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第四章
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どうして…こう時間って早いんだろう。
ふっとリビングの壁際で腕を組みながら仁聖は、物憂げに視線を壁に向けた。触れ合って満ち足りた時間を過ごした旅行から現実に戻って、あっという間の時間の経過。日々は酷く早く過ぎて目にしたカレンダーはもう八月最後の週末を含む後数日しか残っていない。
運悪く八月半ばから大きな翻訳の仕事が入った恭平は書斎に篭りがちで中々一緒に居る時間が取れないでいた。日中の殆どを自分が学校の講習とバイトで不在にしているという状況。それでも僅かでも一緒にいられる夜の時間のお陰で、自分が何とか均衡を保っているのが分かる。
数えるまでも無く後数日しかない夏休み。そして最初の約束は夏休みの間だけの≪試験的な≫同棲だった。
カチャと音を立ててリビングのドアを開き少し疲労感を滲ませる表情を浮かべた恭平が、立ち尽くしている仁聖の姿に訝しげに眉を顰める。
「…どうしたんだ?仁聖。」
「あ、恭平…仕事どう?」
「ん?あぁ、…今一段落だ。締め切りまではまだ時間的に余裕があるから………。」
その言葉に不意に視線を向けた仁聖が意を決した様に大またに歩み寄り、恭平は更に訝しげな表情を深めてその様子を見上げる。至極真剣な眼差しで「話があるんだけど」と口にした仁聖の勢いに気圧されたように、恭平は思わずその視線を無言のまま受け止めた。
「恭平…あのね、俺……夏休み後3日しかないんだ。」
その言葉に、あっと言うように表情を変えて恭平は目を丸くする。学生の身分とは違う上に不定期な仕事をしている恭平にとって期間的な時間の感覚は少し疎い物だったことがわかって、仁聖は微かに不安気な表情を滲ませた。恭平はふっと視線をカレンダーに向けて日付を見つめながら、微かに躊躇うように言いよどむ。
「…そうか…、そうだったな…時間…過ぎるのが早いな?」
「うん…、この週末で夏休み終わっちゃうんだ…、だから…恭平…俺。」
「………どこか…行きたいか?」
「ううん……。」
ほんの少しの時間も考えずに首を振った仁聖の様子に恭平が首を傾げる。それを眺めながら、仁聖は躊躇いがちに口を開いた。
「……ただ・恭平と一緒にいたいだけ。仕事忙しいと…さ……。」
躊躇うその声に恭平は苦笑を浮かべて溜め息をつく。
仕事の間は必要な事以外は恭平の邪魔にならない様にと必死に気を配る仁聖の様子を思い浮かべる。恭平はその姿を思うと、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。自分を優先して欲しい筈なのに必死にそれを飲み込んで、ギリギリの日付まで我慢してきたその気持ちが酷く切なくて愛おしくなる。本当はその後に続けるつもりだった仕事の配分を調整しながら恭平は、手を伸ばしてその頭を抱き寄せた。
「恭平…?」
「………お前に週末はつきあうよ。」
「でも…仕事が。」
「さっき言ったろ?……一段落したって。」
その言葉の中の優しい嘘の存在に気が付いて、仁聖は苦笑を浮かべる。愛おしくて大事な恋人の優しい自分を思う嘘の存在を今はそのまま受け入れて甘えてしまう。そして、その上で本当に言って欲しい言葉をどうにかしてその口からいって欲しい。言わせたいと願う自分に気がつく。抱き寄せられたままの腕の中で思わず視界が揺れる自分を感じながら仁聖は、その肌に頬を滑らせ腰に手を回した。
