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第十五章 FlashBack
164.
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真見塚成孝に促されて、見えないながらも日本庭園らしき庭を進む。整えられた木々の匂い、微かに聞こえる水の流れる音は恐らくは池も作られているのだと感じられる。生粋の日本庭園は真見塚家が旧家であることの証のようなもので、同じような庭に入る機会は長いこと失われたままだった。勿論まだ会社勤めをしていた頃は接待として、料亭に行ったことはある。だが仕事では庭園を通り抜けるなんて事はないし、この庭園の奥にある建物から感じる気配は微かに宏太の心を揺らした。
先生!千羽哉先生!!澪はっ?!
ユックリと歩く足の下は、整えられた滑らかな硬い石が敷かれて杖の先に音をたてて当たる。それなのに思わず頭の中では、遥か昔に当然のように毎日道場に通っていた頃の自分の姿が浮かぶ。古くからそこで道場を開いていた鳥飼家の敷地は鬱蒼とした森を抱くような広大な敷地で、駅前の再開発で少し売ったと言うが元は駅の周囲の広範囲に所有していたとか言う。恐らくは宮内家や真見塚家の辺りもその一部だったのだろうけど、弟子の道場の土地として下げ渡したのではないだろうか。そんな風に考えていた昔の宏太が、通いなれた鳥飼家の正面の門構えから見事な日本庭園を通り抜け、古めかしい木造の大きな道場に駆けていく。今とは違い五体に障害もなくしなやかで、跳ぶように駆け抜けていく歩幅は広い。
宏太!道場に入る時は礼!!
そんな風に必ず怒鳴り付けてくるのは師範で道場主の千羽哉ではなく、娘で宏太の幼馴染みの澪の方だ。白銀という表現に相応しい真っ白・藍でも黒でもない珍しい白一色の袴姿に、艶やかな濡れ羽色というか光沢のある艶やかな黒髪。澪が白袴なのは足捌きで裾が汚れないよう、自分で意図して白を選んだからだった。だから澪に張り合う宏太が選んだのは同じく白一色の道着で、二人は他の道場の鍛練をするのが藍袴や黒袴だらけの中では尚更目立つ。
澪は宏太の中では唯一無二の存在なのは、彼女がただ一人何一つとして敵わない人間だからだ。
澪!今日こそは参ったと言わせるからな。
今日こそは参ったと言わせてやると、日々そればかり考えていた何も知らない頃の外崎宏太。それに何時も悠然と微笑み、長い髪を颯爽と靡かせ口を開く鳥飼澪。
「外崎さん?」
真見塚成孝の声に我に返ると歩きにくいですかと心配げに声をかけられ、自分がボンヤリと立ち尽くし物思いに耽ってしまったのに気がつく。まだ何も自分の異常さには気がつかずに日々を過ごすただの高校生で、幼馴染みと張り合って鳥飼道場に通っていた頃の記憶。そんなものを思い出したのは実のところ生まれて始めてのことかもしれないと、宏太はもう見えない視線を何気なくあげた。目が見えないから頭の中には尚更過去の風景が鮮明に浮かんで、その先には幼馴染みの澪が純白の道着姿で佇んでいる。
まるで負ける気がしないわね、宏太には。
常に澪は艶然とそう言い放ち、結果は本当にその通りになる。合気道の呼吸でも澪の方が宏太に合わせ、組打ではあっという間にのされて床に転がるのは宏太だけ。どんなに宏太が必死に鍛練しても澪は二歩か三歩先にいて、何時までも宏太が背を追いかけるばかり。そして何時しか気がついてみたら、今では澪は完全に宏太が手の届かない場所に消え去って、宏太の方も足掻いても昔の体には絶対に戻らない。宏太が半生の中で高嶺の花に惹かれて・しかもへし折りたくなる理由の大半は、言うまでもなく鳥飼澪があの頃完璧過ぎたせいに違いない。
