鮮明な月

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第十四章 蒼い灯火

148.

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先程の電車の中での仁聖の『おいた』は兎も角として、だ。
電車を降りて並んで歩き始めながら、二人は思わず考え込んでしまう。恭平のお陰で視線の主が本当に存在するのは分かったが、結局相手が誰かまではハッキリと確認はできなかった。何しろ仁聖と同じ大学に通う学生だけでなく、私立系の高校や中学・小学、公立の都立第二高校に通う生徒が溢れている。それだけでなく会社勤めの社会人や、それ以外にも山のような人が仁聖達の使う駅から同じ路線に乗り込んでいる。そのとんでもない満員電車の中で、人混みの中に埋もれるようなたった一人を一瞬で完全に確認は無理だ。ただ恭平は一瞬だけど確かにその人物と目があったという。

「でも、一瞬過ぎて…………、悪い。」

視線の強さに気をとられて他の容姿を確認できなかったのに、恭平が申し訳なさそうに言う。ただあの視線は確かに仁聖が言うように、一瞬偶々見ていたというものでもなければ好意的な視線とも思えなかったのは事実だ。
それでも相手がハッキリと分からないので、結局肌に刺さるような視線の本当の意図は不明なまま。そうなってくると人混みに紛れ込んでいたというから、もしかすると素直に背の高い仁聖に苛立っているのかも。

「俺……いつもあそこら辺に立ってるからなぁ……。」
「どういうことだ?」
「いや、本気でデカくてムカついてるってのありかなぁって。」

電車から降りてみて恭平に何気なくそう話したら、それを言われると否定できないと苦笑いされてしまった。こうしていると恭平も割合背が高いから、人混みに飲み込まれる人の気持ちは流石に図りかねる。それでも満員電車はなんとも言いがたい苦痛なのだから、それが全く理解できない身長の仁聖に苛立ってもおかしくない。そう言うことも充分あり得る話ではある。少なくとも仁聖としてはこれからも電車は使わないとならないから、結論としては有効な答えは何も出ていないのと同じだった。

「まあ、遠くから見てるってのなら…………いいのかなぁ。」

首を捻りながらのその結論には暢気だと呆れもするが、同時に自分とは違ってこういう面でくよくよと悩まないのも仁聖の凄さなのだ。それくらいは最近恭平にも、よく分かってきている。とはいえ確かに遠くから睨まれるだけならとは考えようとするが、現実的には恭平だとそう思えないのも事実なのだ。それを横にいて表情から読み取ったのか、仁聖は微笑みながら恭平のことを覗きこみながら言う。

「んー、ならさ。俺、乗る場所変えてみる。」

その言葉にそれならと、恭平の方が逆に少しだけ安堵してしまう。本当に仁聖の背が高いのを羨んでの視線なら、同じ場所でなければ相手の目にもつかなくなるかもしれない。何しろ日本人というものは日々同じ行動をとっていると、同じ場所を使ったり同じような行動をしたりといつの間にかルーチンワークに拘るきらいがある。

「それで視線がなくなったら、オッケーってことで。」
「そうかもしれないけど…………でも、気をつけてな?」

それでも生来の気質で心配そうにそう言ってくれる恭平に、仁聖は賑やかに微笑んで分かったと素直に答える。お陰で恭平と産まれて初めて一緒に登校なんて夢のような時間を過ごしたのだから、少しはあの視線に感謝しなきゃなんて仁聖が暢気に内心考えていたのはここだけの話だった。



※※※



昼日中の休憩。
休憩とは言うものの目下事務所の中には藤咲しのぶ一人だけが残っていて、今のところ早々に戻る予定のスタッフもタレントもなし。つまりは独りノンビリと自分のデスクワークと所要の電話に勤しんでいるところで、半分休憩半分仕事というところだ。そんな矢先予想よりずっと早いその着信に、藤咲は相変わらず仕事がはやいわぁと呟きながら電話をとった。

『…………お前、今更だが俺に喧嘩売ってんのか?ん?』

開口一番。他のスタッフが間違って電話を取ったら、社長がヤクザと絡んでるとおも……まあ、自分のスマホをとるわけもないし、この相手ではないが任侠一家と絡んでいなくもないかと考え直す。何しろ藤咲の幼馴染みの一人は任侠一家の娘だったのを、今さらのように思い出した訳で。
藤咲しのぶの幼馴染み五人組といえば、古武術の超天才の娘、任侠一家の娘、外務省やらの政府高官家系の息子、一族郎党教師家系の息子。しかも自分は空手道場の息子と来ている。
この全くもって接点の無さそうな五人が、何でか子供の頃からより集まってずっと密に接してきた。性格も嗜好もまるで噛み合わないのに、何でか気があって付かず離れずにいて気がついたら四十何年も過ぎていたのだ。しかも空手道場の息子は現在では見ての通りのオネェだし、政府高官の息子は今や裏家業、任侠一家の娘が看護師ときている。残りの二人は残念だが既に故人で自分達もそろそろ終活世代よねと思っていたら、残りの二人が今更この世の春ときた。羨ましいのかなんなのかとは思いはするが、一先ず無二の親友達の幸せは何より。

