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第十五章 FlashBack
163.
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モデル及び俳優等のタレントのマネジメント事務所を経営している四十七歳・藤咲しのぶには、天敵とも言える人間がこの世の中にはたった一人存在している。それはつい先日のモデルのブッキング騒動の相手でもある、江刺家八重子だ。
女だてらに何故かメンズランジェリーを始めとしたメンズファッションのデザイナーで、それ以前に元は空手の大会覇者という猛者でもあり、一方では子供の頃からモデルとしても活躍。そうなのだ、性別こそ違えど悉く狙い済ましたように、藤咲信夫とかち合って生きているような相手。歳で言えば一回り下なのに何故か空手の大会では顔を付き合わせ、モデルでは向こうは藤咲より幼い頃から始めたので芸歴としてはほぼ同期。しかも顔見知りで長い付き合いのためか、それとも空手という共通項のせいか、江刺家ときたら藤咲にだけは常に男勝りの勝ち気・上から目線対応と来ている。そんな天敵・江刺家からの相変わらずの直電話に、八重子だけど~と名前を聞いただけで既に顔は苦汁を飲んだように苦い。
『しのぶー、スケジュール管理ちゃんとやらなきゃ駄目よねー。』
「代打を出したろ。」
『そうねー、彼氏達、中々いい感じだったわよー。』
モデルのスケジュールブッキングは確かにこちらスタッフの不手際だが、そこまで上から目線で意見されるような安い素材を提供はしていない。なにしろ最近では藤咲の事務所内で二十歳前後の年代のタレントだけでなく、あの二人は事務所の稼ぎ頭と言っていいランクなのだ。かといって、江刺家にそれを正直に言うつもりは毛頭ない。
「当たり前だろうが。うちは逸材揃いなんだ。」
『でもさぁ、カイトの方はまだまだ青いわよねー。』
グヌヌヌ……と藤咲が言葉に詰まるのを知っていて江刺家が言っているのが分かるからこそ、藤咲は常々苛立ちを隠せない。確かに五十嵐海翔はまだまだモデルとしても平均より上という程度で、藤咲の目にも破格の逸材としてスタートラインが違う仁聖と比較するのはどう考えても酷なのだ。体つきも海翔はまだ未成熟さが目立つし、元々は内弁慶で内向的な性格でもあったから度胸という面でも波がある。それでもここに来て転校してからというものの、大分それは改善されて本人は身も心も大きく成長しつつあるところ。だからこそ・それを知らない江刺家にこんな風にまだまだとは言われたくない。
「成長期であのレベルなんだ、これから磨けば光る。」
『あははぁ、しのぶらしいねー。』
何でまたこの女は悉く人を食ったような口調で自分にだけには悠然と話すのか、常々腹立たしいことこの上ない。他の相手には大概冷静で笑顔すら見せない筈の江刺家が、唯一業界では家族か何かのように接するのが自分だけなのは理解している。理解はしているが、だからといってそれではい納得というわけではない。
「で?他になんか用があんだろ?なんだ。」
『やぁねー、無愛想・ぶっきらぼうでー。』
そんなことを口にした江刺家のそこからの話は実のところ藤咲にも少し予想外の内容で、思わぬ内容に次第に顔色は暗く眉を潜めてしまっていた。
この業界は広いようでいて狭い。ネットワークは網の目のように張られていて、しかもその殆どは友好的とは言えない目的で張り巡らされている。出る杭は打たれるではないが、何かで突出し過ぎると足元を掬われることはよくあることなのだ。そんな中でのここ数ヵ月の藤咲の事務所の躍進は、やや目立ってしまったようなのだった。
『しのぶんとこはクリーンな方だけどさー。』
