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間章 ちょっと合間の話2
間話19.夏の夜のひととき
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酔ってマグロになっていたものの、流石に真夜中には目が覚めた藤咲信夫は溜め息混じりに頭上を眺めた。リビングの半分は吹き抜けになっていて、二階の大きな作り付けの窓を眺める事が出来る。
立派なだけでなく、誰かと添い遂げて暮らすためのちゃんとした家。
勿論宏太が結婚したことは知っているし妻の希和とは交流もあったのだが、あの結婚は幸せなものではなかったのも知っている。
※※※
「ごめんなさい、しのぶさん。急に呼び出したりして。」
外崎希和に急に呼び出され、モデルの仕事の合間に顔を会わせた時、信夫は彼女の険しい顔に何か起きてるなとは感じていた。元々宏太は子供の頃から余り感情の起伏が大きくなくて、よく勘違いされやすい男なのだ。表に出てこないだけで不快感や嫌悪感は感じているが、それが子供の頃から表にでないのは、弟が病弱で親がそちらにばかりかかりきりだったからかもしれない。親に迷惑をかけられないと無意識に感情を押し込めている内に、表現の仕方を学ばなかったのかもしれないと長い付き合いの幼馴染みとしては思う。イケメンだけど声を出して笑うことも少ないし、声を荒らげて怒りもしない。お陰で告白されても、相手から大概自分の事を好きではないでしょうとフラれるが、嫌いだったら宏太は付き合って買い物なんかに行くような男じゃないんだ。それを知ってたら充分気を使ってるのにも分かるが、感情を読み取るのは長く見てないと分からないかもしれない。
「あの、しのぶさん、宏太さんの好きな食べ物って知ってますか?」
え?と思わず口にしたのは、予想外の質問だったからだ。宏太の能面については理解できるけど、好きな食べ物?と思ったら、彼女は今では郷土の歴史民俗に関係した研究をしていた大学院生はやめて好きだった料理で身をたてているのだという。確か彼女は宏太の勤める会社社長のご令嬢だった筈だが、あの大企業のご令嬢にして料理が趣味とは知らなかった。
「それにしたって、何で好きなもの?」
「宏太さんに聞いても無いって言うし…………宏太さん、何にも反応しないんです。」
正直にストレートに疑問をなげかけてくる彼女の性格は確かに余り苦労を知らないお嬢様みたいだなとは思うが、同時に面識があるとはいえ信夫を呼び出してまで聞かないとならないのはかなり追い込まれているということかもしれない。聞けば宏太は新婚からずっと、彼女がどんなに手を尽くした料理をふるまっても、全く反応がないのだという。人には大抵は好みの味があるものだが、宏太は甘い辛いしょっぱい酸っぱい苦い、何に対しても反応が変わらない。美味しい?と彼女が聞けば頷くが、全く好みが分からないのだという。
「どんなに……料理のバリエーションを試しても…………和食も中華もイタリアンもフレンチも、韓国もロシアも……ブラジルだって……試してみたんです…………。」
料理好きでそれで料理研究家として身をたてて書籍まで出しているのだというのなら、かなりの腕前なのだろう。それなのに一番彼女の料理を食べる夫が、唯一全く何にも反応してくれないのは確かにキツい。勿論彼女は成人男性に有りがちな、子供が大好き系メニュー(カレーやハンバーグとか)もお袋の味(肉じゃがとか味噌汁)も宏太の両親と交流してレシピとして身に付けもしていた。しかも、やけになって激辛とか激甘までやってみたが、宏太はそれにすら反応せずに食べてしまったのだという。
「私の料理にだけそうなのだとしたら……そう思ったら怖くて。」
「確かにな……。」
