鮮明な月

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第二章

12.

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珍しく夢も見ない深い眠りだった。そんな深い眠りは普段から眠りが浅く夢を見ることの多い恭平には酷く珍しい。しかも、夢の多くが不快感の強い夢ばかりだから、熟睡したという感覚自体が久々過ぎてそこから這い出すのが躊躇われる。

もっと…こうしてたい……

滑らかで心地いい感触に頬を摺り寄せながら、それでも微睡みの中から次第に意識が覚醒に向かい始めていた。それが窓から夏を迎えようとしている強い陽射しが、瞼の裏からでも分かるくらい鋭く差し込んでいるせいだと気がついて恭平は眉を顰める。モソモソと体を動かし陽射しを避けようとして、身を動かすと滑らかな感触が少し肌から離れた。離れてしまうと心細さが追いかけてきて、思わず頬を再び摺り寄せる。瞬間、クスクスと笑う声にハッと我に帰るように意識が浮かび、咄嗟に恭平は目を見開いた。

「おはよ?恭平。」

驚きながら上げた視線の先に、恭平の体を抱きかかえたままの仁聖の何処か面白がるような微笑が鮮やかに浮かぶ。仁聖の素肌の胸の上に乗せられたまま、それに頬を擦り寄せていた自分に気がついて恭平の頬が朱に染まる。それを可笑しそうに眺めながら、仁聖の手が何気ない仕草で額に触れた。

「よく寝てたね?熱もすっかり下がったし…。」

そして、そっと抱き寄せられて、仁聖から額に柔らかいキスをされる。当然のような彼の様子に、熱が下がり戸惑ったままの表情で恭平は陽射しの眩さに目を細めた。日射しが射し込むその状況に、恭平は我に返ったように仁聖を見つめる。何故なら南向きの寝室ではあるが、その角度でこの部屋に陽射しが入ってくるには午後遅くないとならない。

「仁聖っ、お前、学校は?!」
「…恭平ぇ…もう夕方過ぎだよ?もう学校も終わっちゃったよ?今更。」

先日から半日も寝てしまったのだと気がついたが、時既に遅しとはこの事だ。半分呆れた表情でサラリと言ってのける仁聖に一瞬絶句してしまう。仁聖に改めて抱き寄せられ愛おしそうに抱き締められるのに、思わずなすがままにされながら恭平は今の言葉を反芻するように思い巡らせた。

確かに自分も寝過ごして気がつかなかったんだし…金曜日の午後じゃ…金曜…

はたとその現実に思考が凍りつく。恭平が熱を出したのは火曜日のことだった。それ以前に週末から色々な事が起こったから、火曜日から四日間も寝込んでしまっている。つまり、日曜から予定していた事を何一つ消化せずに、金曜の夜が来ようとしているのだ。
青ざめた恭平の表情に気がついた仁聖が不思議そうに覗き込むのを感じた瞬間、恭平はその半身を勢い良く起こしていた。

「金曜?!や、やばいっ!!仕事!!」

唐突に大きな声を上げて身を起こした恭平の姿に、腰の辺りを引き寄せていた手が緩まる。それを今更恭平は思い出したように半分体を起こし仁聖の腰の辺りで、座るような体勢で彼を見下ろした。仁聖が心配そうな表情を浮かべて、恭平のことを見つめている。

「恭平、仕事の締め切り近いの?」
「来週の金曜が締め切り……まだ全然進んでないんだ、やらないと…。」

そっかと寂しげに小さく呟いた仁聖を見下ろしながら一端口を噤んだ恭平が、暫しの逡巡の後に言いにくそうに躊躇いがちの口を開く。

「仁聖……あのな?仕事に集中したいし……それに仕事中苛々してお前にあたるのも嫌だし…。」
「……ん…分かってるよ…?体調が心配だけど。」

体調は問題ないと呟く恭平に、それでも心配と仁聖が答える。正直なところ普段になく熟睡出来た恭平としては、普段よりずっと調子が良いくらいというのが本音だ。

「ここ何日か…ずっと一緒にいたから…寂しいってのもあるけど…、ね。」

全てを話した訳でもないのに素直に体を起こして頬を擦り寄せる仁聖に、予想外だったと言うように一瞬恭平が黙り込む。それを苦笑交じりの笑顔で仁聖は正面から見つめる。そして、自分の下肢の間に座るような体勢のまま視線を伏せた恭平の表情を見つめて、そっと腰の辺りに回した手に力を入れて抱き寄せる。