この一ヵ月半の間に何度この腰に直に手を回し肌に触れ、甘く漂う香りに包み込まれながら歓喜を憶えただろう。その思いに仁聖は、瞳を伏せる。触れれば触れた以上に、更に欲しくて仕方がなくなっていく。時折かかってくる異母弟である慶太郎の電話ですら拒否させたくなるほどに、彼を独占したくて仕方がない自分の幼い欲望が酷く怖くなる。
「俺…我侭だね?ごめん………。」
今までこんなに我侭になった事が無かったと呟く心の中を見透かしたかのように、抱き寄せた恭平が柔らかく微笑んでそのフワリとした髪に埋めるように顔を伏せて囁く。
「…お前はその方がいい。前よりずっと……今の方が…。」
「我侭な方が…?」
クスリと苦笑を溢した仁聖に、抱き寄せたままの恭平も微笑む。身を離した恭平の表情を見つめる何かを期待する視線に気が付いて、恭平は微かに目を細めながら一緒に居る時間を愛おしむ様にその表情を潤ませる。
「……今の方が……俺は……好きだ、から。」
「俺も、今の恭平の方がずっと好き。」
嬉しそうに答える仁聖の視線に少し気恥ずかしそうに微笑んだ恭平が、ふともう一度壁のカレンダーに目を向けて日付を目で追う。
「……ほんとにあっという間だったな……。」
小さく囁いたその言葉に胸の内が疼くような想いを感じながら仁聖の視線が、真っ直ぐに恭平を見つめた。その瞳を見下ろした恭平が躊躇いがちに視線を伏せて暫し言葉を失う。二人で過ごした時間の存在が確かにそこにはあって、それが終わる事に気がついた様に恭平の表情がスッと曇る。それを見た仁聖は息を飲む。
言って…お願いだから……、ここに居ろって…このまま一緒にって……。
仁聖の心の中が悲痛なほどにその言葉を欲しがっている。それを知ってか知らずか、暫しの無言の先で信弥は一つ溜め息をついて瞳を覗きこむ様に見つめる。思う事をどう形にしていいのか分からない風なその視線を見つめながら、ジリジリと焦れていく様な自分を感じ仁聖は思わずその腕に手を触れ指を回す。その動作に仁聖が自分の言葉を待っている事に気がついた恭平が、一瞬力の籠った腕を掴む手に眉を寄せ躊躇いがちな言葉を口にした。
「…仁聖。」
お願いだから、このまま此処に居ろって言って…一緒にこのまま住もうって。
心の中で何度も悲鳴のように叫びながら、仁聖は息を呑んでその人の言葉を待つ。仁聖の自分の腕を掴む指が力を籠めながらも微かに震えていくのが分かり恭平は、真正面からじっとその瞳を見つめたままゆっくりと吐息を溢す。腕を掴んだままの縋る様な瞳が何を欲しているのかは、恭平にも痛いほどに分かっている。
「……仁聖…、休みが終わったら………。」
口にする言葉を待つ視線に一瞬躊躇いが浮かぶ。そして、ふぅと溜息に似たを息をつきながら恭平はゆっくりと言葉を区切りながら囁きかける。
「……また…今迄と……同じ様に……、お前が来れる時に来てくれれば…。」
ハッとした様に仁聖はその言葉に唇を噛む。その言葉の意味を反芻するまでもなく、表情は切なく歪んで泣きそうに揺れた。それでいてちゃんと現実を理解しようと、必死に感情を抑えつけているのが分かる。痛々しいほどに必死に揺れながら、無理に浮かべた微笑みはぎこちなく表情に張り付いた。
「うん…そう……だよね。また…毎日通っていいんだよね?」
擦れていく声の痛々しさに恭平は、唇を噛んで自分の心が揺らぎそうになるのを飲みこんだ。一緒に居るのが当たり前だと思った訳ではない。しかし、例えどんなに傍にいたいと思ってもこの夢の様な時間は、当前の状況ではないことぐらい分かっている。同じように想いを伝えても、何でも叶えてやりたいと思っていても無理を通せる事とそうでないモノがはっきりあると理解していた。だから、揺れて砕けてしまいそうなその言葉を貫くしかできないと理性が悲鳴を上げ心の中で軋む。
不意に世界が色を失っていく様な気がして息を詰めた恭平を真っ直ぐに見つめていたぎこちない強張った微笑みが宙に溶けて消え去り、その表情は困惑に包まれた。
