鮮明な月

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第十二章 愚者の華

106.

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少し体のだるさは残っていたが昼食を取る辺りには、だいぶ回復していた。何時でも出られるようにと仁聖の着替えを紙袋に準備して、自分も着替えておいて恭平はリビングで寛ぐ。目を落とすと左の薬指に光る指輪に視線が落ちて、思わず不思議だなとこれまでの事を考える。
元々仁聖の事を特別だと、恭平自身も考えていた。自分の弱い一面を知って泣くことを許してくれた仁聖は、まるで泣きたい時には傍にいると言いたげに何時でも寄り添ってくれる。自分が自分を許せないのに仁聖が許してくれるから、気がつくと恭平は仁聖に甘えて縋ってしまう。

しっかりしなきゃ……。

年下の仁聖にばかり負担をかけてしまっている自分に、少し恭平は反省しながらもう一度指輪を眺める。伴侶になって欲しいと告げられて指輪を贈られたのは、まだほんの数ヵ月前のことだ。仁聖は知らないだろうけど、恭平の仁聖への思いは日に日に深く強くなってしまっている。

もし仁聖が普通の生活を望んだら、俺は迷わずあいつの願いを叶えてやれるかな……。

そんな事をつい恭平が考えてしまうのは、この間の事が頭に過るからだ。こんなことを考えているなんて仁聖が知ったら、仁聖はきっと何でと激怒しかねないとは分かっている。それでも考えるのはどうしても恭平には叶えてやれないものが、幾つかあるのが分かっているからだ。今は気持ちが盛り上がって気にもしないだろうが、何年も後になれば仁聖だって気がつくかもしれない。

そんな時にもし……

また同じことを考えてしまうのは、自分が基本的に悲観的にしか物事をみられないからなのだとも考える。恭平は物事を比較的良い方向に考えられるタイプの人間が、正直羨ましいとずっと前から思っていた。楽観的というか肯定的に物事をみられる仁聖や、以前付き合いのあった成田了なんかの思考過程は恭平には真似しようもない。

信じられないなら信じてくれるまでずっと傍にいる、一生傍にいる

そう平然と言う仁聖。愛してると言えるようになった途端、まるで別人みたいに男っぽくなって恭平を迷いもなく抱き締めてくる。その癖子供みたいに嫉妬して拗ねて見せたり、恭平が何より幸せな気分になる事を当然みたいにしてきたり。

お前が、俺の事を作り替えてる……。

仁聖が傍にいるだけで、今までと違う色で世界が見えるようになった。心底憎んで拒否していた筈の宮内家と恭平に、僅かずつ和解の兆しを与えたのも仁聖だ。



※※※



宮内加寿子とお茶をすることになったのは、年始の慌ただしさを過ぎた二月頭の事。それまでも何度か電話では話したが、一度ジックリお話したいのと向こうから懇願されては断るのも心苦しかった。
来訪した加寿子は前と同じく穏やかな和服姿で、感嘆の吐息と共に恭平を見つめ美弥子に似てるわぁと微笑む。

「あんまり……母に似てると言われると……。」
「ごめんなさい、でも、嬉しくて。」

確かに男の子に言う言葉じゃないわねと加寿子が笑う。若く親友だった頃の母の話を聞きながら、同時に恭平も母が亡くなって一人になってからの出来事を問われるままに話す。そんな風に穏やかにユックリと彼女と話しが出来るなんて、ほんの数ヵ月前まで恭平も考えてもみなかった事だった。

「あの、気になっていたのだけど。聞いてもいいかしら?」
「はい。」

躊躇いがちに加寿子が問いかけたのは、以前来訪した時との室内の変化と恭平の左の薬指に嵌められた指輪の事。独り暮らしにはもう見えない室内と指輪の事を問われて、恭平が素直に説明に困窮したのは事実だ。でも、それまでの生活を彼女に話すのに端々に仁聖は登場していて、尚且つ年末年始に二人が一緒にいたことも知られている。あの子は慶太郎の同級生の子よね、と賑やかに言われればおっしゃる通りですとしか答えようもない。これをなんと説明したものかと、戸惑っていると加寿子の方から大事な人がいるのね?と優しく問いかけてきた。

「……はい。」

一人で寂しくて辛かった恭平さんをその人が支えてくれたんでしょう?と微笑みながら加寿子に言われて、恭平は泣き出しそうになっている自分に気がつく。はいと小さな声で答えて改めて、仁聖がどれだけ自分を支えて守ってくれるのかを痛い程に実感する。

「……教えられる範囲でいいから、どんな人なのか教えてくれるかしら?いつか会わせて貰った時に、……私もお礼が言いたいわ。私がしてあげなきゃいけなかったことを変わりにずっとしてくれたんですもの。」