それはそうするように藤咲が必死にやって来たからで、それでも捉え方を変えると悪く表現することは可能なのだ。そう例えばついこの間の瑞咲のセクハラ問題ですら、捉え方を変えると藤咲が枕営業で仕事をとらせたと言えてしまう。そして、その中の何かをネタにしようと動いているものがあると江刺家は気がついて、こうしてワザワザ連絡をいれてくれたのだ。
「ちっ…………面倒だな。」
『しのぶのとこの、あの新人の外国人風彼氏、引き抜きかけようとしてるのかもねー。』
「だろうな。」
叩いて弱ったところから有望株を引き抜く。そんなのはよくある話だが仁聖は目立ち過ぎて思ったよりも早く周囲が動き出したというところ、この程度は上手くいなせないとこの業界で長年渡り歩くことは難しい。そこまで考えていて、おやと気がついた。
「風?」
『だって、あの彼氏普通に大学生でしょ?』
何で知ってると思いきや客演講義をしに行った大学に親戚がいて学食で待ち合わせして会いに行ったら、そこで偶然すれ違ったという。目の色なんかカラーコンタクトでどうとでもなるし、藤咲の教えたウォーキングは見ればわかると江刺家は笑うのだ。
『普段の瞳の色の方が、神秘的でいいと思うけどね~、ブルーブラックみたいで。』
源川仁聖の普段の瞳は光の反射がないと普通に黒く見えるが、日の当たり方によっては少し藍色がかって見える。確かにその瞳で視線を向けられたら、今なんか冗談に思えるほどの人気が出るだろうとは藤咲にもわかってはいるのだ。分かってはいるのたが、それが契約というもの。
「………………本人の希望なんだよ。」
『ふぅん、訳ありなんだ?』
しかし、やはり以前から考えていた通り希望の『秘匿』は、そろそろ困難な状況なのだとは理解した。高々数ヵ月の活動だが、仁聖はてきめんに磨かれ始めて効果は絶大。今のところ住居なんかは上手いこと逃れているが、これ以上になると追い回され始めてもおかしくない。藤咲としては幼馴染みのこともあってLGBTには偏見はないが、仕事に出る影響も考えて動き始めておかないとならないだろうと溜め息が漏れる。
『溜め息つくようなこと?仕方ないんじゃないのー?恋人は。』
「あ?!何でそんなこと知ってる?!」
その予想外の言葉に呆気に取られる藤咲に、何を今さらと言わんばかりに江刺家はコロコロと鈴をならすように笑う。
※※※
盲目になってから、同じ道筋を辿ることが多くなった。それは視覚に頼れない杖での行動としてはやむを得ない面もあるし、盲導犬という手も考えなくもないが犬と信頼関係を作れる性格とも思えない。それに聴覚が異常に良いからある程度の危険察知も可能なこともあって、結果的には杖だけを頼りにする生活に落ち着いた。それでも知らない道を歩く時には神経を使うから基本的には同じ道のりをユッタリ歩く事が増えたし、杖なしで活動できるのは自分のテリトリーの中だけだ。
元々自分のテリトリーでしか生活しない質だけどな…………
そんなことを考えながらユッタリと歩く道のりには、自分とは関係なく道を歩く足音が幾つも飛び交う。歩幅・速度、歩き方や靴の種類、音には様々な情報があるもので、耳にしていれば年代や性別なんかは分かってくる。分かりにくいのは歩行に意識的なものを感じ取れない幼児や、足音がしない歩き方をする何らかの特殊な能力を身に付けた人間くらいなもの。身の回りには生きている人間でそんなことをして驚かされるのは一人だけなので、その点では鳥飼信哉が稀なのだ。
「道場を再興しようと思うんです。」
『茶樹』のカウンターでそれを聞いて眉をあげた宏太に、鳥飼信哉は子供も出来たし少し考えを変えることがあってと澪に似た口調で言う。鳥飼澪の父親の代で看板をおろしてたたんでしまった鳥飼道場の再興、それはまた随分チャレンジャーだなと思ったら既にそのための活動は始めている様子で。合気道の段位をとるのに、急ピッチで真見塚家と宮内家に指南を受けているらしい。