夫が喜ぶ料理をなんとか振る舞いたくて彼女は両親にも聞いたが、両親ですら宏太の好きなものを知らなかった。そういわれて考えてみるとこれまで一緒に何度も何度も食事をしてきたが、宏太が喜んで食べる姿を見た記憶が信夫にもない。幼稚園のおやつや小学校の給食、中学での校外活動で口にした弁当、高校時代に帰り道すがらのファーストフード、大学での学食、大人になってからの居酒屋での酒と肴。どれも宏太が自分から上手いと食べたがっていたかと聞かれると、どれひとつ信夫には肯定する事が出来ないのに気がつく。何か一つくらいあったような気がするが、それすら記憶にスッとは浮かんで来ないのだ。
「…………そう言われるとなぁ……確かに宏太がこれが好きだと言った事ってないな……。」
元々好き嫌いもハッキリ口にした事がない男だ。記憶を掘り起こしても旨そうに食べたという記憶が何一つ浮かばず、これが澪なら答えられたかも知れないと苦く考えてしまう。
幼馴染み五人組の中で、宏太のことを一番理解出来たのは鳥飼澪。早生まれの宏太と殆ど変わらない誕生日で殆ど産院からの付き合いとも言えて、子供の時はよく双子のようだと言われていた。澪の家の道場で合気道を一緒に鍛練して、高校卒業まで殆ど一緒に過ごしたといっても過言ではない。だが鳥飼澪は高校卒業と同時に姿を消して音信不通となり、今何処で何をしているのか誰も知らないのだ。
好き嫌いなく淡々と食べている姿は知っていても、何が好きかは分からない。それは幼馴染みとしても初めて気がついたことで、信夫にしても実は衝撃だった。だから希和の頼みを聞いて信夫は宏太を行きつけの居酒屋に連れ出したのだ。
会社帰りの宏太はいつもと変わらず淡々とした様子で現れて、酒を飲んでも大して変化はない。信夫は焼き鳥とか居酒屋メニューは好物だが、宏太は確かに自分からこれを食べたいとアピールすることもないのに今さら気がついた。
「ところでさあ?」
実は宏太の背後には宏太の声が聞こえる程度の距離で、外崎希和が友人の女性と密かに聞き耳をたてている。だからわざと酔ったふりで声を張り上げて、宏太に問いかけるのだ。
「お前って食べ物は何が一番好きなわけ?」
信夫の言葉に目の前で、宏太は少し戸惑うような顔をした。その顔は宏太自身がこの質問の答えを知らないという意味なのは、聞かなくても分かってしまったのに信夫は呆気にとられる。本人が自分の好みを知らないのに周囲が知るなんてある筈がないが、ここまでの二十年以上もの食生活で嗜好がないなんておかしくないか?宏太はやがて考え込むように手元の焼き鳥を見下ろして、溜め息のような言葉を溢した。
「…………別に、食べるの好きじゃないからな。」
好きじゃないで済むようなことではない。人間誰しも好きなものはある筈だ、酒の味が好きとか、甘いものが好きとかその程度でも、確実に一つはあるだろう。冗談なんかを言っている訳ではないと分かりつつ、思わず乾いた笑いが溢れてしまう。
「なんだそれ。」
「……おかしいか?」
食べるのなら旨いものを食べた方が幸せじゃないかというと、手元の焼き鳥の串を見下ろしたまま宏太は困った様子で呟くのだ。
「食べることに興味がないんだよ、僕は。」
ポツリと呟く宏太は、食事の場の空気が嫌いなわけではないという。それでも自分が咀嚼して飲み込むものに対しての興味がまるで持てないと話す。
「食べなくていいならそういう体の方が楽だとすら、思うんだ。昔から……そうなんだ。」
まずい。この話、嫁に聞かせる話じゃないと気がついた時には既に遅かった。背後の外崎希和がイソイソと青ざめた顔で店を後にするのは視界の端に見えていたが、料理が好きで料理で夫の気を引きたい妻と食べることにまるで興味が持てない夫なんて、マッチングが悪すぎるだろう。
※※※
