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第四章
30.
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「ほら、食べさせてあげるってば。」
右腕の怪我から二日目。右肩は固定され荷重をかけると再度関節が外れる危険性があるからと、まだ固定し右手を吊ったままの状態だ。恭平に促すように言う仁聖の声に、明らかに狼狽した表情で恭平が頬を染めるのを眺め思わず微笑む。指先の動作に問題はないだろうが、まだ肩が腫れているため冷やして固定したままで腕を持ち上げる事が出来ない恭平には食事も中々難しい。そのため甲斐甲斐しい世話焼きに徹する仁聖の様子に、恭平が困ったようにその顔を見つめる。
「自分で出来るからいいって。」
「何言ってんの?右利きなんだから箸も持てないでしょー?」
うっと言葉に詰まりながら、その日も再度治療を受けて帰宅した後もまだ熱があるからとベットからだしてもらえない。恭平が苦笑を浮かべ見上げる視線に、断固として譲らない仕草で仁聖は食事を介助する。学校の講習はサボってしまっているのを叱責したいのは山々だが、自分の怪我を引き合いに出されるとあまり強くも言えないでいる。それでも午後のバイトには短時間でも行っているあたりでどうなのかと思ってはいるのだが。早く治してしまうのが、先決なのだと恭平も思い始めていた。意外とこうと決めたら仁聖は梃子でも動かないと、この怪我に関して思い知らされてしまった。渋々と恥ずかしそうに差し出した箸に口をつけた姿に、何故か酷く嬉しそうに仁聖が微笑む。
「でもさ、ホント恭平って食細いよね?」
「…そうか……?」
自分も合間に食事をしながら自分を覗き込む仁聖の視線に恥ずかしいからあんまり見るなと呟く。そんな恭平を、まるで子供のような笑顔で仁聖が見つめる。
「そう言えば聞いた事なかったけど、好き嫌いとかないの?」
「ん?…無い訳じゃない…けど……。」
そんな会話すら凄く楽しいと言いたげに、興味津々と言う顔で仁聖が自分を覗き込む。何でそんな事まで話さないといけないんだと言う風にそっぽを向いてしまう恭平に、まるで強請るように仁聖が詰問口調を繰り返す。不意に呼び鈴が室内に響くのに小さく不満を口にしながらパタパタとインターホンに歩いていく後姿に、恭平は安堵しながら思わず苦笑を浮かべてしまう。
これじゃまるで……。
はたとその思考の先に気がつき、恭平は思わぬ言葉に自分が狼狽して頬を紅潮させる。すると、少し神妙な表情をした仁聖がドア越しに顔を覗かせた。
「恭平。」
「ん?…どうした?」
「慶太郎なんだけど…どうする?」
来訪者を告げた言葉に一瞬恭平の表情が険しくなるが、直ぐその表情が緩んで小さな微笑に変わる。それを目にした仁聖は、小さな溜め息をその場で付いて「分かった」とだけ呟いて踵を返した。
不思議だな…何も言わないのに俺が考えた事がちゃんと分かるんだな、仁聖は…。
小さな微笑を浮かべたまま器用にベットから身を滑らせると、ベットサイドのトレイを上手くよけながらリビングに足を向ける。少しふらつくような感覚に小さく苦笑しながら、リビングのソファーに腰掛けた。同時にドアを開いた仁聖が僅かに眉を上げたが、もう一度小さな溜め息をついてスタスタと歩み寄ると恭平の顔を覗き込む。
「……いい?話をするのはいいけど二人きりには絶対しないし、顔色悪くなったらベットに戻すよ?」
「大丈夫だ…分かってるし、…お前もいるから。」