「いや、久しぶりの空気だな、と…………。」
分かってはいても上手く表現の出来ない思いが苦く口に広がるのは、そう完璧だと思い込んでいた澪が本当はどんな苦悩に沈んでいたのか何一つ宏太は気がつかなかったからだ。完璧だと思い込んでいた筈の澪が両親の死後に何を考えて過ごしていたのか、何故姿を消してしまったのか。もし今の自分が高校時代の澪と話ができるとしたら、少しは澪の手助けになれたかもしれないと今では思う。そう思っても今更なのが分かっていて苦い。そう感じながら囁く宏太の声に被さるように、道場の入り口らしい方面から悲鳴に似た声が突然に上がったのはその時だった。鍛練に来ていた誰かが道場ので入り口で悲鳴染みた声をあげているのだ。
「マジで容赦ねぇっ!!鬼か!信哉のおにーっ!!」
思わぬ場所で、聞き覚えのある声。
黄昏めいた物思いの空気を引き裂いて宏太を引き戻した声に、呆れたように宏太は顔を向けた。道場の入り口で汗だくでゼェゼェと肩で息をしているのは槙山忠志。宏太が一年ほど前から密かに関わっていた三浦和希関連の事件から、チョクチョク顔を会わせる機会があって忠志と宏太は顔見知り。しかも槙山忠志は三浦和希の幼馴染みな上に所謂機動力が良過ぎるので、必要に応じて使い走りのバイトをして貰ってもいる関係なのだ。
そんな目下酸素不足なのか逃げ出しただけなのか荒い息をした忠志は、宏太に気がついて驚いたように目を丸くして呑気な声をあげた。
「あれぇ?何で、外崎のおっさんがここにきてんの?!」
…………まあ、槙山忠志に比べれば宏太は二十歳上………………そう言えば忠志は確か結城晴と同じ年。この年の奴らは尽く四十後半は中年親父とか年より扱いなのか。とは思うが、公衆の面前でのおっさん呼ばわりに、思わず眉が上がる。忠志の背後から追い付いてきた信哉がの物言いにベチンと音をたてて迷わず殴り付けられているのがわかった。殴られたのに一応は不満の声をあげた忠志だが、なんとまぁ世間は狭い事で信哉と元々知り合いで昨年末頃から合気道を習い始めたのだと言う。
「…………お前、本気で合気道ってスタントマンにでもなる気か?ん?」
思わずそういいたくなるのは仕方がない事で、何で今さら合気道なんだと内心思う。それが感じ取れたのか忠志は不貞腐れたように口を開いた。
「ちがーうって、俺落ち着きないから、少し精神修行。」
「…………どう考えても逃げ足に磨きがかかってる気がするけどな。」
「ビルから逃げるようなバイトさせんのはあんただけだって。」
というのも一度バイトで胡散臭い事務所へ小さな届け物をさせた時、忠志は宏太の予想通りに雑居ビルの三階で下から追い込まれ袋の鼠になったのだ。ところが実は密かに宏太は忠志の逃げ道を手配しておいたのに、忠志は宏太の予想外に自力で有り得ない方法で逃走すると言う荒業をしてのけた。実は忠志に事務所へ届けさせた荷物は警察を踏み込ませるための呼び水で、踏み込んだ警察官の中には幼馴染みの遠坂喜一がいて宏太は逃がしてもらうよう手配してあった。それなのに忠志は、ビルの上階トイレの窓から外壁を伝って隣のビルに跳びうつり、まんまと逃げ出してしまったのだ。
お前、誰を雇ってんだ?ねずみ小僧か?
