鮮明な月

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第三章

25.

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鍵を開けて扉を開けても、何の実感もわかない。目の前の廊下も奥のリビングにも、ここが自分の家だという感覚がないのは今に始まったことではなかった。
空虚でただの時間を潰すためだけの空間。
暖かさも匂いの一つも感じない、それでもこの場所に自分が居候になって実質十三年もの月日が経っている。その事実と学校に通うための住所連絡ということさえなければ、ここが家だと認知することも自分には出来なかっただろう。どこにも人気がない室内は何時もと変わりなく夏場で熱気が篭っているというのに、何処かしら寒々しいような空気が漂っている。
廊下を無造作に進んで、自分の部屋と模した場所のドアを開く。しかし、その室内には更に酷く閑散とした雰囲気が漂う。実際には誰もこの部屋に入ったことがない、過去の交際の相手達も、幼馴染みの二人ですらも。彼の大事な恋人ですら十年前に一度子供の自分と訪れはしたものの、今はまだこの部屋にきた事も入れたこともない。そして、これからもそうするつもりは無かった。

ここに…恭平を呼ぶつもりもない……。

ベットだけの机すらないフローリングだけの室内。本棚ひとつ、それよりも年頃の青年らしいものは何一つない。そんな生活の気配の一つすらない室内に足を踏み入れた仁聖は、壁に備え付けられたクローゼットに大またで歩み寄る。無造作にクローゼットを開くと、バサバサと音をたてて服を取り出し始める。音の乱雑さを気にする気もないし、元からそれを気にするような存在はこの家の中には存在していないのだ。クローゼットの中の衣類を適当に選びながら、スポーツバックに詰め込む。
昔から仁聖にとっては、何もここに感じるものはない。ここはただ時間を苦々しく潰すだけの空間で、自分にとっては物を置いておくためだけの場所のようなものだった。それを彼自身も彼の叔父も、覆そうとしたこともない。そう思った瞬間つい先日の恭平の表情を思い浮かべて、仁聖は手を止めた。
夜の闇に響く柔らかく甘く、それでいて優しい自分に問いかけた声。
独りよがりでも一方通行でもない。思いを交わそうとしてくれたその優しい言葉に自分の内側を覗いた瞬間、思考の中が空白に包み込まれていた。仁聖は躊躇いがちにその室内を眺めると目を細める。

話したくないんじゃない……俺には何もなかったんだ。この部屋と一緒で。

自分の家だと一度も思ったことのないその空間より、ずっと以前から自分にとって暖かくて自分の為の居場所を与えてくれる恭平の傍の方が大事だった。この空虚な空間を与えた者より、彼にとってずっと必要なのは恭平の方だった。だから、自分はずっとそこにいけない日は代用品でごまかしてきたんだと気が付いて、その口元に苦笑が浮かぶ。再び手を動かし始めながら仁聖は、頭の中であの時の恭平の表情を思い浮かべる。



※※※



「お前はどうなんだ?」

降りおちるような闇の中に漂うような甘い香りを感じながら仁聖は、その言葉を聞いていた。優しいその言葉に一瞬思考が止まり、腕の中の真っ直ぐに自分を見つめる綺麗な輝く瞳を見つめる。自分の内面を思うような仁聖の瞳がかすかに蒼く揺らいだのに恭平は目を細め、気遣わしげな表情を浮かべると身を少し起こした。

「仁聖……俺は……俺の事だけをお前が背負うことが正しいとは思わない。」

穏やかなその声に戸惑うように仁聖は視線を向けると、つられたように身を起こす。

「お前が俺の事を知りたいのと同じくらい……お前の事も知りたいと思う…。おかしいか?」

自分を見つめながらゆっくりと囁く声はあまりにも大人の穏やかさで包み込むように、仁聖の心をハッとするほどに揺さぶる。戸惑うようにその場に座り込んでしまった仁聖の顎に添えられた手に顔を引き上げられ、真っ直ぐに見つめる。恭平がもう一度ゆっくりと「おかしいとおもうか?」と問いかけるのに仁聖は力なく首を横に振った。

「……だから、知りたい。……お前は全部を俺にくれるって言ったよな…?」
「…恭平……でも…俺…、何を………。」

そっと引き寄せられて抱き寄せられた仁聖は戸惑うように恭平の言葉の意味を我知らずに問う。息を飲んで仁聖は、自分の内面を覗き込むようにして思いを巡らせる。

今迄誰かを想う事も、心から尽くすこともなかった。

それは心からその人が欲しいと思うことがなかったからだ。心から誰かを欲しいと思った瞬間、自分だけを見ていて欲しいと願う利己的な独占欲という感情が自分にもあった事に気が付いて愕然とした。でも、どうしてそれが今迄無かったんだろう、そう考えたことすらなかった。

「俺は………。」

言ってしまっていいのかがわからないというように仁聖の瞳が揺らぐのを見つめながら抱き寄せていた恭平の手が、そっとその頬を包み込んで柔らかく唇を合わせる。言葉にしてもいいと言われているような気がして仁聖の声がかすかに震えながら溢れ落ちる。

「俺には……何も…無いんだ……。」

不意にその自分の言葉が心に刺さるように感じて、自分が泣きそうになっているような気がした。その言葉の意味も判らずに口にしたのに、目の前の恭平はその瞳を見つめた瞬間、自分の感じた痛みを一緒に感じたかのように表情を変える。恭平は悲しそうに微笑みながら仁聖にもう一度優しいキスをしてその体を抱き締める。されるままに抱き留められながら自分がどうして自分の言葉にそんなに痛みを感じるのか分からず、仁聖はただその腕の中で瞳を閉じていた。