思わぬその言葉に一瞬仁聖が頬を染めて小さく「そう言うのずるい」と呟くのを、微笑みながら見つめる。直後躊躇いがちにリビングに足を踏み入れた慶太郎の姿に視線を向けたが、微かに恭平が表情を硬くしたのを見つめ仁聖はスッと間に入るようにソファーに腰を下ろす。
「……何か……飲むか?慶太郎……。」
静かに言葉を向けられて一瞬困惑した瞳が恭平を見つめ、続いて仁聖を見つめた。小さな溜息混じりに視線を仁聖に向けた恭平が、珈琲を入れて欲しいと頼んだのに仁聖が眉をあげる。立ち尽くしたままの慶太郎に恭平がもう一度視線を向け、一瞬躊躇しながら立ち上がった仁聖の姿を横に恭平が座るよう促す。
「ちゃんと話すって言ったな…慶太郎。」
「に…兄さんっ…僕は…っ兄さんに怪我させるつもりじゃっ!」
「それはいいよ…俺も考えが足りなかった。それに自分が蒔いた種も……ある…。」
キッチンのカウンター越しの仁聖の視線を横に感じながら恭平は、ふぅと溜息を付くと異母弟の姿を見つめ口を開く。下手な隠しだてをしようとは思わない。ただ、あるがままを伝えるだけだ。
「…仁聖と付き合ってる……、体の関係も……ある。」
「っ……!」
「…あいつの方がお前と接する機会も時間も長いから、仁聖は辛かったと思う…だから先に俺から話そうと思った。」
改めて面と向かって話される言葉に、慶太郎も仁聖も息を呑んで恭平の顔を見つめる。慶太郎にとってその言葉が当惑を引き起こすのは当然だったが、仁聖にとっても恭平が何を考えていたかは驚きだった。
恭平、俺が頼んだからじゃなくて、俺が辛いだろうからって…
慶太郎に向けて恭平は淡く透き通るほろ苦い微笑を浮かべて視線を留めた。その真っ直ぐな視線に気圧された様に言葉を失っている慶太郎に、目の前の微笑みは静かに穏やかに言葉を繋いだ。
「認められないだろうし、男同士でおかしいと思うだろうけど……引き返せない…俺には出来ない……。」
午後の陽射しが揺らぐ視界の中で、微かなヤカンが立てる音を漂わせる室内にその言葉は酷くハッキリと響き渡っていた。
※※※
初めて道場で榊恭平の姿を目にした時、凄く綺麗だと思ったのを今でも覚えている。七つ年上の彼はまだ中学生前だった筈で、段位の無い白袴は道場では際立つ。大概の十歳以下の門下生が手習い程度で戯れている中、一人だけ大人達と一緒に修練する華奢で線の細い姿。しなやかに舞うような体捌きや足の運びの流麗さ、技を繰り出す動作の無駄のない運び。道場の中で群を抜いて美しいその仕草は、大人達の中に居ても一際目だつ。そして、修練以外の時の誰にでも分け隔ての無い柔らかな物腰と凛とした姿勢に憧れた。
それなのに、自分がやっと道場で鍛錬を始める事を許された七歳の時、ほんの数ヶ月の時間だけ一緒に道場にいただけで恭平はフッツリと姿を消してしまった。自分が抱いていた憧れを裏切られたような気がして、だからそれからずっとその存在に触れないようにしていたのだ。
それなのにその人が実は自分と腹違いの兄だと父から聞かされた時、その感情はどうしたらいいのか分からない。どう昇華したらいいか分からないものに生まれ変わっていった。
※※※
目の前に座って静かな表情で自分を見つめる恭平の表情は、今まで一度も見たことが無いほど穏やかで澄んだ空に浮かぶ月のようにひっそりと美しい。そんな風に見つめる視線は今まで見た事が無かったし、その口から溢れる言葉も今まで聞いた事もない。
「……俺は…仁聖の……事が、…誰よりも…大事なんだ。」
「大事って………、兄さん……。」
