鮮明な月

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第九章 可愛い人

83.

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三人の姿がエレベーターホールに消える前にドアを閉じた恭平は、そのままドアにもたれかかるようにしてもう一度ふぅと深い息をつく。

「恭平、こっちきなよ?ソコ寒いでしょ?」

いつの間にか先に入った仁聖がリビングのドアを押し開き、何時もと変わらぬ口調でそう促す。何時もと変わらない仁聖の様子に、思わずホッとした微笑みを浮かべて恭平は素直に従う。リビングに足を踏み入れるとドアの傍に立っていた仁聖が、ニッコリと笑いかけて恭平の手をとる。目を丸くする恭平の手を引きスタスタとリビングを横切り、先にソファに腰掛けると立ち尽くしている恭平を更に促した。

「はい、恭平。座って。」

何処にという当惑する恭平の視線に当たり前のように、仁聖は自分の膝の上を示す。何時もと変わらない調子の仁聖に、呆れたような恭平の視線が向けられる。それを気にした風でもなく仁聖は無造作にその手を引くと、ストンと恭平の体を膝の上に引き寄せ抱え込むように抱き止めた。批難の声を上げようとしたものの仁聖の体温に思わず黙り込んだ恭平がされるままに肩に顔を預ける動作を浮かばせる。すると、仁聖はまるで子供にするように、その背中をポンポンと優しく叩く。

「……You often worked hard. 」

耳元によく頑張りましたと何気なく告げる仁聖の口調に、思わず苦笑を浮かべて恭平がその言葉を反芻するかのように囁く。恭平を抱きかかえた手は、変わらず労わるように彼の背を撫でる。

「でも、俺の可愛い人は、放っておくと独りで頑張りすぎるから心配なんだよね?恭平。」

不貞腐れてもいるように聞こえる、それでも自分を心配する声に、思わず苦笑いが浮かぶ。子供のように抱かれて背を撫でられあやされているのが、少しだけおかしい気がして恭平は呆れるように口を開く。

「…またそんな・言い方…。それに…別に頑張ってなんか…。」

その言葉に仁聖は、何を言っているのと言いたげに反論の口を開いた。

「頑張ってたよ?泣きたくなったり緊張しちゃったり…表に見えるよりずっと恭平って苦手な事多いの知ってるんだからね?」

思わぬ反論の言葉に意表をつかれた恭平は、肩に顔を乗せながら目を見開く。そんなこと匂わせたつもりもないのに、ただ横に居ただけの口にしなくとも仁聖は全部理解してしまっている。それが驚きにかわって、同時に安堵すらしてしまう。

「…もう全部知ってるんだからね?俺は。だから、恭平は……頑張ってたよ。」

その声に苦笑が淡く滲んで消えながら「そっか」と微かな声が小さく呟く。今は仁聖がこうして理解してくれるから、闇雲に憎む事も感情を昂ぶらせる事も自分には必要ない。自分の本心を理解してくれる存在があるから穏やかに自分すら見つめることが出来たのだと改めて心の中で囁く。そうしながら改めて、そのしっかりした肩に顔を押し付ける。

「……泣きたかったら……泣いてもいいよ?」
「…ん…、いや…大丈夫だ…。」

そ?と柔らかい声が囁き間隔の変わらない手付きでそっと背中を撫で続け、恭平は心地よい感触にうっとりと目を閉じた。ふっと耳元で仁聖がそれに気がついたように、小さな声で囁く。