たぶん宏太が食に興味がないのは、育った環境のせいだ。信夫がそれを知っているのは幼馴染みの中でも信夫の実家が宏太の実家の直ぐ傍だからで、多分喜一や梨央は知らないことだろう。
宏太の弟の外崎秀隆は子供の頃、とても病弱だった。
よく入院していたし、両親が必死に病院に付き添っていたのもしっている。ただお陰で長男の宏太は色々とできた子供だったせいで、だいぶ放置されていた。宏太の食への意欲が歪んだのは、幼い頃から弟にかかりきりの母親が宏太には作りおきを食べさせていたからだと思う。幼稚園の時に既に手がかからないからと食卓は一人で、宏太は誰とも話さず作り置かれたものや惣菜を食べて過ごしていたのだ。勿論一緒の家の中にいて弟に手がかかっているから「先に食べていて」とかは、まあ仕方がないことかもしれない。
食卓を温かな食事で囲むようになれたのは宏太が小学生高学年になった頃らしいが、その頃には逆に宏太は合気道にのめり込んでいて、やはり食卓は一人だった。食卓が楽しくない場所だったのだから、あの性格の宏太が興味が持てないままだったといわれると納得してしまう。
そう嫁に話しておいてやればよかったのだが、残念なことに外崎希和が自殺したのはそれから半年もしない内。信夫は国外のショーで飛び回っていて、何が起きたからは帰国し後から遠坂喜一から聞いたのだった。離婚ではなく自殺。しかも余りに凄惨な状況で一時は宏太が殺したのではないかと、警察から疑われもしたのだ。でも結局最終的には宏太はかなりの量の睡眠薬を飲まされていて、希和の死因は自殺と認定された。
ただ宏太はそこから別人のように変わってしまって、そうして仕事も辞めてしまう。久保田と出逢った宏太は調教師なんて訳の分からない仕事に身を落としたかと思えば、それが性にあってるなんて言いながら親との縁まできってアンダーグラウンドの人間になってしまったのだ。
何処かで引き留められたかねぇ…………。
そうも考えるが、結論としては恐らく無理だっただろう。その後一生ものの大怪我をした宏太が初めて、自分が重度の味覚障害があると口にした時には信夫は面食らっていた。味が何一つ分からないと包帯まみれの掠れた声で告げられて、それがもっと早くにわかってたらなと内心考えていたのだ。それ知っていたら一度しか顔をあわせたことのない幼馴染みに連絡をとるくらい賢く立ち回れる女性が、自殺するほど辛い目に遭わなくてもよかったんじゃないか。宏太だってあのまま生きていられたんじゃないかとも、今更どうしようもないと分かっていて何度も考えてしまう。
しかもここに来て、それが治るなんてな…………
バーベキューをするから来いと誘われたときには流石に唖然とした。成田了を傍に置くようになった宏太の変化は、梨央とも話したが驚きの一言では済まされない。怪我のせいで泣きは出来ないが、笑い怒り、嫉妬して拗ねたりする外崎宏太の姿に、幼馴染み二人は心底ポカーンとしていたのだから。
コータは大器晩成なのよ。
自分達がはぁ?あり得ないと笑った筈の鳥飼澪の言葉がふと甦る。澪は何でか宏太のことをいつもそう言っていて、きっといつか突然変わるんだからと笑っていたものだ。澪にはずっと宏太は咲く直前の花の蕾か何かのように見えていたのだろうけど、他の三人にはそれが理解できなかったし宏太自身も澪が言うことは冗談としか思っていなかった。
確かに驚くほどに唐突に変わった宏太は、以前よりずっと人間らしく幸せそうに見える。了が成田から外崎に変わって、食事すら出来るようになって、しかも交流関係迄広がって。
希和さんには悪いけど、今の方が幸せそうだ…………。
そう感じてしまうと全てはここに辿り着くためだったのかなんて、そんな残酷なことを考えてもしまう。運命の相手は希和ではなくて了だったのだろうけど、それにしても運命の神様は酷いことをする。残っていたグラスの酒を星明かりに向けて、一人静かに献杯しながら信夫は自分も誰か探すかねと苦くそれを飲み干した。