「……恭平?何で……?」
戸惑う様な仁聖の問いかけの意味が分からずに、ただジッと砕けそうな世界を感じる。不意に腕を掴んでいた手の力が緩み、その暖かい掌が自分の両方の頬を包んで心地よくしっとりとした感触をさせた。恭平は真っ直ぐに自分を覗きこむ微かな青味がかったキラキラした瞳を見下ろす。その瞳はキラキラ光ってまるで宝石のように綺麗だ。そう思った瞬間、不安そうな仁聖の声が落ちる。
「恭平……何で泣くの?」
囁きかける声に初めて自分が見ているキラキラとちりばめられる様な光が、自分が泣いているからだった事に気がついた。我知らずに溢れだした涙に濡れた頬に触れる掌が酷く熱い。恭平は自分が心細くて、震えだしそうになっている事にハッとする。たった一ヶ月半こうして二人でいただけで、以前の一人で暮らす世界に戻るだけ。それだけの事にこんなに怯えている自分の愚かさに心が震え、何も前と変わらない・二人の関係ですら何も変わらないのにと理性が感情を叱責する声が響く。それを見透かしたかのように不意に仁聖の表情が感情を弾けさせ、その手で恭平を引き寄せる。
「恭平!!本当の事言ってよ!!お願いだから本当の事言って!!…俺に…っ。」
思わずその声から逃れようと身を捩り手を振り払う恭平を再度両手で腕を掴み仁聖は、その背けた表情に向かって詰め寄った。
「俺の事あんなに愛してくれるでしょ?!俺の事あんなに欲しがってくれてるじゃないか!!」
リビングの中でもつれる様に詰め寄りながら必死に叫ぶ声に恭平は、耳を塞ぎたいほどに追い詰められていくのを感じる。真っ直ぐに切望される声に思うまま全てを曝け出したらどれだけ楽なのだろうと自分が思い始めているのに気がつく。きつく唇を噛んだ恭平に、感情を抑えきれずに仁聖も理性という歯止めが利かなくなっていく。
「言ってよ!俺にここにいて欲しいって!!一緒に居ろって!!ただ…恭平がそう言ってくれたらっ!」
「い…言えるわけ…ないっ…、そんな事言える訳ないだろ!!」
鋭く叫ぶような初めて聞く恭平の声に、仁聖は目を見開き震える様な声を零した目の前の人をまじまじと見つめた。
「……ど………して?…俺は……。」
その戸惑う声に感情が震えて情けないと分かっている。それなのに更に大粒の涙が溢れ出し、恭平は掠れて滲む視界の中で必死に仁聖を見つめながら苦しげに言葉を押し出した。
「……お前は…、まだ…保護されているんだぞ……?血の繋がりも何もない…俺に……、お前をここに引きとめられるわけがないだろ……お前にはちゃんと家族がいるんだ……。」
その言葉に仁聖は唖然とする自分に気がつく。そんな何時も傍にいない人間の事なんかより、はるかに目の前の人の方が大事な存在なのに。何故恭平が唐突にその事を口にしたのかが、仁聖には分からない。
「そんな……年に何回かしか…、俺には…あんな人より恭平の方がずっと……。」
血縁の人間にも恭平を渡したくないと願っている自分。仁聖の独占欲と対比するかの様な苦痛に満ちた恭平の言葉。仁聖は口にした直後に胸の内が、ズキンと疼く様に痛みを放つのを感じた。例え自分を叔父が殆ど省みていないという事実を知ったとしても、例え今まで自分がその家でどう過ごしているかを彼が知ったとしても、目の前の人の過去を思えば決して彼が血の繋がりを無下にできないと分かり過ぎるほどに分かっている。
「それでも…お前の家族だ……。俺にだって…どうにもできない事がある……俺の我儘で…。」
その最後の言葉の悲痛な響きに自分の昂った感情に不意に水が沁みわたる。仁聖は、我に返ったように彼が涙を溢している理由に気がついた。
俺だけが…そう思ってた訳じゃないんだ。そうなんだよね?だから自分の我侭って言うんだね?
