鮮明な月

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第三章

21.

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その願い事を思い立ってから既に一週間、そして夏休みまでもあと僅か一週間。学期末の試験も終わり恐怖の結果の張りだしも終えた教室の中は夏休みの予定の話題でざわめいている。二年のテスト順位で見たことの無い名前が突然トップになっていて、地味にその香坂智美とやらの話題で女子が盛り上がっていた。どうやら人形みたいに綺麗な顔をした奴らしいが、正直仁聖には恭平より綺麗な男がいるとは思えない。それは兎も角、受験生といえども高校最後の夏というのは、それぞれ特別なものなのだと思う。チャラと音をさせて胸ポケットから小さな古ぼけた鈴のキーホルダーをつけた鍵を出して仁聖は、ふうっと漂う様な憂いにも似た溜め息をつく。
甘い蜜月のような逢瀬。
毎日数時間でも顔を見るのが嬉しくて仕方がないし、声を聞けるのが嬉しくて仕方がない。それに仁聖の大事な人は、自分が行くと恥ずかしそうにではあるけど嬉しそうに微笑んでくれる。それが素晴らしく甘く綺麗な笑顔で出来ることなら毎日と言わず、ずっと眺めていたいほど愛おしい。それに今までみた事のなかった沢山の表情が堪らなく可愛い。拗ねていても少し怒った顔も、仁聖にはどれも見ていてただ愛おしいとしか感じない。

ああ、時間が経つのがひどく遅い。

出来ることなら学校なんかサボって傍にいたいけれど、恭平は決してそういう行為を許してくれないのも分かっている。だからこそ、これからの一ヵ月半もの休みの期間を有意義に出来るだけ一緒に過ごしていたい。

あぁ、ヤッパリ思い切って言ってみようかな…呆れられちゃうかも知んないけど。

手の中の古ぼけた鈴とは不釣り合いの真新しい鍵をまじまじと見つめ、漂うような彼の香りを感じたような気がして微かに笑みが浮かぶ。その途端ポコンとその頭を雑誌を丸めたもので軽く叩かれて視線を上げる。

「幸せそうにへらっとしないの。」
「なんだよ、真希。失礼だな、こんなに俺が真剣に思い悩んでるってのに?」

そうは見えなかったと言い切った真希が、スカートを翻して目の前に座り僅かに表情を硬くして声を潜める。その仕草が何時もより酷く真剣なのに気がついて仁聖も教室の喧騒に反して、神妙な面持ちで訝しげに眉を顰めて顔を下げた。

「あんた、まさかとは思うけどまだ慶太郎にばれてないわよね?」
「何で?恭平んちでもまだかち合ったことないし。」
「直で何か言った?」
「いいや、まだ何も話してないけど?」

まるで密談でもしている面持ちでそっと真希が、自分の席に座って何か考え込んでいる風の慶太郎の背中を不審そうに眺める。

「ここんとこずっとおかしいのよ、話しかけても上の空だし。慶太郎がそうなるのって…。」
「まぁ、恭平の事が多いよな。確かに……だけどなぁ…。」

チャリと音をさせて胸のポケットに鍵を収めた仁聖は、一瞬思いを巡らせるように記憶を手繰り寄せる。今のところ恭平の家で慶太郎に関わったと言えば、電話があった事くらいしか思い浮かばない。その後既にもう一週間も経っているが、その間に何があったという訳でもない。もしかしたら自分のいないうちに、慶太郎からの電話くらいはあったかもしれない。などと考えながら、もう一度真希に向かって声を潜める。

「そう言えば慶太郎の奴、電話で何か恭平に断られてたけど、それかな?」
「ふぅん…そうなんだ?榊さんに何か頼みごとしてるんだ?」

そう言えば電話の内容を聞いていなかったと気が付いて仁聖は眉を潜めていた。視界の中で慶太郎が暫し俯きやがて頭を振るのを眺めながら、二人は思わず首を傾げる。もし悩み事があってもそれが異母兄に関してのことだったら、宮内慶太郎は恐らく誰にも相談しない。慶太郎は榊恭平に対して強い思慕の感情と同時に、優秀な異母兄に対して強いコンプレックスも持っている。だからけして他人に榊恭平に関することは相談しない、そう知っているだけに真希が溜め息がてら黒髪をしなやかに揺らし、「様子を見るしかないのね」と呟くと話題を変えにかかる。