「要らねぇだろ?」
「教えるとなると話は違いますからね、それでひとつ頼みが。」
「めくらに何を頼む気だよ?」
思わず口角をあげてしまったのは、相手が何を頼みたいかは聞かなくてもわかるからだ。相手は抜刀術の指南相手として宏太を選んだ訳で、目が見えなくてもそれをまだ宏太が使いこなすのを知っている。とは言え宏太が最後に道場に足を踏み入れたのは、既に三十年も前のことでその道場は撤去されて大型のファミリーマンションと公園になってしまって随分経つのだ。
「型を見せて欲しいんです。流石に自分が見たのも随分前なので。」
「十一種全部教えるつもりか?子供にでも。」
「多分家の子は俺より才能があると思うので。」
産まれる前からそこまで親馬鹿かと思うが、何でか自信たっぷりの発言に苦笑いしてしまう。鳥飼澪の孫で信哉の子供、しかも相手はあの四倉任侠一家の豪胆な気質を一番受け継いでいる梨央の子供。そう考えると確かに、とんでもない双子が産まれそうな気もする。
「建物はどうすんだ?」
「駅の北西の竹林が再開発されるんで、周辺の土地を買おうと。」
「あー、火事で燃えたとこか。」
七月頭の嵐の落雷で燃えた広大な範囲の竹林は、もとは国有地が一部混じっていて放置されていたのが最近発覚した。広大なのに宙に浮いた土地だったのだが竹林の中に古い寺の廃墟があったため、寺院仏閣の所有地だと考えられていたのだ。ところか登記上は過去に軍用地立った記録があるだけで、実は無番地の国有地だったと発覚して再開発の上売却されることになった。そこを買う予定をたててしまっているのだと言う。
「高くねぇか?土地。」
「その程度はなんとかできる資産はあるんで。」
聞けばあの鳥飼道場の跡地は実はまだ鳥飼家の土地のままなのだと言う。しかもマンションのオーナーでもあって固定資産税諸々、密かに資産家の鳥飼信哉にお前は何なんだと自分を棚にあげて言いたくなる。
「梨央、玉の輿じゃねぇか。」
「はは、梨央にも言われました。」
呑気な会話を交わしたもののその後結局は信哉に押しきられて、珍しく自分の生活圏内でない場所に向かって歩く嵌めになってしまったのだった。勿論了を同伴するのも考えはしたのだが、雑念というか違う方に意識が向きそうなので諦めたのはここだけの話。
どうやって道を歩くかって?
答えは簡単。スマホでナビを聞きながら、何時ものごとくユックリと歩くだけだ。最近はこんな風に便利なものが、豊富で助かることこの上ない。それでも言った通り意識は張り詰めていて、物音にも少し過敏になるのは仕方がないが。秋の気配の滲む陽射しでも気温だけは少し高め、湿度もやや高い。お陰で傷痕の皮膚が酷く乾燥してひきつれることはないが、厚着をする分不快感は感じる。
昼少し過ぎだと言うのに時折子供の声が響いてくるのは、確か近くに小学校があったからで宇野の息子や上原の娘が通っている筈だ。そんなことを考えながら目的地につくと中から草履履きの足音がする。
「外崎さん?」
年を重ねた聞き覚えのある声に会釈程度に頭を下げると、その声は朗らかに随分年を取ったなぁと笑う。相手は真見塚成孝で鳥飼道場で何度か顔を会わせていたし、鳥飼の先代が亡くなった後澪を一時期引き取ってくれた人間だ。そして同時に澪が昔から恋心を抱いていた相手なのも知っていて、その男との再会に苦い気分になる。
澪も…………あの時に、あんたに嫁に貰って貰えたら良かったのにな…………