少し決まり悪そうに、それでいて驚くほどに綺麗な恥らう表情がその顔に浮かんだ。その表情に思わず自分が見とれてしまうのに気が付く。躊躇いがちに視線を少しキッチンの方に投げた恭平が、薔薇色に染まる頬で唇を噛み息をついた。
「…仁聖が好きなんだ………、恋人として…愛してる。」
その言葉にキッチンにいた仁聖ですら、思わず息を呑むのを感じる。視線を伏せた恭平を信じられないと言いたげに慶太郎は見つめる。冷房の効いている筈の室内が不意に温度を上げたような気がして慶太郎は戸惑いながら小さく喉を鳴らし、異母兄を見つめ混乱している頭の中を収めようと思考を巡らせた。目の前にいるのは綺麗で優しく美しい、彼にとっては唯一の兄。彼との間に繋がるものがあると知った時から、慶太郎がずっと羨望してきた存在。
「…み……認められません、納得できない!」
思わず溢れ落ちた慶太郎の言葉に、傷ついたような微笑を浮かべた恭平の表情に激しく胸が痛む。陽射しの中で眩い恭平の姿に、不意に理性で固めた筈の感情が音を立てて焼ききれる。慶太郎は言おうと思った言葉ではないものが、その唇から溢れ落ちていくのを引き留められない。
「認められない!仁聖とだなんて絶対納得できない!!」
「……慶太郎。」
「僕だって……僕だって兄さんが好きなんです!」
腰を浮かそうとした慶太郎の前に、ドンと音を立ててマグカップが置かれた。ハッとした慶太郎の視線の先に、冷やかな瞳で自分を見下ろす仁聖の姿を見てとめる。不意に放たれた言葉に混乱した恭平の表情を覗き込み当然という風に隣に腰掛けた仁聖が、何時になくにっこりと満面の作り笑いを浮かべたかと思うと冷やかな声を上げた。
「お前、恭平が言ったの理解出来ない訳?」
「お前に言われたくない!僕は兄さんと話してるんだ。」
その言葉に苛立つように目を細めた仁聖が、不意に隣にいた恭平の腰を抱き寄せる。肩ではないのは彼が肩を痛めているからなのは、言わなくとも明白だ。
「言っとくけど恭平と付き合ってるのは俺なの。恭平と俺は相思相愛でラブラブなの!!」
「じ…仁聖っ!お、お前っそういう事っ…。」
混乱の極みに居るというのに、更に唐突な行為に当惑してジタバタともがく恭平を抱きすくめたまま、唇を噛んだ慶太郎を真正面から怯む事もなく睨み付ける。あからさまな反対は予期していたが、まさかこんな態度での反論が降ってくるとは内心思っていなかった。が、それでも仁聖の視線を真正面から睨み返して慶太郎は拳を握った。
「とにかくっ…僕は認めない!兄さんは渡さない!」
ガタンと大きな音を立てて踵を返した背中を見送りながら、仁聖は思わず大きな溜息をついた。その仁聖の腕からやっと逃れた恭平が、唖然とした風に姿を消した異母弟の開けたままのドアを眺める。恭平の姿にもう一度溜息をついてから仁聖は、思案気に目を細めると、不意に立ち上がり呆然としている恭平の膝の間に身を滑らせた。仁聖は跪きながら、その顔を真っ直ぐに見上げる。しかし、その仕草にもほとんど気を向けないままに唖然としたような声が、恭平の形のいい唇から溢れ落ちた。
「……じ……仁聖……今の…どういうことだ?」
「質の悪い小舅が俺に出来たって事…。」
溜め息混じりに呟いた仁聖がそっと頬に手を触れて、自分の顔に視線を向けさせた。それでもまだ呆然としている唇に自分の唇を重ねて貪る様に舐め、吸いながら自分に意識を向けさせる。吐息を微かに零すその表情を、少し自分に意識を戻した恭平に微かに拗ねたような口調が囁く。
「……恭平…、俺怒ってるんだからね?」
「え…?」
驚いたようにキョトンとして、恭平が仁聖の顔を見下ろす。恭平の膝の間に膝をついて、見上げた視線は確かに怒りを滲ませている。
