうかなさいました?」
このまま体調が悪いと今回は帰った方がいいのではないか。他人のそら似に賭けるには、このポスターは鮮明すぎてあの男の顔を見間違えるはずもないし、もし出会って第一声で何かあの時のことを言われたら高橋はそれだけで終わりになってしまう。混乱しつつある頭で必死に最善策を選ぼうとするが、この会社への就職も大きな魅力過ぎて天秤はガッチリと均衡を保つ。天秤の棒が撓り軋むのを微かに感じながら、しらを切るにかけてみてもいいのではと再び悪魔の声が囁いてくる。そう、それくらいこの仕事の話は高橋にとっては渡りに船で、酷く魅力的な案件なのだ。
『multilayered.E』の一部門のプランナーなら、将来を約束されたも同然
しかも成田了のようにモデル事務所で次期社長とまではいかなくとも、プランナーとしては大成功したと言っても過言ではないはずだ。もし正社員としてではなくとも、仕事を重ねれば重要人物としての扱いが約束される。
「高橋様、こちらから上がると撮影スタジオが併設になっております。」
答えない高橋に痺れを切らせたのか、和風美女はそういいながらスリットから更に足を覗かせ階段を上がり始めた。それを視線で追うと美しい脚が丁度視線の高さで艶かしく誘いかけて、高橋は思わず視線だけでなく体を動かしている。シンプルに作られた階段を上がりながら、彼女が告げた言葉を頭の中で繰り返し高橋は撮影スタジオ?と頭の端が警告灯を動かしたのを感じていた。
何かおかしい
そう考えた時にはガラス張りの扉の向こうに撮影をしている気配が既に見えていて、彼女の足は当然のようにそちらに向かっていく。コツコツとヒールの音をさせながら当然の如く向かっていく先には、下で今見たばかりの長身の青年が上半身裸の見事な肉体美をさらして立っている。高橋自身何かおかしいと感じながら、そのくせ天秤の反対側の重みに負けてこっそり俯きながら後に続く。
「八重子さん。聞いて、俺この間事件現場見ちゃった!」
恐ろしいことに扉を開けた音に反応して振り返った男は爽やかに人生何一つ悩み事の無いような笑顔を浮かべて、室内に入った受付嬢に元気で陽気な口調で声をかけてきた。そして当然その内容は高橋が一番恐れていることで
「良かったわね、巻き込まれなくて。」
「ほんと、それにさ、その近くで………………、八重子さん、その人は?」
その言葉の先に何が続くか分からないまま、間の悪いことに男は最悪の状況で受付嬢の背後の高橋の存在を問いただしてきたのだった。
「晴…………。」
こんな風に晴がショックを受けて混乱するなんて、実は明良も一つも思っていなかったのだ。何時も陽気で能天気で甘えたな晴の事だから、この程度の怪我とわかれば「なぁんだ。よかったじゃん。」とヘラッと笑ってくれるものだと考えていた。それなのに見ていて上手く何が起きたか理解できないでいた晴は明良の脇腹を押さえている手から血が滲んだのを見た瞬間、蒼白になってそれこそその場で卒倒しかけたのだ。実はあの時に救急車の担架に横になったのは晴の方で、明良は怪我はしていたものの淡々と座席に座って救急車に乗ったわけで。救急室に運ばれ目が覚めてからの晴は一見落ち着いていて事態を誰かに連絡と冷静に考えた様子だったが、実は何一つパニックから自力回復はしていなかった。
手当てが終わって平然と歩いて救急室から出てきた明良をみた途端、晴はその場で立ち尽くして号泣し始めたのだ。そこに丁度やって来たのが外崎宏太と了で、初めて晴が録に説明が出来ないくらい混乱したままだと明良は気がついたのだった。ごめんと繰り返し泣き続ける晴はそれから一時も明良から離れず、結果として宏太に言われた通り明良が抱き上げてここにつれてきてベットに潜り込むはめになった。それでも晴は確りと明良にしがみついたまま長く泣き続けてやっと明け方に眠り始めたばかりで、目元は痛々しい位赤く晴れてしまっている。それをせめてタオルで冷やしてやろうにも、明良が少しでも離れようとすると晴が起きてしまうのだ。
こんなに、泣くなんて…………
流石に成人男子が泣きじゃくるなんて、早々見るものではない。晴はどちらかと言えば感情の起伏が大きいから時々べそをかいたり泣くことはあるけど、ここまで止めようもなく泣きじゃくるなんて明良だってまだ見たことがなかった。しかも昨夜はアルコールが入っていて甘えたになっていたのは事実だが、晴は案外代謝がいいから既に酔ってはいないはずなのだ。