そう呆れたように喜一には後に言われたものだが、ねずみ小僧かとは四十路の例えは確かに古いかもしれない。せめて怪盗○○○ぐらいにしておかないと。しかもそれに加え忠志は以前マンションのオートロックをいちいち通るのが面倒だと、裏側の本来なら住民が鍵で出入りする高さ三メートルほどの鉄柵を扉も通らず楽々と上を乗り越えてくるという……………元々体操選手で都大会などでも優勝経験がある忠志が異常に運動神経がいいのは兎も角、お前はスタントマンかと宏太が呆れたのはここだけの話だ。それが目下鳥飼信哉から直に合気道と、既に古武術の組打は習い始めたと言うのだから。そこで忠志の背後から信哉が声をかけてくるが、どうやら道着姿らしく袴の擦れる微かな音がする。
「外崎さん、すみません、お手数かけて。」
思わずお前の袴の色も白かと聞きたくなって苦笑いしてしまう宏太に、忠志は今日来るのって宏太だったのかと驚いた風だ。鳥飼信哉に抜刀術を教えるとはいっても目の見えない宏太には、結局信哉の動きは聞き取れても見えるわけではない。だから道場主である真見塚成孝を介して指南と言う話になるわけだが、実は真見塚成孝自身も抜刀術には免許皆伝は貰っていなかった。
十種全てを免許皆伝し他者に指南していた最後の人物は鳥飼澪の父・千羽哉。そこ迄で十種全てを身に付けた人間は一旦途絶え、鳥飼流の歴史は終焉を迎えたのだ。彼から抜刀術の免許皆伝を受けたのは、澪と宏太が最後だった。そのまま終える筈のものは澪から信哉に引き継がれ、そして澪が教え得るものは全て引き継いだ信哉だが、それも子供の頃の話。既に抜刀術について誰かの指南うけるのは、信哉も二十年ぶりになる。
「道着に着替えますか?俺が手伝いますよ。」
道着は信哉のでと言われるが、それには服を脱がないとならない。流石に宏太としても信哉に体の傷痕を見せるのは、了に見せるのとは違う意味で躊躇いがある。それは恐らくは信哉が澪にそっくりだと他の幼馴染みが太鼓判を捺したからで、自分が五体満足出ないのを何においても言い訳にしたくないからなのだと思う。
「いや、着替えはいい。このままでやる。」
そうですか?と問われる頭の中に、また過去の自分がちらついて抜刀術の鍛練のために着座の姿勢を指南されているのが過る。嫌な気分ではないが何故か苦味の感じる舌に、了を連れてくればよかったと考えている自分がいた。
「………………しかし、なんだ?この人数。」
「バレますよね、聞こえますか。」
「丸聞こえだ。」
話を変えようと口にしたが、実際人は居ない筈の道場の中は普段と変わらない活気に感じる。聞けば何やら人の気配が多いと思ったら、古株の師範代の連中やら真見塚の息子だけでなく宮内の方迄何人か顔を見せているらしい。古武術を指南され始めたばかりの顔ぶれらしいが、抜刀術に興味があるのは分からないでもないけれど中に何故か聞き覚えのある足音があって宏太は思わず眉を潜めてしまう。
「…………何で、恭平まで来てんだ?」
「この距離でよくわかりますね。」
驚いた風に口にした信哉の口調に、道場の片隅の聞き覚えのある足音が榊恭平なのに気がつく。お前が広めてるのかと言いたげな顔を宏太がすると、俺が教えたのは恭平と真見塚だけですと慌てて信哉が否定する。それに反応した背後の成孝の様子からそれ以外の有象無象は鍛練と言う建前で、真見塚成孝から広まったらしいと気がついて宏太は苦い顔になる。
「恭平に話したら、流石に抜刀術は見たことがないから興味があると。」
今はなき鳥飼道場から抜刀術が伝承されたのが、今では宏太と信哉の二人だけだからこれはやむを得ない。方やあの鳥飼澪の息子で方や鳥飼道場で直に指南を受けていた数少ない人間で言いたいことは分からないでもないが、宏太の体は元の抜刀術を身に付けていた頃とは違うわけで。
「…………あのなぁ。」
「外崎のおっさん、合気道やってたんだ。」
「お前なぁ何度もおっさん言うな、俺もまだ五十前なんだからな。」
思わずそう言い返しはしたものの人が減るわけでもないし、ここまで来て帰るわけにもいかない。仕方がないと言いたげに促されるまま道場の上がり框に足を踏み込んだ途端、ピンと張り詰めるように空気が変わるのを肌で感じていた。