※※※
「んっ…………、だ…………めっ……。」
ベットルームに響く甘い声が、肌を滑る指に反応して戸惑いの混じる制止の言葉を放つ。それを気にするでもなく耳朶をねぶりながら腕の中の肌を深く探ると、尚更甘く震える吐息が溢れ落ちてくる。
「こぉ……た、今夜……は、だめっ…………あっ。」
ツンと尖った乳首に熱く火照った肌、撓る腰、開かされたしなやかな脚。どれもこれも宏太が興奮するだけなのに、震えながら胸元に縋りつく手と吐息が更に肌に甘い。腰を抱き寄せると微かな喘ぎが名前を呼び、それもまた胸の奥に柔らかく甘く響いてくる。
「だめ、だって……。」
「なんで?」
「ばか、たくさ、ん人……いる、のに。」
その言葉を口付けで塞ぐと甘い吐息が、ヒクンとその体を震えさせて次第に力が抜けていく。寝室は防音なんだから気にしなくてもいいのにというが、そういうことじゃないと非難めいた視線が明日の朝困るだろと頬を染める。ベロベロになるくらい飲んでるやつもいるし、そう気にするなといいながら抱き締めてしまうともう宏太のほうも抑えが効かない。
「了……、了が欲しい……。」
「ふ、ぇ?」
「抱きたい……欲しい……、了。今すぐしたい。」
普段ならそんな言葉なんてそう口にしない癖に。見る間に真っ赤になっていっているのだろう更に肌を火照らせた了に、宏太は分かっていて強請るように低く甘く繰り返す。耳朶を噛みながら誘うように繰り返す言葉に、了の体から更に力が抜けていくのが可愛くて仕方がない。
「了……したい………欲しい………。」
「も、ずる……い、それ、や…………も、いう、な。」
頭を振りながら胸元に押し当てられる熱い了の額に、宏太は思わず嬉しくなって微笑みを浮かべてしまう。
「愛してる、了……ほら、いい子だ、脚開いてろ…………ん。」
「ふあ、あっああっ!」
ヌプと指を咥え込まされただけでヒクヒクと締め付け絡み付いてくる肉襞を擦りながら了の肌に口づけると、了はあっという間に上り詰めて歓喜に仰け反る。やがて陥落させられて強請るほどに感じさせられ、泣きながら自分を欲しがる了に宏太の方も幸せに満たされていく。
立派なだけでなく、誰かと添い遂げて暮らすためのちゃんとした家。
勿論宏太が結婚したことは知っているし妻の希和とは交流もあったのだが、あの結婚は幸せなものではなかったのも知っている。
※※※
「ごめんなさい、しのぶさん。急に呼び出したりして。」
外崎希和に急に呼び出され、モデルの仕事の合間に顔を会わせた時、信夫は彼女の険しい顔に何か起きてるなとは感じていた。元々宏太は子供の頃から余り感情の起伏が大きくなくて、よく勘違いされやすい男なのだ。表に出てこないだけで不快感や嫌悪感は感じているが、それが子供の頃から表にでないのは、弟が病弱で親がそちらにばかりかかりきりだったからかもしれない。親に迷惑をかけられないと無意識に感情を押し込めている内に、表現の仕方を学ばなかったのかもしれないと長い付き合いの幼馴染みとしては思う。イケメンだけど声を出して笑うことも少ないし、声を荒らげて怒りもしない。お陰で告白されても、相手から大概自分の事を好きではないでしょうとフラれるが、嫌いだったら宏太は付き合って買い物なんかに行くような男じゃないんだ。それを知ってたら充分気を使ってるのにも分かるが、感情を読み取るのは長く見てないと分からないかもしれない。
「あの、しのぶさん、宏太さんの好きな食べ物って知ってますか?」