その言葉に思わず驚いたように目を丸くする恭平に、加寿子は少し子供のように微笑む。

「勿論、これからもずっと恭平さんをその方にお任せするしかないんだけど。」

悪戯めいた言葉に思わず頬が赤くなるのを自覚したが、恭平は戸惑いながらも加寿子に仁聖の事を素直に隠すことなく説明した。それがおかしな関係だとは分かっているが、これからも加寿子がこうして恭平の元を訪れれば何時かはわかってしまう。何より恭平の相手が女性なら、それらしい品物が家の中に何一つ無い。そんなことは恐らく彼女も既に気がついているだろう。上框には男物の靴しかないし、トイレにも洗濯物の中にも女性がここに住んでいる気配はない。何より問われて話した恭平の話しの中には女性の姿が一つもないのだから、もうこれは今の自分の状況を漏れなく話したも同然だった。

「すみません……こんな、事をお話するなんて。」
「何も謝ることないわ、恭平さんが幸せにみえるから聞いたのよ?私。」

加寿子は全部聞いた上で、なんとこんな風に言うのだ。一瞬その言葉の意味が分からなくて恭平が唖然とすると、加寿子は可笑しそうに笑う。

「母親としては孫の顔がみれないのは寂しいかなと思うのよ。でも、恭平さんがこんなに幸せそうにしてるんなら、それはそれで運命なのかしらとも思うの、私。」

私は狡い母親よね、と加寿子は自嘲めいた呟きを溢す。当然自分の腹を傷めて産んだ子供が、同性に恋をしたら先ずは止めると思うと彼女は素直に口にする。だからと言って他人の産んだ子だから、恭平が同性愛でもいいと考えている訳ではない。恭平も慶太郎と同じく、我が子のように大事に考えているのだ。だけど、恭平の事を自分は知らなかったからと、何一つ親らしい事をしないで来た事に加寿子は負い目もある。彼が一人で苦しんでいたのを知らなかったからと言って、何も無かったことには出来ないのも分かっている。だから、それを支えてくれた相手には心から感謝するし、その人を恭平が選んだことも否定しない。ただ選んだのが男性だった事は少し残念だけれど、恭平が選んだ相手で恭平が幸せそうなのをみたら反対しようがない。もしこれが慶太郎だったとして最終的に慶太郎が幸せそうなら、相手が男性でも私は納得すると思うわとそう穏やかに加寿子に言われて、恭平は今更ながらに更に頬を染めて俯く。

「そんな……幸せそうに見えますか?」
「あら、恭平さんたら見えないと思ってたの?」

思わぬ返答に恭平は真っ赤になってしまったのだった。



※※※



ふっと気がついたように視線を上げた恭平は、少し躊躇いがちにスマホを眺めもう一度壁の時計に視線を向ける。物思いに耽る内に、時刻は既に午後の三時を過ぎようとしていた。この後約束していた仁聖の両親の墓参りに行くには、そろそろ時間的にも厳しくなって来ている。謝恩会を抜け出すと言っていたものの、仁聖も中々そう上手く行かずにいるのかもしれない。そう思いつつ、流石にこの後の予定を確認するだけでも…というよりも内心はおめでとうの一言くらいは言いたいと思いながらか電話をするかどうかで恭平は暫く思案していた。

楽しんでたらあれだけど…かけるくらい……。

そう思い至ってやっとのことで手にしたスマホの先で、自宅の電話の方が音を立てたのに驚きながら恭平は慌てて立ち上がる。ナンバーディスプレに表示された≪公衆電話≫の表示に僅かに眉を顰めながら受話器をとると、英語混じりの激しい喧騒をBGMにした受話器の向こうから予想外の声が響いた。

『あぁ!榊君ですか?!源川です!』

キーンと耳鳴りがしそうなほど大きな声に、思わず受話器を離し気味にした恭平は割れた声が誰のものか気がつく。

「秋晴さん!?今何処ですか?!」

背後の言葉は英語だけではなく、耳を済ませばスワヒリ語らしい発音が微かに聞こえてくる。

『今ケニアです!』
「ケニア?!」

なんたってまたそんな遠い国に居るんだと言いそうになるが、国際的なカメラマンという職業の源川秋晴にしては珍しくないのだろう。恐らく仁聖の方も言わなかったが、現在叔父の居場所が南アフリカは知っていて期待してないといったのだ。

『んーあのね。間に合わなかったけどこれから日本に戻ろうとしてるんですよ!』

予想外に暢気な声に面食らいながら恭平が更に問いただすと、山奥からやっと空港に辿り着き公衆電話から電話をしているのだと話す。山奥ってどれだけ山奥にいたんだろうと内心疑問に感じながら、どれくらいかかりそうですかと問いかける。