※※※
抜刀術で使うのは真剣ではなく、それ用の模擬刀で俗に言えば居合刀。居合用の打刀は観賞用の物より高価であり、メーカーによって合金の比率など多少の差はあるものの刃が合金製であり観賞用より強度に優れる。抜刀術や居合術は武道の中では比較的競技人口が少ないことから、模擬刀自体の製造メーカーも少なく大会会場では同じメーカーが特設市を開いている場合が多い。刀身は真鍮、亜鉛、アルミニウムなどの合金製で、多くは表面がメッキしてあるものだ。模造刀なので保存するのにこれといった手入れの必要はないが、刀身の磨耗を防ぐ・納刀をスムーズに行うなどの必要性から真剣と同様に刀油(丁子油、椿油)を塗布する必要はある。
古流居合は主に座した状態から相手に襲われる時の反撃、または襲う事を想定しているという。だが現実的には帯刀したまま座るということは武士の礼法や生活習慣からは外れたものであるため、もともと居合いは抜刀術を学ぶ方便であって、それそのままが実戦技法ではないという説もある。ただ鳥飼で教える抜刀術は古流居合とは違って型があり、同時に実戦的だ。真剣でやれば確実に死人が出るし、模造品でも前に立てば大怪我をする。
だからピンと張り詰めた空気が、肌に冷たく感じるほど。
道場の真ん中にポツンと座した外崎宏太は、左の手で模造刀を支え持ち正座をすると一つ息をついた。
頭の中には同じく鍛練を重ねる高校生の自分と白袴に髪を高く結い上げた鳥飼澪。抜刀術の時だけは髪が視界を過ると危険なので必ず結い上げ、日本人形のように息すらしていないみたいに制止する。
そして、抜刀が始まると空気を斬く。
滑かな壱の弧線の光が一瞬で雷のごとく空を閃き、シャンと鈴のような音をたてて刀は目につくこともなく鞘に一度納められた。そして弐の弧線が最初のものと十字を伐るように真一文字に描かれ、再び鞘に収まるまでに刃を眼にすることも出来ない。息を飲む間もなく参の弧線が壱の太刀とは、正反対に下から薙ぐように天に向かって光を引く。
円舞のように、しなやかに、そして決して周りに刃を見せない。
それでも確実に刀身の倍が間合いで、抜刀術の鍛練の時は半径三メートルは近寄れない。そして居合術が刀を鞘に収めた状態で鞘から抜き放つ動作で一撃を加えるか相手の攻撃を受け流し、二の太刀で相手にとどめを刺す形・技術を中心に構成された武術であるのに対して、鳥飼流の抜刀術は言った通り弐の太刀では止まらない。
これはね確実に、人を殺すための抜刀なんだよ。分かるかい?
それを子供に教えていいものかと感じるかもしれないが、師範で指南を見定める千羽哉は穏やかに諭すように宏太にも澪にも同じことを言う。
冷静に辺りを見る目を尚更養うんだ、必要であるかどうかを際まで深く見極め使う。
抜刀術を使うのは人間であって傷つけるのも人間だから抜く者が清んだ心で辺りを見定めなさいと言うのに、子供の自分達は真髄迄は理解できていなかったと思う。今更になってこうして周囲を水のように穏やかな意識で眺めながら舞うように弧線を閃かせ、やっと千羽哉の言うことが理解できたと宏太は感じる。そして何故かその意識の片隅にはあの頃より少し年を重ね、穏やかに微笑みながら息子の傍らに立つ鳥飼澪の姿を思い浮かべていた。
先生!千羽哉先生!!澪はっ?!
ユックリと歩く足の下は、整えられた滑らかな硬い石が敷かれて杖の先に音をたてて当たる。それなのに思わず頭の中では、遥か昔に当然のように毎日道場に通っていた頃の自分の姿が浮かぶ。古くからそこで道場を開いていた鳥飼家の敷地は鬱蒼とした森を抱くような広大な敷地で、駅前の再開発で少し売ったと言うが元は駅の周囲の広範囲に所有していたとか言う。恐らくは宮内家や真見塚家の辺りもその一部だったのだろうけど、弟子の道場の土地として下げ渡したのではないだろうか。そんな風に考えていた昔の宏太が、通いなれた鳥飼家の正面の門構えから見事な日本庭園を通り抜け、古めかしい木造の大きな道場に駆けていく。今とは違い五体に障害もなくしなやかで、跳ぶように駆け抜けていく歩幅は広い。
宏太!道場に入る時は礼!!