え?と思わず口にしたのは、予想外の質問だったからだ。宏太の能面については理解できるけど、好きな食べ物?と思ったら、彼女は今では郷土の歴史民俗に関係した研究をしていた大学院生はやめて好きだった料理で身をたてているのだという。確か彼女は宏太の勤める会社社長のご令嬢だった筈だが、あの大企業のご令嬢にして料理が趣味とは知らなかった。
「それにしたって、何で好きなもの?」
「宏太さんに聞いても無いって言うし…………宏太さん、何にも反応しないんです。」
正直にストレートに疑問をなげかけてくる彼女の性格は確かに余り苦労を知らないお嬢様みたいだなとは思うが、同時に面識があるとはいえ信夫を呼び出してまで聞かないとならないのはかなり追い込まれているということかもしれない。聞けば宏太は新婚からずっと、彼女がどんなに手を尽くした料理をふるまっても、全く反応がないのだという。人には大抵は好みの味があるものだが、宏太は甘い辛いしょっぱい酸っぱい苦い、何に対しても反応が変わらない。美味しい?と彼女が聞けば頷くが、全く好みが分からないのだという。
「どんなに……料理のバリエーションを試しても…………和食も中華もイタリアンもフレンチも、韓国もロシアも……ブラジルだって……試してみたんです…………。」
料理好きでそれで料理研究家として身をたてて書籍まで出しているのだというのなら、かなりの腕前なのだろう。それなのに一番彼女の料理を食べる夫が、唯一全く何にも反応してくれないのは確かにキツい。勿論彼女は成人男性に有りがちな、子供が大好き系メニュー(カレーやハンバーグとか)もお袋の味(肉じゃがとか味噌汁)も宏太の両親と交流してレシピとして身に付けもしていた。しかも、やけになって激辛とか激甘までやってみたが、宏太はそれにすら反応せずに食べてしまったのだという。
「私の料理にだけそうなのだとしたら……そう思ったら怖くて。」
「確かにな……。」
夫が喜ぶ料理をなんとか振る舞いたくて彼女は両親にも聞いたが、両親ですら宏太の好きなものを知らなかった。そういわれて考えてみるとこれまで一緒に何度も何度も食事をしてきたが、宏太が喜んで食べる姿を見た記憶が信夫にもない。幼稚園のおやつや小学校の給食、中学での校外活動で口にした弁当、高校時代に帰り道すがらのファーストフード、大学での学食、大人になってからの居酒屋での酒と肴。どれも宏太が自分から上手いと食べたがっていたかと聞かれると、どれひとつ信夫には肯定する事が出来ないのに気がつく。何か一つくらいあったような気がするが、それすら記憶にスッとは浮かんで来ないのだ。
「…………そう言われるとなぁ……確かに宏太がこれが好きだと言った事ってないな……。」
元々好き嫌いもハッキリ口にした事がない男だ。記憶を掘り起こしても旨そうに食べたという記憶が何一つ浮かばず、これが澪なら答えられたかも知れないと苦く考えてしまう。
幼馴染み五人組の中で、宏太のことを一番理解出来たのは鳥飼澪。早生まれの宏太と殆ど変わらない誕生日で殆ど産院からの付き合いとも言えて、子供の時はよく双子のようだと言われていた。澪の家の道場で合気道を一緒に鍛練して、高校卒業まで殆ど一緒に過ごしたといっても過言ではない。だが鳥飼澪は高校卒業と同時に姿を消して音信不通となり、今何処で何をしているのか誰も知らないのだ。
好き嫌いなく淡々と食べている姿は知っていても、何が好きかは分からない。それは幼馴染みとしても初めて気がついたことで、信夫にしても実は衝撃だった。だから希和の頼みを聞いて信夫は宏太を行きつけの居酒屋に連れ出したのだ。
会社帰りの宏太はいつもと変わらず淡々とした様子で現れて、酒を飲んでも大して変化はない。信夫は焼き鳥とか居酒屋メニューは好物だが、宏太は確かに自分からこれを食べたいとアピールすることもないのに今さら気がついた。
「ところでさあ?」
実は宏太の背後には宏太の声が聞こえる程度の距離で、外崎希和が友人の女性と密かに聞き耳をたてている。だからわざと酔ったふりで声を張り上げて、宏太に問いかけるのだ。