「で?あのお願いはしたの?仁聖。」
「そういう真希は?夏休み一緒にどこか行ったり予定は立ったわけ?」
「当たり前でしょう?」
「嘘!!マジで?」

なにやら話題が妙にあうと感じながら真希が、自慢げに胸を張り手にしていた雑誌を広げるのを仁聖が恨めしそうに見つめる。行動力では負けないはずなのに用意周到さでは、てんで真希に勝ち目がないと気が付かされて仁聖は机に突っ伏して溜め息をつく。真希は何と旅行を計画して予約まで完了したのを、仁聖に見せに来たのだ。

「ホントこういうときの女の子って凄いよなぁ」
「あんたも頑張んなさいよ?もう後一週間しかないんだし。」

ナデナデと頭を撫で回し自慢げに歩み去っていく真希を見送りながら、始業の礼をする周囲の仕草にあわせて仁聖は真剣な表情で目を伏せる。自分の願い事が元々駄目もとでのお強請りなのは最初から分かっている。それにふと気が付いて、仁聖はこっそりと机の下でスマホを探る。

≪話があるんだ。今日行ってもいいかな?≫

普段はそんな風に毎回改めて断ってから訪問する訳ではないし、今のところ恭平が不在だった事もない。だから彼から≪居ない≫という連絡がきた事もない。こうして少しずつし始めたLINEにしても今から行くけど何か欲しいものある?とか今日は何時に行くからという仁聖のマメなメッセージに時々短い言葉が返ってくるだけのそっけないメッセージ交換なのだ。それでも恭平が返事をしてくれることで、十分嬉しいという辺りが恋愛なのかと仁聖は苦笑する。そんなことを思った瞬間、帰ってこないと思っていた返事が手の中に振動として感じられて咄嗟に仁聖は机の影でスマホを見下ろす。

うわ…どうしよう……。すっげー…嬉しいかも……。

短い言葉なのに、気分が一瞬で高揚してしまう。そんなこと今まで感じたこともないのに、ただのその短い言葉で自分が柄にも無く笑みを浮かべてしまうのが分かる。今横に真希が居たらまたヘラッとしてると頭を叩かれてしまうに違いない。それ以上に自分が思わずメールを自慢してしまうかもしれないと真面目に考えた。そんなことを思いながら、更に顔から笑みが零れてしまう。何度も何度も同じ短い文面を読み直して、それでも褪せない喜びがまたうねるように心を満たしていく。

≪分かった。じゃ待ってるよ。≫

たったそれだけの言葉。過去の関係の中で自分が彼女にそんな一言で返したら、きっとそっけないと言われただろう。でも、恭平からの短いそれだけの返事が、今の仁聖にはどうしようもない喜びを湧き上がらせる。

あぁ…もう恭平ってホント……。

うっとりと物思いに耽った頭にボスッと平たいものが乗せられてハッと仁聖は我に返る。微かに引き攣った笑顔で自分を見下ろす世界史の越前の表情にしまったと言いたげな顔をして見せた。越前は足音が大きいから滅多にこんな風に尾を捕まれる生徒はいないのだ。周囲から忍び笑いが沸き起こっていく。

「終わった歴史の授業は最先端の電子機器には負けるかね?」
「あー。すみません、目覚まし止め忘れてて。」

短い厭味の言葉に笑いながら適当に言葉を返す仁聖は、ふっとその教師の体越しに普段だったら騒ぎに少し振り向くであろう慶太郎の張り詰めたような背中を眺めていた。



※※※



カコカコと規則正しいキーを叩く音と時折挿むマウスを操作するカチカチという音。しかし、普段に比べてゆっくりとしたその音は、時折躊躇いがちに止まり、また思い出したように再開されるを繰り返している。ふうと溜め息をついて、再び止まったその音の先で恭平は無意識にキーボードの横に置いたスマホに視線を落としていた。

改まって……話があるなんて………なんだろう……。

恭平は昼過ぎに来たLINEの改まった文体に思いをはせている。
元々自分がメールやLINEに関しては不精なこともあるが、普段から仁聖が自分より数倍まめにメールをするものだなと感じてはいた。ただ普段のメッセージはまるで子供のようで『今何してるの?』とか『今から行くから。』とか酷く他愛のないものだ。仁聖が何も言わないとはいえ少しは罪悪感を感じる事はあるが、返事が忙しくて送れなくても微笑ましい気持ちで眺めているのは事実である。しかし、こうして改まって話があると書かれると、気になって柄にもなく待ってるなんて返事をしてしまった。