『今混んでてねー!上手く乗り継げて行ければ、バンコクかソウル経由で明日の夜には着けるかなぁ!』

チケットが中々取れないで四苦八苦してるんだよと呑気に叫ぶ声に、思わず恭平も苦笑いが浮かぶ。流石に今ケニアでは卒業式どころの問題ではないが、それでも秋晴がこうして来てくれようとしていることが嬉しい。期待してないは来ないで欲しい訳ではなくて、あくまで『期待してない』なのだ。

「分かりました、仁聖にも伝えておきますね。あいつ凄く喜ぶと思いますよ。」
『そうかなぁ?ウィルには期待してないって呆れられて言われてるからねぇ。』

あっけらかんと笑う秋晴に苦笑しながら、それでもその心遣いに微笑みながら待ってますからと伝える恭平に暢気そうな秋晴の声が応える。
穏やかにその受話器を下ろして決意したようにスマホを取り上げた恭平は、意を決したように仁聖の電話番号を押した。かけた電話が暫くの呼び出し音の後で留守番電話に変わる。それに僅かに眉を潜め、恭平は躊躇いがちにもう一度時計を見上げた。午後三時を過ぎたから、学校での謝恩会も幾ら何でも終わりになる筈。別な場所での二次謝恩会あるかもしれないが、それに移るなら移るで仁聖が連絡してこない筈がない。それともやっぱり学校での謝恩会が盛り上がり過ぎて、抜け出せない状況なのかとも考える。もう一度かけようとした瞬間手の中で着信音がなり響き、ディスプレイに表示された源川仁聖の名前にホッとしたように恭平は息を溢した。

「仁聖?今、何処だ?」
『…………恭平?』

受話器から零れ落ちた声は仁聖のものじゃなかった。
一瞬で空気が凍りつき、恭平は自分が何を聞いたのか理解できずにその場に立ち竦んだ。恭平の耳に入ったのは彼の予想していた仁聖の声ではなく、全く想定の範囲にすらない人間の声だった。受話器から響く低い含み笑いが、まるで異質なもののように耳に流れ込んでくる。

『ふふ………よぉ、久しぶり。』

ドクドクと音を立てて動悸が耳の中で木霊する。まるで全身が凍りついたように血の気が引いて、スマホを握っている筈の指先が微かに震え感覚が遠のいていく。

『………何か言わないのか…?恭平?』
「何で……お前がこの電話に出るんだ………了…。」

震えて掠れる恭平の声がやっとの事でそう呟くと、まるで可笑しな事でも聞かれた様に受話器の向こうで成田了が歪な笑声を溢した。

『なんだよ………久々の会話がそれ?つれないなぁ……。』

成田了。
その名前をもう一度頭の中で繰り返すと、更に血の気が引いていく。酔った勢いで自分に抱きついて投げ飛ばされ肋を折る羽目にあった大学時代の同級生。元々バイセクシャルで相手は不特定多数、人柄は悪くないが何故か自分を気に入って、いつの間にか友人に変わった。だけど仁聖と恭平が付き合ったのを知って、自分に薬を飲ませて抱こうとした相手。違法な薬物を呑んでいたと警察に捕まったと村瀬篠からは聞いた後、ふっつりと連絡も途切れ誰も何をしているか知らない。 
そんな相手が何で仁聖にかけた電話に出て、笑っているのか恭平は背筋が凍るのを感じた。まさかと、心の中で自分が呟くのが分かる。

「……………仁聖…は?……無事……だろうな?」
『仁聖君?あぁ…どうかなぁ……。』

恭平の言葉を馬鹿にしたような笑いに、更に心が芯まで凍り付いていくのが分かる。自分に薬を使ってまで拉致・監禁の強姦紛い行為をしてのけた了が、今仁聖のスマホを使っているという現実。
自分が完全に狼狽し、悪い結果を脳裏が走る。不意に今朝仁聖を送り出した時感じた感覚が、過去に自分が母と最後に言葉を交わした直後に感じたものと酷似していた事に気がつき全身が震えだすのが分かった。

「………今直ぐ仁聖を返せ。」
『………返して欲しい?じゃお迎えに行ってあげないとさ?帰れないんじゃないかなぁ?』

ギクンとその言葉に体が強張り恭平は、震える唇を血が出るほど強く噛んで息を詰める。何処かに監禁している上に、その場を離れられる状況。それに陥っている仁聖は無事なのだろうかと、頭が回らなくなっていく。

「………何処にいるんだ………お前。」
『いいぜ?教えてやるから………ちゃあんと一人で迎えに来いよ?…じゃないと………言ってる意味分かるよなぁ、恭平。』

茶化すようにそう告げた声がシティホテルらしい居場所を事務的に口にして勝手に切れる。恭平はその場に凍りついたまま、呆然とスマホを見下ろしていた。
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