「そんなことないわよぉ、気のせいでしょぉ。」
『あ?ノブ、俺が眼が見えないの知らなかったか?ん?見せるか?顔の傷。』
「あ、大丈夫、見なくても。」

電話口の相変わらず元気な皮肉に藤咲しのぶは苦笑いする。
電話の相手は藤咲の幼馴染みの外崎宏太。現在表向きは経営コンサルタントなんてものをしているのだが、裏では警察も真っ青の情報屋と探偵の中間みたいな仕事をしている。宏太に事務所の大事な宝石につきまとうストーカーを調べて欲しいと頼んだのは数日前。で、当の外崎宏太は実は怪我で眼が見えないのに、頼んだのがストーカー探しではこう言われるのも当然。当然なのだが、だったら最初から断れば良いだけなのに断らずに、しかも恐らく仕事が終わって電話を掛けてきた宏太の最初の一言がそれだったわけだ。付き合いも長いので元は彫りの深いイケメンで渋い良い男だったので、顔の傷で残念なことこの上ない状況になってしまったのは充分にわかっている。まあ本人がそれを余り苦にするタイプでないのが何よりだと、藤咲は思っていたくらいだ。それに実際に眼が見えないとはいえ宏太の能力と眼の代わりをしている人間も割りといるので、頼んだ内容は宏太にすれば遂行は容易く不可能ではない。ただ単に外崎宏太という人間が元々皮肉を言わないと生きていられない人間なので、幼馴染みともなると何はともあれ先ずは一言文句を言いたいだけなのだ。

『大体な、俺はそろそろこっちは引退するっていったろうが。』
「またまたぁ。」

またまたじゃねぇよと宏太が今度は本気で不満そうに口にするが、実のところ最近宏太は先程もこの世の春と言ったが最愛の妻ができて。可愛い奥さんにベタ惚れの宏太は危ないことをすると泣かれて一緒に寝てもらえなくなるから、裏の方は趣味程度におさめるなんて当然のように言い出した。そんな宏太に昔から彼をよく知る藤咲が、あんた誰と唖然としたのはここだけの話だ。

愛って…………本当に人を変えるわよねぇ

外崎宏太の人となりについてはここでは余り詳しく述べるのは控えておくが、少なくとも好奇心のか溜まりのような人間で誰かが泣くから好奇心は控えるなどと口にする人間ではなかった。その宏太がこんなにも人が変わるほど新妻が可愛くて仕方がなくて大事にしているなんてのには、流石に藤咲だって驚いてしまう。まあお陰で新妻の方は閨の宏太のお相手が大変らしくて、幼馴染みの看護師・四倉梨央を一度呼び出したというのも密かに知っている。因みにそんな四倉梨央の方も宏太が引き合わせた幼馴染みの鳥飼澪の息子と、いつの間にやら良い仲になっているらしい。

それにしても幼馴染みが二人も先に逝って、二人が今になって春って。ほんとあたしも今後を考える時期だわぁ

藤咲しのぶも既に四十七になろうとしていて、一応身を固めることを考えないわけではない。とはいえ休みなく仕事優先な生活の中で、尚且つ藤咲のことをちゃんと理解してくれる相手を探すのというのも手間がかかるわけで。

『一先ず愚痴はこれくらいにして……、本題だがよ。』

文句を言うのが面倒になってきたのか話を切り替えた宏太の声に、少しだけ刺々しさが滲んだ。その声でうちの可愛い宝石に何かちょっかいをかけようとしているものは、どうやら現実的に気のせいでは済まなくて本当にいるらしいと気がつく。そうでもなければ、藤咲の知る外崎宏太がこんな口調で話す筈がなかったのだ。



※※※



乗る場所を変えて数日が経ち毎日微妙に移動しているせいか、項への視線はパッタリと落ち着いていた。こうなってくると冗談混じりに身長のせいなんて言ってみたものの、染々と自分ってそんなに人の勘に障る身長なのかと呆れてしまう次第。別にこうなるまで気にしたことはなかったが、気にしないということは幸運にも恵まれた体型だったのだとも言える。
偶々電車で一緒になった翔悟にも辺りを何度か見てもらっていたが、本当にあの視線はあれ以来感じなくなって後から聞いても翔悟も何もないという。