抱き寄せ涙の跡を指で拭うと晴が身を擦り寄せて、明良の胸に擦り付けるように顔を押し付けてくる。
その仕草があまりに可愛くて思わずムラムラするのは事実だけど、この状況で抱くほど明良も節操なしでもない。そう考えながら、咄嗟にとはいえ晴を庇う事が出来て本当に良かったと思う。もし晴が刺されていたら距離的にも晴の方が高橋に近かったし自分とは筋肉の付きかたも違うから、傘の尖端はもっと深く刺さったかも知れない。そう思うと正直ゾッとするし、でも同時にこんなに晴を泣かせてしまったことを後悔もする。
もう少し早く気がつければ蹴って避けられた。
晴の可愛い笑顔に気をとられて足音にも気配にも気がつけず、明良の方にもかなり隙があった。でも日常こんなことが起こるなんて普通は考えないし、明良は宏太のような全身センサーみたいな人間でもないのだ。深い溜め息が出てしまうのはこんなことが日常化されては困るからだが、こんな形で警察に関わったからには少なくともただでは終わらないだろう。それが分かるから明良は別な意味でも腹を括らないとと、しがみつく晴を抱き締めて考え込んでいるのだった。
※※※
その連絡は予想外の時に、全く予想外の方向から高橋至の元にやって来た。ブランドの中に新しい企画を立ち上げた『multilayered.E』というデザイン系の会社から、自分のプランナーとしての能力を聞き付けて一度顔を会わせて話をしたいと直々に連絡が入ってきたのだ。どうやら出版社勤めの古い友人の口利きで自分の存在を知ったらしく、自分が古巣で起こしている醜聞も殆ど知らない様子なのには高橋至は安堵に胸を撫で下ろした。そして雇ってもらえさえすれば自分は有能で才気を発することが可能なのだと考えると同時に、つい数日前に自分が起こしてしまったことがまだなにも表立ったニュースにならないのに安堵もしている。
もし傷害事件になってれは、ニュースになるはずだ。
傘でとはいえ人を傷つけその場から逃げ出した上に、その凶器の傘を現場に落としても来た。それに狭山明良は自分だとわかっている風に話しをしたから、あっという間に警察が捕まえに来るのではと一人部屋の奥で震え上がってもいたのだ。だが今のところ警察どころかテレビでもニュースにもならず、こんな勧誘までやってきたのには高橋は安堵するしかない。恐らくは狭山明良は顔を見てないし誰か本当は分かってなかったに違いない、それにあの雨で傘の指紋も上手く洗い流されてしまったに違いないのだと考え始めた。
であれば、何とかなるかもしれない。
バレなければ何とでもなると考えられるようになったところで、この勧誘がやって来たのも運命なのかもしれない。久々にパリッとさせたスーツを身に付け、以前仕事の時に常につけていた鬘を丁寧に頭に乗せて違和感の無いよう残っている髪と馴染ませる。普段つけている黒髪はどうしても少し人工的で髪が浮いてしまうのが珠に傷だが、こちらは高い金をかけて作ったものだから違和感は殆どない。そして、以前と同じ華やかな社会生活に戻るため、その会社に颯爽とした足取りで足を踏み入れる。
「高橋様ですね、社長は少し席をはずしておりますので、こちらへ。」
中規模とはいえ洒落た自社ビルを持っていて、受付嬢も艶やかな和風系の高橋好みの美人。スラリとしたモデルのような細い足とスカートのスリットが艶かしく動きながら、事前に連絡が通っている風に高橋を様という敬称をつけて呼び奥に誘う。これは行けるかもしれないと内心で飛び上がりそうになりながら、平静を装ってその後に続くと受付嬢は微笑みながら軽くビルの中を説明し始めた。
「一階はオープンスペースとデザインモデルのショールームになっています。」
被服系のデザイン会社とは調べてきたが製品のショールームまで作る規模だとは知らなかった高橋は、興味深げに室内を眺める。基本的には外部物販のイベントやショールームなどの企画を手掛けてもいたから、自社に販売を意図したわけではないショールームがあることの珍しさは良くわかった。つまりは流通経路が既に確立していて、本社では製品の展示のみで物販を行わないほどの経営基盤というわけだ。製品工場も既存の契約があるのだろうし流通経路も確定していて、そこで新たな自分のような立場の人間を雇い入れる理由はなんだろう。
新しい流通網ができたとか?