四倉梨央が信哉の嫁になったことを考えて、ついそんな勝手なことを考えてしまう。そうならなかったからこそ澪は高校卒業と同時に姿を消したし信哉が産まれている訳であって、他人てある自分がどんなにそう考えても答えは一つなのについ勝手に思う。何しろ宏太と澪がまだ子供で鳥飼道場で鍛練していた時から、澪はずっとひたむきに目の前に立った男を密かに想っていたのだ。だからついもし澪がここに嫁に来ていたら、まだここであのまま生きていたような気がしてしまう。そんなもの思いに一瞬戸惑った自分に気がついて宏太は苦笑いに口角をあげてしまって、目の前の相手もその様子には気がついたようだ。
「何か?」
「ああ、いえ、久々に聞いたけど声はあまり変わりませんね。真見塚さんは。」
「はは、こっちもだいぶ年をくった。」
そういって中に誘い込まれながら歩き出した真見塚成孝の後を、足元の状況を聞きながらユックリとついて歩く。信哉と少し似た歩き方ではあるが、流石に澪ほどの足運びではないし、当然信哉ほどの足運びでもない。それでもずっと長年鍛練を重ねた滑らかな動きで、草履の音は枯れ葉が微かに地面をこする程度にしか聞き取れない。
「父さん!」
若々しい青年らしい声におやと眉を潜めると、どうやら息子らしい若い足音が背後から駆け寄ってくる。学校帰り、身長や声の質感を聞けば、どうやら高校生かと宏太が無意識に判断している横で、並んだ視線が真っ直ぐに自分の顔を見たのを肌に感じる。値踏みするようにも感じる視線は傷痕にはまるで怯みもせず、素直に無礼を詫びて挨拶をしてきた。
「すみません、愚息が。」
「いや、高校生位ですか?」
「今三年になります、あなたや澪さんの後輩ですよ。」
ということは真見塚成孝の息子は、都立第三高校に通っているということらしい。休み明けのテスト期間で早く帰ってきたらしい息子はどうやらこれから何があるのかは知っている風で、慌てて荷物をおきに駆けていく。
「…………すみません、あいつも見学させてやってください。」
「見せるほどの腕じゃないんですけどね……俺のは。大分癖がついてますよ。」
女だてらに何故かメンズランジェリーを始めとしたメンズファッションのデザイナーで、それ以前に元は空手の大会覇者という猛者でもあり、一方では子供の頃からモデルとしても活躍。そうなのだ、性別こそ違えど悉く狙い済ましたように、藤咲信夫とかち合って生きているような相手。歳で言えば一回り下なのに何故か空手の大会では顔を付き合わせ、モデルでは向こうは藤咲より幼い頃から始めたので芸歴としてはほぼ同期。しかも顔見知りで長い付き合いのためか、それとも空手という共通項のせいか、江刺家ときたら藤咲にだけは常に男勝りの勝ち気・上から目線対応と来ている。そんな天敵・江刺家からの相変わらずの直電話に、八重子だけど~と名前を聞いただけで既に顔は苦汁を飲んだように苦い。
『しのぶー、スケジュール管理ちゃんとやらなきゃ駄目よねー。』
「代打を出したろ。」
『そうねー、彼氏達、中々いい感じだったわよー。』
モデルのスケジュールブッキングは確かにこちらスタッフの不手際だが、そこまで上から目線で意見されるような安い素材を提供はしていない。なにしろ最近では藤咲の事務所内で二十歳前後の年代のタレントだけでなく、あの二人は事務所の稼ぎ頭と言っていいランクなのだ。かといって、江刺家にそれを正直に言うつもりは毛頭ない。
「当たり前だろうが。うちは逸材揃いなんだ。」
『でもさぁ、カイトの方はまだまだ青いわよねー。』
グヌヌヌ……と藤咲が言葉に詰まるのを知っていて江刺家が言っているのが分かるからこそ、藤咲は常々苛立ちを隠せない。確かに五十嵐海翔はまだまだモデルとしても平均より上という程度で、藤咲の目にも破格の逸材としてスタートラインが違う仁聖と比較するのはどう考えても酷なのだ。体つきも海翔はまだ未成熟さが目立つし、元々は内弁慶で内向的な性格でもあったから度胸という面でも波がある。それでもここに来て転校してからというものの、大分それは改善されて本人は身も心も大きく成長しつつあるところ。だからこそ・それを知らない江刺家にこんな風にまだまだとは言われたくない。