「お前って食べ物は何が一番好きなわけ?」
信夫の言葉に目の前で、宏太は少し戸惑うような顔をした。その顔は宏太自身がこの質問の答えを知らないという意味なのは、聞かなくても分かってしまったのに信夫は呆気にとられる。本人が自分の好みを知らないのに周囲が知るなんてある筈がないが、ここまでの二十年以上もの食生活で嗜好がないなんておかしくないか?宏太はやがて考え込むように手元の焼き鳥を見下ろして、溜め息のような言葉を溢した。
「…………別に、食べるの好きじゃないからな。」
好きじゃないで済むようなことではない。人間誰しも好きなものはある筈だ、酒の味が好きとか、甘いものが好きとかその程度でも、確実に一つはあるだろう。冗談なんかを言っている訳ではないと分かりつつ、思わず乾いた笑いが溢れてしまう。
「なんだそれ。」
「……おかしいか?」
食べるのなら旨いものを食べた方が幸せじゃないかというと、手元の焼き鳥の串を見下ろしたまま宏太は困った様子で呟くのだ。
「食べることに興味がないんだよ、僕は。」
ポツリと呟く宏太は、食事の場の空気が嫌いなわけではないという。それでも自分が咀嚼して飲み込むものに対しての興味がまるで持てないと話す。
「食べなくていいならそういう体の方が楽だとすら、思うんだ。昔から……そうなんだ。」
まずい。この話、嫁に聞かせる話じゃないと気がついた時には既に遅かった。背後の外崎希和がイソイソと青ざめた顔で店を後にするのは視界の端に見えていたが、料理が好きで料理で夫の気を引きたい妻と食べることにまるで興味が持てない夫なんて、マッチングが悪すぎるだろう。
※※※
たぶん宏太が食に興味がないのは、育った環境のせいだ。信夫がそれを知っているのは幼馴染みの中でも信夫の実家が宏太の実家の直ぐ傍だからで、多分喜一や梨央は知らないことだろう。
宏太の弟の外崎秀隆は子供の頃、とても病弱だった。
よく入院していたし、両親が必死に病院に付き添っていたのもしっている。ただお陰で長男の宏太は色々とできた子供だったせいで、だいぶ放置されていた。宏太の食への意欲が歪んだのは、幼い頃から弟にかかりきりの母親が宏太には作りおきを食べさせていたからだと思う。幼稚園の時に既に手がかからないからと食卓は一人で、宏太は誰とも話さず作り置かれたものや惣菜を食べて過ごしていたのだ。勿論一緒の家の中にいて弟に手がかかっているから「先に食べていて」とかは、まあ仕方がないことかもしれない。
食卓を温かな食事で囲むようになれたのは宏太が小学生高学年になった頃らしいが、その頃には逆に宏太は合気道にのめり込んでいて、やはり食卓は一人だった。食卓が楽しくない場所だったのだから、あの性格の宏太が興味が持てないままだったといわれると納得してしまう。
そう嫁に話しておいてやればよかったのだが、残念なことに外崎希和が自殺したのはそれから半年もしない内。信夫は国外のショーで飛び回っていて、何が起きたからは帰国し後から遠坂喜一から聞いたのだった。離婚ではなく自殺。しかも余りに凄惨な状況で一時は宏太が殺したのではないかと、警察から疑われもしたのだ。でも結局最終的には宏太はかなりの量の睡眠薬を飲まされていて、希和の死因は自殺と認定された。
ただ宏太はそこから別人のように変わってしまって、そうして仕事も辞めてしまう。久保田と出逢った宏太は調教師なんて訳の分からない仕事に身を落としたかと思えば、それが性にあってるなんて言いながら親との縁まできってアンダーグラウンドの人間になってしまったのだ。
何処かで引き留められたかねぇ…………。