あり得なくはない。しかも、このブランドでは今までなかった種類の製品を打ち立て始めていて、そう考えた瞬間ギクリと高橋の足が凍りついた。ショールームの一角にあるポスターの中から向けられた視線に、見覚えがあったのだ。
「な、なん…………。」
「あら、あちらのポスターですか?新製品のメンズランジェリーの販売ポスターです。」
にこやかに微笑みながらそう口にした受付嬢に、高橋はひきつる笑顔を浮かべてぎこちなく笑った。それはただのポスターだったが、どう見ても映っているのはこの間あの事件を起こした直後に夜道でぶつかった男だ。随分ガタイがよく背の高い男だとは思ったけれど、まさかこんなところで誰なのか知る嵌めになるとは思いもよらなかった。しかもあの男には顔を見られていて、物販なんかで顔を会わせようものなら下手するとあの道の先であったことと結びつけられる可能性もある。何しろあの男は自分とは、正反対の道のりを走っていったのだ。
「あのポスターのモデルは…………?」
とはいえ初回だけのモデルであれば、次からは別なモデルになる可能性もあるから、高橋は何気ないふりを決め込んでひきつった笑顔のまま受付嬢に問いかける。すると彼女はポスターの男と同じあどけなくも挑みかかるようにも見える妖艶な微笑みで振り返り、高橋の顔を怯むことなく真っ直ぐに見つめた。
「セクシーで目を惹きますでしょ?専属契約のモデルです。」
それは最悪の返答に、重なるような更に最悪の予感。
「高橋様はプランナー専門でいらっしゃるそうですね、社長から直々にお話をということは、きっとその新しい商品に関連したことてしょうね。それなら彼と顔を会わせることもありますわね。」
新しい企画の分野、そしてその分野の流通網が確立するためのプランナーとしての勧誘、そうなると嫌でも専属契約のモデルだという男とは始終顔を会わせることになる。大丈夫、会ったことはないとしらを切りと押せと自分の中の悪魔の声が囁くが、怪我はしていないかと問いかけられ会話まで交わしてしまっていて。恐らくはあの後にあの男は救急車に乗せられていく狭山を見たかもしれないし、自分がそちらを気にしながら歩いてきたと気がつくかもしれない。
いや、なにも証拠はないのだから、気にしなくてもいいんじゃ?
そう思いたいがあの場所から狭山明良が救急車に乗せられた現場までは、それほど距離がなくて、しかも角一つのほぼ一直線。救急車が来たから気にして歩いていたというには、自分は俯き顔を見られないようにしていて挙動不審な動きだった。
これから大手に成長すると決まっている会社への再就職と、自分の社会的な抹殺の危険性。
天秤に乗るには余りにも大きいが、狭山明良が闇のなかで顔を見てないし、あの男だって…………いや、あの男には腕をとられて立ち上がらせられてしまった。どう考えても高橋の顔を見ているに違いないし、何しろ高橋だってこうして向こうの顔を覚えているくらいだ。
どうする?いや、顔を会わせないように仕事すれば………いや、それは………無理だ。
たかが小規模の物販イベントでもあれだけあの女モデルと頻繁に顔を会わせてきたのに、この大きなプロジェクトのような状況で専属契約のモデルと会わない筈がない。それが充分分かっているからこそ、次第にひきつる笑顔は青ざめ始めていた。
「あら、高橋様、どうかなさいました?」
このまま体調が悪いと今回は帰った方がいいのではないか。他人のそら似に賭けるには、このポスターは鮮明すぎてあの男の顔を見間違えるはずもないし、もし出会って第一声で何かあの時のことを言われたら高橋はそれだけで終わりになってしまう。混乱しつつある頭で必死に最善策を選ぼうとするが、この会社への就職も大きな魅力過ぎて天秤はガッチリと均衡を保つ。天秤の棒が撓り軋むのを微かに感じながら、しらを切るにかけてみてもいいのではと再び悪魔の声が囁いてくる。そう、それくらいこの仕事の話は高橋にとっては渡りに船で、酷く魅力的な案件なのだ。
『multilayered.E』の一部門のプランナーなら、将来を約束されたも同然
しかも成田了のようにモデル事務所で次期社長とまではいかなくとも、プランナーとしては大成功したと言っても過言ではないはずだ。もし正社員としてではなくとも、仕事を重ねれば重要人物としての扱いが約束される。
「高橋様、こちらから上がると撮影スタジオが併設になっております。」
答えない高橋に痺れを切らせたのか、和風美女はそういいながらスリットから更に足を覗かせ階段を上がり始めた。それを視線で追うと美しい脚が丁度視線の高さで艶かしく誘いかけて、高橋は思わず視線だけでなく体を動かしている。シンプルに作られた階段を上がりながら、彼女が告げた言葉を頭の中で繰り返し高橋は撮影スタジオ?と頭の端が警告灯を動かしたのを感じていた。
何かおかしい
そう考えた時にはガラス張りの扉の向こうに撮影をしている気配が既に見えていて、彼女の足は当然のようにそちらに向かっていく。コツコツとヒールの音をさせながら当然の如く向かっていく先には、下で今見たばかりの長身の青年が上半身裸の見事な肉体美をさらして立っている。高橋自身何かおかしいと感じながら、そのくせ天秤の反対側の重みに負けてこっそり俯きながら後に続く。
「八重子さん。聞いて、俺この間事件現場見ちゃった!」
恐ろしいことに扉を開けた音に反応して振り返った男は爽やかに人生何一つ悩み事の無いような笑顔を浮かべて、室内に入った受付嬢に元気で陽気な口調で声をかけてきた。そして当然その内容は高橋が一番恐れていることで
「良かったわね、巻き込まれなくて。」
「ほんと、それにさ、その近くで………………、八重子さん、その人は?」
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