そんな風に必ず怒鳴り付けてくるのは師範で道場主の千羽哉ではなく、娘で宏太の幼馴染みの澪の方だ。白銀という表現に相応しい真っ白・藍でも黒でもない珍しい白一色の袴姿に、艶やかな濡れ羽色というか光沢のある艶やかな黒髪。澪が白袴なのは足捌きで裾が汚れないよう、自分で意図して白を選んだからだった。だから澪に張り合う宏太が選んだのは同じく白一色の道着で、二人は他の道場の鍛練をするのが藍袴や黒袴だらけの中では尚更目立つ。
澪は宏太の中では唯一無二の存在なのは、彼女がただ一人何一つとして敵わない人間だからだ。
澪!今日こそは参ったと言わせるからな。
今日こそは参ったと言わせてやると、日々そればかり考えていた何も知らない頃の外崎宏太。それに何時も悠然と微笑み、長い髪を颯爽と靡かせ口を開く鳥飼澪。
「外崎さん?」
真見塚成孝の声に我に返ると歩きにくいですかと心配げに声をかけられ、自分がボンヤリと立ち尽くし物思いに耽ってしまったのに気がつく。まだ何も自分の異常さには気がつかずに日々を過ごすただの高校生で、幼馴染みと張り合って鳥飼道場に通っていた頃の記憶。そんなものを思い出したのは実のところ生まれて始めてのことかもしれないと、宏太はもう見えない視線を何気なくあげた。目が見えないから頭の中には尚更過去の風景が鮮明に浮かんで、その先には幼馴染みの澪が純白の道着姿で佇んでいる。
まるで負ける気がしないわね、宏太には。
常に澪は艶然とそう言い放ち、結果は本当にその通りになる。合気道の呼吸でも澪の方が宏太に合わせ、組打ではあっという間にのされて床に転がるのは宏太だけ。どんなに宏太が必死に鍛練しても澪は二歩か三歩先にいて、何時までも宏太が背を追いかけるばかり。そして何時しか気がついてみたら、今では澪は完全に宏太が手の届かない場所に消え去って、宏太の方も足掻いても昔の体には絶対に戻らない。宏太が半生の中で高嶺の花に惹かれて・しかもへし折りたくなる理由の大半は、言うまでもなく鳥飼澪があの頃完璧過ぎたせいに違いない。
「いや、久しぶりの空気だな、と…………。」
分かってはいても上手く表現の出来ない思いが苦く口に広がるのは、そう完璧だと思い込んでいた澪が本当はどんな苦悩に沈んでいたのか何一つ宏太は気がつかなかったからだ。完璧だと思い込んでいた筈の澪が両親の死後に何を考えて過ごしていたのか、何故姿を消してしまったのか。もし今の自分が高校時代の澪と話ができるとしたら、少しは澪の手助けになれたかもしれないと今では思う。そう思っても今更なのが分かっていて苦い。そう感じながら囁く宏太の声に被さるように、道場の入り口らしい方面から悲鳴に似た声が突然に上がったのはその時だった。鍛練に来ていた誰かが道場ので入り口で悲鳴染みた声をあげているのだ。
「マジで容赦ねぇっ!!鬼か!信哉のおにーっ!!」
思わぬ場所で、聞き覚えのある声。
黄昏めいた物思いの空気を引き裂いて宏太を引き戻した声に、呆れたように宏太は顔を向けた。道場の入り口で汗だくでゼェゼェと肩で息をしているのは槙山忠志。宏太が一年ほど前から密かに関わっていた三浦和希関連の事件から、チョクチョク顔を会わせる機会があって忠志と宏太は顔見知り。しかも槙山忠志は三浦和希の幼馴染みな上に所謂機動力が良過ぎるので、必要に応じて使い走りのバイトをして貰ってもいる関係なのだ。
そんな目下酸素不足なのか逃げ出しただけなのか荒い息をした忠志は、宏太に気がついて驚いたように目を丸くして呑気な声をあげた。
「あれぇ?何で、外崎のおっさんがここにきてんの?!」
…………まあ、槙山忠志に比べれば宏太は二十歳上………………そう言えば忠志は確か結城晴と同じ年。この年の奴らは尽く四十後半は中年親父とか年より扱いなのか。とは思うが、公衆の面前でのおっさん呼ばわりに、思わず眉が上がる。忠志の背後から追い付いてきた信哉がの物言いにベチンと音をたてて迷わず殴り付けられているのがわかった。殴られたのに一応は不満の声をあげた忠志だが、なんとまぁ世間は狭い事で信哉と元々知り合いで昨年末頃から合気道を習い始めたのだと言う。
「…………お前、本気で合気道ってスタントマンにでもなる気か?ん?」
思わずそういいたくなるのは仕方がない事で、何で今さら合気道なんだと内心思う。それが感じ取れたのか忠志は不貞腐れたように口を開いた。
「ちがーうって、俺落ち着きないから、少し精神修行。」
「…………どう考えても逃げ足に磨きがかかってる気がするけどな。」
「ビルから逃げるようなバイトさせんのはあんただけだって。」
というのも一度バイトで胡散臭い事務所へ小さな届け物をさせた時、忠志は宏太の予想通りに雑居ビルの三階で下から追い込まれ袋の鼠になったのだ。ところが実は密かに宏太は忠志の逃げ道を手配しておいたのに、忠志は宏太の予想外に自力で有り得ない方法で逃走すると言う荒業をしてのけた。実は忠志に事務所へ届けさせた荷物は警察を踏み込ませるための呼び水で、踏み込んだ警察官の中には幼馴染みの遠坂喜一がいて宏太は逃がしてもらうよう手配してあった。それなのに忠志は、ビルの上階トイレの窓から外壁を伝って隣のビルに跳びうつり、まんまと逃げ出してしまったのだ。
お前、誰を雇ってんだ?ねずみ小僧か?