「成長期であのレベルなんだ、これから磨けば光る。」
『あははぁ、しのぶらしいねー。』
何でまたこの女は悉く人を食ったような口調で自分にだけには悠然と話すのか、常々腹立たしいことこの上ない。他の相手には大概冷静で笑顔すら見せない筈の江刺家が、唯一業界では家族か何かのように接するのが自分だけなのは理解している。理解はしているが、だからといってそれではい納得というわけではない。
「で?他になんか用があんだろ?なんだ。」
『やぁねー、無愛想・ぶっきらぼうでー。』
そんなことを口にした江刺家のそこからの話は実のところ藤咲にも少し予想外の内容で、思わぬ内容に次第に顔色は暗く眉を潜めてしまっていた。
この業界は広いようでいて狭い。ネットワークは網の目のように張られていて、しかもその殆どは友好的とは言えない目的で張り巡らされている。出る杭は打たれるではないが、何かで突出し過ぎると足元を掬われることはよくあることなのだ。そんな中でのここ数ヵ月の藤咲の事務所の躍進は、やや目立ってしまったようなのだった。
『しのぶんとこはクリーンな方だけどさー。』
それはそうするように藤咲が必死にやって来たからで、それでも捉え方を変えると悪く表現することは可能なのだ。そう例えばついこの間の瑞咲のセクハラ問題ですら、捉え方を変えると藤咲が枕営業で仕事をとらせたと言えてしまう。そして、その中の何かをネタにしようと動いているものがあると江刺家は気がついて、こうしてワザワザ連絡をいれてくれたのだ。
「ちっ…………面倒だな。」
『しのぶのとこの、あの新人の外国人風彼氏、引き抜きかけようとしてるのかもねー。』
「だろうな。」
叩いて弱ったところから有望株を引き抜く。そんなのはよくある話だが仁聖は目立ち過ぎて思ったよりも早く周囲が動き出したというところ、この程度は上手くいなせないとこの業界で長年渡り歩くことは難しい。そこまで考えていて、おやと気がついた。
「風?」
『だって、あの彼氏普通に大学生でしょ?』
何で知ってると思いきや客演講義をしに行った大学に親戚がいて学食で待ち合わせして会いに行ったら、そこで偶然すれ違ったという。目の色なんかカラーコンタクトでどうとでもなるし、藤咲の教えたウォーキングは見ればわかると江刺家は笑うのだ。
『普段の瞳の色の方が、神秘的でいいと思うけどね~、ブルーブラックみたいで。』
源川仁聖の普段の瞳は光の反射がないと普通に黒く見えるが、日の当たり方によっては少し藍色がかって見える。確かにその瞳で視線を向けられたら、今なんか冗談に思えるほどの人気が出るだろうとは藤咲にもわかってはいるのだ。分かってはいるのたが、それが契約というもの。
「………………本人の希望なんだよ。」
『ふぅん、訳ありなんだ?』
しかし、やはり以前から考えていた通り希望の『秘匿』は、そろそろ困難な状況なのだとは理解した。高々数ヵ月の活動だが、仁聖はてきめんに磨かれ始めて効果は絶大。今のところ住居なんかは上手いこと逃れているが、これ以上になると追い回され始めてもおかしくない。藤咲としては幼馴染みのこともあってLGBTには偏見はないが、仕事に出る影響も考えて動き始めておかないとならないだろうと溜め息が漏れる。
『溜め息つくようなこと?仕方ないんじゃないのー?恋人は。』
「あ?!何でそんなこと知ってる?!」
その予想外の言葉に呆気に取られる藤咲に、何を今さらと言わんばかりに江刺家はコロコロと鈴をならすように笑う。
※※※