大人だからこそ、常識を思うからこそ恭平には言えない。その儚い想いを見つけたように無理やり引きとめていた筈の手から力を抜いた。目の前で微かに震える体を曝す恭平を見つめながら、仁聖は切なく疼く気持ちを感じる。そして、そっとその体を抱き寄せて寸前まで酷くざわめいていた自分の感情を飲み込む様に、静かに深く長い息をついた。仁聖は恭平の顔を覗き込み微笑む。
「……俺、ホントに凄いガキだね…。恭平の気持ち分かるのに……我儘ばっかり言って。」
「仁…聖……。」
涙を溢しながら微かに震えるその体を抱き寄せて仁聖は、後悔と切望とが入り混じる声で囁きかける。守ると決めた筈のその存在を傷つけてしまう後悔とこれからを必死に願う想い。それがそのひっそりと涙を流す恭平に、何も隠すことなく全てそのまま伝わればいいと仁聖は心から思う。
「今は無理だけど…、そう出来る時が来たら…恭平、俺と一緒に暮らそ?」
そうするために努力するからと言う言葉を飲み込んで見つめる仁聖の視線に、微かに腕の中で恭平が微笑むのが分かる。勝手に先まで決めるなと不満げに、それでも何処か嬉しそうに呟く。恭平の小さな声に目を細めて仁聖はその体をしっかりと抱き締めて、フワリと漂うその人の香りに包み込まれていく。
大切で大事にしたいその存在をこれ以上傷つけないですむように、そしてしっかりとその美しく儚い光を守れるようにと、ただ仁聖は心から願いながら窓の外の陽射しの中・青空に浮かぶ腕の中の人の様な白い月の姿にふと視線を向けていた。
ふっとリビングの壁際で腕を組みながら仁聖は、物憂げに視線を壁に向けた。触れ合って満ち足りた時間を過ごした旅行から現実に戻って、あっという間の時間の経過。日々は酷く早く過ぎて目にしたカレンダーはもう八月最後の週末を含む後数日しか残っていない。
運悪く八月半ばから大きな翻訳の仕事が入った恭平は書斎に篭りがちで中々一緒に居る時間が取れないでいた。日中の殆どを自分が学校の講習とバイトで不在にしているという状況。それでも僅かでも一緒にいられる夜の時間のお陰で、自分が何とか均衡を保っているのが分かる。
数えるまでも無く後数日しかない夏休み。そして最初の約束は夏休みの間だけの≪試験的な≫同棲だった。
カチャと音を立ててリビングのドアを開き少し疲労感を滲ませる表情を浮かべた恭平が、立ち尽くしている仁聖の姿に訝しげに眉を顰める。
「…どうしたんだ?仁聖。」
「あ、恭平…仕事どう?」
「ん?あぁ、…今一段落だ。締め切りまではまだ時間的に余裕があるから………。」
その言葉に不意に視線を向けた仁聖が意を決した様に大またに歩み寄り、恭平は更に訝しげな表情を深めてその様子を見上げる。至極真剣な眼差しで「話があるんだけど」と口にした仁聖の勢いに気圧されたように、恭平は思わずその視線を無言のまま受け止めた。
「恭平…あのね、俺……夏休み後3日しかないんだ。」
その言葉に、あっと言うように表情を変えて恭平は目を丸くする。学生の身分とは違う上に不定期な仕事をしている恭平にとって期間的な時間の感覚は少し疎い物だったことがわかって、仁聖は微かに不安気な表情を滲ませた。恭平はふっと視線をカレンダーに向けて日付を見つめながら、微かに躊躇うように言いよどむ。
「…そうか…、そうだったな…時間…過ぎるのが早いな?」
「うん…、この週末で夏休み終わっちゃうんだ…、だから…恭平…俺。」
「………どこか…行きたいか?」
「ううん……。」
ほんの少しの時間も考えずに首を振った仁聖の様子に恭平が首を傾げる。それを眺めながら、仁聖は躊躇いがちに口を開いた。
