鮮明な月

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第十三章 大人の条件

128.

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昨夜、恭平から唐突に今までのように翻訳だけじゃなく、エッセイを一度書いてみようとしていることを聞かされた。しかも既に代打とはいえ、エッセイの仕事を受けていて急だが取材旅行に出るという。それを聞いた瞬間、本当は喜ぶべきなのに仁聖は本心から喜べず、思わず笑顔すら強張ってしまっていた自分に気がつく。そうして今朝も一泊だけだからと軽微な旅行支度でバックを下げた恭平を駅まで見送ったはいいが、恭平の何か言いたげな視線に仁聖はどうしても作り笑いしかできないでいた。
駅で待ち合わせていた件の溺愛彼氏・雪ちゃんさんは淡々と事務的に仕事をこなしているという風ではあるが、恭平にとって昔からの知人でもあるせいか会話も普段より気安くみえる。それでも改札を潜った後気遣わしげに仁聖を見た恭平の視線に気がついていたのに、それに手を振ることも何も出来なかった自分。
それに自己嫌悪が強くて講義を受けていても、仁聖は自分の心の狭さに思わず溜め息をついてしまう。

何やってんのかなぁ、俺。

恭平が今までより社交的になるのが、こんなにショックだなんて呆れてしまう。恭平が急にエッセイなんて新しい仕事に意欲を持つと思ってなかったし、こうして取材旅行に行くなんて思ってもみなかった。それにこれが上手く行ったら、これから恭平にはこういうことが増えていくかもしれない。その度に自分はこんな風に恭平と一緒に仕事をする相手にまで嫉妬して嫌な顔をするのだろうかと、思わず再び溜め息をついてしまう。

「どした?仁聖。」
「心が狭い…………。」
「え?なに?俺の心?」

講義の最中だが隣の席にいる翔悟が驚いた顔で横から覗き込み小さな声で問いかけるのに、翔悟じゃないよ・違うと笑いかけてから仁聖は顔を下げて声を潜める。

「翔悟、恋人が出張にいくの、笑顔で見送れる?」
「えー?仁聖の恋人って年上?」

そう言いながら翔悟は、でも仕事でしょと問い返してくる。そうあれは仕事なのだ、そこはちゃんと仁聖だって理解していた。理解しきっているのに、今までにないことに仁聖は何で急にそんなと思ってしまう。大人になって恭平に早く追い付きたいのに、どんどん恭平が先に行ってしまって仁聖には手が届かない。恭平は年上で社会人なんだから当然のことなのだとも思うのに、いきなりそんな風にステップアップしないでもいいのに。

置いていかないで、俺のこと。

どんどん先に行ってしまう恭平が、自分が余りにも子供だと呆れてしまったらなんて不安になる。出来ることなら内に閉じ込めてしまいたいとすら考えてしまう自分の心の狭さに呆れてしまう。

「大人になりたい……。」
「哲学?法令?」

哲学的大人ってなにと思うけど、法令で定められた大人になるにはどうしてもあと一年はかかる。二十歳からさっさと十八歳に引き下げてもらいたいところだが、引き下げられたとして自分が突然大人になれるわけでもない。つまりは精神的に大人として恭平に頼られたいし支えたいのに、それがどうしたらいいのか分からないのだ。二十歳になって榊にしてもらっても、このままじゃただ恭平に面倒をみてもらうだけの子供に過ぎない。

大人の色気とか何とかも欲しいけど、何より大人になりたい。

子供のままじゃなく大人として認められる為の条件を知りたい、そう切に思うのは自分がまだ子供だからだ。悌順は本音を聞きたかったのは恭平の方だと話したけど、恭平は元々寡黙な方だから自分のように何でもかんでも話す人間じゃないだけ。それを分かっていれば、即答云々はたいした問題じゃないことだった。でも、悌順や鳥飼信哉のような大人になるには、恭平に追い付くにはどうしたらいいのか分からない。

他の奴はこんなことを考えたりしないんだろうか……。

身近に普段から両親なんて大人がいればお手本がいるようなものだから、他の同年代はこんなに悩んだりしないことなのだろうかと今更になって考えてしまう。自己肯定欲求が今になって出てきたんだなって恭平は話していたけど、それが子供の頃から欠けているのはやっぱり自分には親がいないせいなんだろうか。

大人になったら……こんな風に嫌な嫉妬をしなくてすむのかな……俺。

そんなことをボンヤリと考えてしまうのは、どうしてなんだろうと仁聖はもう一つ深い溜め息をついていた。



※※※



「悪かったな、急な話で。何か用事があったんじゃないか?」

そんな風に宇野智雪に声をかけられ、窓辺から電車の車外の風景をボンヤリ眺めていた恭平は慌てたように視線を向けた。まさか宇野と取材旅行とは思わなかったのも事実だが、昨日からの仁聖の様子が気にかかって宇野の様子に気が向いていなかったのだ。