「こうなると、本気で身長なのか……。」
「はは、でかくて睨まれるってなぁ。」

そう思うと何だか自分だけが視線が刺さるだなんて意識し過ぎていた気がして、正直なところ仁聖としても少し恥ずかしい。最近の話でなくて以前からずっとそうだったのに、気がつかなかっただけという可能性だってあるのだ。横に並ぶ翔悟に思わず聞いてしまうのは、そこのところの判断基準が仁聖にはまだないからだ。

「これって、自意識過剰とか思う?翔悟。」
「どうかねー、でも満員電車で涼しげなのには、確かに腹立つかも。」

そんなことを言いながら笑う翔悟は、自分も後五センチ欲しいと言いながらも嫌な視線がなくなったんなら良いじゃんと長閑だ。そんなわけでなら一先ず良いことにしようと、仁聖としても少し気を抜き始めつつあった。
湿度が熱を持ったまま夜になろうとしている帰途の最中二人で並んで電車を降りホームからの階段を下りながら、仁聖は気を取り直して翔悟に向かって口を開く。そろそろ父親の話くらいは翔悟としても良いだろうし、流石に『茶樹』の秘密の部屋の話は兎も角、都立図書館に秘密の部屋があるかもくらいは共有しても良さそうだと思う。気が向けば二人で内部を見に行ってもいいし、

「そうだ、翔悟、秘密基地の話なんだけどさ。もし、リアルにあるかもっていったらどうする?」
「マジで?!何処に?!」
「あのさ、まだ仮定なんだけ……。」

その先を言おうとした瞬間、思い切り背中を突き飛ばされる感覚に仁聖はハッと息を詰めた。地下に降りる形のホームからの階段はまだ半分以上残っているし、踊場は過ぎたばかり、前には年寄りも含めて何人も人がいるから落ちたら誰かを巻き込む。
咄嗟に壁側に向かって思い切り手を伸ばして上手く指が届いたのは、仁聖が手足が偶々人より少し長いのと生まれついての反射神経と運動神経の賜物だ。大きな音をたててズダダッと数段は階段を落ちたものの、幸い前の人を巻き込まずにガッチリ手摺を掴んで体を引き留める。その体勢のまま仁聖は、咄嗟に背後の階段の上を振り返っていた。

「仁聖?!」
「Phew, that was close!」

思わず危なかったとは口にするが、振り返った先には驚きに眼を見張る人々がいるだけで仁聖に見覚えのある顔はいないようだし、誰かが仁聖を突き飛ばしたようには見えない。真後ろに人が全く居ないわけではないのだから偶々何かが当たってそう感じたのかもしれないが、それにしては背中に二つの掌が突き飛ばすように押した感触が確かにあった。

「大丈夫かよ?!誰かぶつかった?」
「あー、そうかも。良かったぁ、落ちなくて。」

慌てて駆け寄る翔悟に仁聖は暢気な口調でそう言いながら少し擦った服の埃を払い、何事もなかったように立ち上がると微笑んで歩き出す。一先ずは怪我もないし、関係のない人を巻き込んでもいない。仁聖が何事もなかったように歩き出したから、驚いて眺めていた人達ももう何もなかったみたいに歩き始めている。でもその時微かにだが人混みの中で小さな舌打ちが聞こえたような気がして、仁聖は微笑みを崩さないままに考えた。

やっぱり俺に何かあるってこと、か

こういう行動に出てくるってことは、相手の方も割合苛立っていて我慢の限界が近いってことなのは考えなくてもわかる。睨んでいるだけと違って、行動に出るってことはその証拠で、そろそろ相手が仁聖の眼に見えるような行動に出てもおかしくはない。一見暢気に見えるだろうが仁聖だって今まで経験がないわけでもなければ、こう見えて虐めなんかも割合経験してきているのだ。だからこそ今まで上手く立ち回ることもできたのだし、虐めた相手を親友に取り込むなんて荒業もこなした。

でも、今回のって、流石に友達にはなりたくないなぁ。

川端駿三の行動は理由がハッキリ分かっていたし、相手は仁聖個人だけで周囲に迷惑はかけなかった。それにやった後の駿三は罪悪感が強かったから、理由さえ解消されれば友人としても良い奴だ。そういう意味ではこういう場所で、こういう行動に出るようなのは好ましくない。仁聖が上手く避けられたから良いものの、もし目の前のお年寄りとかを巻き込んで骨でも折ったらどうする気なんだろうか。
兎も角電車を降りている事からも自分と同じ生活圏内の人間なのかもしれないと考えはするが、大学生になって生活圏が広がっているしモデルのバイトもしているから一概には知人の範囲とは言えない。

「ほんと大丈夫か?怪我してないか?」
「全然、上手いこと無意識で手摺に捕まったし。」
「ビックリした、なんか特撮みたいだったぞ?」
「えー、マジで?」

気にした風でもなくそんな会話を交わしながら平然と階段を下りていく仁聖の背中を、ドロドロとした苛立ちに満ちた暗い瞳が見下ろしていた。
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