「幾らなんでも無防備すぎだよ。怪我だってしてるのに、わざと俺を離れさせるなんて……。」
仁聖の声に我に返った恭平が視線を下ろす。真っ直ぐに恭平を見つめながら、仁聖はふと思いついたように口を開いた。
「お詫びしてもらうからね?怪我が治ったら。」
「お詫び?」
そ、とだけ言いながら、もう一度仁聖が唇を重ねる。甘く執拗な仁聖のキスに、少しずつ体の奥が熱を感じ始めたのを自覚しながら恭平は戸惑うようにその言葉を繰り返す。仁聖が少しだけ悪戯っ子のような何かを企む笑顔を浮かべた。
「……エッチなお詫びがいい。」
「ばっ…ばか言うな!」
「……じゃぁ、……うん、デートしよ?一緒に映画見に行こう。」
ただでさえ異母弟の行動と言動に混乱したままの状況に、更に追い討ちをかけられて恭平が唖然とする。それを少し傾き始めた夏の陽射しの中で仁聖は、真面目な視線で強請るように同意を求める。
「お…お前いきなり何を…。」
「怒ってるんだよ?…心配ばっかりかけて。だからそのお詫びにデートして?」
「仁聖…?」
「痛い事とか嫌な事一杯だったでしょ?だから俺と楽しいことしよう?ね?」
それが実は自分を労わって、仁聖なりに気分を変えようとしているのだということに気がつく。恭平はふっとその瞳を覗き込み柔らかく微笑みかける。それに気がついて少し伸び上がるようにして再び唇を合わせた仁聖は、そのままそっと耳元で囁きかける。吐息に恭平が少し身を竦ませたのに気が付いて嬉しそうに目を細めた。フワリと微かに甘い香りを漂わせる恭平に、もう一度強請るような声を吹きかける。
「映画だったら男同士で行ってもおかしくないよ?ね?行きたいよ…恭平と二人っきりで。」
誘うように低く強請る声に、恭平は思わず息を呑む。どうしても自分は仁聖に甘いのかも知れないと、恭平は小さな苦笑を日差しの中で浮かべていた。
右腕の怪我から二日目。右肩は固定され荷重をかけると再度関節が外れる危険性があるからと、まだ固定し右手を吊ったままの状態だ。恭平に促すように言う仁聖の声に、明らかに狼狽した表情で恭平が頬を染めるのを眺め思わず微笑む。指先の動作に問題はないだろうが、まだ肩が腫れているため冷やして固定したままで腕を持ち上げる事が出来ない恭平には食事も中々難しい。そのため甲斐甲斐しい世話焼きに徹する仁聖の様子に、恭平が困ったようにその顔を見つめる。
「自分で出来るからいいって。」
「何言ってんの?右利きなんだから箸も持てないでしょー?」
うっと言葉に詰まりながら、その日も再度治療を受けて帰宅した後もまだ熱があるからとベットからだしてもらえない。恭平が苦笑を浮かべ見上げる視線に、断固として譲らない仕草で仁聖は食事を介助する。学校の講習はサボってしまっているのを叱責したいのは山々だが、自分の怪我を引き合いに出されるとあまり強くも言えないでいる。それでも午後のバイトには短時間でも行っているあたりでどうなのかと思ってはいるのだが。早く治してしまうのが、先決なのだと恭平も思い始めていた。意外とこうと決めたら仁聖は梃子でも動かないと、この怪我に関して思い知らされてしまった。渋々と恥ずかしそうに差し出した箸に口をつけた姿に、何故か酷く嬉しそうに仁聖が微笑む。
「でもさ、ホント恭平って食細いよね?」
「…そうか……?」
自分も合間に食事をしながら自分を覗き込む仁聖の視線に恥ずかしいからあんまり見るなと呟く。そんな恭平を、まるで子供のような笑顔で仁聖が見つめる。
「そう言えば聞いた事なかったけど、好き嫌いとかないの?」
「ん?…無い訳じゃない…けど……。」