そう呆れたように喜一には後に言われたものだが、ねずみ小僧かとは四十路の例えは確かに古いかもしれない。せめて怪盗○○○ぐらいにしておかないと。しかもそれに加え忠志は以前マンションのオートロックをいちいち通るのが面倒だと、裏側の本来なら住民が鍵で出入りする高さ三メートルほどの鉄柵を扉も通らず楽々と上を乗り越えてくるという……………元々体操選手で都大会などでも優勝経験がある忠志が異常に運動神経がいいのは兎も角、お前はスタントマンかと宏太が呆れたのはここだけの話だ。それが目下鳥飼信哉から直に合気道と、既に古武術の組打は習い始めたと言うのだから。そこで忠志の背後から信哉が声をかけてくるが、どうやら道着姿らしく袴の擦れる微かな音がする。
「外崎さん、すみません、お手数かけて。」
思わずお前の袴の色も白かと聞きたくなって苦笑いしてしまう宏太に、忠志は今日来るのって宏太だったのかと驚いた風だ。鳥飼信哉に抜刀術を教えるとはいっても目の見えない宏太には、結局信哉の動きは聞き取れても見えるわけではない。だから道場主である真見塚成孝を介して指南と言う話になるわけだが、実は真見塚成孝自身も抜刀術には免許皆伝は貰っていなかった。
十種全てを免許皆伝し他者に指南していた最後の人物は鳥飼澪の父・千羽哉。そこ迄で十種全てを身に付けた人間は一旦途絶え、鳥飼流の歴史は終焉を迎えたのだ。彼から抜刀術の免許皆伝を受けたのは、澪と宏太が最後だった。そのまま終える筈のものは澪から信哉に引き継がれ、そして澪が教え得るものは全て引き継いだ信哉だが、それも子供の頃の話。既に抜刀術について誰かの指南うけるのは、信哉も二十年ぶりになる。
「道着に着替えますか?俺が手伝いますよ。」
道着は信哉のでと言われるが、それには服を脱がないとならない。流石に宏太としても信哉に体の傷痕を見せるのは、了に見せるのとは違う意味で躊躇いがある。それは恐らくは信哉が澪にそっくりだと他の幼馴染みが太鼓判を捺したからで、自分が五体満足出ないのを何においても言い訳にしたくないからなのだと思う。
「いや、着替えはいい。このままでやる。」
そうですか?と問われる頭の中に、また過去の自分がちらついて抜刀術の鍛練のために着座の姿勢を指南されているのが過る。嫌な気分ではないが何故か苦味の感じる舌に、了を連れてくればよかったと考えている自分がいた。
「………………しかし、なんだ?この人数。」
「バレますよね、聞こえますか。」
「丸聞こえだ。」
話を変えようと口にしたが、実際人は居ない筈の道場の中は普段と変わらない活気に感じる。聞けば何やら人の気配が多いと思ったら、古株の師範代の連中やら真見塚の息子だけでなく宮内の方迄何人か顔を見せているらしい。古武術を指南され始めたばかりの顔ぶれらしいが、抜刀術に興味があるのは分からないでもないけれど中に何故か聞き覚えのある足音があって宏太は思わず眉を潜めてしまう。
「…………何で、恭平まで来てんだ?」
「この距離でよくわかりますね。」
驚いた風に口にした信哉の口調に、道場の片隅の聞き覚えのある足音が榊恭平なのに気がつく。お前が広めてるのかと言いたげな顔を宏太がすると、俺が教えたのは恭平と真見塚だけですと慌てて信哉が否定する。それに反応した背後の成孝の様子からそれ以外の有象無象は鍛練と言う建前で、真見塚成孝から広まったらしいと気がついて宏太は苦い顔になる。
「恭平に話したら、流石に抜刀術は見たことがないから興味があると。」
今はなき鳥飼道場から抜刀術が伝承されたのが、今では宏太と信哉の二人だけだからこれはやむを得ない。方やあの鳥飼澪の息子で方や鳥飼道場で直に指南を受けていた数少ない人間で言いたいことは分からないでもないが、宏太の体は元の抜刀術を身に付けていた頃とは違うわけで。