「でも…良かったね?」
「うん?何が…?」

ふっとその言葉に肩から視線を上げた恭平の少し不思議そうな表情と、仁聖の柔らかい微笑みがぶつかる。

「…だって、慶太郎の親父さんもおふくろさんも、恭平に会いたくて来たんだよね?」
「え………?」

唐突なその言葉の意味が分からずに恭平がキョトンとした表情を浮かべたのに、仁聖は気がつかないの?といいたげな視線でその顔を覗き込む。

「だって、慶太郎を迎えに来る必要ないよ?あいつが今日の午後に帰るって言って昨日は納得したんだもん。」

なんだ気がついてないのと言いたげに、仁聖が見下ろす恭平の視線を見つめ返す。

「それでも恭平がどういう風に暮らしてるか知りたくて、恭平に会いたくて・話がしたかったから、わざわざ二人でココまで来たって俺でも分かるよ?」

微笑みながら囁かれる言葉に、ハッとした様に恭平の表情が変わる。
前日の電話で今日の昼には帰宅すると言った慶太郎に了承したのだから、小学生でもないのに確かに二人が迎えに来る必要は無かった。大体にして両親との口論が発端で飛び出したとは言え、居場所もハッキリしていて互いの身元も分かりきっている。もし必要で迎えをよこすとしても確かに両親が来る必要もない。家政婦だっているのだから最悪その家政婦が迎えに来る可能性だって無くはない。
そして何よりも道場や旧家であるのだから、猫の手を借りたいほどに忙しいはずの年末なのだ。主人と妻女が揃って家を空けてまで、ここに迎えに来るほど切羽詰った理由などない。大体にして当の慶太郎の性格を考えてみれば、迎えすら必要ないのだ。二人がここに来る必要は何も無かった筈だと、良く考えればすぐ分かる。
ね?そうでしょ?といいたげな仁聖の表情に、不意に恭平は力を込めて仁聖の体をギュッと抱き締め再び肩に顔を埋める。

「…どうして…ほんと………、本当にお前って……。」

肩に埋められた顔が熱を帯びたように震えるのを感じて、仁聖はもう一度優しい手付きでその背中を包み込む。冷静なふりをしてもまだ何処か冷静ではない恭平が、気がつかずに過ごそうとしてしまったこと。その自分が気がつかずに見逃していたことを難なく見つけて、そっと真実に気づかせてくれたその優しい肩に顔を押し付けた恭平が暫く声もなく涙を溢すのを肩で感じ取りながら、仁聖はただ無言でそっとその背を撫で続けた。やがて少し落ち着いたのか潤んだ瞳をあげた恭平の顔を覗き込むようにしながら、仁聖が柔らかく甘い微笑みを浮かべて見せる。

「全く気がついてなかったんだ?恭平ってば。」
「うん……お前って…凄い………。」
「惚れ直した?」
「……うん。」

何気ない冗談めかした問いかけに素直に答えられて、逆に面食らったように仁聖は表情を紅潮させる。あからさまなその照れた様子に微かに微笑みを浮かべて恭平がその頬に口付けると、更に真っ赤になった仁聖が慌てた様に恭平を上目遣いに頬を染めて見上げた。

「も…、も~…恭平ってば昨日からなんでそんな可愛い事ばっかり、平気でしちゃうの?」
「お前のせいだ。」
「俺の~?そうなの?」

拗ねたような恭平の声にクスクスと小さな笑いを溢しながら仁聖が嬉しそうに微笑み、悪戯っ子のような表情で覗き込む。そうしながら落ち着いた様子の恭平の気色に安堵した気配を滲ませて、「年越しの買い物いこっか?」と明るく仁聖の声が囁きかけていた。



※※※



二人並んでゆったりと道を歩いて、二人で当然のように相談しながら品定をして買い物をして、二人でゆっくりと時間を過ごす。本来ならありえない状況なのに、当の仁聖は流石にあからさまに手は繋ぎはしないものの当然という風に、すぐ傍にそっと寄り添っている。同時に恭平自身も自分が望んでいる事に気がついているし、そんな風に必ず傍に居てくれる仁聖が本心では可愛くて仕方がない。二人で何かをしようとする事が嬉しくて堪らないと伝えてくれる仁聖が、口には出さなくても酷く心の底から愛おしい。
フワリと微笑みながら自分を見つめる恭平の視線にその思いを見つけたように、仁聖は酷く満ち足りた気分で微笑みかけた。まるでその時その時が一番大切なもののように恋人同士がお互いが寄り添って行くのがよくわかる。食材を買い込んで帰途につこうとした足が、思い出したように立ち止まった。