今までだって十日に一度しか会えなかったし、会う時間だってほんの数時間ほどだったんだ。

それが今は思いを伝えて、ここ数日ずっと一緒に過ごせたからといって直ぐに全てがそう変わる訳じゃない。そんな事は仁聖にだって十分に分かっている。恭平は社会人で仕事も在る、それを邪魔してもいけないことも、そんな子供じゃないから理解できるのだ。

ただ…どんな時間も一緒にいたいと自分が勝手に願っているだけなんだから……

それを心の中で呟いているのが聞こえているように、目の前の恭平が戸惑いながら小さな声で口を開く。

「仁聖…?あのな……?来週の金曜の朝が最終の締め切りなんだ……。」

それは理解した。なのに何かが引っ掛かっているのか、目の前の彼が戸惑いを消そうとしない。

「うん?分かったよ?」
「だから……。」

彼らしくないもったいぶる様な口ぶりに、ふと眉を寄せて仁聖が不思議そうに恭平の表情を覗き込む。その仕草に一瞬頬を薔薇色に染めた恭平が、不意に鮮やかで色を落としたような憂いを滲ませる香りを放つ表情を浮かべる。その様子に仁聖は思わず喉を鳴らしていた。

「恭平………それって………金曜の…夜には来てイイって事?」

下肢の間に座り込んでいた恭平の表情が、不意に更に頬を染める。仁聖は思わず腰を更に強く引き寄せ、勢いに上半身が仰け反るように腕の中に引き込まれる。咄嗟にその唇に自分の唇を合わせて、その甘い吐息を貪りながら抱き寄せた体を手でなぞるとビクンと腕の中の体が慄く様に震えた。激しく貪るようなキスをしながら、自分の吐息も跳ね上がって熱を帯びていくのを仁聖は自覚する。

「俺…そんなこと言ったら…本気でそうするよ?イイの?…恭平。」

掠れて跳ね上がる吐息の先の言葉に抱きすくめられて、執拗に唇をなぞられ口腔内を舌で激しく嬲られる。その行為に微かに吐息を上げながら、潤むような瞳が腕の中で仁聖を見上げる。

「そんな事したら…俺……たぶん…絶対…金曜から恭平の事、抱くよ?……イイの?」

言葉の合間にも何度もキスを強請る仁聖の仕草。それに反応して腕の中の体が、体の奥から甘く香るような潤みを滴らせていく。その様がハッキリと目に見えて、仁聖は息を飲みながら彼の表情を見つめる。ゆっくりと仁聖の言葉の意味を理解したように、恭平は躊躇いがちに視線を伏せながら口を開く。

「……うん。」
「……俺…恭平の事、ベットから出してあげないかもよ?」
「…………うん…。」

鋭く体の芯を貫くような激しい歓喜の想いで、思い切り引き寄せたそのしなやかな体を抱き締める。耐え切れないという様に激しく甘いキスをする仁聖に、戸惑うように恭平が目を閉じたまま身を揺らす。微かな体の奥にあるまだ癒えていない痛みと共に、不意にジワリと疼く熱が芯に灯るような感覚に恭平は眉を顰める。

「じ…仁聖…っ…も…。」
「わか…ってる…、エッチしない…いい子に…するから……だからもう一回キスさせて……?」

焙る様な熱を感じさせる子供のように強請る声にされるままに音をさせて甘く激しいキスを浮ける。そうしながら恭平が、更に体を仰け反らせた。半ば覆い被さるようにしながら執拗にその口腔の甘く柔らかい感触を堪能して、ほんの少しだけの間隔を離した唇が熱く湿った吐息と一緒に言葉を溢す。僅かに離れるのも惜しいという様に、お互いの唇が何度も掠るように触れる。