「……ただ・恭平と一緒にいたいだけ。仕事忙しいと…さ……。」
躊躇うその声に恭平は苦笑を浮かべて溜め息をつく。
仕事の間は必要な事以外は恭平の邪魔にならない様にと必死に気を配る仁聖の様子を思い浮かべる。恭平はその姿を思うと、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。自分を優先して欲しい筈なのに必死にそれを飲み込んで、ギリギリの日付まで我慢してきたその気持ちが酷く切なくて愛おしくなる。本当はその後に続けるつもりだった仕事の配分を調整しながら恭平は、手を伸ばしてその頭を抱き寄せた。
「恭平…?」
「………お前に週末はつきあうよ。」
「でも…仕事が。」
「さっき言ったろ?……一段落したって。」
その言葉の中の優しい嘘の存在に気が付いて、仁聖は苦笑を浮かべる。愛おしくて大事な恋人の優しい自分を思う嘘の存在を今はそのまま受け入れて甘えてしまう。そして、その上で本当に言って欲しい言葉をどうにかしてその口からいって欲しい。言わせたいと願う自分に気がつく。抱き寄せられたままの腕の中で思わず視界が揺れる自分を感じながら仁聖は、その肌に頬を滑らせ腰に手を回した。
この一ヵ月半の間に何度この腰に直に手を回し肌に触れ、甘く漂う香りに包み込まれながら歓喜を憶えただろう。その思いに仁聖は、瞳を伏せる。触れれば触れた以上に、更に欲しくて仕方がなくなっていく。時折かかってくる異母弟である慶太郎の電話ですら拒否させたくなるほどに、彼を独占したくて仕方がない自分の幼い欲望が酷く怖くなる。
「俺…我侭だね?ごめん………。」
今までこんなに我侭になった事が無かったと呟く心の中を見透かしたかのように、抱き寄せた恭平が柔らかく微笑んでそのフワリとした髪に埋めるように顔を伏せて囁く。
「…お前はその方がいい。前よりずっと……今の方が…。」
「我侭な方が…?」
クスリと苦笑を溢した仁聖に、抱き寄せたままの恭平も微笑む。身を離した恭平の表情を見つめる何かを期待する視線に気が付いて、恭平は微かに目を細めながら一緒に居る時間を愛おしむ様にその表情を潤ませる。
「……今の方が……俺は……好きだ、から。」
「俺も、今の恭平の方がずっと好き。」
嬉しそうに答える仁聖の視線に少し気恥ずかしそうに微笑んだ恭平が、ふともう一度壁のカレンダーに目を向けて日付を目で追う。
「……ほんとにあっという間だったな……。」
小さく囁いたその言葉に胸の内が疼くような想いを感じながら仁聖の視線が、真っ直ぐに恭平を見つめた。その瞳を見下ろした恭平が躊躇いがちに視線を伏せて暫し言葉を失う。二人で過ごした時間の存在が確かにそこにはあって、それが終わる事に気がついた様に恭平の表情がスッと曇る。それを見た仁聖は息を飲む。
言って…お願いだから……、ここに居ろって…このまま一緒にって……。
仁聖の心の中が悲痛なほどにその言葉を欲しがっている。それを知ってか知らずか、暫しの無言の先で信弥は一つ溜め息をついて瞳を覗きこむ様に見つめる。思う事をどう形にしていいのか分からない風なその視線を見つめながら、ジリジリと焦れていく様な自分を感じ仁聖は思わずその腕に手を触れ指を回す。その動作に仁聖が自分の言葉を待っている事に気がついた恭平が、一瞬力の籠った腕を掴む手に眉を寄せ躊躇いがちな言葉を口にした。
「…仁聖。」
お願いだから、このまま此処に居ろって言って…一緒にこのまま住もうって。