そんな会話すら凄く楽しいと言いたげに、興味津々と言う顔で仁聖が自分を覗き込む。何でそんな事まで話さないといけないんだと言う風にそっぽを向いてしまう恭平に、まるで強請るように仁聖が詰問口調を繰り返す。不意に呼び鈴が室内に響くのに小さく不満を口にしながらパタパタとインターホンに歩いていく後姿に、恭平は安堵しながら思わず苦笑を浮かべてしまう。
これじゃまるで……。
はたとその思考の先に気がつき、恭平は思わぬ言葉に自分が狼狽して頬を紅潮させる。すると、少し神妙な表情をした仁聖がドア越しに顔を覗かせた。
「恭平。」
「ん?…どうした?」
「慶太郎なんだけど…どうする?」
来訪者を告げた言葉に一瞬恭平の表情が険しくなるが、直ぐその表情が緩んで小さな微笑に変わる。それを目にした仁聖は、小さな溜め息をその場で付いて「分かった」とだけ呟いて踵を返した。
不思議だな…何も言わないのに俺が考えた事がちゃんと分かるんだな、仁聖は…。
小さな微笑を浮かべたまま器用にベットから身を滑らせると、ベットサイドのトレイを上手くよけながらリビングに足を向ける。少しふらつくような感覚に小さく苦笑しながら、リビングのソファーに腰掛けた。同時にドアを開いた仁聖が僅かに眉を上げたが、もう一度小さな溜め息をついてスタスタと歩み寄ると恭平の顔を覗き込む。
「……いい?話をするのはいいけど二人きりには絶対しないし、顔色悪くなったらベットに戻すよ?」
「大丈夫だ…分かってるし、…お前もいるから。」
思わぬその言葉に一瞬仁聖が頬を染めて小さく「そう言うのずるい」と呟くのを、微笑みながら見つめる。直後躊躇いがちにリビングに足を踏み入れた慶太郎の姿に視線を向けたが、微かに恭平が表情を硬くしたのを見つめ仁聖はスッと間に入るようにソファーに腰を下ろす。
「……何か……飲むか?慶太郎……。」
静かに言葉を向けられて一瞬困惑した瞳が恭平を見つめ、続いて仁聖を見つめた。小さな溜息混じりに視線を仁聖に向けた恭平が、珈琲を入れて欲しいと頼んだのに仁聖が眉をあげる。立ち尽くしたままの慶太郎に恭平がもう一度視線を向け、一瞬躊躇しながら立ち上がった仁聖の姿を横に恭平が座るよう促す。
「ちゃんと話すって言ったな…慶太郎。」
「に…兄さんっ…僕は…っ兄さんに怪我させるつもりじゃっ!」
「それはいいよ…俺も考えが足りなかった。それに自分が蒔いた種も……ある…。」
キッチンのカウンター越しの仁聖の視線を横に感じながら恭平は、ふぅと溜息を付くと異母弟の姿を見つめ口を開く。下手な隠しだてをしようとは思わない。ただ、あるがままを伝えるだけだ。
「…仁聖と付き合ってる……、体の関係も……ある。」
「っ……!」
「…あいつの方がお前と接する機会も時間も長いから、仁聖は辛かったと思う…だから先に俺から話そうと思った。」
改めて面と向かって話される言葉に、慶太郎も仁聖も息を呑んで恭平の顔を見つめる。慶太郎にとってその言葉が当惑を引き起こすのは当然だったが、仁聖にとっても恭平が何を考えていたかは驚きだった。
恭平、俺が頼んだからじゃなくて、俺が辛いだろうからって…
慶太郎に向けて恭平は淡く透き通るほろ苦い微笑を浮かべて視線を留めた。その真っ直ぐな視線に気圧された様に言葉を失っている慶太郎に、目の前の微笑みは静かに穏やかに言葉を繋いだ。
「認められないだろうし、男同士でおかしいと思うだろうけど……引き返せない…俺には出来ない……。」
午後の陽射しが揺らぐ視界の中で、微かなヤカンが立てる音を漂わせる室内にその言葉は酷くハッキリと響き渡っていた。