「恭平…約束…だよ?ちゃんと我慢するから…来週の金曜日までいい子にしてるから…。」
「…ん……。」
「約束…の……印…一個だけつけていい?」

その言葉に恭平が答えを返す前にスルンと首筋に落ちた仁聖の唇が、唐突にその首筋に噛み付くように激しく唇を這わせた。

「んんっ!!じ・仁…聖っ!!!」

鋭く痛みすら感じるような熱を持ったキスが、同じ部分に執拗に音を立てて繰り返される。その行為で白磁の肌にまるで薔薇の様に、鮮やかなクッキリとした花弁に似た痣を刻み込む。そうして、顔を上げた仁聖は酷く切羽詰まるような激しい熱を必死に飲み込んだ表情で恭平を熱っぽく輝く瞳で見つめる。予想外に余裕のないその表情に思わず恭平は、微かな緊張に張り詰めていた表情を緩めて小さく微笑んだ。そして何気ない仕草でスルリとその青年の柔らかい茶色の髪に指を触れさせていた。



※※※



7月に入ろうかという夏空の下。眩い陽射しの下で中庭の木立の前のブロックに腰かけた仁聖は、立てた膝の間に力なく垂らした手にそれぞれスマホとパックジュースという状態で深い溜め息をつく。真横でその盛大な溜め息を聞きつけた真希がヒョイと横からその顔を覗きこんでサラリと黒髪を揺らしながら首を傾げた。昼休みの中庭は暑さのためか人気も疎らで、この一種独特な幼馴染同士の姿は喧騒とは少し離れている。

「なぁに?上手くいってないの?」
「恭平、仕事だから…金曜まで……我慢中………。」

スマホに目を落とす仁聖の様子に、真希が不思議そうに視線を向ける。
その日は火曜日。
金曜日まではまだ三日もあるというのに、その数日すら仁聖にはもう耐えられないとでも言いたげだ。

「メールも?我慢?」

う…と仁聖が言葉に詰まり、その表情は天気と裏腹に暗く沈んでいく。会うことはできなくてもメールやSNS等交流の方法は今時山ほどありそうだ。だが、どうみても仁聖はそれを活用しているという気配でもない。

「………してもいいと思うんだけど…なんて打ったらいいか分かんないんだよ…。」
「はぁ?あんた女の子と付き合ってた時可愛いとか色々、さっくりと何時でもメールしてたじゃん。」

やはり活用していなかったのは事実だが、それ自体が酷く奇異なことだった。何しろ今までの仁聖の行動と言えば、相手への歯の浮くような褒め称えメールなんてお手のものの筈なのだ。
呆れかえる真希の声に、図星をさされた仁聖の顔が強張る。実際今まで付き合っていた彼女にはメールへのレスポンスは確実だったし、相手を喜ばせるメールだってお手のものだった、それは事実なのだ。

「だけど…恭平には無理だって…。」
「何でよ?」

何でよと言われても、こればかりは仁聖にも分からない。

「可愛いって思うし綺麗だし好きだし…でも打てないんだよ!」
「なら直接会いに行けば?鍵貰ったんでしょ?」

呆れ返る真希の言葉に、更に仁聖は言葉に詰まる。

「行ってる…毎日……。」

その言葉に微かに眉を上げた真希に、仁聖は上目使いで彼にしては珍しいまるで迷子の仔犬の様な視線を浮かべた。

「でも顔は見てない…仕事中っぽいから…玄関に差し入れ置いて帰ってきてる…。」

乙女か!そう突っ込みをいれそうになりながら思わず噴き出した真希に、心底傷ついたという様な表情を仁聖は浮かべる。

「だって…顔みたら抱きしめたくなるし・そしたらキスしたくなるに決まってるし!」
「あんたね~?」
「大体にして鍵だって具合が悪い時に様子を見るためにっていう理由で渡してくれたけど……。」

はたとその事実を思い出したように仁聖の表情が固まり、気がついた様に青空を背負った真希に向かって情けないほどに迷う視線が向けられた。

「俺さ…考えたら恭平から好きって言われてない…。」
「はぁ?聞いてないの?」

数日のやり取りを反芻する視線が、何度思い出しても言われていないとショボくれていく。まさか自分が好きと言っただけで相手の気持ちを言葉として聞いていないとは思わなかった。自覚したというような言葉は聞いたというのたが、「好き」の言葉は聞いてないという。