心の中で何度も悲鳴のように叫びながら、仁聖は息を呑んでその人の言葉を待つ。仁聖の自分の腕を掴む指が力を籠めながらも微かに震えていくのが分かり恭平は、真正面からじっとその瞳を見つめたままゆっくりと吐息を溢す。腕を掴んだままの縋る様な瞳が何を欲しているのかは、恭平にも痛いほどに分かっている。
「……仁聖…、休みが終わったら………。」
口にする言葉を待つ視線に一瞬躊躇いが浮かぶ。そして、ふぅと溜息に似たを息をつきながら恭平はゆっくりと言葉を区切りながら囁きかける。
「……また…今迄と……同じ様に……、お前が来れる時に来てくれれば…。」
ハッとした様に仁聖はその言葉に唇を噛む。その言葉の意味を反芻するまでもなく、表情は切なく歪んで泣きそうに揺れた。それでいてちゃんと現実を理解しようと、必死に感情を抑えつけているのが分かる。痛々しいほどに必死に揺れながら、無理に浮かべた微笑みはぎこちなく表情に張り付いた。
「うん…そう……だよね。また…毎日通っていいんだよね?」
擦れていく声の痛々しさに恭平は、唇を噛んで自分の心が揺らぎそうになるのを飲みこんだ。一緒に居るのが当たり前だと思った訳ではない。しかし、例えどんなに傍にいたいと思ってもこの夢の様な時間は、当前の状況ではないことぐらい分かっている。同じように想いを伝えても、何でも叶えてやりたいと思っていても無理を通せる事とそうでないモノがはっきりあると理解していた。だから、揺れて砕けてしまいそうなその言葉を貫くしかできないと理性が悲鳴を上げ心の中で軋む。
不意に世界が色を失っていく様な気がして息を詰めた恭平を真っ直ぐに見つめていたぎこちない強張った微笑みが宙に溶けて消え去り、その表情は困惑に包まれた。
「……恭平?何で……?」
戸惑う様な仁聖の問いかけの意味が分からずに、ただジッと砕けそうな世界を感じる。不意に腕を掴んでいた手の力が緩み、その暖かい掌が自分の両方の頬を包んで心地よくしっとりとした感触をさせた。恭平は真っ直ぐに自分を覗きこむ微かな青味がかったキラキラした瞳を見下ろす。その瞳はキラキラ光ってまるで宝石のように綺麗だ。そう思った瞬間、不安そうな仁聖の声が落ちる。
「恭平……何で泣くの?」
囁きかける声に初めて自分が見ているキラキラとちりばめられる様な光が、自分が泣いているからだった事に気がついた。我知らずに溢れだした涙に濡れた頬に触れる掌が酷く熱い。恭平は自分が心細くて、震えだしそうになっている事にハッとする。たった一ヶ月半こうして二人でいただけで、以前の一人で暮らす世界に戻るだけ。それだけの事にこんなに怯えている自分の愚かさに心が震え、何も前と変わらない・二人の関係ですら何も変わらないのにと理性が感情を叱責する声が響く。それを見透かしたかのように不意に仁聖の表情が感情を弾けさせ、その手で恭平を引き寄せる。
「恭平!!本当の事言ってよ!!お願いだから本当の事言って!!…俺に…っ。」
思わずその声から逃れようと身を捩り手を振り払う恭平を再度両手で腕を掴み仁聖は、その背けた表情に向かって詰め寄った。
「俺の事あんなに愛してくれるでしょ?!俺の事あんなに欲しがってくれてるじゃないか!!」
リビングの中でもつれる様に詰め寄りながら必死に叫ぶ声に恭平は、耳を塞ぎたいほどに追い詰められていくのを感じる。真っ直ぐに切望される声に思うまま全てを曝け出したらどれだけ楽なのだろうと自分が思い始めているのに気がつく。きつく唇を噛んだ恭平に、感情を抑えきれずに仁聖も理性という歯止めが利かなくなっていく。