※※※
初めて道場で榊恭平の姿を目にした時、凄く綺麗だと思ったのを今でも覚えている。七つ年上の彼はまだ中学生前だった筈で、段位の無い白袴は道場では際立つ。大概の十歳以下の門下生が手習い程度で戯れている中、一人だけ大人達と一緒に修練する華奢で線の細い姿。しなやかに舞うような体捌きや足の運びの流麗さ、技を繰り出す動作の無駄のない運び。道場の中で群を抜いて美しいその仕草は、大人達の中に居ても一際目だつ。そして、修練以外の時の誰にでも分け隔ての無い柔らかな物腰と凛とした姿勢に憧れた。
それなのに、自分がやっと道場で鍛錬を始める事を許された七歳の時、ほんの数ヶ月の時間だけ一緒に道場にいただけで恭平はフッツリと姿を消してしまった。自分が抱いていた憧れを裏切られたような気がして、だからそれからずっとその存在に触れないようにしていたのだ。
それなのにその人が実は自分と腹違いの兄だと父から聞かされた時、その感情はどうしたらいいのか分からない。どう昇華したらいいか分からないものに生まれ変わっていった。
※※※
目の前に座って静かな表情で自分を見つめる恭平の表情は、今まで一度も見たことが無いほど穏やかで澄んだ空に浮かぶ月のようにひっそりと美しい。そんな風に見つめる視線は今まで見た事が無かったし、その口から溢れる言葉も今まで聞いた事もない。
「……俺は…仁聖の……事が、…誰よりも…大事なんだ。」
「大事って………、兄さん……。」
少し決まり悪そうに、それでいて驚くほどに綺麗な恥らう表情がその顔に浮かんだ。その表情に思わず自分が見とれてしまうのに気が付く。躊躇いがちに視線を少しキッチンの方に投げた恭平が、薔薇色に染まる頬で唇を噛み息をついた。
「…仁聖が好きなんだ………、恋人として…愛してる。」
その言葉にキッチンにいた仁聖ですら、思わず息を呑むのを感じる。視線を伏せた恭平を信じられないと言いたげに慶太郎は見つめる。冷房の効いている筈の室内が不意に温度を上げたような気がして慶太郎は戸惑いながら小さく喉を鳴らし、異母兄を見つめ混乱している頭の中を収めようと思考を巡らせた。目の前にいるのは綺麗で優しく美しい、彼にとっては唯一の兄。彼との間に繋がるものがあると知った時から、慶太郎がずっと羨望してきた存在。
「…み……認められません、納得できない!」
思わず溢れ落ちた慶太郎の言葉に、傷ついたような微笑を浮かべた恭平の表情に激しく胸が痛む。陽射しの中で眩い恭平の姿に、不意に理性で固めた筈の感情が音を立てて焼ききれる。慶太郎は言おうと思った言葉ではないものが、その唇から溢れ落ちていくのを引き留められない。
「認められない!仁聖とだなんて絶対納得できない!!」
「……慶太郎。」
「僕だって……僕だって兄さんが好きなんです!」
腰を浮かそうとした慶太郎の前に、ドンと音を立ててマグカップが置かれた。ハッとした慶太郎の視線の先に、冷やかな瞳で自分を見下ろす仁聖の姿を見てとめる。不意に放たれた言葉に混乱した恭平の表情を覗き込み当然という風に隣に腰掛けた仁聖が、何時になくにっこりと満面の作り笑いを浮かべたかと思うと冷やかな声を上げた。
「お前、恭平が言ったの理解出来ない訳?」
「お前に言われたくない!僕は兄さんと話してるんだ。」
その言葉に苛立つように目を細めた仁聖が、不意に隣にいた恭平の腰を抱き寄せる。肩ではないのは彼が肩を痛めているからなのは、言わなくとも明白だ。
「言っとくけど恭平と付き合ってるのは俺なの。恭平と俺は相思相愛でラブラブなの!!」
「じ…仁聖っ!お、お前っそういう事っ…。」