「いえ、大丈夫ですよ、予定はなかったんで。」
「そのわりには乗り気っぽくないな、榊。」
「先輩が同伴だからですかね?」

言うねと宇野に笑われ思わず微笑みながらそう口にしたけれど、恭平のその脳裏にはまだぎこちなく作り笑いする仁聖の顔がある。

あんな風に作り笑いする仁聖なんて初めて見た。

クルクルと笑ったり拗ねたり怒ったりよく表情が変わる。それが基本的な仁聖なのだけれど、仁聖が作り笑いをするなんて今まで実は見たことがない。自嘲気味に笑ったりはしたけど、完全な作り笑いは今まで見たことがなかった。

「何か心配事か?」
「え?」
「朝から溜め息ばかりだな。」

それで予定があったのかと問われていたのに気がついて、恭平は思わず宇野の顔を眺める。旧姓宮井智雪は高校時代自分達が一年に入って直ぐに五人丸々の書記を任命して、会計監査をするわ生徒会の運営指針を作るわで自分達をこきつかった。勿論当の宮井自身が倍以上の活動をしていたのだから、自分達には文句のつけようもない。なんでこんなと聞いたら一年の時から会計に疑問があったから、いい機会だから根本から見直したかっただけだという。つまりとてつもなく客観的に物事を捉えて計画性が高い人間だった。

「作り笑いって…………どんな時にしますかね?」

思わず口にした言葉の主観的過ぎる問いに思わず自分でも呆れてしまうのに、宇野は暫く考えるように恭平を眺めたかと思うと溜め息を一つつく。呆れたんだろうと思ったのに、宇野は何でか簡易テーブルの上に広げていたお菓子を口にしながら口を開く。

「本音を隠すためだろ、相手に本音を悟られたくないんだよ。」
「本音……ですか。」
「なんだよ、朝の見送りか?」

朝駅で見送ってくれた仁聖には、宇野はデート中なんかに何度も顔をあわせている。それに宇野は土志田悌順と鳥飼信哉の幼馴染みで、篠とも一緒に飲んだこともあるのだ。だが宇野にはまだ二人の関係を口にした訳ではなく

「そ…………なんですけど……。」
「大体な、人のこと溺愛だ何んだと言うけど、お前んとこのも十分溺愛じゃねぇかよ。」

思わず懐かしい口調で言い放たれて、口にした茶を吹き出しそうになった恭平の視線に宇野は平然とした顔だ。当然のように宇野は恭平と仁聖の事を知っているということで、信哉さんに聞いたんですかと問いかけた恭平に宇野はサラリとそんなわけあるかという。二人がそう簡単にそんなことを漏らすわけがないだろと言われると、確かにその通りだと思うし、

「じゃ、なんで……?」
「うちの麻希子をモモなんて愛称で呼ばれて、調べないわけないだろ。」

え?!調べた?!と思わず愕然とするが、つまり宇野は信哉や悌順に関係を話すずっと前から、二人のことは当に知っていたというのだ。こっそり溺愛彼氏と仁聖が呼んでいるのもどうかと思っていたが、そんなものではなかったと正直青ざめてしまう。そう言われれば高校時代もなんで自分や篠が書記に抜擢されたのかと思ったら計算に強いやつを選出したと言われ、よくよく聞いたら入試の理数が強かった五人と言われた記憶がある。

相変わらず一体どうやって、それを調べてるんだろうか…………先輩

過剰な溺愛を平然と受け止められているその女の子も、内心とんでもない大物だなと思わずにはいられない。

「本音を隠したくなるようなことかあるのか?お前に。」

そう問いかけられて恭平は戸惑ってしまう。何しろあの笑顔をみたのが初めてのことだから、何かあるのだろうとは思うが今まで一度もそんな風に仁聖が本音を隠そうとしたことがない。分からないというのが正直な答えで、恭平だって困惑している状態なのだ。それを恭平の顔から見抜いたのか、宇野は目を細めてポンと口に菓子を放り込む。

「隠してる方だって……全部隠せてるとは思ってない。」

宇野の口振りはまるで自分の経験を話すようにも見えて、恭平は押し黙って宇野の横顔を見つめる。仁聖も本音を全部隠せているとは思っていない、でも恭平の何かが仁聖に本音を隠したくなるような気持ちにさせてしまったのだ。

「本音を話したくなるようにしてやればいいんだよ。決壊するとあっという間だぞ。」
「先輩……相変わらず口が悪いんですね……。」
「余計なお世話。うちの麻希子なんか、とんでもない破壊力で突破してくるんだからな。」

どうやら経験談と感じたのは正解だったらしい。宇野も作り笑いで本音を隠していたようだが、宇野の彼女はそんなのお構い無しだったということか。納得しつつも正直本音を話したくなるようにって……一体どうしたものだろうと恭平は思わずにはいられなかった。