※※※



…自分には何も無い。

その言葉を思い浮かべながら仁聖は、無造作にバックのファスナーを上げて肩に引き上げた。あの言葉と今こうしてこの部屋に立ってみて、やっと何もないと思う意味が分かったような気がする。
今までの自分は、自分には何も望むものは得られないのだと全てを諦めていたのだ。何も得られないと分かっていながら望むのは無駄なのだと最初から全てを投げ出してきた。望む事も願う事もやるだけ無駄なのだと、何一つ足掻いてみようともしなかった。だけど、自分を満たしてくれる存在に手を触れることが出来た今は、もうそれを諦める事も引く事もできない。全てを差し出しても恭平だけは誰にももう譲れない。

恭平と一緒にいたい…ずっと…、これからの時間をずっと。

孤高に輝く月のようだと想い続け、ずっと眺めていたその人。
永遠に触れる事も傍によることも出来ないのだと想っていた筈のその存在が、まるで全てをその身から放つ光で狂わされたかのように、偶然と必然の繰り返しの先で指を触れさせれくれた。そして触れた仁聖の指をそっと引いて自分の傍に引き寄せてくれた。だから、この彼を想う気持ちが月の光の起こした狂気に似た感情だとしても、もう決してその手を離したくない。

この先がすっごく辛いとしても………一緒にいるって決めたんだから…。

ふっと足元に落としていた視線を、思い切ったように上げて仁聖は踵を返す。無造作に扉を閉じて何かメモを残すことも考えず真っ直ぐに扉に向かう。仁聖は夏の日差しの中に向かって、迷いもなく足を踏み出していた。
まるで旅行にでも出るような晴れ晴れとした表情で、足早にその場を離れ通いなれた道を半ば走るようにして先を急ぐ。その待ち望んでいた場所に足を向け心を躍らせながら、息を切らせて往来を急ぐ姿は普段の彼を知っている者ならさぞかし驚いたことだろう。子供のようにキラキラと瞳を輝かせて陽射しを受けて先を急ぐ青年の姿は、大人びたように周囲を思い込ませる平素の物事に動じない彼とは全く年相応の青年の違うものだ。
夏の眩い陽射しを受けながら辿り着くまでの行程の一つ一つがもどかしいと言う様子で先を急ぐ。それなのに、やっと辿り着いたその扉の前で、仁聖は少し緊張したように息を飲み立ち竦んだ。手を伸ばそうとして躊躇う暫しの逡巡をまるで見ていたかのように唐突に開いた扉に目を丸くする仁聖を、扉の向こうから不思議そうに彼の恋人は見つめて微かに微笑を敷く。

「…足音がしたのに、なかなか開けないから、どうしたのかと思った……。」

アールコーブをメールボックス越しにはさんだ書斎にいて、窓越しに彼の足音を聞きつけたらしい綺麗な白い月のように微笑むその姿。彼はゆっくりとドアを開いて、仁聖を真っ直ぐに見つめる。それはまるで自分を心待ちにしていてくれたような気がして仁聖は、胸が甘く疼くのを確かに感じた。

「す…少し……息が切れちゃって、ここまでなんか走っちゃったし……。」

実は緊張しているとは言えずに仁聖が思わずそう口にすると、恭平は少し気恥ずかしそうに頬を染めながら僅かに身をずらして彼を室内に招く。オズオズとまるで初めての場所にでも入るような仕草を見せた仁聖に、思わず苦笑しながら恭平は手を伸ばしてその指先に触れた。

「…恭平?」

そっと指に触れた手がそのまま引っ張り自分の腕の中に仁聖を抱きとめる。肩から不意にスポーツバックが滑り落ちて足元にトスンと軽い音を立てたのを耳に感じながら、仁聖は甘く柔らかな香りのする腕の中に抱き止められて自分の鼓動が音を立ててはねるのを感じていた。言ってもいいのか迷う気持ちが不安に変わってジワリと心を漂うが、オズオズとその気持ちを言葉にしてみる。

「…………ただいま…、恭平。」
「…うん………おかえり。」

躊躇いがちに囁くような言葉に当たり前のように穏やかに帰ってくる。そんな優しい呟きに、心を満たされるような甘く切ない気持ちで仁聖はぎゅっと目を閉じてその体に腕を回す。

自分がいる場所……いたい場所……欲しかった場所………。

首元に顔を埋めてその人の肌の熱や香りが直に今手の中にある事を確かめる。そうしながら仁聖は、陶然とその行為に酔ったように目を閉じたまま暫く身動ぎもしないでいた。それを知っているように恭平も、彼が気の済むまでピクリとも動かない。
ただ仁聖を大事そうに抱き締め、その場に佇む恭平の存在。それにこのままここで時間がとまればいいと願う気持ちと、もっとずっと先まで、ただその人とありたいと願う気持ちが胸の中でせめぎ合うのを感じる。そう感じながら仁聖は、身動きが出来ないままでいた。
それでも、夏の強い陽射しに揺らぐような湿った熱を世界に立ち昇らせながら、時間は月が欠けてまた満ちるようにゆっくりと動き続けていた。

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