混乱の極みに居るというのに、更に唐突な行為に当惑してジタバタともがく恭平を抱きすくめたまま、唇を噛んだ慶太郎を真正面から怯む事もなく睨み付ける。あからさまな反対は予期していたが、まさかこんな態度での反論が降ってくるとは内心思っていなかった。が、それでも仁聖の視線を真正面から睨み返して慶太郎は拳を握った。
「とにかくっ…僕は認めない!兄さんは渡さない!」
ガタンと大きな音を立てて踵を返した背中を見送りながら、仁聖は思わず大きな溜息をついた。その仁聖の腕からやっと逃れた恭平が、唖然とした風に姿を消した異母弟の開けたままのドアを眺める。恭平の姿にもう一度溜息をついてから仁聖は、思案気に目を細めると、不意に立ち上がり呆然としている恭平の膝の間に身を滑らせた。仁聖は跪きながら、その顔を真っ直ぐに見上げる。しかし、その仕草にもほとんど気を向けないままに唖然としたような声が、恭平の形のいい唇から溢れ落ちた。
「……じ……仁聖……今の…どういうことだ?」
「質の悪い小舅が俺に出来たって事…。」
溜め息混じりに呟いた仁聖がそっと頬に手を触れて、自分の顔に視線を向けさせた。それでもまだ呆然としている唇に自分の唇を重ねて貪る様に舐め、吸いながら自分に意識を向けさせる。吐息を微かに零すその表情を、少し自分に意識を戻した恭平に微かに拗ねたような口調が囁く。
「……恭平…、俺怒ってるんだからね?」
「え…?」
驚いたようにキョトンとして、恭平が仁聖の顔を見下ろす。恭平の膝の間に膝をついて、見上げた視線は確かに怒りを滲ませている。
「幾らなんでも無防備すぎだよ。怪我だってしてるのに、わざと俺を離れさせるなんて……。」
仁聖の声に我に返った恭平が視線を下ろす。真っ直ぐに恭平を見つめながら、仁聖はふと思いついたように口を開いた。
「お詫びしてもらうからね?怪我が治ったら。」
「お詫び?」
そ、とだけ言いながら、もう一度仁聖が唇を重ねる。甘く執拗な仁聖のキスに、少しずつ体の奥が熱を感じ始めたのを自覚しながら恭平は戸惑うようにその言葉を繰り返す。仁聖が少しだけ悪戯っ子のような何かを企む笑顔を浮かべた。
「……エッチなお詫びがいい。」
「ばっ…ばか言うな!」
「……じゃぁ、……うん、デートしよ?一緒に映画見に行こう。」
ただでさえ異母弟の行動と言動に混乱したままの状況に、更に追い討ちをかけられて恭平が唖然とする。それを少し傾き始めた夏の陽射しの中で仁聖は、真面目な視線で強請るように同意を求める。
「お…お前いきなり何を…。」
「怒ってるんだよ?…心配ばっかりかけて。だからそのお詫びにデートして?」
「仁聖…?」
「痛い事とか嫌な事一杯だったでしょ?だから俺と楽しいことしよう?ね?」
それが実は自分を労わって、仁聖なりに気分を変えようとしているのだということに気がつく。恭平はふっとその瞳を覗き込み柔らかく微笑みかける。それに気がついて少し伸び上がるようにして再び唇を合わせた仁聖は、そのままそっと耳元で囁きかける。吐息に恭平が少し身を竦ませたのに気が付いて嬉しそうに目を細めた。フワリと微かに甘い香りを漂わせる恭平に、もう一度強請るような声を吹きかける。
「映画だったら男同士で行ってもおかしくないよ?ね?行きたいよ…恭平と二人っきりで。」
誘うように低く強請る声に、恭平は思わず息を呑む。どうしても自分は仁聖に甘いのかも知れないと、恭平は小さな苦笑を日差しの中で浮かべていた。
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