「鍵も持ってていいって言われてない。俺、鍵返すべき?」
「まぁ渡された理由が体調が悪いっていう事だったらそうなんじゃない?返せば?」

大事そうに胸ポケットの上に手をあてた仕草で、仁聖がそこに問題の鍵を四六時中大事に持ち歩いているのが分かって真希は苦笑する。
考えてみれば中学生時代から浮名を流した幼馴染みの青年は常に追われ求められる立場だった。誰かに求められる事はあっても、自分が追い求める立場になった事は初めてなのだ。そんな姿を初めて見た事に、幼馴染みとしての真希も気がつく。今まで経験した事のない誰かに恋をして追い求めているのは、仁聖には予想も出来ない事ばかりなのだろう。

「…あんた…今迄本当に適当に恋愛してたんだ?仁聖。」
「……適当?」
「だって、今までそんな事で悩まないで適当にながしてたじゃない。メールも会話も。」

すっぱりと真希に言い切られて仁聖は手の中のスマホに視線を落とす。

たった1週間。たった7日会えないだけがこんなに辛い。

出来る事なら何時も傍にいて、出来る事ならその姿を視界に入れておきたかった。出来る事なら今直ぐに抱きしめて好きだと何度も言いながらその唇や肌に触れたい。自分が求めるのと同じくらい、自分の事も彼に求めてほしいのだ。今迄自分はそれを求められていたのに、そうしてこなかった。恋愛が長続きしなかったのも当たり前だった。だけど、今同じ事を得られないからと言って、自分は恭平を諦める事が出来るだろうか。

「あぁぁ……会いたい……恭平の顔が見たい…、恭平に触りたい……。」

切実な青春の悩みに真希は苦笑を浮かべながら、その頭を子供にするようにヨシヨシと撫でる。幼馴染の本気の恋愛が世の中の常識で真っ当なモノではないとしても、その素直な気持ちを彼が持った事は認めてあげたいと真希はシミジミ思っていた。



※※※



カタカタとキーを打つ音が少し止んで、モニターから視線を外した恭平は首を少し回しながらモニターの横のマグカップに手を伸ばす。口元までそれを運んでからやっと中身が入っていない事に気がつき、微かな溜め息をつきながら椅子を回して立ち上がる。無言のままマグカップを片手に仕事場でもある書斎のドアを開いた瞬間、夜の闇の中その廊下につながる玄関に置かれたコーヒーショップの小さな紙袋に気がつき、クスリと笑みを零した。

「あいつ…声くらいならかけてもいいのに……。」

いい子にしてますと言う言葉の割に、酷く切羽詰まって痩せ我慢をしていた青年の顔が脳裏に浮かぶ。
先週の金曜日、大人しく帰宅した後から毎日夕方に音をたてないように来訪している。来訪しても声もかけないが、こうして差し入れのつもりなのだろう、そっと置いていく。集中すると周りに気が向かない自分も情けない話だが、声くらいかけていけばいいのにと思いもする。今迄とは違う密やかに寄せられる仁聖の思いが、こそばゆいほど可愛くて思わず微笑んでしまう。

「金曜…か……。」

言葉にそう出した瞬間不意に首筋が熱く感じて、恭平は体を強張らせる。そこに印をつけた青年の柔らかく誘う様な声が、脳裏に響いてその体を不意に疼かせるのに恭平は困惑してしまう。それを知りながら、そっと首筋の少し色を落とし始めた痣を指でなぞる。

抱か……れる………、あいつに……また…。

不意にその事実にドキリと胸が軋むのを感じながら脈打つ様な体の熱を感じて、恭平は微かに息を飲んで立ちつくす。行為には鋭い苦しさも痛みもあるのに、それと同時にもたらされる激しい快感に自分の体が反応していくのが分かる。それが本当は嫌じゃない理由、口にするには戸惑うしかないその思いを、今の一時は忘れようと恭平は勢いよく頭を振っていた。

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