そうも考えるが、結論としては恐らく無理だっただろう。その後一生ものの大怪我をした宏太が初めて、自分が重度の味覚障害があると口にした時には信夫は面食らっていた。味が何一つ分からないと包帯まみれの掠れた声で告げられて、それがもっと早くにわかってたらなと内心考えていたのだ。それ知っていたら一度しか顔をあわせたことのない幼馴染みに連絡をとるくらい賢く立ち回れる女性が、自殺するほど辛い目に遭わなくてもよかったんじゃないか。宏太だってあのまま生きていられたんじゃないかとも、今更どうしようもないと分かっていて何度も考えてしまう。
しかもここに来て、それが治るなんてな…………
バーベキューをするから来いと誘われたときには流石に唖然とした。成田了を傍に置くようになった宏太の変化は、梨央とも話したが驚きの一言では済まされない。怪我のせいで泣きは出来ないが、笑い怒り、嫉妬して拗ねたりする外崎宏太の姿に、幼馴染み二人は心底ポカーンとしていたのだから。
コータは大器晩成なのよ。
自分達がはぁ?あり得ないと笑った筈の鳥飼澪の言葉がふと甦る。澪は何でか宏太のことをいつもそう言っていて、きっといつか突然変わるんだからと笑っていたものだ。澪にはずっと宏太は咲く直前の花の蕾か何かのように見えていたのだろうけど、他の三人にはそれが理解できなかったし宏太自身も澪が言うことは冗談としか思っていなかった。
確かに驚くほどに唐突に変わった宏太は、以前よりずっと人間らしく幸せそうに見える。了が成田から外崎に変わって、食事すら出来るようになって、しかも交流関係迄広がって。
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※※※
「んっ…………、だ…………めっ……。」
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「こぉ……た、今夜……は、だめっ…………あっ。」
ツンと尖った乳首に熱く火照った肌、撓る腰、開かされたしなやかな脚。どれもこれも宏太が興奮するだけなのに、震えながら胸元に縋りつく手と吐息が更に肌に甘い。腰を抱き寄せると微かな喘ぎが名前を呼び、それもまた胸の奥に柔らかく甘く響いてくる。
「だめ、だって……。」
「なんで?」
「ばか、たくさ、ん人……いる、のに。」
その言葉を口付けで塞ぐと甘い吐息が、ヒクンとその体を震えさせて次第に力が抜けていく。寝室は防音なんだから気にしなくてもいいのにというが、そういうことじゃないと非難めいた視線が明日の朝困るだろと頬を染める。ベロベロになるくらい飲んでるやつもいるし、そう気にするなといいながら抱き締めてしまうともう宏太のほうも抑えが効かない。
「了……、了が欲しい……。」
「ふ、ぇ?」
「抱きたい……欲しい……、了。今すぐしたい。」
普段ならそんな言葉なんてそう口にしない癖に。見る間に真っ赤になっていっているのだろう更に肌を火照らせた了に、宏太は分かっていて強請るように低く甘く繰り返す。耳朶を噛みながら誘うように繰り返す言葉に、了の体から更に力が抜けていくのが可愛くて仕方がない。
「了……したい………欲しい………。」
「も、ずる……い、それ、や…………も、いう、な。」
頭を振りながら胸元に押し当てられる熱い了の額に、宏太は思わず嬉しくなって微笑みを浮かべてしまう。
「愛してる、了……ほら、いい子だ、脚開いてろ…………ん。」
「ふあ、あっああっ!」
ヌプと指を咥え込まされただけでヒクヒクと締め付け絡み付いてくる肉襞を擦りながら了の肌に口づけると、了はあっという間に上り詰めて歓喜に仰け反る。やがて陥落させられて強請るほどに感じさせられ、泣きながら自分を欲しがる了に宏太の方も幸せに満たされていく。
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