「言ってよ!俺にここにいて欲しいって!!一緒に居ろって!!ただ…恭平がそう言ってくれたらっ!」
「い…言えるわけ…ないっ…、そんな事言える訳ないだろ!!」
鋭く叫ぶような初めて聞く恭平の声に、仁聖は目を見開き震える様な声を零した目の前の人をまじまじと見つめた。
「……ど………して?…俺は……。」
その戸惑う声に感情が震えて情けないと分かっている。それなのに更に大粒の涙が溢れ出し、恭平は掠れて滲む視界の中で必死に仁聖を見つめながら苦しげに言葉を押し出した。
「……お前は…、まだ…保護されているんだぞ……?血の繋がりも何もない…俺に……、お前をここに引きとめられるわけがないだろ……お前にはちゃんと家族がいるんだ……。」
その言葉に仁聖は唖然とする自分に気がつく。そんな何時も傍にいない人間の事なんかより、はるかに目の前の人の方が大事な存在なのに。何故恭平が唐突にその事を口にしたのかが、仁聖には分からない。
「そんな……年に何回かしか…、俺には…あんな人より恭平の方がずっと……。」
血縁の人間にも恭平を渡したくないと願っている自分。仁聖の独占欲と対比するかの様な苦痛に満ちた恭平の言葉。仁聖は口にした直後に胸の内が、ズキンと疼く様に痛みを放つのを感じた。例え自分を叔父が殆ど省みていないという事実を知ったとしても、例え今まで自分がその家でどう過ごしているかを彼が知ったとしても、目の前の人の過去を思えば決して彼が血の繋がりを無下にできないと分かり過ぎるほどに分かっている。
「それでも…お前の家族だ……。俺にだって…どうにもできない事がある……俺の我儘で…。」
その最後の言葉の悲痛な響きに自分の昂った感情に不意に水が沁みわたる。仁聖は、我に返ったように彼が涙を溢している理由に気がついた。
俺だけが…そう思ってた訳じゃないんだ。そうなんだよね?だから自分の我侭って言うんだね?
大人だからこそ、常識を思うからこそ恭平には言えない。その儚い想いを見つけたように無理やり引きとめていた筈の手から力を抜いた。目の前で微かに震える体を曝す恭平を見つめながら、仁聖は切なく疼く気持ちを感じる。そして、そっとその体を抱き寄せて寸前まで酷くざわめいていた自分の感情を飲み込む様に、静かに深く長い息をついた。仁聖は恭平の顔を覗き込み微笑む。
「……俺、ホントに凄いガキだね…。恭平の気持ち分かるのに……我儘ばっかり言って。」
「仁…聖……。」
涙を溢しながら微かに震えるその体を抱き寄せて仁聖は、後悔と切望とが入り混じる声で囁きかける。守ると決めた筈のその存在を傷つけてしまう後悔とこれからを必死に願う想い。それがそのひっそりと涙を流す恭平に、何も隠すことなく全てそのまま伝わればいいと仁聖は心から思う。
「今は無理だけど…、そう出来る時が来たら…恭平、俺と一緒に暮らそ?」
そうするために努力するからと言う言葉を飲み込んで見つめる仁聖の視線に、微かに腕の中で恭平が微笑むのが分かる。勝手に先まで決めるなと不満げに、それでも何処か嬉しそうに呟く。恭平の小さな声に目を細めて仁聖はその体をしっかりと抱き締めて、フワリと漂うその人の香りに包み込まれていく。
大切で大事にしたいその存在をこれ以上傷つけないですむように、そしてしっかりとその美しく儚い光を守れるようにと、ただ仁聖は心から願いながら窓の外の陽射しの中・青空に浮かぶ腕の中の人の様な白い月の姿にふと視線を向けていた。
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