盲目になってから、同じ道筋を辿ることが多くなった。それは視覚に頼れない杖での行動としてはやむを得ない面もあるし、盲導犬という手も考えなくもないが犬と信頼関係を作れる性格とも思えない。それに聴覚が異常に良いからある程度の危険察知も可能なこともあって、結果的には杖だけを頼りにする生活に落ち着いた。それでも知らない道を歩く時には神経を使うから基本的には同じ道のりをユッタリ歩く事が増えたし、杖なしで活動できるのは自分のテリトリーの中だけだ。
元々自分のテリトリーでしか生活しない質だけどな…………
そんなことを考えながらユッタリと歩く道のりには、自分とは関係なく道を歩く足音が幾つも飛び交う。歩幅・速度、歩き方や靴の種類、音には様々な情報があるもので、耳にしていれば年代や性別なんかは分かってくる。分かりにくいのは歩行に意識的なものを感じ取れない幼児や、足音がしない歩き方をする何らかの特殊な能力を身に付けた人間くらいなもの。身の回りには生きている人間でそんなことをして驚かされるのは一人だけなので、その点では鳥飼信哉が稀なのだ。
「道場を再興しようと思うんです。」
『茶樹』のカウンターでそれを聞いて眉をあげた宏太に、鳥飼信哉は子供も出来たし少し考えを変えることがあってと澪に似た口調で言う。鳥飼澪の父親の代で看板をおろしてたたんでしまった鳥飼道場の再興、それはまた随分チャレンジャーだなと思ったら既にそのための活動は始めている様子で。合気道の段位をとるのに、急ピッチで真見塚家と宮内家に指南を受けているらしい。
「要らねぇだろ?」
「教えるとなると話は違いますからね、それでひとつ頼みが。」
「めくらに何を頼む気だよ?」
思わず口角をあげてしまったのは、相手が何を頼みたいかは聞かなくてもわかるからだ。相手は抜刀術の指南相手として宏太を選んだ訳で、目が見えなくてもそれをまだ宏太が使いこなすのを知っている。とは言え宏太が最後に道場に足を踏み入れたのは、既に三十年も前のことでその道場は撤去されて大型のファミリーマンションと公園になってしまって随分経つのだ。
「型を見せて欲しいんです。流石に自分が見たのも随分前なので。」
「十一種全部教えるつもりか?子供にでも。」
「多分家の子は俺より才能があると思うので。」
産まれる前からそこまで親馬鹿かと思うが、何でか自信たっぷりの発言に苦笑いしてしまう。鳥飼澪の孫で信哉の子供、しかも相手はあの四倉任侠一家の豪胆な気質を一番受け継いでいる梨央の子供。そう考えると確かに、とんでもない双子が産まれそうな気もする。
「建物はどうすんだ?」
「駅の北西の竹林が再開発されるんで、周辺の土地を買おうと。」
「あー、火事で燃えたとこか。」
七月頭の嵐の落雷で燃えた広大な範囲の竹林は、もとは国有地が一部混じっていて放置されていたのが最近発覚した。広大なのに宙に浮いた土地だったのだが竹林の中に古い寺の廃墟があったため、寺院仏閣の所有地だと考えられていたのだ。ところか登記上は過去に軍用地立った記録があるだけで、実は無番地の国有地だったと発覚して再開発の上売却されることになった。そこを買う予定をたててしまっているのだと言う。
「高くねぇか?土地。」
「その程度はなんとかできる資産はあるんで。」
聞けばあの鳥飼道場の跡地は実はまだ鳥飼家の土地のままなのだと言う。しかもマンションのオーナーでもあって固定資産税諸々、密かに資産家の鳥飼信哉にお前は何なんだと自分を棚にあげて言いたくなる。
「梨央、玉の輿じゃねぇか。」
「はは、梨央にも言われました。」
呑気な会話を交わしたもののその後結局は信哉に押しきられて、珍しく自分の生活圏内でない場所に向かって歩く嵌めになってしまったのだった。勿論了を同伴するのも考えはしたのだが、雑念というか違う方に意識が向きそうなので諦めたのはここだけの話。
どうやって道を歩くかって?