※※※



流石に『茶樹』には呼び出せなくて、指定したのは駅前のちチェーン店のコーヒーショップ。余り人気のない店内でアイスコーヒー片手に歩み寄った相手は、当然のように仁聖の向かいに腰を下ろす。

「で、何でお前が俺を呼び出した訳?」

なんなのとあからさまに言いたげな口調の外崎了に、自分でもなんでこいつを呼び出したんだろうと呼び出した方の仁聖も正直思っている。思ってはいるが年下にこんな相談はしても意味がないし、かといって忙しい土志田悌順を呼び出してする相談でもないし、当然同級生に出来る類いの相談でもない。藤咲というのも勿論考えたが、以前同じ質問に色気と答えた藤咲に問い直しても同じ気がする。

「…………大人になるってどうしたらいい?」
「はぁ?」

目の前の了は呆れたように仁聖の顔を眺め頬杖をつきながら、なんなのその質問といいたげだ。今の仁聖は大人になりたいのに方法が思い浮かばないで、同じところをグルグルと迷走している気分。以前は自分とたいして変わらないと見ていた筈の目の前の男は、ほんの数ヵ月で以前より遥かに穏やかで大人びている気がした。だから思わず呼び出してしまったのだが、それが正しいのかどうかも分からない。何しろ自分の身の回りにいる大人と言われると、仁聖には正直それほど思い浮かばないのだ。

「大人って…………、これをしたらなるってもんじゃないだろ?」

アッサリそう言われてしまうが、答えは至って正論。その通りなのだとわかっているけど、それでも何とか大人になりたいと切実に考えているこの気持ちをどう処理したらいいのか。その方法が知りたいと呟くと、了はなんだそりゃといいたげだ。

「つまりは気持ちの問題か?認められたいってこと?」
「そうかも……。」
「それこそ、自覚云々じゃないかよ。」

自分が納得できなきゃどれも答えにならないだろと言われ、思わず項垂れてしまう仁聖を眺めて了の方は何やら既視感を覚えてしまう有り様だ。

「似た者同士か、全く。」
「何が?」
「認めて欲しいんなら、先ずは認めて欲しい相手と向き合えっての。」

呆れながらアイスコーヒーを啜る了の言葉に、仁聖は向き合う?と呟く。日々一緒に過ごしている筈なのに向き合えと言うのは奇妙な話だけれど、その言葉は今の状況には酷く心に刺さる。恭平が今までの自分から前向きに踏み出そうとしているのを素直に喜べない理由。弱くて脆い筈の恭平がそこから踏み出そうと努力しているのを引き留めたいのは、自分に頼って欲しくて自分しかいないと言って欲しいだけ。

それって俺の我儘だよな……自分だけの恭平でいて欲しいってだけで……

そう気がついてしまうと余計に情けない。子供っぽいにも程がある独占欲で、恭平が乗り越えようと努力しているのを自分はこんなに邪魔してしまう。それを子供というのであって恭平はそんなことは考えない筈だから、こんなにも置き去りにされてしまう。そう溜め息をついた仁聖に、目の前の了は少しだけ表情を緩ませ口を開く。

「恭平も悩んでたぞ?」
「え?」

昨日偶々鉢合わせたと了はノンビリした口調で言うが、昨夜の話の中には了と出会ったなんて事は一つも恭平は口にしなかったのは何でだろうか。それに悩みってもしかしてエッセイをやりたいって話のことだったのだろうか、そんなに悩んでたならもっと早く話してくれてもよかったのにと思わず考えてしまった仁聖の様子におかしそうに了が笑う。そうして少しだけ悪戯めいた視線を浮かべると、了はニッと口角をあげた。

「お前にどうしたら気に入られるかなんて、恭平も変わったよなぁ。」

え?と思わず声が出る。思わぬ内容の言葉に、一瞬では仁聖の理解が追い付かない。
恭平が俺に?
何を?
そう問い返そうとしたのに、了はサッサと手を振りじゃあなと立ち上がってしまっている。恭平が何を相談していたのかについては教える気のないらしい了の背中を眺めて、取り残された仁聖はもう一度了が口にした言葉を頭の中で繰り返す。

恭平が自分に気に入られる?何を?

全く予想もしなかった了の言葉に、仁聖は訳もわからずに暫しポカーンとしてしまう。恭平が自分のことで何か悩んでて了に相談したということなのは何となく理解できたが、何を悩んでいるのだろう。しかも何で篠さんではなくて了に相談?篠さんが今真希のことでてんやわんやしてるから?それもしかも俺に気に入られるって、一体なんのこと?何を俺に気に入られたいって考えてるの?一体どう言うこと?ほんとに訳がわかんないんだけど。
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