「そうだ、御節を受け取ってこないとな。」
「え?毎年御節なんか買ってんの?!」

何気ない一言に驚いたように反応した仁聖の声の大きさに少し驚いた恭平が、慌てたように「馬鹿」と嗜める声を出す。大掃除だけでなく、そこまで徹底して年越しをするのかと思った仁聖が、だってと少し口を尖らせる。そんな仁聖に向かって辺りを憚る様な小さな呟きが「そんな訳あるか」と呟くのを聞いて、その言葉の理由に思いついたように仁聖がその顔を覗き込むようにして微笑む。

「結構…恭平も二人で過ごすの意識してる?」
「………当たり前だ…。」

小さくそう応える恭平の頬が横でみて判るほど真っ赤になるのが分かって仁聖は、擽ったいような胸の奥に幸福感が満ち溢れる気持ちでその姿を見つめる。自分が大事にしたいと思う分以上に大事にしてくれる恭平の優しさが今まで自分が知らなかった沢山の事を教えてくれる。頬を染めた恭平の表情が、愛しくて可愛くて仕方がない。

「…恭平って…ほんと可愛い……。」
「……可愛いって言うな…、馬鹿。」

こうして二人で並んで歩いていられるのが幸せだよとそっと囁くと、更に真っ赤になった恭平の指が躊躇いがちに自分の指先に触れて仁聖は微笑みながらその手をしっかりと握り返していた。



※※※



「ほんと、今年は最後まで驚くことばっかりだったねぇ?恭平。」

そろそろ年末の残り時間も少なくなって来たことを知らせるテレビ番組を何気なく視界に入れながら仁聖が横にいる恭平の顔を覗き込む。寛いだ様子で何気なく年越し蕎麦をつついていた仁聖の声に、恭平も少し苦笑を浮かべながら同意の声を返した。

「来年は少し穏やかだといいな…。」
「ほーんと、もう少し二人っきりでラブラブに過ごしたいよ。」

能天気なその言葉に一瞬呆れたような表情を漂わせた恭平が、半分はお前のせいだと言いたげな視線を向けたのを受け流してカウントダウンの始まったテレビに気がつく。
和やかな新年を告げるテレビの中の声にキチンと居住まいを正した仁聖が、同じように背筋を正した恭平にニッコリと笑みを向けて頭を下げる。

「……あけましておめでとうございます。」
「あけましておめでとうございます。」

お互いに頭を下げながら、今年もよろしくと小さな声で囁きあう。暫しそのまま寛いでから仁聖は、食器を下げてシンクにおいてきた恭平の姿を見上げた。

「ねぇ、恭平?初詣今から行くの?」
「ん?何だ?行かないのか?」

どうやらそのつもりだったらしい恭平の不思議そうな声に賑やかだが微動だにしない参拝客を映した画面を指差して混んでるから後にしない?と何気ない口調で囁きかけて仁聖が徐に立ち上がる。ヒョイと歩み寄った仁聖の悪戯っ子のような視線に気がついて微かに目を細めた恭平の様子を眺めながら、その腰に意味深な手付きで腕を回す。

「先に…初夢見ようよ?いい夢見てから初詣いこ?」
「…寝る前に何かする気だろう?」
「んーと……ま…少し?」

ふぅんと呆れた視線がそれを迎え撃つのに仁聖が駄目?と強請る声で囁きかける。意味深な視線でそれを受け止めた恭平の表情に気を良くした仁聖がその腰を引き寄せて、柔らかい仕草で抱き寄せた体を包み込むようにして唇を重ねていく。しっとりと滑らかな甘さを堪能して微かに荒げた吐息を感じ取り、もう一度強請る視線でトロンとした瞳を覗き込むとその唇がふっと笑みを浮かべた。

「全く…困った奴だな……。」
「そんな奴が好きなくせに……違う?」
「……確かめるか?」

その柔らかい声にその体をエスコートするかのように引き寄せて、歩き出した仁聖が寝室のドアをくぐり気がついた様にリビングの電気を消す。そして微かに悪戯めいた視線で微笑みながら後ろ手に寝室のドアが、パタンと音を立てて閉じられていた。

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