答えは簡単。スマホでナビを聞きながら、何時ものごとくユックリと歩くだけだ。最近はこんな風に便利なものが、豊富で助かることこの上ない。それでも言った通り意識は張り詰めていて、物音にも少し過敏になるのは仕方がないが。秋の気配の滲む陽射しでも気温だけは少し高め、湿度もやや高い。お陰で傷痕の皮膚が酷く乾燥してひきつれることはないが、厚着をする分不快感は感じる。
昼少し過ぎだと言うのに時折子供の声が響いてくるのは、確か近くに小学校があったからで宇野の息子や上原の娘が通っている筈だ。そんなことを考えながら目的地につくと中から草履履きの足音がする。
「外崎さん?」
年を重ねた聞き覚えのある声に会釈程度に頭を下げると、その声は朗らかに随分年を取ったなぁと笑う。相手は真見塚成孝で鳥飼道場で何度か顔を会わせていたし、鳥飼の先代が亡くなった後澪を一時期引き取ってくれた人間だ。そして同時に澪が昔から恋心を抱いていた相手なのも知っていて、その男との再会に苦い気分になる。
澪も…………あの時に、あんたに嫁に貰って貰えたら良かったのにな…………
四倉梨央が信哉の嫁になったことを考えて、ついそんな勝手なことを考えてしまう。そうならなかったからこそ澪は高校卒業と同時に姿を消したし信哉が産まれている訳であって、他人てある自分がどんなにそう考えても答えは一つなのについ勝手に思う。何しろ宏太と澪がまだ子供で鳥飼道場で鍛練していた時から、澪はずっとひたむきに目の前に立った男を密かに想っていたのだ。だからついもし澪がここに嫁に来ていたら、まだここであのまま生きていたような気がしてしまう。そんなもの思いに一瞬戸惑った自分に気がついて宏太は苦笑いに口角をあげてしまって、目の前の相手もその様子には気がついたようだ。
「何か?」
「ああ、いえ、久々に聞いたけど声はあまり変わりませんね。真見塚さんは。」
「はは、こっちもだいぶ年をくった。」
そういって中に誘い込まれながら歩き出した真見塚成孝の後を、足元の状況を聞きながらユックリとついて歩く。信哉と少し似た歩き方ではあるが、流石に澪ほどの足運びではないし、当然信哉ほどの足運びでもない。それでもずっと長年鍛練を重ねた滑らかな動きで、草履の音は枯れ葉が微かに地面をこする程度にしか聞き取れない。
「父さん!」
若々しい青年らしい声におやと眉を潜めると、どうやら息子らしい若い足音が背後から駆け寄ってくる。学校帰り、身長や声の質感を聞けば、どうやら高校生かと宏太が無意識に判断している横で、並んだ視線が真っ直ぐに自分の顔を見たのを肌に感じる。値踏みするようにも感じる視線は傷痕にはまるで怯みもせず、素直に無礼を詫びて挨拶をしてきた。
「すみません、愚息が。」
「いや、高校生位ですか?」
「今三年になります、あなたや澪さんの後輩ですよ。」
ということは真見塚成孝の息子は、都立第三高校に通っているということらしい。休み明けのテスト期間で早く帰ってきたらしい息子はどうやらこれから何があるのかは知っている風で、慌てて荷物をおきに駆けていく。
「…………すみません、あいつも見学させてやってください。」
「見せるほどの腕じゃないんですけどね……俺のは。大分癖がついてますよ。」
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