「…………あのなぁ。」
「外崎のおっさん、合気道やってたんだ。」
「お前なぁ何度もおっさん言うな、俺もまだ五十前なんだからな。」
思わずそう言い返しはしたものの人が減るわけでもないし、ここまで来て帰るわけにもいかない。仕方がないと言いたげに促されるまま道場の上がり框に足を踏み込んだ途端、ピンと張り詰めるように空気が変わるのを肌で感じていた。
※※※
抜刀術で使うのは真剣ではなく、それ用の模擬刀で俗に言えば居合刀。居合用の打刀は観賞用の物より高価であり、メーカーによって合金の比率など多少の差はあるものの刃が合金製であり観賞用より強度に優れる。抜刀術や居合術は武道の中では比較的競技人口が少ないことから、模擬刀自体の製造メーカーも少なく大会会場では同じメーカーが特設市を開いている場合が多い。刀身は真鍮、亜鉛、アルミニウムなどの合金製で、多くは表面がメッキしてあるものだ。模造刀なので保存するのにこれといった手入れの必要はないが、刀身の磨耗を防ぐ・納刀をスムーズに行うなどの必要性から真剣と同様に刀油(丁子油、椿油)を塗布する必要はある。
古流居合は主に座した状態から相手に襲われる時の反撃、または襲う事を想定しているという。だが現実的には帯刀したまま座るということは武士の礼法や生活習慣からは外れたものであるため、もともと居合いは抜刀術を学ぶ方便であって、それそのままが実戦技法ではないという説もある。ただ鳥飼で教える抜刀術は古流居合とは違って型があり、同時に実戦的だ。真剣でやれば確実に死人が出るし、模造品でも前に立てば大怪我をする。
だからピンと張り詰めた空気が、肌に冷たく感じるほど。
道場の真ん中にポツンと座した外崎宏太は、左の手で模造刀を支え持ち正座をすると一つ息をついた。
頭の中には同じく鍛練を重ねる高校生の自分と白袴に髪を高く結い上げた鳥飼澪。抜刀術の時だけは髪が視界を過ると危険なので必ず結い上げ、日本人形のように息すらしていないみたいに制止する。
そして、抜刀が始まると空気を斬く。
滑かな壱の弧線の光が一瞬で雷のごとく空を閃き、シャンと鈴のような音をたてて刀は目につくこともなく鞘に一度納められた。そして弐の弧線が最初のものと十字を伐るように真一文字に描かれ、再び鞘に収まるまでに刃を眼にすることも出来ない。息を飲む間もなく参の弧線が壱の太刀とは、正反対に下から薙ぐように天に向かって光を引く。
円舞のように、しなやかに、そして決して周りに刃を見せない。
それでも確実に刀身の倍が間合いで、抜刀術の鍛練の時は半径三メートルは近寄れない。そして居合術が刀を鞘に収めた状態で鞘から抜き放つ動作で一撃を加えるか相手の攻撃を受け流し、二の太刀で相手にとどめを刺す形・技術を中心に構成された武術であるのに対して、鳥飼流の抜刀術は言った通り弐の太刀では止まらない。
これはね確実に、人を殺すための抜刀なんだよ。分かるかい?
それを子供に教えていいものかと感じるかもしれないが、師範で指南を見定める千羽哉は穏やかに諭すように宏太にも澪にも同じことを言う。
冷静に辺りを見る目を尚更養うんだ、必要であるかどうかを際まで深く見極め使う。
抜刀術を使うのは人間であって傷つけるのも人間だから抜く者が清んだ心で辺りを見定めなさいと言うのに、子供の自分達は真髄迄は理解できていなかったと思う。今更になってこうして周囲を水のように穏やかな意識で眺めながら舞うように弧線を閃かせ、やっと千羽哉の言うことが理解できたと宏太は感じる。そして何故かその意識の片隅にはあの頃より少し年を重ね、穏やかに微笑みながら息子の傍らに立つ鳥飼澪の姿を思い浮かべていた。
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