大事な話なんだ…ろうな…、何だろう……改めて話したい事…。

思い淀むと考えがあらぬ方向に向かいそうで恭平は、不安と期待とが綯交ぜなったような気持ちで頭を振った。その話が良い事でも悪い事でもいいが、こうなると気になってしまって仕方がない。仕方無しに資料の整理をしていたファイルを保存してパソコンの電源を落とす。
そうして、ふと投げた視線の先の時計の針が夕刻を過ぎているのに気がついて微かに目を細めた。普段ならもうとっくに仁聖が来ていてもおかしくない時間だが、今日はまだ連絡もないことに気がつく。

珍しいな……。

そこまで考えてハッと我に返った恭平は、誰もいないというのに一人室内で慌てたように立ち上がる。自分の考えていた全てが仁聖の来訪を今か今かと待ち望んでいるみたいだという事に気が付き、更に慌てふためきながら気恥ずかしさに思わず頬を紅潮させてスマホを睨み付ける。

「あんな…気になる言い方するからだ………ばか。」

誰に聞かせるでもなく一人そう呟いた瞬間、リビングから響いた固定電話の呼び出し音に気を取り直したように恭平は足をリビングに向けていた。電話のディスプレイには≪ミヤウチコウ≫の文字が躍っていて、恭平は一つ深呼吸をして気分を切り替える。
決して異母ながら弟であるその青年が、苦手な訳ではない。ただそれだけでは言い切れないないものが、確かにそこにはあった。昔のように忌憚なく会話をするには、恭平には心構えが必要なのだ。仁聖と同じ歳で仁聖の幼馴染でもある異母弟と接するには心構えが必要というのもおかしな話だが、恭平の胸の内にある思いは自分には偽りようがない。同時に宮内慶太郎の存在は、自分にとって少ない血の繋がりであって無下に扱うことも出来ないのだ。

「……はい、榊です。」
『あ、兄さん、僕です。元気ですか?……風邪…引いたりしてませんか?』

社交辞令のように硬い言葉を問いかける躊躇いがちな口調。自分の前に現れて、自分を兄と呼び始めた時から変わらない口調なのだ。しかし、そこにある何時もと違う微かな戸惑いのような響きに、恭平は電話口で僅かに眉を顰めた。

「俺は変わらないけど…どうした?元気がないようだな?」
『…いえ、僕も変わりないです……、あの……兄さん、一つ訊いてもいいですか?』
「あぁ、いいけど?何?」

恭平の言葉に暫しの逡巡の無言。その無言に恭平が更に訝しげに眉を顰めるのと殆ど同時に、慶太郎は受話器の向こうで口を開いた。

『あのっ………兄さんはっ………!』

質問がふいに無言に溶けて消えて、恭平は更に首を傾げながらもふと不安に襲われる。一瞬、その脳裏に一週間ほど前の電話の時に、何が起こったかを思い出して心臓がギクリと軋む。何処と無く不安を感じながら、息を詰めて慶太郎の言葉の先を待つ。しかし、不意に受話器の向こうは話を変えようとでも言う風に神妙な気配を解いた。

『ら・来週から僕、夏休みなんです。兄さんの家にまた少し遊びに行ってもいいですか?』

不意に明るく繕った声に変わった慶太郎に、恭平は不審そうに表情を曇らせてはいたが言葉にはたと思考が止まった。

「夏休み?」
『え…ええ、来週の金曜が終業式ですけど?』
「あ・そ、そうか…そんな時期なんだな。」

思考が止まった理由は横において、我に返ったように恭平は了承の言葉を伝えながら仁聖と慶太郎が鉢合わせしたらどうしようかと思い悩む自分に気が付いていた。意識を他に置いたような感覚の中で慶太郎と数言の言葉を交わして受話器を置いた恭平は、横においておいた思考をもう一度抱え上げる。

あいつ…全然……なんで何も言わないんだろう……?いや、別に何か言って欲しい訳じゃ。

自分自身の思考に自分で言い訳をしながら恭平は、ふと再び視線を時計に走らせる。そしてふとまだ連絡がない事に気が付きながら自分の心の中でジワリと滲んだ不安に気が付いて、慌てて頭を振ってその思考を払い落とす。

馬鹿な事考えてばっかりだな、こんなこと本人から聞くしかハッキリしないのに…。

恭平は思い立ったようにバサバサと音を立てて簡単に服を着替えながら、気分転換にでもという風にドアを開いて、まだ熱を含んだじっとりとする様な夕暮れの外気の中に足を踏み出していた。

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